はてなキーワード: 印象操作とは
私が多数に阿ってんじゃないの。
第一、「虐殺」なんてセンセーショナルな言葉と比較しての印象操作しなきゃならんとはみっともない。
正確には、あんたの「俺の言うことは正しい!」って言う独善をな。
それに、世の中変えようってのに「独善でいい」とは、どこまで傲慢なんだか。
ウサギの糞みたいなやつ
先進国では日本だけ。誤字や書き間違えも起こるのに、なぜ「自分で名前を書いて」投票するのか
http://go2senkyo.com/articles/2018/05/15/35752.html
「しかし、記号式投票が導入されたものの、翌1995年に自民党内から記号式投票から自書式投票に戻したいという発言が出るようになりました。その理由としては、前述したような記号式投票のデメリットの他、新しい名前の候補や政党名を書くのは抵抗があるため、自書式の方が現職や古くからある政党に有利だからというものでした。」
これ読む限りでは自民党が最終的に拒否した結語しかないが、悪質な印象操作だと思う。これは立法府全体の問題であって、特定の政党だけの問題でも無い。
http://tech.nikkeibp.co.jp/it/article/OPINION/20080711/310643/
こちらでは2008年に民主、自民、公明で電子投票法案の合意まで得られてたところ、民主党が土壇場(参院)で反対に回った顛末が書いてある。現行の制度を問題にするなら少なくとも直近の例を出さなければフェアでは無いと思う。
自分の考えを発表することには慣れているが、このような匿名の場で発言することが少く、もしかすると思慮分別に掛けた失言があるかもしれないが、そこはどうかご寛恕いただきたい。
一サラリーマンでしかない自分が、差別だの階級だのという深刻な問題について色々熟思することになった発端は、近頃流行りの、フェミニストや助勢権利問題に関して盛んに議論しているような場面をネットでしょっちゅう見掛けたことである。ここで敢て話しておくが、私の身の回りではフェミニストがどうこう、男がどうこう、女がどうこうという大局的な視点の議論はあまり行われていない。一体どこのどういう層が、どういう考えからこうした議論をしているのだろうという好奇から眺めるうちに、自然と自分がこうした差別について考えるようになったのである。
極端な話、こういうものは不特定多数に向けて発信されるのだから、その不特定多数の中で刺激を受けた人間がまた不特定多数に情報を発信し、こういう聯関が幾度となく続いて奇妙な合戦が始まるというのが実情である。何百人もの眼に触れれば、一人くらい「お前が言えたことじゃない。俺はこういう差別を……」と言って反撃してくるものも居るだろうし、それを見て「問題をすり替えているだけだ!」と批判してくる者も一人は出てくる。一人の意見が数百人に伝えられて色々な思想を掘り出すのはネットならではの現象。現実を見たら、まるでそんな議論起きてないじゃないか!と思っても何もおかしくはない。しかし、こういう前提を受けた疑心の強い私は「口に出していないだけで、こういう考えや不満を持っている層は一定数いるのでは?」と勘繰って、更に色々のことを調べた。あくまでもフェミニズムや女性差別、セクハラ問題、Metoo運動などについてだが、本当に多様な議論があるものだと内心驚いた。少年漫画をジェンダー論の視点から語るもの、男性差別と女権拡張論を一緒くたにして語るもの、ポリコレ棒をひたすら恐れるあまりありとあらゆる人権を憎悪し、また差別されることに怒りを覚えた人間たちが、そういう特定層が属している集団全体の問題へと広げて争うこと………。
大概の議論には少なからずこうした不毛な要素が孕まれているが、ネットは憎悪の導火線に火をつけてあちこち爆発させるのに非常に適した性質を持っている。文字数制限があるSNSもまた、そういう性質を持っている。ほんの微妙な解釈の違いが、やがて不毛な言葉遊びに繋がり、いつの間にやら人種差別、性差別の話題に敷衍されている。そうした事例をいくつも見る度に一番疑問に思うのが、「何故これほどまでに単語が錯綜しているのだろうか」ということである。
情報過多のこのご時世は、少しでも少ない語数、少しでも簡潔な言い回しで知的に物を表すのが良いとされている。微妙に差異がある言葉を言い尽くして、詳細に伝えるなどは馬鹿のすることと切り捨てられる。そのために、一つないし二つの意味合いしか持たない言葉や、本来いくつかの分岐がある言葉が下位互換の概念を包括することで、とことん省略しようと試みている。こうした考えを持っているのはおそらく私だけではない。著名な人物で言えば、かの三島由紀夫もこうした問題に警鐘を唱えている。
民主主義という言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含している。平和とは時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるようなもので、これでは民衆の頭は混乱する。
自分で言うのもなんだが、私は古い人間だ。未だに家父長制度があり、男女間は厳密には不干渉であるべきで、それを易易と超えるような浅はかな行為は慎むべきだという考えを持ち、性犯罪で女性側がだらしのない格好をすれば「何故襲われるだろうと予測できないのか」と疑問に持つような人間だ。そうした考えは、先進的な思想家や活動家からとにかく攻撃され、時代遅れと呼ばれて封殺される。それでも、フェミニストの中には色々な考えがあり、ラディカル、リベラル、いずれの思想は言葉の上では微妙に、根本では大きく異なっている思想にもかかわらず、リベラルがラディカルに、ラディカルがリベラルに、なんとも不思議な混濁が起きる。こういう事を近頃は主語が大きいと言うと仄聞したが、単なる無知ではなく露骨な印象操作のためにこの事態が起きるのはあまりに不毛である。喫緊の問題は、こうした語義の混乱が争いを招く事態を避けることだが、それを実現するのはとても難しい。
「女性差別」があるのではなく「ブス差別」があるだけ、でも成り立つよね。
ブスな女が受けた不利益を、ブスの問題ではなく、女全体の問題に巻き込もうとするブス女のこと。
「オタク差別」は主語がでかいという話であって、「キモい人差別」はしていいとかいう話じゃない。
「キモい人差別」があるので、「オタク差別」などといって問題をごまかしてないで「キモい人差別」をやめろと言っていくべき。きみたちが「オタク差別」という言葉にこだわるのは、オタクの中にはイケメンも美女もいるし、しっかり働いていて妻子を持ち年収1000万以上の人も普通にいるからだろう? でもそれは主語が大きいんだよ。彼らは差別などされてないんだから。きみらが「オタク差別」にこだわるのは印象操作なんだよ。オタク層のいい部分まで差別されているように見せかけようとしている。これは卑怯な戦略だ。
実態は「オタク差別」ではなくて「キモい人差別」だ。「キモい人差別」はあってはいけないし、そして実際にあるということ。それこそが問題なのに、「オタク差別」なんて主語を大きくするからだめなんだ。「そんなものない」と反論されるに決まっている。
差別されているオタクがいることはたしかだが、「オタク差別」というは表現は妥当ではない。これは表現の問題だ。差別されているのはオタクの中でもキモい人たち。彼らが差別されているのはオタクだからではなくキモいから。そして彼らが差別されているのは不当なことであり、抗議していかなければならない。それは「キモい人差別」だからだ。
なぜ「オタク差別」という表現にこだわるんだろうか。この言葉は実態を正確に表した言葉ではないのに。「オタク差別」は存在するなどと言い続けるなら、そんなものはないと否定されつづけるだろう。「キモい人差別」は存在するという主張に変えれば、世間は共感するだろう。
かたくなに「オタク差別」という表現を使い続けるのは彼らのプライドのせいなのかもしれない。キモくないオタクまで巻き込んで、あたかも自分もキモくないと主張したいかのようだ。「キモい人差別」という表現を使うことを恐れている。
たしかにきみたちはキモくて差別されてきた。それは許せないことだ。どんどん抗議するべきだ。しかしそれはオタク差別ではない。問題の本質を見失ってはいけない。きみたちはキモいから差別されているのであって、オタクだから差別されているというわけではない。そしてきみたちがキモいからという理由で差別されているのは不当なことであり、こんなことは絶対に許されないことだ。
「キモい人差別」をなくそう。「オタク差別」などといって問題をごまかしてはいけない。いまこそ「キモい人差別」問題を正面から受け止めて、真摯に向き合っていくべきなんじゃないだろうか。
しかし、オタクお得意の「主語がでかい」がなぜオタク自身から出てこないのかよくわからない。アニメ批判やラノベ批判をすればすぐに「主語がでかい」と怒り狂うあのめんどくさいオタクが。今回は「オタク差別」だなんていう主語のでかい表現を使って自分たちを守ろうとしている。これは滑稽である。オタクのいつものノリで言えば、「オタク差別」を語るなら本当にすべてのオタクが差別されているかまず調査しなければならない。調査していないなら、本当にすべてのオタクが差別されているかなどというのはわからないのだし、「オタク差別」なんてのは主語がでかいということになる。そして、差別されていないオタクの例を出すのはとてつもなく容易である。
先日の世論調査を見ていて思ったのだが、辞任すべきか否かを聞く項目が
・辞任すべきだ
・辞任の必要は無い
の二択でそこからグッディかなんだったかわからないが、キャスターの若い人は興味ないのか発言が出てきたのであればこれは聞き方が悪いのではないだろうか。
辞任の必要はない、だけでは積極的に肯定しているのか、他に適切な人物がいるとは思えないという(比較的)消極的な理由で入れているのか、誰がなっても変わらないから、という消極的理由なのかがわからず全て一つの選択肢に集まっているように思う。