はてなキーワード: 価値とは
ワイは他人が困ってることを解決してあげられるかどうかで人間の価値が決まると思ってるわ
大抵の困りごとはその人がやれない・できない・やりたくないことであり、それを代行してやるからこそ対価に金銭を得られるんで
やりたくないことを頑張ってやって利益を得ると言えばまあそのとおりかもしれない
とりあえず貸金やホストみてーな新たな困り事を生みながら金を稼ぐ奴らは人間としての価値は底辺だと思うやで
産み落とされた側も産んでほしゅうなかった問題もあるしなあ
無理して生まんでええで感あるわ
当時、性欲は無料のインターネットポルノ(AVや同人誌の違法転載等)で充足できて、家事は実家暮らしで母親がやるから、
妻に求めるものが最初から「完全無料」で調達できており、女を口説くことに何も価値を見出せずにいたのも当たり前のことなのでは?
AV女優やエロ同人の美少女よりブスで年増の中古で、専業主婦の俺の母より家事能力低いくせに、なんでお前は高飛車なんだよカスのブスがよ、という目線に、そりゃなりますわ。
そして50代になって「女は下方婚しない」とか急に言い出したのは、母親が80代になって介護施設に入所したり死亡したりして、家事をやってくれなくなり生活が荒廃しだしたからでは?
ニートの場合は父親が死んだり、年金が入ってこなくなって経済的に困ったとかもあるのでは?どちらにしろ親の庇護を失って詰む弱者という話。
20~40代は職が見つかりやすいけど、50代で失業すると年齢が原因で全く再就職ができなくなる等のケースも多いようだし、
職場で行っていた最低限の人とのコミュニケーションも、失業と両親の死によって失われて、完全な孤独になった50代男性が、今になってすべてを「女性」の責任にしているのでは?
ワーママも
専業主婦も
自分の思いどおりにならない子供を殺した時に世間から同情される点では同一の価値
あまり気負うなよ。貴様が(子供が生まれたとして)それを殺さんとも限らんのだから
殺された子供の代弁をするのが、ごく僅かな捜査関係者と司法関係者にとどまる日本は、あの頃のはてなーとは逆の意味で「日本死ね」と言いたくなる
それが人の命の価値になるわけでもなし、神にでもなったつもりか?
むしろそのように人の人生を壊すことをなんとも思わない人間こそ
さっさと好きに生きて退場したらいい
賃金が上がらずみんな苦しむ
法学は規範科学であり、~してはいけないとかいうような道徳それ自体ではなく、実定法学は、テクニックを含む、構成された規定や論点の全体だが、お前の実存や実物それ自体を
見た場合に、規定もテクニックも何も内容がないのであるから、何の価値もないことは明白である。一般人は終わっていて無機能で無内容なものなど興味はなく、インターネット上の
結局「男女の友情は成立するか」という言い出した奴が男女の友情を信じていないことが明確な言葉の周縁ですべてがやんや言われているだけで、そのグラデーションを塗りつぶすやれたかも委員会のような極論がきらいなんだと某noteを見て思ったし、思い返せばああいう目線で物事を見ている人は少なからずいるんだろうなと思う(その世界の中で勝ち組負け組関係なく!)。でも正直こういった、人を人と見ない世界観というのは自分も職場では活用しているのでその楽さというのはわかる。
世界にはいろんな男女がいてその背景にある物語をいちいちくみ取るよりは「既婚者は全員セックスしている」「まんさんは彼氏を引っかければ生きられるから楽」とか紋切り型の台詞を言っている方がとてつもなく楽だし情報過多な世の中でのサバイブ術ではあると思う。同時にこの価値観を持つことでその世界と自分が距離を保てる(俺とあいつらは違う)というおまけもあって強者にも弱者にもいいことがたくさんあるんだけど、世界はそんな紋切り型ではなくて、あらゆるグラデーションの中間だし、難しいし、捉えきれない。でもそういった中庸なところで責任をとれるのがいい年した大人の特権で、務めで、面白いところなんだと思う。
責任って言うと仕事が一番に思い出されるけど、生活も責任の宝庫だ。例えば丁寧な暮らしっていうのも暮らしのコストを減らして自分に背負える大きさにした上で自力で運用するという一つの責任の捉え方だ。そう思うとあらゆる大人の生き方は責任と自分の大きさをどう取るかって問題に近くなる(不倫とかは自分に背負いきれない責任を負おうとして失敗する例)。また責任は動機でもあって、行為にもつながる。無責任な行為をきちんとやるのはもう難しくてそれは若者の特権で青春だ。大人は責任を負ってきちんとTPOを見て羽目を外す。そういうエッセンスを凝縮すると「やっていき」という言葉になる。
論旨がフラつているけど人を人として見る(=目の前の人に責任を負う)ことを怠るといずれ自分が自分に責任が持てなくなっていって、いわゆる無敵になってしまう気がする。人としてというのはマテリアルというか顔があるとか手に指がついてるとかそういう生々しさから入っていってもいい。それをしているといずれ相手を紋切り型で切り捨てるのが怖くなる。少なくとも友人レベルの人にはそうやって無二の目線を、価値を感じながら接していくのがいい。俺はそう思うよ。おまえはどうだかしらないけど
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どれも神ゲーだ。
発売から5年以上立った古参ゲーばかりだが、逆に言えば「時間が経っても評価が揺るがなかった神ゲー」の集団だ。
11年前発売のボダランだけ85%引きになってるけど、そもそもこれは元が6割引なので実質95%オフみたいなもんだ。
あーでもバトルフィールドだけはちょっと考えたほうがいいかも知れない。
あーでもCIVⅥだけはちょっと考えたほうがいいかも知れない。
時間が解けまくって人生に支障が出るかも知れないし、人によってはⅣの方が楽しめるかも知れない。
あれこれ言い出すとキリがないが、どれも値段以上の価値はある。
これらのゲームを買って「500円の価値もねえぞ!クソゲー掴ませやがって!」となったらそれは君の感性を疑った方が良い。
あーでもトムクランシーは合う合わないの割に500円を超えているからちょっとこの話からはそれるかも知れない。
あーあとジュラシック・ワールド・エボリューションもワイルドなざっくばらんさとちょっと繊細で細々とした感じのバランスが人によっては相性最悪で終わるかも。
あーあーあー大手を振っておすすめできるゲームなんてそもそもないのかも知れないな。
でもな、このレベルの打率のゲームが90%オフというのはマジでハイパービッグチャンスなわけだよ。
ぶっちゃけ、80%オフで買っても全然いいゲームが同じ値段で2本買えるわけなんだから、2本に1本外れでも元は取れてるわけな。
これはもうやけくそになって全部買っても結局オッケーなわけだよ。
でもバトルフィールドだけはちょっと考えたほうがいいと思うマジで。
合う合わないの話はあるんだけど。
暇つぶしに見るXでは、よくワーママと専業主婦が争っている。働きながら、あるいは働かずに子どもと向き合った。それが正しかったかどうかは、何十年か経ってみないと分からない。
以下は、平成初期に単身赴任の父+専業主婦からパート、フルタイムを経て自営となった母の間で育った私の事例である。
人の記憶はいつから残っているのか、幼稚園の頃に、母親が自分をおざなりにし始めたな、と感じたのを覚えている。それまで一番に迎えに来てくれていたのに、ある時を境に先生とふたりきりで、最後まで待つようになったからだ。
産まれたときから母親が忙しく、保育園に毎日遅くまで預けられていた妹は、おそらく母と過ごした時間は私より短いが、寂しかったという記憶はないらしい。人は最初からもっていないことよりも、一度手にしていものを手放すほうが辛い。
小学生の頃、学童から帰って、保育園に妹を迎えに行って、ご飯を食べて、お風呂に入って、それでもまだ家に大人がいない日があった。一度、母親が日付を変わったくらいに帰ってきたことがあって、覚えてないけれど、その日は何故か早く帰ってきて欲しくて、妹が寝たあともずっと起きていて、疲れた母親の前でどうしてもっと早く帰ってきてくれないの?とわんわん泣いたのを覚えている。最初はごめんね、と慰めていた母もだんだん苛立ってきて、じゃあ仕事辞めたらいいの?と叫んで机の上に山積みになった本や書類を床に叩きつけた。母も限界だったんだろう。今なら分かる。ただ、その時は、ああ、親を困らせた私が悪いのだと感じた。実家の床にはその時の傷がいまだに残っている。それから私は、母が遅いという理由では泣かなくなった。
中学生の頃まで、進んで出来の悪い生徒の面倒を見たりする一方で、上手く友人関係が築けなかった。いざこざを起こして、親に電話がかかってきたことも少なくない。成人してから愛着障害に関する本を読んで、片足を突っ込んでいたのだとわかった。人から必要とされたり、周りの関心を集めたりすることでしか、自分の価値を感じられなかったのだ。
勉強がまずまず得意だったこと、(両親が全力で働いてくれたから)お金で惨めな思いをせずに済んだこと、教師と周りの人間に恵まれたことで、腐らずに済んだ。自他の区別がつき、自分で自分を大切にすることを学んだ。それなりの大学に進み、それなりの会社に入り、(自分で言うのは恥ずかしいが)世間でいうバリキャリという属性になった。人間関係も人並みに構築できるようになった。
思春期になる頃には、過干渉の母親を疎む友人が多く、そういう母親は大抵、拠り所のなさそうな属性であった。子を一人の自立した人間として尊重しながら(放置された結果そうなったに過ぎないのだが)、格好良く働く母を羨ましがられることも少なくなかった。
辛いときもあったが、振り返れば一時的なものだし、親も私自身も、当時はああするしかなかった。もちろん運が良かったというのもあるが、母は頑張った。私も頑張った。そういう風に消化していた。
結婚後、何気なく小さかった頃の話をして、夫に寂しかったんだねと言われたとき、涙が止まらなくて、ああ、寂しかったんだなと思った。母を怒らせたあの日から、寂しいと言ってはいけない、思ったらだめなんだと、ずっとずっと思ってたけれど、別にそうじゃないんだな、寂しいと思ってもいい、それを口に出して言っていいんだということがわかった。
いつか帰省したとき母親に、小さい頃寂しかったと、初めて口に出して言うことができた。別に謝って欲しかったわけではなく、あの時寂しかったのだということをわかってほしかった。軽く言うつもりだったのに涙ぐんでしまって、あさっての方向を見ながら言ったら、母は、あのときはどうしようもなかったけど、未だに後悔するわ、寂しい思いさせたね、ごめんね。と言った。ちらっと見たら同じように涙ぐんでた。あの日のことは、母もずっと覚えていた。
もうすぐ子どもが生まれる。私はきっと子どもを産んでも仕事をやめない。理由は色々あるが、何より親の経済力が子の選択肢を広げることを身を持って知っているから。そのせいで、子供に寂しい思いをさせることがあるかもしれない。それは仕方がない。ただ、子供が寂しいときに寂しいと声に出せるような関係を構築したいし、その気持ちに付き合ってあげたい。いつかの私のように、自分の中の小さな自分を泣かせたままにしなくていいように。
追記)
ずっと読み専だったはてな、思っていたよりも沢山の人に読んでもらえて嬉しかったです。コメントも全部読みました。ありがとうございました。
この記事は、私がDINKSをしていた間に数年かけて消化したことの一つで、妊娠をきっかけに改めて思い返すようになり、今の気持ちを形に残しておこうと思って書き留めたものです。
自分の事例をベースに考えると、子の情緒形成という観点で、養育者が濃密に関わっておくべき期間は長く見積もって10数年程度あるのだということだと思います。
ナイーブだった私がサバイブできたのは運要素が大きいことは自覚しており、かつ上述の期間はかけがえのない時間ではあるということを理解しつつも
・コメントしてくださった一部の方や妹のように放置されたことが情緒形成に悪影響を与えないケースもある(子どもによる)
これらの点を踏まえると、夫だけの稼ぎで暮らせないわけではない(実家もそうでした)状況であっても、自分のためにも、家族のためにも、その情緒形成の期間を働かずに過ごすのは私にとっては悪手だなと思っています。いかに悪影響を最小限にして、家族一丸となって波を乗り越えるかということなのかなと。
父についてはどなたか言及してくださったとおり、物心ついたときからほとんど家にいなかったので、それが当たり前でした。昔気質の人で、わずかに家にいたときも家事育児にはノータッチでした。今は夫婦ともに融通の利きやすい職場なので、なんとか両立したいと思っています。また数年後にここに書いたことを振り返れますように。