はてなキーワード: でっち上げとは
鈴置高史といえば日経ビジネスからデイリー新潮に移って韓国情勢の連載をしている、韓国ウォッチャーには有名な人物である。その鈴置高史の記事についてデマのオンパレードだと糾弾するブログがツイッターで流れてきた。
何だって!? デマだらけとはそりゃ大事(おおごと)だ! 一体どういう話だろう?
と、「祭り」の現場に向かうねらーの勢いで件のブログのリンクを開いたのである
鈴置高史氏によるデマの飽和攻撃に対して一部でも指摘しておく - 誰かの妄想・はてなブログ版
ふむふむこれは…うーん??
どうにも腑に落ちないぞ!
ブログ主は例として”21日から22日にかけ、韓国メディアは一斉に「火器管制レーダーも使ったが、北朝鮮の漁船を救助するためだった」との国防部と関係者の説明をそのまま報じました”という部分が嘘だと主張する。その証拠として、韓国紙の記事を3つ挙げ、「火器管制レーダーを使った」との報がないことを示しているが…
いや、それ他の記事に書いてあったらお終いじゃん
証拠を示すのであればその日の記事を一覧にして貼り付けておくべきだ(それでも漏れがないことを証明できないが…)。そもそも、Web版の日本語版を示して証拠だと言ってもしょうがない。韓国語版だけの記事の話かもしれないし、紙媒体のみで報じられた可能性も残ってしまう
勿論、それではデマである可能性も否定できない。しかし、ブログ主は「鈴置氏の記事はそのほとんどにおいて、デマや曲解、真偽不明な怪情報が盛り込まれていて、それを指摘しようと思うと、それに倍する字数が必要になります」とまで言っているのだから。もっと適切で疑いようのない例を示せばよいだけである。なのにわざわざ取り上げた例がこれでは、他の事例も大したことないのだろうとしか思えない(まあ、鈴置高史の記事には自説に基づいて牽強付会感のあるポジショントークとか、謎の情報筋による怪しい話題とかもないわけではないが…)
結局はブログ主の言ってることが信用できるかどうかという話になってくるわけだが。。。「韓国のメディアは日本のメディアと違って、政権に忖度したりしませんので記者会見での追及はかなり厳しいと言えます」と韓国紙が政府の発表を鵜呑みにするわけがないと主張するブログ主と、韓国紙の記述に補足して、政府がカカオトークで記者に一方的に情報を拡散し、しょうがないのでそれをそのまま記事にすることがあると説明したことがある鈴置高史のどちらがより信用できるだろうか?
「読む方にもう少しリテラシーを持ってもらいたいものです」などと偉そうに語るブログ主だが、そういう本人のリテラシーがいかほどのものかうかがえる記事を紹介しよう
韓国政府が輸出管理を行っている公開済みの証拠を【独自】とつけて不正輸出の証拠にでっち上げる産経式のやり方に騙される日本社会 - 誰かの妄想・はてなブログ版
上記の記事でブログ主は散々FNNの記事をプロパガンダだ煽動だとこけにしたくせに、韓国政府のプロパガンダを鵜呑みにする醜態を晒している。ここは韓国政府の主張に対するFNNの反論記事を載せて、FNNの恨みを晴らしてやることとしよう
専門家が見た韓国不正輸出リストの問題点……韓国政府は悪質企業名の公表を - FNN.jpプライムオンライン
そもそも「基本的に韓国政府が毎年公表している統計情報で、何のこともない公開情報です」と書いておきながら、「同資料は(中略)2019年5月ジョウォンジン国会議員室の(中略)のニーズに応じて提出されたものである」と書いてよく矛盾に気づかずにいられるものだ。本当に公開情報なら、わざわざ国会議員の要請で改めて資料を提出させる必要などない。種明かしをすると、年次の報告書に記載されているのは摘発件数のみであり、韓国議員が入手した情報で初めて摘発された事件の内容が明らかになったのである
ツイッターで話題の例のnoteは、正直5%くらいしか読んでいない。
ので、これは私の独り言です。
誰が、いつ、どういう文脈で言ったかは割愛するけど、知っている人は知っていると思う。
記憶があいまいでニュアンスしか覚えていないところを、更に特定されないように改変している。
その当時、そういう声が、お互いに届きやすい関係だった、とだけ言っておく。
当事者にとって、腐とアンチは同列で語られる存在なんだと、痛感した。
でも、考えてみれば当たり前。
だの
「それお揃い?さっすが~ラブラブだね~~」
だの、
そんな風に言われたらいやになるし、それが続けば気持ちが悪くなる。
nmmnで、実在する人物で、今、同じ時間を生きて、過ごして、同じように感情を持っている一個人のことを、
好き勝手に妄想して、人物像を作り上げて、言動を、趣味趣向を、人間関係をいじり倒すことは、
どれほど失礼で、気持ちが悪くて、マナーもモラルもあったもんじゃない行動なんだろうと思う。
偶然二人で歩いていたところを写真に撮って、スクープをでっち上げてあることないこと吹聴するクソ週刊誌と同レベルだ。
いや、nmmnを垂れ流している人はないことないこと吹聴してるから、それ以下かも。
hnnmだろうとnmmnだろうと、
腐だろうと百合だろうとノマだろうと夢だろうとガチ恋だろうとでっち上げだろうと、
「今、この瞬間も実在している人物のことを、勝手に妄想して、勝手に作り上げている」ことは確かだ。
nmmnやhnnmで妄想するのは、クラスメイトや会社の同僚の関係を勝手に妄想しているのと同じだ。
それを、関係者や本人も目にできるところに晒し上げるのが、どれだけ非常識なことか。
そんなことを平気でやってのける人を、同じファンだと言いたくない、アンチと同列に扱いたい、
……まぁ、こうして書いても、なんだかんだと反論されるんでしょうね、きっと。
出典や細かい設定などは忘れてしまったが、結果がものずごく面白くて深く考えさせられてしまった。
主催者側から2人に謝礼として一定の金額が与えられるが、二人をAとBにした場合、Aにはそれを配分する金額を決める権利が与えられ、Bには交渉の成立不成立の権利が与えられる。
例えば二人に対して1万円が与えられたとして、Aはそれを5千円ずつでもよいし、自分の総取りでも相手の総取りでも配分を決めることができる。ただし、AとBとの間に金額に対する交渉は許されていない。
それに対してBは自分の取り分が納得できれば交渉を成立させることができるし、不満と感じたなら交渉を拒否することができるというものだ。
それにもかかわらず、取り分がAに多く偏った場合、ほとんどの場合にBは交渉を不成立にさせたというのだ。
ここで自問してほしい。
もし自分をBに置き換えた場合、Aが9,500円で自分が500円だったときに、交渉を成立させることができるだろうか。
一瞬でも心に迷いがあるなら、それが人間の素直な反応なのだと知ることに大きな意味がある。
では仮に、そうした事前情報が全くない状態で、個室に呼ばれて眼の前に決定ボタンだけが置かれていたとしよう。
そこで主催者から「今からあなたに500円差し上げますが、不要な場合には目の前のボタンを押してください。」と言われて、どれくらいの人がそのボタンを押すだろうか。
無条件で貰える500円だと知っていたら、それを拒否する人はほぼいないと言えるだろう。
なんの事前情報もない状態であれば、500円はもらうに嬉しい金額だ。
ならばなぜ、同じく500円をもらえる状況であることには変わりがないのに、人の選択は変わってきてしまったのだろうか。
この実験では、人には懲罰に対して快楽を得る心理が備わっているとしていた。
つまり、相手が9500円を得る権利を消失させることが、500円を得ることよりも価値があると考えるということだ。
相対的剥奪と言われるものの原点はここにあると言えるのだろう。
ただで500円をもらえるだけなら素直に喜べるはずだったものが、相手のほうが多く得るかもしれないと知った途端に、自分が得るはずの500円を捨てでも相手が得をすることを阻止しようとする心理が働くように人間は作られているのだ。
しかし考えてほしい。
Bという人間には、実は一切の損害が発生していないのだ。
実験に参加することで報酬が約束されていたなら話は別だが、この実験で金銭が得られるかもしれないことは事前には知らされていない。
それなのにBは、Aとの金額の差を自らの損失だと考えて相手に懲罰を与えているのだ。
これこそがこの実験があぶり出した最も面白い点であり、そして、人間に対して最も恐れを抱くべき部分といって良いだろう。
参加者は、実験を知らされたときに半分ずつ得られるのが当然の権利だと考えたに違いない。
だからこそ、そこから金額が乖離するほどに、相手との金額差が開いていくほどに、Bは相対的剥奪を自覚するに至ったのだろう。
しかし、そこには当然の権利などというものは本来存在していなかったはずなのだ。
それをでっち上げるだけで人とはこうも簡単に選択を変えてしまえる生き物なのだ。
そう考えると、自らの選択が本当に自分の意思によって行われているものなのか疑わしくなることばかりになってしまう。
その証拠に、もし仮に、Aが金額も交渉の成立も決定できる権利を持っていたとしたらどうなるかを考えてみてほしい。
例えばB側の最低金額を500円と設定したなら、大半の人間は9,500円を選択することになるだろう。
もし自分がBだった場合、その金額差を決定したAを恨まないでいられるだろうか。
僕は素直な人間でその素直さゆえにぞんざいな扱いを受けることによるストレスを表に出さざるを得ない。
もし今よりも愛想よく振る舞えたとしてもそれは偽りであり、僕の持つ素直で筋の通った気質は失われ性格の悪い人間に墜落してしまう。
表面上の気前の良さをでっち上げることで本質的な意味で陰気になっては意味がない。
そして僕の機嫌など御構い無しの周囲の人々に、僕が顔色を伺わなければならないとすれば、僕と彼らは対等な立場にないというほかない。
その場その場でなんとなく円満な雰囲気を取り繕っても、見下げられているという事実は拭えないしその劣等感は僕を不愉快にさせる。
劣等感を抱かないよう愚鈍になっても虚しいだけだしそれじゃなんの発展もない。
僕はただ僕の住む町で穏やかに友人や家族の温かさに触れながら人を愛し愛されて末永く暮らしたいだけだ。
同年代に蔑まれ、職場や家族に無視され、そこら辺の商店の人間にまで邪険に扱われ、その都度暗澹たる気持ちでとぼとぼと逃げるようにその場から離れる。こんなつまらない思いをしたくないだけだ。
もう一度言うが僕が不機嫌なのは、僕を取り巻く鬱々とした環境に対する吐露でありそれは僕自身の純真さの証明なのだ。
いつでも清くいたいから不誠実な態度に塞ぎ込んでいるだけなんだ。