はてなキーワード: 当たり屋とは
有名な事は『事前に調べる方法はあっただろう』って話になるし。全く無名の人なら調べようが無いから。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190227-00009302-bengocom-soci
京都造形芸術大の公開講座で精神的苦痛を受けたとして訴訟を起こした件へのブックマークコメントだが、
「勉強不足」
「シラバス読め」
「当たり屋」
なんだこれ。地獄かよ。
こういうコメントつけている奴らは、公開講座が何なのか分かってんのか?
公開講座は、あらゆる人の生涯学習を支えるために行われる大学の社会貢献的事業であり、
正課の授業とは全く性質が異なるんだよ。
専門分野に属した学生がカリキュラムに従って体系的に学ぶものではなく、
本当に60-70代のおじちゃんおばあちゃんばっかりだったりして、
講座によって参加者層は極めて多様なわけだよ。
特定の年齢層や特定分野の前提知識を有する層を対象とすることは、
今回はあくまで原告が偶然この分野を専門とする人だったというだけで、
公開講座の趣旨を鑑みれば、年齢や学歴問わず「学ぶ自由」を保障するための仕組みなんだから、
参加者層を限定していない以上、主催側たる大学が、きちんと事前に条件や詳細な内容を説明して
参加者募集をする責務がある。
そもそも「シラバス読め」と言っている皆さんは、自分でシラバス読んだんですか?
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/coursedtls/courseDetail/G1811318
第3回:ヌードあれこれ話
ヌード、あるいは女性像を画題にした自作を中心に話します。たぶん芸術と対立概念になりがちなポルノの話や、第二次性徴期の話、フェミニズムの話なども避けては通れないでしょうね。
会田 誠 (美術家)
1965年新潟県生まれ。1991年東京藝術大学大学院美術館研究科修了。絵画、写真、立体、パフォーマンス、インスタレーション、小説、漫画など表現領域は国内外多岐に渡る。近年の主な個展に「天才でごめんなさい」(森美術館、東京、2012-13年)、「考えない人」(ブルターニュ公爵城、ナント、フランス、14年)、「世界遺産への道!!~会いにいけるアーティストAMK48歳」(霧島アートの森、鹿児島、14年)など。
この文章で、残忍で強烈な画像を見せつけられそうな雰囲気が、どこから汲み取れる???
本当に何も知らない人が読んだら、普通のアーティストさんにしか見えない文章じゃんか。
これ読んだところで内容の想定は不可能だと思うし、公開講座の受講者がシラバス以上に深い知識を
事前に自分で調べないと応募してはならない、なんて義務はどこにもないですよ。
ちなみに、シラバスを見ればわかる通り、受講条件も何も書いていない。
他の科目を見てみると、何らかの条件がある場合は「備考」に書いてあるケースも
あるので、決して書く欄が無かったわけではないことは明白である。
(例)"なお、認定の条件は、18歳以上で、"
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/coursedtls/courseDetail/G1823304
さらに付け加えると、↓の上部に掲載されている受講規約を見れば、
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/matter/matter/
受講資格は、満 15歳以上の藝術学舎で学びたいという意志をもち、本受講
規約を遵守することに同意される方とします。学歴等の制約や選抜試験はあ
りません。
と書いてあり、シラバスで特段の条件指定が無ければ、15歳の中学生が受講する可能性だってあるわけで、
そのような前提の講座にも関わらず、事前説明なく記事のような内容の授業が行われたとすれば、
何より、この原告の女性は、会田誠の芸術表現自体は否定してないじゃんか。
会田誠のような芸術表現が世の中に存在することは理解するとしたうえでも、
それを大学の公開講座という学問のプラットフォームにのせるのであれば、
その主催者が相応に運営上の配慮や工夫はしてよ、というお話でしょ?
そんなの当然じゃんか。それをやらないなら、大学は何のために存在してるんだ?
学問のコーディネータとしての責務を果たせていたかを問われているわけでしょ?
にも関わらず、「会田誠くらい知ってて当然。知らなかったほうが悪い」という論調のブコメばかり。
私たちは戦わなければならない。
いつも、脳みそが沸騰するほど怒りを覚える。人類の半分を超える女たちは、虐げられるために生まれてきたのではない。特にこの国は、クソみたいなこの国は、私たちのことを長年のクソみたいな風潮で貶めてきた。私たちは、戦わなければならない。
と、思っていた。
今日、仕事の休憩中に、ファストフードの店でサンドイッチを頼んだ。その場で具を選んで作ってもらう形式で、仕事場の中にある、よく行く店。仕事で疲れていたので、店員にオーダーする声が小さかったかもしれない。私服ではなくて仕事着だったので、地味に見えたかもしれない。
頼んだサンドイッチの端に、陰毛が挟まっていた。誰がどう見ても陰毛。店員が全裸だった訳でもないし、ましてや野菜の加工場なんかはきちんと清潔に保っていると思う。わかんない、わかんないけど。
意図的に入れられたんだと思う。
頭が真っ白になって、すぐに抜いて捨てた。残りのサンドイッチは食べられなかった。飲み物を飲んで、落ち着こうとしたけど、どうにも気持ちが悪かった。あとで抗議しようにも、証拠なんてどこにもなかった。捨てちゃったし。
わかんないけど、わかんないけどね。ただ、一方的に悪意を持って貶めようとすれば、いくらでも傷つけられて、傷つくんだよ。サンドイッチに具を挟むだけなのにやたら動作が芝居かかってて覚えてる、名札の名前も覚えてる、向こうは私の名前なんて知らないはず、もしかしたら顔もすぐ忘れたかもしれない、なんてことない悪戯なのかもしれない。それでも。名前を晒して尚、一方的に私のことを傷つけることができる。その事実がただひたすら死ぬほど悔しくて、惨めだ。騒げなかったよ、私は。理不尽に抵抗できなかった。
誰にも言えなかったけど、帰って、母にだけ話した。母は一言、そんな気持ち悪い考え、忘れなさいと言って背中を向けた。ショックだった。
忘れれば。適応して、見過ごして、考えなければ、それで。このクソみたいな国で生きてゆける。確かに私は戦えなかった。けれど、私たちは戦わなければならないのではないのですか、お母さん。
オタクはただの消費傾向だったから、そこで問われたのは昔から行儀の良い悪いだったし、知らないものはなんだか怖いというそういうレイヤーで排斥されてたんだよね。だからこそ、経済的消費力を持つのと、世代交代に伴う社会への浸透で居場所を得ることができた。
オタクは過去、思想で叩かれたことはないのよ。思想だとすり替えて叩こうとした人はいるんだけど、これはいまでもフェミがやろうとする行為だね。オタクは小児性愛を流布して広めようとする思想集団だ、みたいな。でもそれは真実ではないので「んじゃ、世界一のオタク国家である日本の小児性愛犯罪率はどうなんよ」でカウンターされちゃった。
ここからも分かる通り、問題になってるのが行儀の良し悪しであるのならば、それは襟を正して楽しく正しい経済活動を続けていけば、増田の言うとおり良いのだけど、問題になってるのが思想であるならば(あるいは思想集団として告発を受けるのならば)、それは否定して反論しなきゃいけない。
そういう意味では、ラノベ表紙問題からのキズナアイ論争は、実はあんまりよくなくて、「フェミvsオタク」みたいな対立概念をオタクは受け入れちゃったし、まとめなんかでも表題としてそれを許しちゃったんだよね。別にそのふたつは対立概念じゃない(なぜならオタクは思想じゃなく消費傾向にすぎないので)。
現実にはフェミニズムの側(の一部の性急で狂った論者)が、オタクというただの消費者層に対して車で突っ込んできて、突っ込んできたくせに「うわー車が壊れたわ−わたしムチウチになったわ~賠償金払えよお前らオタクども−」っていい出すという、いわば当たり屋に近い案件なわけだよ(事実、フェミの言う性的搾取理論は、オタクじゃなくて、例えば受付嬢とか女性スポーツに向けられても同じ理屈で機能した)。
そうでしかないのに、「フェミvsオタク」みたいな表題を許した時点で、オタクの側は被害者じゃなくて論争相手というレイヤーにまんまと誘い込まれてたわけで、そこはやっぱりある意味甘かったとおもう。