ある自殺者の親の文章が目に入った。息子がうつ病だなんて全然知らなかった、助けを求めてほしかった、話を聞いてあげたかった、という。胸が締め付けられる一方で、親にそんなこと言えるわけがない、と思う自分がいた。
私は小学校低学年くらいから、親に悩みを打ち明けることができなくなった。きっかけをよく覚えている。学校でいじわるをされた、という話をしたら、親が泣き出したのだ。ギョッとした。いじわるをされたことでどれくらい傷ついたのかは覚えていない。親が泣いたことの方がインパクトが強かった。親が私の悲しみを共有してくれたというよりは、私がそれを伝えたことが親を傷つけた、というように感じられた。この時の心の冷える感じが、私は未だにおそろしいのだ。
この嫌な感じを分解してみると、一つには親が私のことを完全に自分自身のように思っているらしい、という恐怖がある。自分のことのように悲しんでくれる、と言えば聞こえはいいけれど、私の悲しみや怒りを受け止めてほしいような時に、相手の方が全く同じように傷ついてしまったら困るのである。そんな人危なくて頼れないし、だいたい不気味である。
もう一つには、そうやって親が自分のように思っている私、というのが、全然私自身じゃない、という気持ち悪さだ。今日いじわるをされた、と言っただけで、詳しく状況を説明したり、私がどんな気持ちになったかを言う前に親は泣き出した。そんな反応は私自身の事実とは何も関係がない。この人はこの人の中で勝手に作り上げた私について泣いている、そう思うとこっちは悲しいというより、引く。
こういう体験を一度すると、自分の悩みを親に伝えても何にもいいことがない、と学んでしまう。感情のケアをしてもらえるわけでも、建設的な意見をもらえるわけでもなく、私が親をただ傷つけた、という痛みだけが残るのだから。誇張じゃなく、親のからだに刃物を突き立てるのと同じくらい、タブーに感じる。
それから20年以上、私は親に悩みを打ち明けなかった。表面的な話はするけれど、何を考えてるのかは絶対に知らせない。いきなり結論だけ報告することで、私はあなたとは別の個体だからね、とアピールし続ける。そういうやり方で通してきた。
私も20になってからずっとうつ病だし、しょっちゅう死にたいと思っているけれど、親にそんなことを言ったことは一度もない。元気なふりしかしてない。元気じゃない時は怠惰なふりをしている。親の心を傷つけるのが怖いからだ。
いきなり死なれるショックよりは、死にたいと打ち明けられるショックの方が軽いことくらいわかっている。わかっていても、打ち明けるよりは死ぬ方が簡単というか、現実的なように思える。だって自分が死んだ後のことなんか想像しづらい。自分が死んだことによる親の悲しみは私に返ってこないけど、死にたいって打ち明けた場合のそれは返ってくる。そっちの方が現実的にしんどい。
それでも、自分が死んだことによる親の悲しみを想像して今の私に返ってくるしんどさで、死なないことを今は選べている。でもうつが重くなって視界が狭まってきたらその想像もきっとうまくできなくなるんだろう。そうなったら死んじゃうかもしれない。
子どもがなんのサインもなく逝ってしまった親はかわいそうだし、相談してほしかったと思うのは当たり前だと思う。でもね、小さい頃からそれができなくなるように育てられたんだよ。いざ死にたくなるほど追い詰められてからそれまでと違うことなんかできないんだよ。
私は死んでないし、親も死んでない。でもここから関係が変わって、もっと心を開いて関われるようになる日が来るとはとても思えないし、そうなってるのを想像することもできないんだよな。
読む気力ないけど頑張れ
いい考察だとおもって読んでたが、結論としては 「あー、またひとのせいにしてるー」