はてなキーワード: ファイアパンチとは
脱コルや反ワクチンのように怪しいものから抜け出した体験談を語るとみんなから褒めてもらえると聞いたので私の体験を書く。
むかしシドニィ・シェルダンの人が書いた小説でこんな話があった。たしか「時間の砂」か「星の輝き」のどちらかだったはずだ。
あるところに二人の姉妹がいた。最初お姉さんはブスだけど心優しい女性だった。妹は美人で誰からも愛されてた。
最初姉妹は仲良かったが、姉は何をやってもかわいい妹と比べられた。何をやっても妹は愛された。努力して何でも妹より良くできるようになったが、結局愛されるのは妹だけだった。
そんな姉の唯一の自慢は歌うことだった。歌を歌っているときだけは家族も褒めてくれた。何もかも忘れて歌うことが一番楽しい時間だった。あるとき、妹が勝手に姉の録音をテレビ局に送ったらプロデューサーが家族のもとにスカウトにやってきた。そのとき何も知らないプロデューサーは見目麗しい妹が声の持ち主だと思って熱烈にスカウトした。テレビ番組デビューまで持ちかけた。しかし、その声の持ち主が姉だとわかると途端に手のひらを返し、「声優事務所にでもいけ」と冷たくあしらい、なおも妹をスカウトしようとした。
唯一の心の支えだった歌すらも自分を苛むようになった姉は絶望し、すべての執着を捨てようと厳格に清貧な生活を求めるキリスト教の教会に入った。その修道会で数年は平穏な日々を過ごしていた。しかし、ある時事件に巻き込まれ男を知った彼女は、押さえつけていた欲望を取り戻す。そして、自分がすべてを諦めるきっかけになったあのときのことを深く恨んでいたことに気づく。その後はキリスト教という正義を元にやりたい放題するようになる。あのとき自分を否定したものを逆に否定し、自分のほうが正しいと証明しようとする。
見た目に反して心は美しいと語られていた彼女だったが、最後には自分に逆らうものは見境なしに攻撃するような、見た目にふさわしいおぞましい怪物になってしまったのである。
子供の頃この小説を読んだとき私は怖くて仕方なかった。私にも可愛い妹がいて、コンプレックスを感じていたから、将来こんななってしまうのかと思うと涙が止まらなかった。
今の社会では女性は誰かから愛されてようやく一人前という扱いをされがちだ。男性でなくてもいい、だれかから愛されないと人間失格のような扱いを受ける。
そういう状況で、自分は愛されないのに自分の妹がアイドルのように美人であり、妹だけが家族からも周りからも愛されているのを毎日のように見せられる生活を考えてみてほしい。
毎日のように自己を否定され続けた人間はいったいどうやって自己肯定すればよかったのだろう。
これは私だけの話をしているのではない。普遍的なテーマだ。ファイアパンチの作者も少し位相を変えて妹の姉という作品を描いた。
ほかにも美人の友達に嫉妬するブスのマンガはtwitterでしょっちゅうバズっている。ああいうものに「痛いほどわかる」などと軽い気持ちで共感する女が私は大嫌いだ。本当にわかるならそんな軽い気持ちで共感などできるはずがない。私はそういう漫画が賞賛されているのを見るたびに怒りで震えそうになる。
妹のことは好きなのだ。妹を憎んでるわけではないし、憎んでも解決しない。しかしそれならこの劣等感はどうやって解消すればいいのだろう。
答えは決まっている。フェミニズムだ。
こんな劣等感を感じさせる社会が間違っているのだからそれを打倒するしかない。ルッキズムを批判したり、若くてきれいな女を好む男社会すべてを否定するのだ。買春している政治家などこの世で最も許せない存在だ。妹への愛情と妹へのコンプレックスという矛盾を解消するには、社会を打倒するしかない。それができないならキリスト教にでもはいって神の元の平等を願うしかない。大抵の人間はフェミニズムを選ぶ。
一歩踏み出せばあとは簡単だ。自分は妹より美しくないというだけで否定されてきたのだから、自分よりキモい存在が市民権をえていることなど許せるわけがない。私の願いは、表面的には全ては自分を否定した男社会への復讐であるが、本心は「私も妹のように美しく生まれたかった。自信を持ちたかった」である。そのために努力しても報われなかったのに、なんの努力もせずキモい姿を晒しながらヘラヘラしてる連中が許せるわけがない。
リベラルフェミニズムは自分に自信がある女性が自分の能力に見合った評価を得たいとする真っ当な社会運動だ。しかしこの形のフェミニズムは私を救わなかった。私が求めていたのは男女平等ではない。私自身が男中心社会でコンプレックスを抱かずに自身を持って過ごせることだった。
一方でラディカルフェミニズムは「美しく生まれることがなかった女性」たちのコンプレックスを解消してくれた。全ては男が悪いのである。こんなに簡単に自分を救ってくれる思想が他にあっただろうか。ラディカルフェミニズムを唱え、男を攻撃しているときだけ、私は私のコンプレックスから解放された。
男性に限らず、コンプレックスを感じたことのない女性も、ラディカルフェミニズムにのめり込む私をバカにするだろう。私だって頭の片隅では何かがおかしいとわかっている。しかし他にどうすればよかったというのか。そのくらい日本という国は、美しくない女性の心を蝕む力学が強い。私は努力していい大学にも入ったし恋人を作ったこともある。ボランティアで人から感謝されたこともあるし企業を設立して人の上に立ったことだってある。それでも女性であるというだけで汚らわしいオタクどもよりも低い自尊心しか得ることができなかった。他の何者も、ラディカルフェミニズムほどには私を救ってくれなかった。
フェミニストたちは二次絵にまでいちいちキレる頭のおかしいやつだというが、こちらからしたらおかしいのは男社会中心の現実の方だ。
第一印象では「気持ちはわかる。が、私はここまで自分が事件(京アニ放火事件)に加担してないと割り切ることができない」と思った。
私は美術を専門として学んだこともあるし絵や漫画も描いていた。ファイアパンチは読んだけどチェンソーマンは読んだことない。藤本先生のことはあまり知らない。
ルックバックがどれくらい京アニ放火事件に向けて描かれているのかはわからない。でも内容、公開日からして意識せずにはいられない。
素晴らしい作品を生み出した人たち、これから生み出す人たちが失われたことへの驚きや悲しみややるせなさはわかる。怒りも。
世代的にオタクの市民権がなかった時代も生きてきたし、オタクである、クリエイターであるというだけで連帯感がある感覚もわかる。
ただ、事件があまりにも天災や事故のように表現されているなと思った。まるで事件が起きたことは自分たちとは全く関係ないと思っているのかと思った。
京アニ放火事件の犯人は事件後病院で治療してくれる人たちの優しさを感じている、といった報道がされていたと思う。その優しさを、人の温もりを、事件前に少しでも彼が感じていたら、あの悲しい事件は起きなかったのではないか。彼を孤立させ追い詰める社会を作ったのは我々に他ならない。
放火事件も殺人事件もテロ行為も、加害者は突然変異やバグなんかじゃない。私たちの一部だ。起きる前も起きた後も私たちは関わり続けているし、少しでも違う社会だったら食い止められたかもしれない事件だ。逆に私だっていつ「あっち側」になるか分からない。そのぐらい紙一重だと思っている。
だってそう思わないと救いがないじゃないか。天変地異のように、地震のように、いつ来るかわからない暴力に怯えるしかなくなってしまう。それよりは我々の努力次第で無くせた、無くせる事件だと思いたい。
そりゃ目の前で声かけられたか?お前に救いの手を差し伸べられたか?と問われたら言葉に詰まるよ。でも目を逸らしちゃいけないだろ。個人じゃできない社会の問題を解決するのが政治や福祉の役割だろ。その主権を握ってるのは私たちだろ。
犯人のことを擁護しているわけではない。罪は罪だし、怒りは感じるし、罰を受けてほしいと思う。犯罪としては情状酌量の余地なんてない。でもどうにかして反省して人生を立て直してほしいとも思う。被害者や遺族からしたら理解できないかもしれないけど、私はそういう社会であってほしい。
ルックバックのような受け取り方が、あの事件について考える時の救いになる人たちもいるんだと思う。そこは否定しない。
でも加害者の立場に立ったとき、あの漫画を読んだらきっと追い詰められるだろう。社会に行き場がないと感じるだろう。
ルックバックを不適切だと断罪するつもりはない。たくさんの複雑で大事な感情が描かれた素晴らしい作品だ。
ただ願わくば、少しでも加害者側の視点や寄り添う気持ちがある作品も生まれてほしい。自分を含めたいつかそっちに行ってしまうかもしれない人たちに、希望や、立ち止まるキッカケになるかもしれない作品も生まれてほしい。そういう思想の多様性が文化や社会を豊かにしてくれるんだと思う。
ルックバックがバズり散らかして、藤本タツキの名前の通りがよくなったことを勝手に喜ばしく思っているところである。
さて、この「ルックバック」であるが、タイトルに何重もの意味が込められていることは、バズり散らかし作品に真っ先にいっちょ噛みしたいパーソン、および俺が一番藤本タツキのことをわかってると思いたい後方腕組み彼氏面パーソンに任せるとしよう。
藤本タツキの前作であるチェンソーマン、このタイトルの連載であるが、チェンソーの悪魔でもなく、デンジくんでもなく、チェンソーマンがタイトルだ。今回の「チェンソーマンは何故『チェンソーマン』というタイトルだったか」という表題であるが、最初からこの表題でなんか書こうと思ったわけではなく、チェンソーマンの考察をしていたら、「チェンソーマン」というタイトル、なんも知らん人からみたらB級にもほどがあるこのタイトルに込められた想いに関しての妄想が膨らんでいた。そこにルックバックという弩級の、しかもタイトルが芸術的な読み切りが出てきてしまったので、書かずには居られなくなった。
以下、私の誤読発表会であること、誤読発表会に過ぎないことを甘んじて受け入れる。
なお、完結済みのチェンソーマンのネタバレは一切避けない。ネタバレを気にする人は絶対に読んではいけない。
まず、主人公のデンジはずっと「普通の生活」への憧れ、パンにジャム塗って食うことに憧れを抱いていたほど貧しく、その日その日を必死でサヴァイヴしてきた。第1話でその憧れを手に入れたデンジと同じような放心感と、第1話を読んだときの私の放心感はきっと近いものがあった。
その後、デンジは上がり続ける「普通」のレベルや、望むものが手に入った時の「こんなもんか……」という失望、望むものをぶち壊された、ぶち壊した絶望などを通し、考えなければならないことが増えすぎた結果、「なんにも考えずに生きてえ」「マキマさんの犬になりてえ」と思うほどの生活になることができた。なってしまった。そりゃそうだ、さんざん死ぬ思いして、せっかく手に入れた「普通の家族」も、あっというまに終わりを迎えてしまったのだ。それも自らの手によってだ。裏ではマキマさんが糸を引いていたが。
このあたりのテーマは、岸辺とクァンシの会話の中でも明示されている。幸せに生きるには無知で馬鹿のまま生きること。「自分」の考えなど持たないほうが幸せだということだ。
最終決戦、デンジはマキマさんに「あんたの理想の世界にクソ映画はあるのかい」と問う。「無い方が良い」と答えるマキマさんに、明確に敵対するデンジ。この成長っぷりだ。完全に「少年漫画の主人公」だ。
直前のコベニちゃんとの会話で、嫌なことがない人生なんてない、という「普通」に気づくのだ。
作中の悪魔には名前がない。○○の悪魔、という概念でしかない。マキマさんも、チェンソーマンと呼んではいるが、デンジくんでもなくチェンソーマンでもなく、「チェンソーの悪魔」にしか興味がないのだ。これは作中でほぼ明示的に示されている。マキマさんは徹底的に、チェンソーマンの中のチェンソーの悪魔という概念にしか興味がないのだ。デンジくんだからではなく、「チェンソーの悪魔の拠り所」としてしか興味がない。典型的な悪女である。えてして悪女は魅力的で、私もコロッと騙された質の人間はあるのだが、とんでもない奴だ。好き。
ここのズレなんだよ、ここのブレなんだよ。チェンソーマンというキャラクターのペルソナをかぶりたいデンジと、チェンソーの悪魔を支配したい(またはチェンソーの悪魔に支配されたい)マキマさん。他人が作った、他人が求めるキャラクターになりたいデンジと、他人を恐れて全てを支配したいマキマさん。クソ映画も映画なりと、ゴミみたいな感情も人生なりと受け入れたデンジと、ゴミみたいな感情になるなら無いほうが良いとしたマキマさん。
これは藤本タツキファン、ファイアパンチファンにとっては「また」なんだよ。また演技と、狂言と、ペルソナの話なんだ。デンジは目的=自らの欲望に関して嘘は付かないし、付けないのだ。自らの欲望に嘘を付くくらいならデンジという個、ゴミみたいな人間であるという個を捨て、民間のヒーローである「チェンソーマン」になる、なれる、なりたいヒーローなのだ。朝からステーキ食いたい、彼女がほしい、「悪いことだとわかってるけど」5人10人ほしい、たくさんセックスしたい、「だから」チェンソーマンになりたい。デンジくんは、チェンソーの悪魔でもなく、デンジでもなく、誰かの望んだチェンソーマンになりたいのだ。だからこの作品は「チェンソーマン」なのだ。
『妹の姉』でも思ったが、この人は自分の「絵の上手さ(下手さ)」にすごいコンプレックスがあるんだよね。
「絵がうまい」って言われたくて言われたくて仕方がない。
まあ、漫画家にはありがちだけど。
でも所詮漫画の絵なんて「伝わるか伝わらないか」みたいなレベルの話でしかないんだけど(絵のクオリティを気にするなら1コマに何か月もかける)、自分が「上手く見られること」が大事らしくて、
そう見えそうな「崩し方」「手の抜き方」も多用してる。
で、未だにそれを消化できてなくて、美大と(またか)、よりもよって京アニ事件とぶつけることで、コンプレックスを解消しようとする漫画だった。
美大生に嫉妬する犯人(要は自分だ)の描写があの体たらくで、美人漫画家の方に自分を重ねて悲劇のヒロインを気取ってるようでは、成功してるとはとても言えないが。
なにより事件を扱う前にしょうもない自分の内面くらい整理しておけよと思ってしまうんだが、なんていうか、それが「天才」と持て囃されるのが現代かあって気持ち。
この作者の藤本タツキ、ファイアパンチ終了時(2018.1.1)にはアニメーターになりたかったんだって。
結局チェンソーマンの連載が始まって漫画家を続けたらしいんだけど、そういう分岐の可能性があった事を半自伝的に描いてるのかなと思った。(近い畑が被害に遭って、それこそ半身が殺された様なショックを受けたのでは、とも。)