はてなキーワード: 脚気とは
数日前に腰を痛めた。椎間板ヘルニアだった。
医師のコメントやアドバイスなど非常に参考になるものが多かったので書き留めておきたい。実名を明かしているブログに書いても良かったが、将来思わぬところで問題になる危険性も少しあるため、増田に書く。リアルの知り合いが読んだら身バレすると考えられるが、そこは気にしない。
やや長文になるが、同業の方々にとって良い情報源となれば幸いである。
長文を読むのが面倒だと言う方は、最後の方にある「医師からのコメントとアドバイス」の項だけ見て頂ければ十分かと思われる。その項までの文章は、発症から診察に至るまでの時系列の振り返りである。
朝起きて、少しIngress活動しながら会社に行き、仕事をする。
退社すると、夕食を摂ってから2〜3時間程度のIngress活動の後、帰宅。
週末は自宅でコードを書く。
自宅でも会社でも、腰痛予防のために姿勢を頻繁に変えるようにしていた。その成果なのか、今まで腰痛に悩まされたことは一度も無かった。
先週末の土曜日の午前から昼にかけて、自宅でコードを書く作業を2時間程度行った。かなり集中していたため、途中で歩き回ることを全くしなかった。作業が一区切りついて、昼食の調達のために椅子から立ち上がった。その瞬間、背中に激痛が走った。
この時点では腰痛という認識は全く無く、ただ背中の下の方が痛かった。深く息を吸ったり咳をしたりすると背中の痛みが増した。痛かったのは確かだが、倒れ込んだりするほどのものではなかった。
土曜日の夕方、友人に会うために外出した。背中は痛かったが、ゆっくりと歩けば十分にIngress活動できる程度の痛みだった。ただし下を向くのは辛かった。
日曜日の朝、痛みは増していた。体温を測ったところ微熱があったことと、深い呼吸ができないという症状が続いていたことから、土曜日の朝からの症状が風邪による関節痛の一種かもしれないと思うようになっていた。また、トイレで自分の尻を拭うのがギリギリになっていた。身体を横にひねるという行動に制限が出始めていたのだ。
日曜日の夜、布団に入ると寝返りを打つのが辛かった。このときになって、この痛みの原因は風邪ではないと思うようになり、月曜日は病院に行こうと思うに至る。次に取る行動は、何科を受診すれば良いのか?の情報を得ることであったが、これは困難を極めた。そもそも腰痛ではなくて背中の痛みであるため、ネットで情報を検索する際のキーワードも適切なものが思い浮かばない。途中で「ぎっくり背中」というキーワードにも遭遇したりしたが、結局、何科を受診すれば良いのかわからなかった。
月曜日の朝、何科を受診すれば良いのかわからないという状況だったため、いっそのこと無理して出社してしまえ!!という考えに至った。ところが、普段通り(=ギリギリ)の時刻に出発したところ、普段通りの速度で歩行できなかったため、出社しても遅刻だという状況に陥った。そこでようやく「何科でも良いから受診しよう」と考えるようになり、自宅へ引き返した。
このとき、靴下を履いたり脱いだりするのに数分かかるほどに痛みが進んでいた。背中を曲げることが難しくなっていたのである。
適当に見ていた知恵袋では整形外科を受診すると良いと書いてあったので、「知恵袋かー」と思いながらも、近所の整形外科を探し始めた。
近所の整形外科を検索したところ、普段のIngressの徒歩行動範囲内に4件存在することがわかった。
この病院検索サイト、検索結果から公式のWebサイトへのリンクが一切張られていないため、大変使いにくかった。病院のリストくらい行政が提供してくれよとも少し考えた。
4件の検索結果のうち2件は紹介状が必要であり、あと1件はWebサイトが1990年代の構造であった。最後の1件は紹介状無しでの外来受付がありWebサイトもここ数年に作られた感じがしたため、そちらへ向かった。徒歩で。普段のIngress活動範囲とは言え、かなり辛かった。
病院の窓口に到着して初診である旨を伝えると、お姉様から「どんな症状ですか」と訊かれた。「背中が痛いです」と返すと、「じゃあ整形外科ですね。」と言われた。人生で初めて、知恵袋を信じて良かったと思った瞬間である。
1時間ほどの待ち時間のあと、医師の診察を受けた。症状を一通り伝えると、次のような検査を受けた。
2回目の診察の時にきいたのだが、これらの足の機能テストは、神経がやられているかどうかを判断するためのもののようである。
レントゲン撮影の結果、椎骨(ついこつ:背骨の構成要素)の間隔が1カ所だけおかしい場所があって、そこで椎間板ヘルニアの疑いがあるとのことだった。
MRIによる精密検査を勧められたので、検査を受けた。検査結果は水曜日に出るとのことだった。
その場では、痛み止めとコルセットを処方してもらい、生活する上で気をつけること(コルセットの装着法、痛くなったら深呼吸して落ち着きなさい、など)を聞いてから帰った。
水曜日、かなり回復してきて、コルセットつきであれば可能となる行動が増えて来たため、午前中だけ会社に行き、昼から病院へ行った。
MRIでの検査の結果、やはり椎間板ヘルニアだったということを告げられた。
症状は軽くなっていたので軽い気持ちで診断結果を聞くことができたが、こうやって時系列で振り返ると、やはり重い話だよなぁと思う。
<<注意>> ここで紹介している医師のコメントやアドバイスは…
というものであるため、腰痛などで悩んでいる人は自ら医師に相談することが望まれる。
椎間板ヘルニアについて
仕事について
「歳相応」という世の中の空気によってパターン化された年代のモデルが崩壊。
好きに生きられるようになった結果、若いころのママで居る人が増えて、コミュニケーション能力が必須になった。
粗雑な要約からも分かる通り、コミュニケーション能力が必要とされる機会の増大の部分がちょっと弱い印象。
世代間コミュニケーションのような、世代を自覚せよ、という結局世代という枠に納めないとイカンのかいな、という感じ。
読んで真っ先に思い出したのはキムタク。
ただ、若い趣味が続けられる、若いままでいられるというのは、別に悪いことじゃないと思う。
それが出来ない人間が脱落したり、それでいる為にコミュニケーション能力が必要とされてキツくなるっていうのは、
脚気を思い出した。江戸患い。白米の食い過ぎで発症してた病気。蕎麦食え。
昭和の頃は良かったなあ、からの、若作り・晩婚化・孤独死の三段落ちを未成熟で繋げて原因に設定する感じ。
思い出は美化されるような気がするし、増田にもあったけど、空気感で「歳相応」に矯正されてた頃の弊害は意図的にスルーしてる印象。
議論が発散するしストーリーから外れるからなんだろうけど、「歳相応」を強制されるってことは、外れた人には辛いワケで。
出戻り、行き遅れ、独身が昇進できない、夫婦は子供を作るもの、若くないんだから。
年金支給開始も遅くなるぐらいみんな元気に長生きになってるわりに、区切りは付けたいというところに違和感があった。
なんというか、ある特定の時代へのノスタルジーが透けて見えるというか。
誰も歳を取らなくなったように見えるから、若いままで居なければっていう強迫観念の一部の患者向けの為の処方箋
病気自慢を始めちゃうようなオッサンになるなら、あんまり気にしなくても良さそう。
命短し恋せよ乙女みたいな、今年の夏は今年だけみたいな、人生は後戻りの出来ない廊下を歩いてる感じを意識するのは難しいんじゃないかな。
ぶっちゃけ、乳児期とか老年期とか、人によって開始も終わりも違うわけじゃん。
富裕層と貧困層みたいな、カネの差は判りやすいけど、身体にも差があるわけじゃん。
ブスも美人も、ガリもアスリートも、ある程度は持って生まれたモノってのがあって、
絶対的な数字である年齢を基準にしなきゃ不公平だっていうそういう絶望みたいなものがなんとなーく見えなくもない。
成長期、安定期、衰退期、移譲期、みたいな年齢から切り離された言葉で自分の状況を語る必要があって、
自分は安定期を長くするために、関節に負担をかけない運動を続けようかなー、みたいな。
なんつーか贅沢だよね。
ただ、脚気にせよ成人習慣病にせよ、社会構造が変わったことで生まれた病気てのには対処しなくちゃいかんだろ、というのは判る。
話題として読むには面白いんだけど、コラムというか雑談というか、何かを期待して読むのは違うかもしれない。
正直なところ昭和な頃って、成熟してたんじゃなくて、成熟してる、ということにしてただけな気がするんだよね。
未成熟でも成熟として扱ってもらえた時代、というか。そう振る舞うことを求められて、未成熟部分は見えないことにされた、みたいな。
全体として、ちょっと本でも読もうかな、という時に気軽に読める新書。
「老い」について考えたいなら、モーニングKCの『きのう何食べた?』(よしながふみの漫画)を読んだ方がタメになる気がする。
料理美味しそうだしね。
久々に胸糞悪いツイートを見てしまった。自分が検索したせいだけど。
別にご祖父を尊敬されるのは自由ですが(私も私の祖父のことは好きだし)、それが先の戦争を肯定する理由にしていいとは思わないわ。
自分の祖父の軍歴を追っていって、この人華僑殺したのかなと思ったけど、直接聞けない。怖い。
橋落とされてバイク部隊がどんがらと川に落ちていった話や敵と銃撃戦になった時に横にいた人が撃たれて死んだ話は聞いたけど。
ニューギニア戦線の動画を見て、米軍のふくよかさとは対象的なガリガリの日本軍とか、ダメダメな感じが見てられなかったし。
病院船装ってとっ捕まった人の回顧録を読んでも、「ほぼ全員脚気に罹っていたが、脚気は病気の内に入らなかった。敵とはいえちゃんと診察してくれて嬉しかった(うろ覚え)」ってあって、ほんとにもう負けるしか無いし、負けた戦は肯定してはいかんのだなあと思っている。
重量あたりのカロリーだと、油脂はすごく優れているけど、土地あたりで考えると穀物にはかなわないと思う。
一見脂っぽく、豪勢にみえる肉食よりも、だれもが米を食べる日本のほうが自然環境の恵まれ方だとずっと上。
米がとれない地域では小麦をつくり、小麦がとれない地域では大麦や粟や稗や蕎麦、ヨーロッパならライ麦、それすら栽培できないところでは、牧草地で牛や羊を飼って食べていたはず。
貧しいから麦混ぜ飯とか、あれは半分は嘘みたいなもんだ。
そんな言い方をすると米はちょっとしか採れない贅沢な作物みたいだが、条件さえ整えば収量なら圧倒的に米。
一粒から何倍の粒を収穫できるかだと、穂によっては1000倍、田んぼ全体でも100倍は多少のヘマしても下回らない。
小麦なんてアメリカだって20~25倍、ヨーロッパだと20倍を切る。
どんなに働けど暮らしなんか楽になんねぇよ。
日本が貧しかったと言ったって、貧しさのレベルがぜんぜん違う。
ヨーロッパなんか疫病で人口が何割減ったとか、飢えで人口が何割減ったとか、一割二割当たり前にバッタバッタ死んでる。
日本人がちょっとの塩辛いもので白米ばかり食べて、脚気になった江戸時代、ほかの国は金持ち以外みんな飢えてた。
アメリカ大陸という広く肥沃な土地と、トウモロコシとジャガイモの発見、奴隷労働がなければ、ヨーロッパはずっと腹ペコだった。
穀物で腹を満たせないから、山で鳥をとったり、兎をとったりして食べてた。
食用油脂が高価だったのもあるけれども、脂っぽいもの(肉類、油脂類)を食べなかったのは、世界の平均からするとむしろ恵まれてたと言えるんじゃなかろうか。
河北省の京漢線・元氏駅の土間で、私はアンペラの上に仰向けに倒れていた。銃一挺を抱くように持ち、外套を頭から被って、眼を瞑っていた。
この何日か、衝心性の脚気の発作が烈しくなったため、今朝、雪の中を南下、行軍して行く部隊と別れて、この元氏駅で北上して行く列車を待っている。列車に石家庄駅まで運んで貰い、そこで下車、最近設けられたと聞く石家庄野戦病院に入院する。
──これが自分が選んだ自分を生かす、ただ一つの道であった。これ以外、生き得る方法はなさそうであった。部隊の軍医も、看護兵も、また同じ意見であった。
私が仰向けに倒れている元氏駅には、中年の歩兵上等兵が駅長として、これまた一人、アンペラの上に胡坐をかいたり、そこらを歩き廻ったりしている。駅長と言っても、他に駅員が居るわけではなく、ただ一人、駅に配されている。
一日に三、四本入って来る軍用列車を迎え、送り、それをどこかに、電話で連絡するだけの仕事を受持っているようであった。
夕方、彼は病兵の私のために夕食の支度をして、飯盒と罐詰を持って来てくれた。その時、二人は初めて、壊れかかった石炭ストーブに手をかざしながら、言葉らしい言葉を交した。
──夜、七時過ぎには、一応列車は来ないことになっているので、七時になると、俺は俺で、そこらの壕に入る。壕の方が、幾らか寒さは防げる。お前さんも、好きなようにしてくれ。このまま、ここに居たければ、ここに居ればいい。
──ただ、どこへ行ってもいいが、臨時の列車が来ないものでもない。臨時であろうと、なかろうと、上りが来たら、お前さんは、それに乗ることだ。おとなしくしていたら乗れない。しがみついてでも、乗っちまうことだ。
──そうしないで、こんな所でうろうろして居てみろ。お前さんの場合は、いいところ三日で、まあ、お陀仏だな。
そんなことを喋っている時、遠くに銃声が聞えた。
──ああいうのは、大丈夫!毎日、今頃になると、撃ってくる!撃たしておけばいい。近寄っては来ない。だが、すっかり昏れてしまうまでは、線路の向うには行かない方がいい!
駅長は言った。
いつも、お前さんはここに一人か、と私が説くと、
──ここに来て、まだ五日ほどだ。咋日までは、自分の隊から離れちまったのが、四、五人、ごろごろしていたが、それぞれ、みんな、昨日のうちに、列車で、前線の己が部隊へと向った。すると、替って、今日はお前さんがやって来た。病人でも、まあ、居ないよりはましだ。
実際に、病人であろうと、なかろうと、居ないよりはましであるに違いない。こんな大平原のただ中の、ちっぽけな駅に、一人で置かれたら、気でも狂う以外、どう仕様もないだろうと思う。
結局、夕近くなると、二人は駅の小さい建物から出て、その横手に掘られてある帯状の、細長い塚の中に入った。かなり深く掘られであるので、待合室に居るより、寒さは多少ましだった。
それに、列車が来れば、すぐその音が響いてくるので、そこから直かに、ホームに上って行けばよかった。
二人は、それぞれ、壕の中に己が寝所を造り、身を横たえて、外套をかぶった。いつか、雪はやんでいる。どれだけの時間が経ったか、知らない。
──おい、起きろ。
その声で眼を覚した。
──夕焼がきれいだ!こんな夕焼は、めったに見られるものではない。こんな所に、ばら撒かれていればこそ、こうしたものにも、お目にかかれるというものだ。まるで、天の火事だ!
私は黙って、夕焼を見ていた。駅長が騒ぐだけあって、西の空は真赤に焼けただれ、それが大きく拡がっていた。確かに、今までに見たことのない、壮大な天の火災であった。今朝、別れた部隊は、どこで、この天空の大火災を見ているのであろうか、と思った。
それから、また眠った。
その夜、十一時、北上する臨時の貨物列車が入って来たので、壕を飛び出した。いつからか、また雪が降っている。待ちに待った列車に乗り込もうとしたが、容易なことでは乗り込めなかった。雪をかぶった無蓋貨車で、どの車輌にも、やたらに梱包が積み上げられてあり、何人かの応援でもない限り、そこに身を移すことはできなかった。
駅長はホームを駈け廻り、私を乗り込ませる車輌を物色し、自分も半ば、それに乗り込むようにして、私を引き上げたり、押し上げたりして、どうにか私を、車輌の一つに乗り込ませてくれた。
列車が動き出してから、私は世話になった駅長の名前も、所属している部隊名も聞いていないことに気付いた。気付いた時は、もう遅かった。駅長は、長い、これほど長いとは思わなかった、長いホームに一人だけ立って、手を振っていた。“孤影”とは、この時の、彼のために造られた詞であった。私もホームに向って、手を振ったが、私が手を振るのが、駅長の眼に入ったか、どうか。
私は、私の八十年の生涯で、“別れ”なるものを一つ選ぶとすると、昭和十二年十一月の、この元氏駅に於ける、深夜の駅長との別れということになる。私はある時、ある所で、ある人と別れたのである。本当に別れと言える別れを、異国の小さい雪の駅で経験したのである。
横だけど、すごいジェネレーションギャップだ!
「どんな野菜をどこでどう買ってきて、どう料理して、どう食べるのがもっともよいバランスなのか」
「栄養が不足した場合にどういう現象が発生するか」
実際にメニュー考えて、買い物から各自やらせる(グループ単位)だった。
卵料理作るのに、ウッカリ温泉卵とか買ってきたヤツがいたりするのはお約束で、
メニューが強制的に変更とか。
飯炊けなくておかずのみとか。
5,6人のグループでやってたから、勉強・運動以外のバイタリティやリーダーシップを問われた授業だったなぁ。
増田はいくつくらいなんだ?
なんか常識だって思ってる事をやらない・知らないまま大きくなってる世代の目安になる気がするわー
わかりやすくおいしそうなものばかり食べてても健康は維持できないんだよね。
白米ばかり食べていたら脚気になりました、的な。
ちょっと違うかな。
旦那さんは、下にスレがついている人のように、
文字通り袋麺とパンだけで大学4年過ごしたが、問題は「それで一切体をこわさなかった」ことでした。
「高度に体の丈夫な偏食家は、味音痴と見分けがつかない」←SF風格言にしてみた。
ちなみに彼は食物アレルギーではありません(嫌いなものを刻みこんだりして食べさせても食欲が減るだけでそれ以上の障害がおこらないことは確認済み)
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食べられる野菜:芋類、ほうれん草、カボチャ、薬味(ネギ、わさび、大根下ろし、パセリ、いずれも常識的な量のみ。)、しめじ、えのき、わかめ、にら、タケノコ、レタス、トマト、良く火の通ったタマネギ(少量)のみ。キャベツはきざんでお好み焼きに入ってたら食べるが、トンカツの付け合わせは絶対食べない(衣についたらはしで1つ1つはがす)。豚汁の豚と汁だけ食べる(それが豚汁だから)。白菜はきざんで餃子に入っていたら食べるが、鍋物では注意深く避ける。青椒牛肉絲からピーマンを残す。私は季節の野菜(今ならオクラやモロヘイヤ、きゅうり)を食べるよういわれて育ってきたので耐えられない。鍋物で肉だけ食べられるのも辛い。
食べられる魚介:ほっけのひもの、あじのひもの、刺身のまぐろ、刺身のはまち、ぶり、鮭、いくら。(その他の魚介はたこ焼きからたこをほじくりだして除くレベルで避ける)。最近、煮物の白身魚も箸をつけるようになった。
食べられる肉:豚のうすぎり、牛のうすぎり、挽き肉。もも肉、チキン胸、豚の角煮はなぜか嫌い。ユーリンチーは食べる。卵OK。
特に嫌いなもの:キュウリ。きゅうりがのっかっているせいで、お寿司のいくら軍艦がたべられない場合がある。彼にとっては
「嫌いなものを避けたい>>超えられない壁>>好きなものへの食欲」。
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葉物野菜足りなくない??← 足りないです。脚気にならないのが不思議。
好きな食べものがなければ??← ケンカになるか、だまって食べずに残し、カロリー補給のため冷蔵庫を漁るか、米+ふりかけに走るか。
どう対処したか??← 結婚当初はあちらの言うがままに一品料理(牛丼、トンカツ、カレー、餃子、麻婆豆腐、納豆ご飯など)をつくっていました(好きな料理なら調理もしてくれてました。それをもって「良い旦那さん」と自称していた)が、こっちがなにかが欠乏してきて死にそうな気分になったので、ここ3年は宅配メニュー2社のカタログ(日に10コース)からメインくらい食べられるものを選ばせています。それでも、1人でオトナ2人分の野菜を食べきらなければならないので私は主食を減らして胃をあける感じ。おかげさまで少々痩せました。
10年やったらどうなった?←ここ数年、肝臓γ値だの中性脂肪だの尿路結石症だのを順繰りにフラグたててはあわてて運動+食餌でなんとか下げているようです。私はもともとアレルギーで、彼より体が弱かったのでいろいろ勉強中。今は同じくらいの健康度かな。そのうち逆転するんじゃないかとどきどき。介護とかやりたくないなあ。
以上