はてなキーワード: 能力主義とは
19世紀では「資産」の不平等から共産主義が起きた訳だが、最近のサンデル教授じゃないが、今はそこよりも「行き過ぎた能力主義」による格差が問題視され始めてきている。
生活保護への受け止めも、「稼ぐ能力」の度合いによって違うのでは。
もし働けなくなったら生活に困るので、生活保護はそのためのセーフティーネットだと認識してる。
なので、生活保護の意義を感じているが、あくまで「もしものとき」の認識。
現在の生活でも貯蓄に回す余裕がなく、生活保護取得にリアリティを感じる。
支援に頼らず稼ごうとしている中で、生活保護受給者に不公平感を感じている。
生活保護について、基本的に全くの他人ごとだと思っている。(仮に働けなくなったとしても資産があるから困らない)
何なら「貧困対策した方が治安がよくなっていいよね」くらいにしか思ってない。
受け止めの違いは、①と②の立場の違いなのでは。境目はあいまいだが。
何言ってるかよくわからないけどサンデルが通じなかったのはわかるので軽く説明するな
『実力も運のうち:能力主義は正義か?』という新刊を出したんだ
日本でもそこそこヒットして増田でもちょいちょい語ってるやついたかな?
端的に言えば、『能力主義(メリトクラシー)の傲慢と堕落』についての本だ
成功者は自分の達成した成果を努力のみによるものであると信じ、
「たまたまうまくいった」とは考えず、成功に至る過程で助けになった幸運の恵みを忘れてしまうってヤツね
これ以上は説明しても増田に理解出来ないと思うから省略するけど元増田の話はそれ以前のレベルの話だぜ?
昨今、容姿が本職じゃない人の容姿に強く焦点を当てる言説(ルッキズムは言葉の定義がぶれるのでできれば使いたくない)はそのニュアンスの正負を問わず批判の対象となっている。はてなでもそうなのでこの前提は共有してもらえると思う。
で、私も素朴にそう思ってたんだけど、今日ちょっと疑問が生じて色々考えてみた。
「xx(競技名)のyy選手めっちゃ可愛い……(画像4枚)」みたいな。今日のTLにはこんな感じで色々な競技の色々な選手のものが流れてきた。
念のため言っておくと私はそれらの意見を肯定も否定もしていません
本題
①容姿に着目することは人格や本職を無視することを必ずしも意味しない。
これ系の話題でよく見るのが「人格を無視した性的消費」みたいな非難。
しかし、例えば私が実際に見たツイートなんかは「名前」「競技名」がきちんと記されていて、選手本人を容姿から置き去りにしていない。(理想を言えば「世界ランクがヤバイ」「zzの技術がヤバイ」なんかの情報や感想があるのが一番いいのかもしれませんが。)
②「jobとabilityはどのような関係にあるのか?」
例えばあるプロスポーツ選手が良い環境でトレーニングに専念したり家計を成り立たせるためには、単にその競技の実力・実績があればよいというわけではない。賞金や年俸がヤバイ一部の競技のトップ選手を除けば、多くの選手は企業勤めをしたりスポンサーを獲得して仕事や支援を受けたりグッズ収入を得たりする必要がある。これらの収入は金メダルの賞金500万円と異なり、競技の実力によってのみ得られるわけではない。
このとき選手の競技能力以外の要素を肯定的に拡散することは不正義となるのか。スポーツ選手に限らず一般企業の社員やアーティストやは?容姿に限らず知性や人格や逆?
上でも軽く触れたが、選手の人生は競技に限らない。競技者を容姿(など競技と関係ない部分)で称揚することが悪であるとした場合、その人間が「選手」でない瞬間であれば容姿に触れても良いのか?ある人が職業人である瞬間とそうでない(あるいは別の職業人である)瞬間はどのようにして区別されるのか?
例えばスポーツ選手の中にはモデル業を兼任している人がいる。モデルの仕事もスポーツと同様に全身が商売道具なわけで、体のメンテナンスには多くのコストをかけるという。「本番」「トレーニング」「コンディション調整」の時間が必要でありそれは食事や睡眠まで含めた24時間の大部分にわたる……となるとそれはもうそれぞれの状態が一人の人間の中に同居していることにはならないだろうか。
他者を評価する際相手の属性によって触れることが適切な項目とそうでない項目が変化するというなら、どの項目がどの属性と結びつくのか、どの瞬間にどの属性を有する状態となるのか、その辺の議論ってどこかで体系化されてたりするんですかね
あと私の頭がパンクしたので今回触れませんでしたが、そもそもいついかなるときでも他者の容姿に言及すること自体が不正義であるという主張も当然あると思います。(それはそれで能力主義等との検証が必要になるとは思いますが……)
そもそもサンデルの主張は尊厳の回復であってどのような立場であれ他人からの承認、敬意を得られる社会を目指すべきということであって、経済的に機会の平等/結果の平等を測ることではないからなあ。
機会の平等は機会があるんだから努力しろよという能力主義的な言説に繋がるし、結果の平等に関しても労せずして結果を得られる層に向けられる目が敬意などではあり得ないことは例えば日本で生活保護者に向けられている目がどのようなものか思い出せば問題があるのは自明だろう。
平たくいうと差がつくのはしゃーないけどお互い敬意を払えるといいよねって主張なんだよ。
ちょっと前に話題になったツイートで現ハーバードの研究員が学生時代に大工のおっさんから話しかけられて三角比の大切さを説かれたみたいな話あったじゃん。
コミュニティカレッジの充実だとかを通してインテリのみならずあらゆる労働者に教養があって互いに敬意を払われ、例えば「あいつはバカだから肉体労働をしている」などと見下されることがない、そういうものを目指してる。
地方公務員をしている。
「こうやった方が効率化できるのでは?」と色々工夫して提案しても
上司から「余計なことしなくていい」「仕事のやり方変えるの面倒くさい」と足蹴にされた。
そのツケでコロナで多忙を極めているが、臨時雇用のアルバイト学生や民間委託の労働者を見てると、すごく気持ちよく働くんだよね
働かない公務員おばさん(おじさん)が多いなと思う。
一応作業はしてるんだけど、その仕事いる?みたいなのが多い。あんまり詳しくかけない。
採用試験だけ必死に頑張って、採用されたらあとは出勤して、ルールを守って、和を乱さなければ年々昇給して、民間がどれだけ不景気でもボーナス貰える。
正直頑張る気なくす。
デスティニープランとは、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』に登場した社会構想である。
プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルが提唱したものであり、
彼の「人は自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きるのが一番幸せだろう」という思想に基づく。
基本的には人間の遺伝子を解析することで個人の適性を見出し、それに合った職業に就くことで誰もが幸福に生きれる社会を作るシステム。
個人の適性に合わせることを最優先にすることで不満も生じず、争いも生まれないことを理想としている。
生まれ持った「性格」「知能」「才能」「重篤な疾病の有無」などを遺伝子解析によって解明し、
その情報に基づいて、その人の特性に適した役割を与えるというシステム。
例えば、音楽的な才能を持つ者には、その才能を開花させられる環境を与えよう、というような仕組みである。
能力がないにも関わらず、親のコネなどの不正な手段で職業や地位を得たものを蹴落とし、