はてなキーワード: 怠惰とは
いわゆる本物のソシャゲ然とした札束カードバトル的なゲームでもないモバイルゲームを未だにソシャゲソシャゲと呼ぶ人は知能に問題があるレベルで認識のアップデートに関して怠惰だと思う。
ガチャがあればソシャゲだと思ってそう。その調子だと2000年代に出てきた基本無料PCオンラインゲームも遡ってソシャゲと呼ぶのか?
ソシャゲをソシャゲたらしめているのはゲームを開発した自社のソーシャルプラットフォーム、つまりモバゲーグリーアメーバみたいなものと結びついていることなんだよ。
めんどくさいことはギリギリまで後回しにしてしまう俺でもさすがにそろそろかなと重い腰を上げてワクチン接種の手続きをしてみたら、接種日も時間も選び放題だし、会場もガラガラ
たぶん、射つ意思がある人はとっくに接種してるんだろう
だとすると、俺みたいな接種するつもりはあるんだけど怠惰な性格でなかなか予約手続きする気にならんみたいな人の接種率を上げるために予約不要の飛び込みで接種できるように出来んもんだろうか
こういう、怠惰なひとは自発的に日時と会場を予約してくださいよりも、ある程度限定された日付に指定された場所に予約せずに行くだけで接種できる。みたいなほうが腰が上がりやすい気がする
設計職を辞めた。
無職になってからはずっと、よく言えばのんびり、悪く言えば怠惰に過ごしている。
失礼なのは承知だが、何もスキルが無くてコミュ力も無いから事務職を考えている。
それでも、前職の内容から自動的に設計職が「おすすめ」に表示される。
今後何十年のことを考えると……設計職に復帰した方がいいかもしれない。
資格とって、手に職つけて。
「おすすめ」の企業名で検索をかけ、在職者のコメントをチェックしてみる。
「忙しいがやりがいがある」「残業は多いがその分稼げる」「自ら学ぶ姿勢が必要」「女性でも仕事についていける体力があればやっていける」「やる気のない人は脱落する」
前職の記憶が蘇る。
いつもいつも締切に追われて、ただでさえ厳しいスケジュールなのに分からないことが多くてなかなか進まず、質問すれば面倒くさがれ、一つ一つ調べれば時間が足りず、虚弱体質故に体調を崩しやすく、精神的にも体力的にも強い女達に囲まれて肩身が狭くて、精神的にすり減って仕事のペースが落ちてしまったところで「やる気がない」と蔑まれて。
設計は好きなはずだった。
でももう、本屋で建築雑誌を手に取っても、何も感じるものがない。
ずっとその価値観で生きてきた。
①頑張ったら成果が頑張った本人にのみ返るという資本主義の基礎構造を 共産主義の下では平等に振り分けるに変換する方法がなかった
②努力の必要がないなら怠惰でもだれかの生産で生きていけるという構造を強制的に労働させるという方法以外には方法がなかった
ソ連は怠惰にしとけば凍って死ぬし内戦でも死ぬ 中国は政府さまが殺しに来る このトリガーが最低限の労働に従事せざるを得ない強制力になってたおかげで共産主義でいられた
実際国家として運営する上で福祉が必要になると中国みたいに力圧しで解決できないなら崩壊せざるを得なくなる
統合して経済共栄圏をつくるより資源採掘国家とそのほかの国で連合を組んでいたほうがよくなる
①がんばりの評価を実質ゼロの価値と交換できるシステムの確立が必要
とりあえず国家に貢献する魅力みたいなものがないと個人の努力が経済的に評価されないとどうしようもないのをなんとかできれば共産主義とか社会主義もやっていけると思う
象徴をつくってそこから褒賞とか勲章とか、栄誉がもらえるということに精神的充足で貢献の努力を価値づけることができたらいけるんじゃない?
資本主義の中にもそういう形態で搾取してる共産的な組織は内包されてると思うけど全体を統合する価値が存在しないから国とか主義としては単独では成り立ちにくいんじゃないか
②全体の稼働サイクルの効率化
実質自転車操業的になるので働けない人が過半数になるとかすると社会が機能しなくなる
強制的に働かせるとか強制的に労働力を生産させる仕組みを国家単位でしないといけなくなる
そのへんのモラリティと国家として国際社会内で生存していくために科学技術やら文化なんかが発展する必要がある
国内生産は全員農業やればいいだけだろうけど外国の生産を購入したりするのには現物以上の量と期間を交換価値に持つ必要があるつまり貨幣
国際的な経済成長と国内生産を成り立たせるのに仕事を自由に選んだり結婚を自由にさせたりできない
仕事と家庭を強制させるには移動に制限をかければできるので結果身分が固定的になりがちになる
別によその国が階級制とかカースト制度とか実施してても原油産出国とか激安人件費国なら実質問題ないが国際関係を構築するとなると外交的にきれるカードが激減してしまう
好条件の取引でいられるから放置するけれども公平だとか相手が有利で自分が不利な条件で国際取引する国は軍事介入したりとかになる
貨幣流通や貿易で商品の取り扱いが一定ある中東や紛争地域には軍事介入するけど中国の暴虐的な生産性には近隣諸国との紛争にも知らん顔だ
資本主義が勝手に経済成長している国際関係の中にあって共産主義で閉塞的に交換可能な生産性を埋めるのは巨大な支配領域があるから
その辺何とか出来たら共産主義もいけるんじゃない?
大体成功している人って18歳くらいに才能発掘されて22歳くらいまでには業界の素地を身に着けて、22歳から27歳まではノリにのって
20年後30年後に「あの頃の○〇は凄かったよねぇ」と言われながら、その時には安泰した地位の中で
その若い時より十分稼いでる
そんなイメージなんだけど
俺は4年間何やってきたんだろ
自分のスキルで食っていきたいと言いつつ実家の脛を齧って3年、大したスキルも身につかず、最近新しい事を始めたが一ヵ月でギリギリ運よく10万稼いだぐらい
自分のスキルだけで生きていけるようになってから、自分のやりたいことに挑戦するはずが
もう27歳じゃ手遅れなんですよ
有名な俳優もイラストレーターも、27歳って言ったら有名作品にでて自分の人生の絶頂を飾っている時なのに
求人欄の27歳以下ってなんですか28歳になったらアウトなんでしょうか
その間に何が出来るんですか
「共産主義国では、勤勉な労働者にも同じ給料が支払われるので労働意欲が低くなる」というのは誤解である
■ 勤勉な労働者が成果をあげる
→ 怠惰な労働者が嫉妬して密告 → 勤勉な労働者が粛清される → 経済が停滞する
■ 優秀な労働者が成果をあげる
ある自殺者の親の文章が目に入った。息子がうつ病だなんて全然知らなかった、助けを求めてほしかった、話を聞いてあげたかった、という。胸が締め付けられる一方で、親にそんなこと言えるわけがない、と思う自分がいた。
私は小学校低学年くらいから、親に悩みを打ち明けることができなくなった。きっかけをよく覚えている。学校でいじわるをされた、という話をしたら、親が泣き出したのだ。ギョッとした。いじわるをされたことでどれくらい傷ついたのかは覚えていない。親が泣いたことの方がインパクトが強かった。親が私の悲しみを共有してくれたというよりは、私がそれを伝えたことが親を傷つけた、というように感じられた。この時の心の冷える感じが、私は未だにおそろしいのだ。
この嫌な感じを分解してみると、一つには親が私のことを完全に自分自身のように思っているらしい、という恐怖がある。自分のことのように悲しんでくれる、と言えば聞こえはいいけれど、私の悲しみや怒りを受け止めてほしいような時に、相手の方が全く同じように傷ついてしまったら困るのである。そんな人危なくて頼れないし、だいたい不気味である。
もう一つには、そうやって親が自分のように思っている私、というのが、全然私自身じゃない、という気持ち悪さだ。今日いじわるをされた、と言っただけで、詳しく状況を説明したり、私がどんな気持ちになったかを言う前に親は泣き出した。そんな反応は私自身の事実とは何も関係がない。この人はこの人の中で勝手に作り上げた私について泣いている、そう思うとこっちは悲しいというより、引く。
こういう体験を一度すると、自分の悩みを親に伝えても何にもいいことがない、と学んでしまう。感情のケアをしてもらえるわけでも、建設的な意見をもらえるわけでもなく、私が親をただ傷つけた、という痛みだけが残るのだから。誇張じゃなく、親のからだに刃物を突き立てるのと同じくらい、タブーに感じる。
それから20年以上、私は親に悩みを打ち明けなかった。表面的な話はするけれど、何を考えてるのかは絶対に知らせない。いきなり結論だけ報告することで、私はあなたとは別の個体だからね、とアピールし続ける。そういうやり方で通してきた。
私も20になってからずっとうつ病だし、しょっちゅう死にたいと思っているけれど、親にそんなことを言ったことは一度もない。元気なふりしかしてない。元気じゃない時は怠惰なふりをしている。親の心を傷つけるのが怖いからだ。
いきなり死なれるショックよりは、死にたいと打ち明けられるショックの方が軽いことくらいわかっている。わかっていても、打ち明けるよりは死ぬ方が簡単というか、現実的なように思える。だって自分が死んだ後のことなんか想像しづらい。自分が死んだことによる親の悲しみは私に返ってこないけど、死にたいって打ち明けた場合のそれは返ってくる。そっちの方が現実的にしんどい。
それでも、自分が死んだことによる親の悲しみを想像して今の私に返ってくるしんどさで、死なないことを今は選べている。でもうつが重くなって視界が狭まってきたらその想像もきっとうまくできなくなるんだろう。そうなったら死んじゃうかもしれない。
子どもがなんのサインもなく逝ってしまった親はかわいそうだし、相談してほしかったと思うのは当たり前だと思う。でもね、小さい頃からそれができなくなるように育てられたんだよ。いざ死にたくなるほど追い詰められてからそれまでと違うことなんかできないんだよ。
私は死んでないし、親も死んでない。でもここから関係が変わって、もっと心を開いて関われるようになる日が来るとはとても思えないし、そうなってるのを想像することもできないんだよな。
どうせ死ぬんだからと、好きなだけ、食べて、飲んで、怠惰な生活を送ってきた。
昨日、軽めの心筋症で病院に運ばれた。
独り身だし、死ぬことなんか怖くないと思ってたけど、いざ自分が死を予感させる事態に直面すると、死ぬのがむちゃくちゃ怖くなった。
身体が動かず、好きなものも食べられず、そんな人生送るくらいなら、首を吊ってさっさと人生を終わらせた方がマシだ!
なんて、周囲にクダを巻いてたけど、いざ自分が死に直面すると、これほど怖くなるとは思わなかった。
https://select.mamastar.jp/547920
価値観のちがいで結論づけられるのは好きな映画とか本とか音楽とかだよ。
生活の一部であり大部分を低レベルなまま改善しようとしない、かつ、
努力なんてもの必要なしにメシなんて旨くなるんだから、それすらしない人間が愛想つかされるのは当然。