はてなキーワード: 豊乳とは
形は期待できないけどばるんばるんの豊乳やぞ
キャサリンフルボディ。
購入してプレイしたことを証明したくてamazonのレビューに投稿したらamazonのレギュレーションに反するとかで掲出されなかった。
日曜日に6時間もかけてせっせと書いたのにのらなくて超ショック。
まあ、性器だの肛門だのセックスだの書いたからか。それともジェンダー書き込みはamazonさんNGなの?
どちらにせよ、書いたのが無駄になるのが嫌なのではてなさん初投稿。
誰か読んでくれることを祈る。
___
エンディングまでのネタバレまで書いているので、ネタバレが嫌な人は読まないでください。
セクシャリティに関して語りますので、性的な用語も書き込むと思いますので、その点もお許しください。
以下の感想は私の主観に基づくもので、全ての同性愛者やトランスジェンダーの方がこのゲームに対してそう思うというものではありません。
ですが、プレイした結果、私はこのゲームのシナリオはとても差別的だと思ったし、私(とプレイを傍らで見ていたパートナー)はアトラスのゲームが大好きな者として、とても悲しく思いました。
レビューでは主にどこが差別的だと感じたかに関して書きますので、シナリオへのレビューが主になります。パズルゲームとしてのレビューをご覧になりたい方は他の方のレビューをご参照ください。ちなみに本編パズルよりラプンツェルのほうが私は好きです。
リンとの恋愛を成就するルートでクリアしました。(初回は恋人ルートだったので、たぶん、リンルートかと思います)
最後まで一緒に見ていたパートナーはとても悲しい思いをしました。主にどこに感じたかというと、リンは同性愛者として描かれていますが、その描かれ方にとても差別的なもの、同性愛者へのステレオタイプな偏見を感じたからです。
詳細を書いていきます。ここからネタバレが沢山書いてあります。
リンは記憶喪失でヴィンセントと出会い、寄る辺がなくヴィンセントに世話になり、親しくなっていき、惹かれあっていきます。
リンは自分のことをワタシと呼称していて、どうやら記憶喪失ではあるものの、自分のセクシャリティに関しては自覚があったようです。なので、自分が同性愛者というか、ワタシというからには自分がトランスジェンダーと認識していたのでしょう。
その上で、ゲーム中盤でリンは男性器がついていることをヴィンセントに目撃されます。
コミカルな描写の上で、リンを拒絶し、リンを押して転倒させてしまう、というシーンがあります。全編コミカルな映画ならまだしも、真面目なトーンのキャサリンのようなドラマなら、欧米ではこんなシーンはもう流せないですよね。日本は遅れてるな、こんなシーンがあるなんて、と思いました(同性愛者は自分のセクシャリティを隠して異性愛者に近づくものだという偏見ですよね。そんな同性愛者は今時いないと思うんだけど)。強い違和感がありました。
ゲームを徐々にすすめるにつれて、これは製作者の偏見で、つまり差別なんじゃないか、と少なくとも私たちカップルはこのシナリオがとても差別的だと思いました。感じたことを書いていきます。まとめる能力がないので、ちょっと支離滅裂かもしれません。その点はお許しください。
リンはその後、ヴィンセントの前から姿を消すのですが、その後電話で「私、受け入れられてると勘違いしちゃってました。ごめんなさい」とヴィンセントに言います。このセリフにすごく違和感を感じました。
エロ目の携帯写真を送ったりして気を引き、明らかな恋愛の眼差しを向けていたにも関わらず、リンはヴィンセントに自分のセクシャリティを語りませんでした。何故だろう。普通、言うよね?なんで言わないの?と疑問に思いました。恋愛なんですから。ヴィンセントが同性愛かどうかなんてわからないんだから。意思の疎通を図ると思うんです。意思疎通しないで恋愛しないでしょ?自分が恋愛対処か相手に確認とるでしょ?リンのしたことはヴィンセントへの不義理であり確かに謝罪するべきかもしれません。けど、そもそもになんで謝罪するようなことになってしまったんでしょう?なんで、自分のセクシャリティを言わなかったんでしょう?
違和感はまだあります。「(男性であることを)受け入れる」っていう言葉が私にはわかりませんでした。私はパートナーに人間としては受け入れてもらってますが、恋愛としては受け入れる入れないではなくて、私とパートナーにとって同性を好きなことは当たり前のことで受け入れる入れないということではないのです。だって両方とも同性が好きなんですから。
そういった、リンのセクシャリティはなんなのか?意思のようなものはなんなのか?が物語ではこの時点では明かされなく、そして最後まで明かされないというか、存在しないように思います。
なので、このあたりから先ほど書いた「同性愛者は自分のセクシャリティを黙っていて、異性愛者を騙して寄ってくる」という作り手側の偏見からも、このゲームでは偏見によって物語がつくられているのではないか?と感じはじめました。
ヴィンセントはその後、リンを選ぶべきだと仲間から促される形でリンを選びますが、その選ぶ理由がとても希薄です。ヴィンセントはダメな自分をリンは受け入れてくれた、と言いますがその程度で異性愛者であった彼がリンとの恋愛を選ぶことはとても抵抗があります。ヴィンセントはバイセクシャルでだったということでしょうか?多くの同性愛者は異性愛者が恋愛をするように自然に同性を愛していると思います。
あと、全編にわたってエロというか性愛が凄く大切かのようにゲームで表現されていますので、ヴィンセントはリンと付き合うということは、リンとセックスをするということかと思います。が、セックスのシーンはリンに限ってのみないように思えました(他のルートであったらごめんなさい)。ヴィンセントのセクシャリティを確認し、リンのセクシャリティを確認し、どうお互いがセックスするのかということがリンのルートにはありません。男性同士のセックスにも多様性があると思うので一概には言えませんが、通常は肛門による性器の接触かと思いますが、ヴィンセントはリンとの行為ができるということなのでしょうか?リンに限っては出来る、ということでしょうか?リンが口内による行為を求めたらヴィンセントはできるということでしょうか?セクシャリティとかセックスってそういうお互いのしたいことの調整だと思うんですが、この流れの恋愛の上でそれがヴィンセントにできるとは思えませんでした。
セックスを題材にしているゲームなのに、リンだけセックスがぽっかりと抜け落ちていて、それが凄く凄く違和感があり、偏見というか、差別を感じました。恋人に関しては初夜のシーンすらあるのに。
描写したり言ったりしたら世の中の多くの人は引くんじゃないか、とか、そういう同性愛の性を描くことがグロテクスと感じているかのような、そんな空気をこのゲームからは強く感じます。リンのセクシャリティを軽んじている感じをとても受けます。そういったことを異性愛と同列に扱えないならばこのゲームのテーマと反するので軽々しく同性愛を扱わないで欲しかったです。
ここから先は同性愛者としての感想というよりは、個人的なことがらなのですが、その後、リンは様々あって人間ではないということが判明します。それが判明したときの私のパートナーは絶叫して泣き出しました。パートナーは親兄弟に同性愛を理解されず、化け物、人間じゃない、宇宙人だ、などと散々と言われてきて、ようやく都会に出てきて自分と同じ同性愛のコミュニティに入り、平穏を取り戻しました。そんな彼女が、このゲームの終盤にリンが宇宙人であることを知ったときの悲しみはとても深かったと思います。大好きなゲーム会社のゲームからすら、同性愛者は人間扱いされないのか、と、泣きました。
そのほかにも、記憶がもどったら一人称がボクになったり、宇宙人のお兄さんたちと再会したさいに、女装をしている理由もお兄さんたちが好きな格好をさせていた、という理由で、それもリンのセクシャリティのなさを感じ、強い違和感を覚えました。
あと、お兄さん宇宙人の容姿がお尻のカタチなのも同性愛をテーマにしているリンルートにおいて悪趣味だなと思いました。
映画の「モールス」のように恋愛対象が性別を超えた性器の存在しない者で、それとの恋愛ということであれば納得できたのですが、そこにセクシャリティが絡むと、全てがチグハグになり、製作者の偏見が全面に感じられて極めて不快に感じられました。
アトラスのゲームはPSPのペルソナ3とvitaのペルソナ4、真女神転生4とファイナルをプレイしたことがあります。ペルソナ3と4は特に、社会に馴染めない悩みを抱えた若者たちにより添い、共に歩んでいく弱い人間によりそうような優しさがあり、とても好きでした。こんな感情をゲームから得られるなんて思っていなかったので、本当にアトラスという会社はすごいゲームを作る会社だと、大好きになりました。プレイステーションの3も4も持っていないため、ペルソナ5はプレイできていませんが、アニメは見ていて、同じような優しさを感じるので、やっぱり好きなだなぁと思い、vitaでこのゲームが出たので買いました。ですが、このゲームにはそういった優しさは一切感じません。同性愛者をただゲームのネタのセンセーションな一部として扱っているような感じと、製作者の偏見が全面に出ていて凄く残念です。
リンのみならず、ゲームの本筋ではないですが、エリカとトビーの関係でのエリカの扱いがトランスジェンダーへの偏見というか不理解を助長する扱いをされていると同様に感じました。
とくにトビーがエリカとのはじめてのベッドインをバーで報告するシーンのセリフで、「経験がないからわからないけど、なんか入れた時に違和感あったんだよね」というようなセリフがありましたが、ゲームを終えて考えてみるとエリカはトランスジェンダーとして劇中では扱われているので、まるでトランプ大統領が話すような最低なトランスジェンダーへの差別ギャグのようだったんだと気づき極めて不快でした。
私の疑問はエリカがトランスジェンダーで性転換を行なっていたとしたら、性転換後の女性器であることを言うでしょうし(セックスに潤滑オイルのようなものが必要なはずなので)また、アナルセックスをするならば男性器はまだついているということでしょうから、ベッドインした段階で気づくでしょうし、性器がついていることが不快で除去したとしても、はじめてのセックスといえど女性器と肛門を間違えるとかありえないし、エリカが男性器がついているなら、豊乳手術をうけて胸を作っているのはどうしてなのかとか、よくわかりません。エリカという人のセクシャリティが極めて不明瞭でかつ、エリカもまた自分のセクシャリティを恋愛相手に共有していないことに強い違和感を覚えますし、エリカへの扱いはこれ以外にも一つ一つが彼女の存在を軽んじていて、オヤジギャグのネタのために存在させているような偏見と不快感を感じました。
私自身はLGBTの権利を声高に主張するようなことはしたことはありません。(そもそもに私はLGBTというくくりも好きじゃないです。)が、同性愛者としてまた一個人として、お金を出して買ってプレイしてとても不快な思いをしたので、その不快を書き込む権利はあるはずだと思って書いていたら長文になってしまいました。読んでいただきありがとうございます。
オッス!オラBBA!
先日、「恋愛映画って面白いの?」的なエントリが上がっていたので主観的独善的に面白い恋愛映画を上げてく。
80年代の「こうだったらかっこいいのに!」を全部詰め込んだ映画。臆面もなくて恥ずかしい。でも素敵。
流れ者の男が誘拐された現在はロックスターとなった元カノを暴走族から奪還する映画。最後に元カノは「天使を見つけられなかっから街へイカス男の子を探しに行こう。」と歌う。曲はかっこいいのに何この歌詞。7月にデジタルリマスター版が映画館で公開されるので興味がある人は見に行ってほしい。
2.「ターミネーター1」
何故か日本人のルースターズの「どう仕様もない恋の歌」がセルフBGMでかかってしまう。
この二人の思考回路や行動原理は全くわからないのだがなぜか惹かれる。
ジョニー・ロットンが全く似てないので彼のファンの人は見ないでほしい。
これはピストルズの映画ではなく、バカで這いつくばっているような男と女の恋愛映画なのだから。
4.「そこのみにて光輝く」
これもただただ暗い、どうしようもない社会で生きている女の恋愛映画。
いいラブシーンだった。
池脇の有名なちっぱいもこの映画では生きてる。あれが豊乳だったら惨め感が希薄になる。
池脇はずーっと映画で活躍してほしい。テレビなんかに降りてこなくていい。
でも、男性は見終わったらグッタリしちゃうから見ないほうがいいよ。
6.「お嬢さん」
原作は「荊の城」。
日本人のお嬢さんを騙して財産を強奪しようとする詐欺の少女と仲間たち。
でも、お嬢さんと少女にはいつしか恋のようなものが芽生え始める。
構成と映像と衣装&舞台装置が秀逸で二人のラブシーンも耽美で涎でる。
お嬢さんはフェロモン系で少女はアイドル系の容姿で配役もバッチリ。
番外編「人斬り」
絶対勝新はエッチうまいはず。画面を通してねちっこさが伝わってくる。
玉緒が離婚しなかったわけだわ~。
性代替的と言うよりは性逃避的なんだよな、と夙に思います。
自分が惹かれるのが、女の子の仲良し集団を中心に描いたマルチヒロイン系の作品に偏向していることは、随分前から薄々気付いていました。
現実ではモテないから仕方なく二次元の女性に行くというのを代替的と称するなら、それとはやや異なる、逃避的なあり方というものがあるでしょう。
現実の恋愛は煩わしく、それでも女性的な何事かに触れたいと思うとき、マルチヒロイン系の作品は大いなる癒しを与えてくれます。(ちなみに、ギャルゲ、恋愛ゲーと言われるものは一度もしたことがありません。)
主要な要素として、次のことが挙げられます。
A.女の子の間での仲良し具合が中心に描かれる。
B.主人公及びその周りの主要登場人物は、未通女であることがほぼ絶対的に保証されている。
C.男性が登場しても、巧妙に疎外される。
D.人物の性的な魅力(あるいは、身体的な魅力)に関する事柄は、あくまで女性から女性への視点で描かれる。
これらの事柄は、所謂「百合」「ソフト百合」と称される作品、あるいは迂遠に「百合的な視点で鑑賞することもできる」と言われる作品に、ほぼ共通しています。
D.に関連して、どのくらい身体的な事柄が出ているかの指標となるような、良く出てくるトピックというものがあります。それは、「貧乳・豊乳をめぐる話」です。
それでは、ケーススタディをば。
性を直裁に連想させる話が割合多いです。しかし、それとバランスを取るかのように禁圧的でもあります。話を出しておいて全力で否定するという図式。
・吉野屋先生 :本人が自覚している豊乳。想像は良くしているが、未通女であることがほぼ明示されている。
・沙英:本人が自覚している貧乳。同じく想像は良くしているが、未通女。
・ヒロ:男女交際をまだ早いと感じていることを理由にお断りする。
榊さん:豊乳。美人であるが、男性から見てどうかという視点はありません。終盤の話からは「豊乳」が榊さんの母性の可能性を暗示しているように見えます。
「百合」の語を人口に膾炙させた作品です。女性から見た女性の魅力をさまざまな形で提示しています。第一巻で祐巳が自分の貧乳についてショボンとする場面があります。単に何らかの欠落の意識ではなく、特別な対象(祥子さま)と自らを比較して、という文脈の上で出ているのがこの作品らしさなのでしょう。
・泉こなた:貧乳。敢えて意味づけを行うとすれば、彼女の「元気ないたずら小僧のような性質」から類推し、(当然、胸は無いという)少年の身体的特質と関連付けられます。オタク少女ということになっていますが、こなたの魅力は大人の世界の囚われが少ないという意味での「自由な子供」としての特質として描かれているのではと思うのです。
・岩崎みなみ:貧乳。どのような意味で岩崎みなみが貧乳を気にしているのかは語られません。しかし、人物像を考えるときには興味深いです。
・徹底的に、(そしておそらくはかなり意図して)身体的な魅力に関する話題は排除されています。人物の纏う雰囲気についての魅力(アリシアが優雅である、等)は、辛うじて身体的な魅力に近い話と言えますが、やはり人物として備え持つ美徳としての文脈の上にあります。「百合」として捉えた場合、極限まで身体性を取り除いた功績は大きいです。
・アリシアの「結婚」が話の終盤と共にもたらされたのは興味深いです。男性の存在は暗示されたのみで、最後まで登場しません。
・一方で、アリシアの結婚、藍華の恋愛は、大変まじめな扱いを受けています。
・作品の性質上、教育的な配慮からか、身体的な魅力についての話はほとんど出てきません。運動ができる、といった「能力」としての身体は存在しますが。
…いろいろと掘り下げ不足ですが、今回はこの辺で。
IDコールはできないようですが、一応、ね。
・id:kashmir108 さま
やっちゃった(恥)。確かにそんな描写がありました。
・id:gadgetman さま
あれま。がっかりです。ということは、表には出ていない生活の基盤があって、その一部だけを選択的に表現した世界、ということになるのでしょうか。あるいは都市伝説とすれば、背景となっている生活がもっといろいろあるのではないかと読者に思わせるに足る「リアルさ」がある、ということなのでしょう。
・id:junkMA さま
ちょっと偏った言葉を使ってみたかったのです。
・id:kuippa さま
「つとに」ですよー。
・id:wideangle さま
会話の中で、エキセントリックな反応をしている箇所があるのです。(Wikipedia参照。)
・id:wideangle さま
うお!?何やら隠微な雰囲気を醸し出している作品ですね。チェックしておきます。