はてなキーワード: 頭が悪いとは
学生の頃は頭の良さとか記憶力で評価されたり、褒められたりすることもあれば、突拍子もないことをしたときにはバカにされる機会も多かった。
社会人になって年数が経ったからなのか、自分がいる環境がたまたまなのかわからないけど、周囲の人が「○○さんは頭がいい」というのは聞かなくなった。
そもそも人の仕事を評価する際に「頭がいい」なんて表現を使うのはズレてるし、そんなので昇給とか決めてたら不満しか生まれないしね。馬鹿だとか阿呆だとかそういう言葉も使わないし聞かなくなったな。
ネットでは大人でも他人に対して「頭がいい」という表現を使っている人がいたりする。今日もはてなブックマークには遙かなる高みからコメントを書いている人をみた。
自分はひろゆき氏の動画を見るのが好きなんだけど、彼は頻繁に頭がいいだとか、頭が悪いなどの言葉を使っている。ひろゆき氏みたいな生き方してたらそういう人の見方になっちゃうと思うし、マーケティング的には間違いではないと思うし、本人はそれで不幸にはならないだろう。
個人的には倍速視聴の趣味はないが、批判する奴はそろいもそろって初歩的な理屈立てもできていない馬鹿ばかりなのだ。
それで映画好きを騙っているのだ。
辟易とする。最悪だと思う。
曰く、「作者の意図を棄損している」「演出や音楽の計算が狂う」だそうだ。
この理屈は単体で見れば、言わんとすることはわかる。
だが、倍速を否定してみせる奴に限って、同時に「地上波で〇〇を放送しろ」「○○放送記念!」「金曜ロードショーがふるさと」などと言っているケースが多い。あまりにも多い。
少なくとも、同じ勢いで地上波放送を否定する人間は見たことがない。
頭が悪すぎないだろうか?
本来、映画は劇場の大スクリーンや音響を想定して演出しているものだ。作者の意図を無視しているのは明白である。
日本語吹き替えは、オリジナルの音声を削除して別の音声に置き換えている。
CMの挿入に至っては、映像作品を自分たちの都合で切り刻んで編集し、別の映像を追加しているのだ。
オリジナルの棄損だリズムが崩れるだとほざいてるアホどもは、なぜ地上波のこれらの要素は無視するのだろうか。
そしてさらに、地上波放送はそれを一人の個人的な視聴ではなく、公共の電波を使って「何百万・何千万の人間に」見せているのだ。
少し頭を使えばわかる。
倍速視聴で「作者の意図が~」「演出が~」と知ったかぶる前に、真面目に考えればすぐわかる話だ。
ニワカ映画通が言うように「映画を倍速で見る個人」がそんなに「悪」なら、地上波放送なんてテレビ局が焼き討ちにあうレベルの「巨悪」のはずである。
なぜなら、奴らは「そもそも映画が別に好きではない」からだ。映画について考えたことがないのである。
奴らにとっては、映画についてあれこれ考えるよりも「安易に叩けるだれか」を攻撃する方が楽だし、好きなのである。
奴らにとって「映画」というのは、誰かを叩くツールでしかないのだ。
映画に対する知識も情熱もないけど「他人へのマウントだけは絶対に取りたいカス」だから、こんな浅はかなことを言えるのだ。
「最悪」以外の何物でもない。
これを読んだ心ある映画好きの方は、安易に倍速視聴を叩くことをやめてほしい。
もちろん、倍速視聴への是非はあると思う。
しかし、あなたが映画にはまるきっかけになったであろう「地上波放送」の方が、「よほどオリジナルを棄損した歪な映画体験」であるということは念頭に置いてほしい。
倍速視聴を否定することは、地上波放送をすべて否定することなのだ。
要領悪いし朝起きられないし、総合して仕事ができないけど、頑張らなければ と思って時間をかけて頑張ったら、仕事が出来るやつだと評価されて、本当に頭が良くないと出来ないような激務部署に飛ばされてしまった。
出来ないから自分は頭が悪いからと言っていたのに謙遜にしかとらえてもらえなかった。結果、仕事に着いていけてない。未経験の業務で今までの経験もまったく活かせなくて本当に苦しい。何もわからない。
仕事がぜんぜん覚えられない。臨機応変に対応できない。何もできない。こんなにわからないなんて頭がおかしいのだろうか? 辞めたいけど辞めても人生の先が見えないし、またここで頑張って仮になんとかなってしまっても、難易度が上がっていくだけでいつか破滅するとしか思えない。仕事できない覚えられないってちゃんと言ったのになんでこういうことするんだろう。もうやだ
ひろゆき氏の指摘(「一般的に読めない名前の子どもは遺伝により頭が悪い可能性が高いです」)にもあったように、親がバカな確率が高い、ということじゃないでしょうか。
一方で、統計的に親の教育レベルと子どもの教育レベル、家庭の経済レベルは相関性があるっていう結果は出てます。
ただし、犯罪者の割合は人口に比べてそう大きいわけではありません。
もしかすると「犯罪者におけるのキラキラネームの割合」は一般より高い可能性はありますが、「キラキラネームに犯罪者の割合が多い」と言うほど割合に目立った差は出ないのではないでしょうか。
最初非モテ(男)が活躍する漫画が見たい、にしようと思ったが意外と思いついたので止めた。
昨今のジェンダー論に基づき性別を逆にして考えるとこちらはあまり思いつかない。
女性向けの漫画にはあるかもしれないが守備範囲外なので範囲は少年・青年漫画としたい。
例えばBLEACHはハゲもチビも爺もデブもいるがみんな見せ場がある。
一方で女性はといえば巨乳で頭が悪いか貧乳で口が悪いかの二通りしかない。顔はみな美女だ。
女性は整った顔のモデルによる資料を見なければならないからブスは描きなれていないのだろうか。
こんなことを書くと「漫画に出てくるキャラは三枚目ではあるがブサイクではない、本当のブサイクってやつを見せてやりますよ」論になりかねないので
作品内で非美人と描かれているキャラであればよい。GANTZの初登場時のたえちゃんみたいな感じだ。
※追記
こんなにブクマクしてくれてたのね。自分のお知らせに出ないんだね。気づかなくてごめんね。みんなありがとう。
あとコメの中にあったツルモク独身寮だと刈り上げの子がちょうどいい感じ。
ブス界へようこそは読んでみる!
「統計的事実への言及自体は差別じゃない」というのは私も同意なんだけど、そもそも、
「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高いです。よって、読めない名前の子供は遺伝により頭が悪い可能性が高いです」
の、
ひろゆきが言ってるのは完全に「経験的な勘」であり、「統計的事実」ではないので注意。
というのが「統計的事実への言及」であり、これ自体は差別ではないが、
そいで、
というのは別にそんな統計データがあるわけではないので、「経験的な勘」だろう。(あるいは警視庁に極秘の統計データがあるかもしれんけど)
また、「経験的な勘」が全て偏見で悪いものとは限らない。ひろゆきにとって人間関係の取捨選択に役立っているだろうし、警察に「経験的な判断をするな」と言うのも変な話だ。
「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高い」
適者生存とは、最も環境に適した形質をもつ個体が最適者として生存を許される仕組みの事だから、
読めない名前の子供が増えている現状では、現代日本において頭の良い事は必ずしも適応的でないと考えられる。
いわゆるキラキラネームと呼ばれるものが増えだしたのは30年ほど前の事だ。その後どうなった?
幾多の批判に晒されながらも勢力を増し続け、今じゃ読める名前の方が少ないほどに一般化してしまった。
彼らが大人になる20年後の世界を想像できるだろうか?上級国民になれなければ、下流社会で生きていくしかない。
→差別
→差別
→差別でない(※1)
・女性は筋力が低い
→差別(※2)
→差別
・女性は筋力が低い傾向にある
→差別でない
→差別
→差別
→差別でない(※3)
→差別でない
※1
文脈で「頭が悪い」の内容が明確でなければ、悪意の表現とみなされ差別になることがありそうです。単文のため、もともとのひろゆきの文脈では、「頭が悪い」が犯罪を犯すことや読みにくい名前をつける社会性のことを言っているのとは対照的です。
※2
これは統計ではなく一般論の形で言っているので一応差別にしました。しかし、その内容は客観的かつよく知られており、統計的な傾向を言っていることがほぼ明らかなので、差別でないと判断される場合の方が多いでしょうね。
※3
これは※1とほぼ同様です。「議論ができない」というのは結構主観的で、話者がその基準や統計的な傾向をある程度客観的に判断していると思えるような文脈でなければ、悪意の表現であり差別だと言えそうです。
せやね
俺もなんで明らかに「個人に傾向を適用する」ってド直球にあかんことしてんのに傾向の否定って悪手取るんやろうかって思ってたわ
俺も差別のほとんどが「傾向を個人に適用して評価してしまう」やと思ってる
ただ、重箱の隅つつくけど前者の方もどうなんやろなーって思うねん
以下に例示するもので考えてるねんけどどうやろう
・女性は筋力が低い
・女性は筋力が低い傾向にある
「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高いです。よって、読めない名前の子供は遺伝により頭が悪い可能性が高いです」は差別でない
「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くないです。よって、読めない名前の子供は遺伝により頭が悪いです。ワタナベマホトも頭が悪いんでしょう」は差別
言いたいのは、差別反対のために統計的事実を否定するのはよろしくないということ。
ひょっとすると、本当に、名前の可読性と知能は相関するかもしれない。女性の方が運転が下手かもしれない。年寄りの方が発想力が乏しいかもしれない。差別反対のために統計的事実を否定すると、仮にこうした「偏見」に統計的なエビデンスが示されとき、議論に蓋をするしか無くなってしまう。実際、社会には、ジェンダーや年齢によるバイアスは無数に事実として存在する。
大事なのは、事実(かもしれないこと)を否定するのではなく、統計的事実を、無闇に個人に当てはめないこと。読めない名前だからこいつはアホに違いない、この女性もどうせ運転が下手に違いない、等という決めつけだけが差別だ。
ひろゆきの発言は、刑法違反という事実によって、ワタナベマホトを頭が悪いと判断した上で、また統計的事実をサポートする実例が見つかったと言っているだけだ。決して、名前が読めないからこいつは頭が悪いに違いない、という順番の推論ではない。
前者は統計的事実についての考察で差別ではない。後者なら属性から個人の能力等を決めつけているので、差別だ。
統計的事実について考察することは、アンコンシャスバイアスに気づく上で、むしろ必要不可欠なプロセスだ。こうした言論すら許されないのは、社会に「見えない」差別を残すだけだ。