はてなキーワード: スクールカーストとは
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めちゃ面白かった。久々に良質な「ツンデレ」ヒロインを描き出してくれた作者に感謝。
Amazondではやれスクールカーストものだ、AURAと違って構成力が、みたいな評価が目立つけれども、そんな事どうでもいい。良くはないけどそれは二の次だ。
この作品のAURAにもない特徴は、学校の空気の話よりも、久々に良質な「ツンデレ」ヒロインを描き出してくれたことだと思う。大事な事なのでry
というわけで、個人的に大満足でした。ちひろまじかわいい!ツンデレツンだな。
ツンデレ系のヒロインとうまくいくためには、ある程度主人公側にも
「対等にやりあうガッツ」や、ヒロインの芯の部分に踏み込む厚かましさが必要だ。
この作品の主人公は、裏技的な方法でヒロインの内面を知ったのちに接する。
つまり、先にデレの果実を味わうことでヒロインを好きになれるわけだが、一般にはそういうケースはない。
主人公が臆病だったり、空気読み過ぎるタイプだと、上手くいかないのだ。
5年くらい前のほうがラノベやエロゲの主人公はヘタレだと言われていたじゃないかとも思う。
よく考えてみると、ヘタレというのは今から振り返ると悪いことばかりでもなかったような気がする。
というより、ツンデレヒロインとうまくいくもう一つのパターンがこのヘタレ系だと思う。
ツンのトゲ部分とぶつかるのではなく、ひたすら受け止めて、包んでしまうというパターンだ。
ヘタレ系主人公は一般に気弱であったり、決断力がかけているなどの欠点が指摘される。
しかしコミュニケーションが高く、空気が読める、自分の気持ちをゴリ押しするより相手や周囲に配慮できるという長所もあった。
なにより、男であるにもかかわらず俺が俺が、と自分を押し付けない。
「受身でいることに耐えられる」ってのはすごいことだ。この難しさ、あり得なさは男からしたらファンタジーレベルである。
私自身、男として「男はかくあるべし」ってイメージがあるから、
こういうヘタレ系主人公と自分の望ましい方向には大きくずれがあり、苛立ちを感じることのほうが大きかったけれど、
もう自分の分身としてみる必要もなくなり、純粋に他者としてみると、いいところも見えてくる。
ただ、ヘタレ系の主人公がある程度リアリティを感じさせるには、
本来「お父さんと娘」とか「兄と妹」といった関係のように、そもそも力関係が非対称というか、男側が有利であることが必要になる。
ただ受身なだけの、自己主張しない男には、女がそもそも見向きもしないからだ。
表面的には弱腰に見えて、直に接すると大人である、安心感がある、そういう所があって、初めて女性も多少は魅力を感じるのではないかと思う。
私自身はただのヘタレなので、尻に敷かれるだけであり、その経験からもヘタレの部分に魅力を感じてもらえるとはとても思えない。
そもそもツンデレヒロインはほとんどの場合個人として優秀である。
優秀であるからこそツンが映えるのであり、ツンが機能するからこそデレに価値が生じる。
無能なツンデレなど、無能なツンの時点でゴミであり、そんな奴が出れても豚の鳴き声にしか聞こえない。
それに対抗する主人公は、ヒロインに対抗する何らかの優位を持っている必要がある。
<小早川ブログがなかったら>この子はいわゆるツンデレ少女だったと思う。
んで、この主人公だとおじけづいて彼女と深い関係になることが出来なかっただろうと思う。
ヒロインの内面が見えるくらいの優位を確保して、ようやくツンデレヒロインと向き合える。
ヒロインは、主人公の優位の部分に魅力を感じる。だが主人公のそれはただのチート。
それをさらけ出したら魔法が解けてバランスが崩れてしまう。さてどうしよう。
主人公の「分」を考えると星奈ではなく夜空がお似合い。しかしメッキのお陰で星奈とうまく言ってる状況をどう変化させるか。
とかね。星奈は間違いなく魅力的ではあるけれど、この先納得行く形で彼女との関係を描けるのか、疑問。適当に夜空とくっついて終わりじゃね?
一時期はただツンデレのヒロインがいる、というだけでよかった。
でも今はそれなりに主人公とヒロインの関係性が問題になってくると、難しいような気がする。
普通の主人公だと、釣り合いの取れるヒロインの魅力は薄いものとなる、
かといって、魅力的なヒロインを作って普通の主人公だとヘタレ死ね、となって楽しくないし、
魅力的なツンデレに見合うだけの主人公は、一般読者とは全く乖離した存在となってこれまた共感できないだろう。
そんなわけで、ツンデレヒロインと、それに見合う主人公を作るのは難しくなってきていると思う。
ツンデレを読みたきゃSFを読めっていろんな人から言われるけど、
SFのヒロインは優秀すぎるし、パートナーの男性もそれに輪をかけて優秀すぎるので全く共感できないんだYO!
そういうことを、この作品を読みながら考えた。この作品は久々に良質のツンデレヒロインを味わえた。
私はツンデレが大好きなのだけれど、それ故にほとんどのツンデレの出来に不満を感じていたので、この作品はとても楽しめました。まる。
でも、はがないのほうがウマい。明らかにこっちのほうが技術がないと書けない。
はがないのメンバーは、「濃い」故に集団からはじき出されてる側の存在で、
自分を規定してくれる「外側」を必要としない。だから好きなだけ閉じこもれる。
マクロって言うほどのもんでもないけれど、スクールカーストを無視しても存在できる。
人付き合いは煩わしい、でも何者にも成れない、一人では生存できない、だから学校の柵にとらわれている、そんな中高生の憧れる身近な理想像だ。彼らは生存戦略が不要な強者なのだ。(友達いないと「いろいろと鬱陶しい」あたりの言及が、必死度の違いを露骨にしめしている)
友達を欲すること「さえ」ろくにできない。抑圧強すぎ。でもすげーよくわかるぞその気持ち。
なんでこれ夜空が主人公じゃないんだろうと思うくらいにぼっちものの主人公に最適だ。
この作品で本質的にぼっちなのも、部活を作ったのも、最も切実なのも夜空だけであって、
私は夜空にすごく共感するんだけれどぼっちの奴らがこれ読んで、夜空に嫌悪感を感じてるって構図がすごい皮肉になってる。
お前ら他人に対しては常人と同じ程度の想像力しかないんだなー、と苦笑したくなる。
いや、そこが売れてる理由なんだと思う。ホント。
むしろ、他人からみたら自分は嫌悪するべき存在だという自覚はあるだろう。
というか、自分自身、自分のことをこれでいいとは思ってないだろう。
本当の自分はこんなんじゃないんだ-という思いがまぁ小鷹やら星奈への擬似的な共感に繋がる。
星奈は特にアイドル要素を多く兼ね備えており、自分をごまかすには最適な感情移入対象だろう。
最終的には、夜空の嫌な部分を受け入れられない限り、読者はこの作品から卒業できないんだけどな。
ちなみに一番好きなキャラは理科さんです。というか理科と小鳩以外好きじゃない。
俺ガイルは直球だ。
ぼっちってのは基本的に「濃い」のではなく「薄い」。
故にキモい。何考えてんのか分からない。これが基本。こっちが多数派。
その本来のぼっちと、はがない型の「個性強すぎるゆえに集団から排除される」型のぼっちを並立させ、
間に普通の人間を挟むことで、ぼっちが「全体の中でどこにいるのか」が分かるようになっている。
マクロというほどもないが、学校という小さな社会を描くことさえ拒否するはがないとは違う。
というか、はがないは「特殊なぼっち」のなかに「普通のぼっち」を混ぜるという構図が不自然というかもう悪趣味すぎて、「君に届け」と同じくらい気持ち悪い。
俺ガイルが自然というわけではないけれど、まぁ共感できるのはこっちだ。どうしても。
俺ガイルの面白さだが、メインの主人公については「あるある大百科」でしかない。少なくとも私にとっては。作家ならではの端的な表現で自分が感じてたもやもやが言語化されてすっきりするってのはあるけれど、新鮮味は少ない。どっちかというと、「ぼっち」から、一般人を観察して、どう感じるかって描写部分が面白い。いや、それよりも「片方からのぼっち」が「もう片方のぼっち」に感じる感情の描写が興味深い。
無職の人間が、ノマドバンザイ、フリーランス最高っていってるやつに投げかける視線。共感と嫉妬、諦めと憧れが混じったような複雑な感情、これは経験がない部分なので素直に楽しい。
このエヴァ騒動によって一時、オタクは「萌え」と「サブカル」に大分裂した。「萌え」系オタクは、エヴァでいえば綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーなどの萌えキャラにハァハァしていた純粋オタクの系統であり、「サブカル」系は、オタクよりも恋愛資本主義の側に擦り寄ってオサレ系を目指した連中だ。
だが、あれから数年、どうなっただろうか?
そう、サブカルは市場として成立せず、萌え市場だけが拡大したのだ。サブカルは短期間で事実上滅び、講談社のノベル雑誌『ファウスト』のような「半萌え・半サブカル」形態によってかろうじて命脈を保っているばかりとなった。
これは当然の帰結といえる。
オタク文化そのものが「二次元>>>>>>>>>>三次元」という前提によって威力を持てる妄想の文化である以上、サブカルが「三次元>>>>>>>>>>二次元」とやらかしたら、オタクの大勢がサブカルから離脱するのは時間の問題だった。
この「サブカル」ってのを「一部の批評系」にしたらしっくり来る。
萌えオタ罵倒してフニャフニャ主義だとか言ってた本人が、いざ容姿を出すと初音ミクの痛車よりも映像映えしないリア充ならぬリアル三十(さんじゅう)だったり、映像だと(字幕の向こうの群衆におびえて)大人しくなりキャラ崩壊してたりとゼロ年代批評はいろいろありました。
『電波男』は要するに「萌えには階級格差を無化する力があるんだ!」という本です。現在は『はがない』『IS』『けいおん!』など、良かれ悪しかれそうした表現が主流になりつつある。いかにも小泉構造改革以後の空気感みたいなのと関連付けやすい『カイジ』や『ウシジマ君』は有名になったけれど、なぜ彼らはアイドル(=偶像)になれなかったのだろう。
代わりにネットオタクの偶像となったのは『初音ミク』や『アイドルマスター』や『ラブプラス』それに『けいおん!』だった。
そして社会に出て自らの文化的アイデンティティを主張できたのは、『スクールカースト』ではなく痛車と聖地とローソンだった。そこにある想いは「余暇の時間まで勝ち組・負け組を意識させられ自己啓発されるのはキツい」というあたりまえのものだろう。
それすら許せん、となにかと理由をつけて萌えオタ罵倒してた件の人物は映像に出たらしょぼしょぼで(以下略。
映像やまとめサイトが「差異化ゲーム厨」への抑止力になるならば、少なくとも差異化ゲーム厨が野放しな環境よりは良いと思う。まあともかく萌えからフニャフニャ主義への流れなんてなくて、フニャフニャ主義こそむしろサブジャンルに過ぎないっつうか、萌えだけで刺激が足りない時に触れる程度。
ようするにゼロ年代は「差異化ゲームの思想」ではなく「無関連化する思想」が勝利した。2005年の段階でこのことを説明し得た『電波男』は、フニャフニャ主義本よりもよっぽどゼロ年代の「正史」を正しく語っている。
http://anond.hatelabo.jp/20100901214320
これを読んで書きたくなったが、おそらく元増田にとっては何のアドバイスにもならないであろう私の高校時代の思い出話。
高一では友達がたくさんできた。
珍しくスクールカーストで言うところの「下」の人種が多くて、心ゆくまでのびのびとできて毎日楽しかった。オタ充だった。
ただ残念ながら男女グループだったので、次第に大学のダサ文化系サークルのように片思いや嫉妬や疑念が渦巻いて一年もしないうちに空中分解するんだけど
自分は皆の相談役(笑)というポジションに立ち誰からも嫌われないようヘラヘラと立ち回っていた。これはひどい。
高二の時は、クラスに高一の時の友達が全くいなかった。
しかし同じ中学でうっすら仲の良かった子(A、B)がいたので苦労しなかった。スイーツ(笑)だった。
二学期ごろからAの親友Cと、その友達数人が仲間に入って、賑やかしくお弁当を食べるようになったんだけど、
私はどうしてもCのことが好きになれなくて、Cもそれを感づいたのか、思いっきり私に対して冷たくあたるようになった。
それに伴ってAも私に冷たくなり、AとCは「私にこのグループから出ていって欲しい」というような態度を暗に示すようになった。
私は私で「誰がてめーらのために出て行くかぼっちになんかなってやんねーぞバーカバーカ」みたいな意地だけで大して好きでもないこのグループに食い下がっていた。
Cの連れてきた友達は極力中立的に接してくれたけど、相変わらず私とは友達以下の関係だったので毒にも薬にもならず。
そんな中Bだけが変わらず私と仲良くしてくれたが、今思えば板挟みでかなり苦しかったんじゃないかと本当に申し訳ない。
そんなこともあって、高三の時はもうクラス内でのお友達作り(笑)をしなくなった。ぼっちだった。
AやCは顔が広かったから、クラス内に彼女らと仲の良い子がたくさんいて「この人たちとは絶対仲良くなれない」という先入観が凄かった。
クラスには同じくぼっちの女の子がいて、仲間分けする時なんかは一緒に組むような関係になったけど、
かといってそれ以上の友情に発展することもなく、最後までお互い苗字で呼び合っていた。
私は彼女の隠しきれない強烈なオタク臭がどうしても生理的に受け付けなくて、
彼女もまた私のそういう不条理な蔑視を感じ取ったのか、それ以上踏み込まないでいてくれた。文句も言わずに。
一学期の始めの頃なんかは二人でお弁当を食べたりもしたけど、お互いダルくなって、いつの間にかそれぞれ他のクラスにお弁当を持って出て行くようになった。
そんな利害が合致しただけの付かず離れずの冷たい関係が、すごく楽だった。
いじめるでもなく、突き放すでもなく、私が彼らに無関心なのと同等に彼らも私に無関心でいてくれた。
それでいて掃除当番やグループディスカッションで話す必要があったときも、不思議と嫌悪感は伝わってこなかった。ほんとに普通だった。
クラス全員がやたらと仲が良くて、体育祭や文化祭でも団結してる中で私と例の子だけが浮きまくってたし、
こちらはクラス全員と二言三言交わしたことすらあったろうか?ってレベルの薄い付き合いしかできなかったけど、その薄さを薄いまま許してくれたというか、
それどころかたまに話すと持ち物ほめられたりなんかして、「あれ?自分そんなに嫌われてなくね?」って調子が狂って、
「こっちが勝手に拒絶してるだけなのに、えっと、なんかごめん!」と帰宅後にふと反省させられるような、いい人たちだった。
高校ではバスケ部のマネージャーだったという元「最上位」な友達ができて、「スクールカーストって何だったんだ…」と呆気にとられつつも彼女と毎日バカやってた。
そんなこんなで三年生になり、私と彼女は別々のゼミに入るのだが、彼女が入ったゼミに「高三の時に私と同じクラスだった」と言う男の子がいたというのだ。
飲み会の席で「○○さん(私)と仲いいよね?」と話しかけられたらしい。
それを聞いて「えっ?誰だっけ?てか同じクラスだったの?その人」というと「ひでえwww普通同じ高校から同じ大学行った人って分かるっしょwww」と返された。
ということは学部も一緒で何度か講義室でも顔を合わせてるはずなのに全く気づいてなかった。
そりゃそうだ。こっちは顔すら覚えてないんだから。
彼に言わせると私の高校時代の印象は「なんかめっちゃ頭良さそう」だったらしい。
「君ね、それは違うのだよ。ぼっちって休み時間やることねーから机に突っ伏すか宿題やることぐらいしかできないのだよ。当時は赤点スレスレだったっつーの」
とでも言い返してやりたいが、そんなことよりどう見てもリア充の彼がどう見てもぼっちな私の顔や名前をしっかり覚えていたことが衝撃だった。
しかもわざわざ自分から話題に出すということは、お世辞抜きにしても元々そう悪い印象を抱いてなかったんだろう。と思う。
対する私のこの認識のなさ。恥ずかしい。ごめんね○○くん。顔知らんけど。
その後リア充の彼とは何のフラグも立たず、最後まで彼の顔は分からないまま卒業した。
今振り返っても、高校という場所で、クラスという場所で、私はどう振る舞えばよかったのかよく分からない。
友情ってなんだろうね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100825-OYT1T01077.htm
例えばじゃあ谷垣とか菅とかが、自分の孫を連れてサインをもらったとき、どう反応するのか。
もっと言えば、じゃあ大阪市長が同じことをしたとき、あなたも存分にそうするがいい、というのか。
…この記事の後半の本人の迂闊さ(知事になればいいという発言)から考えれば、大阪市長は不可って言うような気がする。
知事くらいの激務をこなしてからサインをもらうなりして欲しい、とか言いそうだと思う。
ここで俺が言いたいのは、
「この程度くらいなら何の問題もないと考えている」と橋本が言ったセリフの、
「この程度」っていう基準や根拠が「俺」だと思っているんじゃないかということ。
より詳しく言えば、「圧倒的大衆支持を得ているところの俺」ってこと。
支持を貰っている俺が言うことやることは基本間違いないだろう、って。
そこら辺を、どうもかなり「無邪気に」信じているような気がする。
ここらへん、堀江の奇妙な無邪気さと通底している気がするっていうか。
堀江の「お金があれば何でも買える、っていう考えの何が悪いの?」と
橋本の「支持を得ている=俺正しい、っていう考えのどこが悪いの?」っていう感覚。
あと、子どもにサインを持たせたい「だけ」っていう父親の無邪気さみたいなものは逆にかけらもなかった。
役得を得ることで「えっ、これやって何で文句言われるの?子ども喜ばせたかっただけなのに」っていう戸惑いが全然見当たらないから。
文句言われることを十分に予想していて、
その上で言われたところで俺は支持を得ている正しい知事なのだからどこも問題ない、って。
文句言われるのがわかった上で、言われる筋合いなどかけらもないという強い信念を持っている。
この点に関しては、かなり無邪気に自信を持っている。
そんな感じがする。
ああ、だから、大阪市長がもらうのはダメっていいそうだなって俺が思ったのは、
大阪市長には大衆的な人気・支持を得ていないんだから、っていう論理判断をするんじゃないかって感じがするからな。
俺が今イメージしているのは、クラスの中でスクールカースト最上位の人間の振る舞い。
とりあえず人気があれば同じことしても悪く取られることはないし、
言う事なすこと基本肯定で周りから受け入れられる。
…スクールカースト上位の人間が、「別に普通じゃね?」とか「ってかどこが問題?」っていうのはわかるんだけど。
「この程度」の基準が、橋下とそのフォロワーで構築されているような感覚。
せいぜい、はぐれそうなときに手をつないだくらいだった。
何に関しても受け身で、覇気のない彼氏だった。就活が嫌だとうじうじしていた。
やりたくないことはいっぱいあるのに、やりたいことは一つもないようだった。
彼の皮肉は面白く、はじめはそれなりに楽しかったが、だんだん彼が愚痴ばかり言うようになり、
会うたびに憂鬱になり、どうにも疲れきってしまったので、別れた。
予想はしていたけど、あっさりな幕切れだった。
2年の付き合いだったので、自分から振りながら、そこそこ落ち込んだ。
そんな時に、友達の友達の友達くらいの距離感の、ゆっくり喋るのが印象的なリア充男に声をかけられた。
私が別れたことを知っていた。女友達が多い男って、情報が早くて本当に嫌だと思った。
でも、情報が早い人間や噂好きの人間はうさんくさくて嫌いだったはずなのに、私はその男相手に心情を吐露していた。
弱っていたからだと思う。酒がまわるのも異様に早かった。
それと、私は女友達相手にも結構格好をつけていたらしい。
今まで言いそびれて貯めていたものを、会うのが4回目かそこらの男に全て晒していた。
そしてその男に肩を抱かれたとき、堪えきれず泣いてしまった。
我ながらそのテンプレさ加減が笑える。
泣いたせいで頭が重くぼんやりしていた。
気付いたら私は居酒屋を出て、男の部屋までのこのこと付いてきていた。
抱きしめられて、私も抱きしめ返した。
なしくずし的に胸を触られた。
2年付き合った彼氏とはほとんど接触が無かったのに、私はよく知りもしない男と何をしているんだろう。
私の胸を初めて触った男はこの男ということになってしまった、と思った。
唐突に、はてなでよく目にしていた「非処女は肉便器」という言葉が頭に浮かんだ。
「最後まではできない」というようなことを言った気がする。
フェラチオを要求されたけれどそれも断った。
ただ、くだらない愚痴を聞かせておいて何もしないのも申し訳ない気がして、手でしてあげた。
慣れた人からすればしょぼいことかもしれないけど、私にとってはこれが精一杯だった。
そして化粧も落とさずに寝てしまった。背中を撫でてくれたので、また泣いてしまった。
朝鏡を見たら、案の定化粧はドロドロになっていた。
昨日の夜からこうだったのかと思うとへこんだ。
そして化粧を直してからお別れして自宅に帰った。
だからあれから連絡を取っていない。
その男の趣味も、過去も、何も分からない。共通する部分が無いような気すらする。
確実に言えるのは、中学の時だったら、彼は私に話しかけてはいないだろうなということ。
スクールカーストを上中下とするなら、私は中に居て、彼は上に居た。
中学のとき、上は上としかつるまなかった。上同士にしか興味を持たなかった。
でも大学に入って、上に居ただろうなと思える雰囲気の男が声をかけてくることが確実に増えた。
カーストがあいまいになったせいでもあるし、上の男にとって中の女は攻略しやすいのもあるんだろう。
私は「ヤリモク」という言葉を知っている。
平常時の私なら、男の部屋には行っていないと思う。
失恋と、酒と、寂しさで、まんまとハマってしまった。
でも彼のおかげで元彼との別れを完全に吹っ切ることができたと思う。
私はあのとき変に格好をつけずに話せる相手を必要としていたし、
言葉に詰まったときに肩を抱いてくれて泣かせてくれる相手を必要としていたし、
下品な話にはなるけれど───私で射精してくれる人を必要としていたんだと思う。
彼にとって、話を聞いたお礼としてそれが機能していることが、嬉しかった。
もしかしたら私と接しているときとは別人のようになって、
友達に私とのことを暴露し、嘲笑しているかもしれない。
そう思うと怖くなる。
ゆっくり話すあの低い声と、ゆっくり私の背中を撫でる手を、何度も思い出してしまっている。
続きです。
頭に浮かんだ話を漫画や小説にするのが楽しくて、続きや新作を期待するクラスメイトたちに囲まれ、満たされていた毎日。
しかし、中学校に入ると、次第に周りから人が減っていった。
ジャンプやサンデーやマガジンの連載漫画の話はしても、それ以上の領域はダサいオタク趣味として皆敬遠し始める。
他にも、部活やら定期考査やら、小学校とは大きく日常が変わったというのもあるのだろう。
わざわざアマチュアかそれ以下のものを作る人間を取り巻き、もてはやす必要も、暇もない。
思春期を迎え、他人の価値や能力を認めるのは自分の価値を下げることに繋がると、特に同年代に対して無意識のライバル心を強く持ち始めていたというのもあると思う。
結局、漫画や小説が書けるというのは、かけっこで一番早いとか、新幹線の停車駅を全部言えるとか、皆より少し秀でていたり、特殊な技能を持っていることが羨望の対象だっただけ。
小学校の頃はクラスないし、学年や学校や遊び場が僕らの「世界」の全てだったからこそ、ナンバーワン、もしくはオンリーワンでいられただけでしかなかった。
僕らにとっての「世界」が一気に社会というレベルにまで広がり、色々なものをその基準で相対的に見るようになると、一気にその価値は暴落した。
中学校でも、最初こそ、小学校時代からの縁で僕が何かを書いているのを見て集まる人がいることに鼻の穴を膨らませていた。
僕は常にみんなの中心にいて、同年代の中の絶対的な勝者、そこらの奴とは違う特別な人間だと優越感に浸っていた。
でも、いつしか周りにいるのが特定の数人だけになっていて、女子には遠巻きに見られ、自分が中心にいるグループと他のみんなとの間に物理的にも隙間があることに気付かされて、激しく動揺した。
ゼロではないとはいえ、自分の周りから人がいなくなったのは凄まじい衝撃だった。
僕の書くものは僕自身であり、その変化は「お前という人間の価値は実は大した事がない」と宣告されたようなもの。
以降、隠れて授業中に書く以外、文芸部でだけ活動するようになった僕は、先輩や顧問に褒められることを根拠に、「自分は人とは違う」「自分は優れている」と思うようになったのは、単なる現実逃避だったと今では思う。
分かる人は分かってくれる、分からない低脳なんて無視しろ、僕は才能があるんだと、ことあるごとに自分に言い聞かせていた。
天才と言われる人種はもっと早くからだろうけども、そうでなくとも中学くらいになると、その「才能」より秀でた結果を出す人間が現れる。
それは必ずしもスクールカーストの上位に位置するわけではないだろうけども、少なくとも「才能」によってある種のヒエラルキーの上位に認識される現実が、僕の絶対的な価値観になっていた。
だからこそ「才能」を裏付けるために、小学校の時のような「人気」ではなく「権威」を求めた。
その人たちに認められるのがすなわち自分の「才能」ゆえだという思いは、市が募集しているジュニア文学賞を取るに至ってピークに達した。
そして、三年生に進級して先輩がいなくなる頃、自分は先々文芸で社会的に認められるのが当然の人間だという意識しかなかった。
ネタを探したり、物語を書くために読んだ本のせいで色々と得た雑学のお陰であちこちで博識キャラで認識されたことに気をよくし、哲学書に手を出してみたり、感想や校正を求める後輩に偉そうに指摘して批評していたあの頃の思いあがった黒歴史は、今でも時間を遡って殴りつけてやりたいと思えるほど酷い。
そして同時に、オタク趣味も変わらず持っていたため、あとはよくあるワナビ街道まっしぐら。
ラノベの世界を知り、自分なら簡単にこの作者たちを追い抜ける、もっと素晴らしいものを書ける、と当然のように思っていた。
小学校からやっていた自分は一日の長どころではないものを持っているのだから、市の文学賞を取ったくらいなのだから、と。
設定を細かく決め、物語を練りに練った自称大作を、高二の頃に自信満々で応募。
「大賞受賞作」の帯とともに書店に並ぶ光景と、「高校生作家」の響きを頭に思い描いていたところに届いたのは、落選の知らせだった。
ふむ、何が拙かったのだろう、ライトノベルに自分の書くものはそぐわないのだろうか、もっと大衆向けを意識しなければならないのだろうか、ファンタジー王道のあの作品やSFのあの作品は、などと思いながら二つ目を書いて応募し、また落選。
受験をはさんで数年それを繰り返してことごとく撃沈し、完全に自信を失った。
それでも諦めきれなかったが、どうしようもなく煮詰まっていた僕が次に逃避したのはネットに投稿される二次創作小説だった。
その頃はまっていたアニメの二次創作を書いて投稿すると、知らない人から感想メールが来て、そこに並ぶ褒め言葉に感動。
次第にその数が増え、アクセスも増え、いつしか小学校の頃の自分に戻ったように感じていた。
僕が書くものを楽しみに待っている皆がいる。
僕の書くものを褒めてくれる、認めてくれる。
さらに、そのジャンルから本職の作家になった人もいるということが希望と自信になっていった。
まさかの縁で、本職作家さん(ラノベではない)とも知り合えたとき、もはや自分の中ではそのジャンル内での本職デビュー最有力候補の気になっていた。
やはり僕には人に認められるだけの才能があり、その縁で更に素晴らしい才能を持つ人とも知り合う事ができたとまた増長していた。
その頃、二次創作作者の中で中堅キャリアの良作作家という評価を得ていたことから、そろそろ頃合いだと思い、「僕がその実力を認める作家仲間」に声をかけて、また新人賞に応募。
そして見飽きた選評。
受賞した人の出版された作品を読んでみると、自分の応募作がそれらに比べてそこまで劣っているとは思わないし、自分のほうが上だと思うものも珍しくない。
何故落選なのか分からなかった。
知人の本職の先生にも度々話を聞かせてもらって参考にし、応募した仲間うちでも互いに批評と推敲を重ねたのに何故なのか。
それで何かがふっと切れた。
今年はどこにも応募していないし、そのつもりもない。
ワナビ熱が冷めてしまったということだろう。
今でも書くことは好きだ。
でも、素人文芸の枠でいきがってるのがせいぜいということなのだと思う。
「僕が認めた二次創作作家仲間」ではない人が、件の先生に声をかけられているらしいという噂を耳にした。
僕と同じように「中堅キャリアの良作作家」と言われていたその人は作家志望ではないはずだった。
そのアニメ好きが高じて趣味で二次創作文芸をしているだけで、創作を始めてまだ数年、オリジナルを書いた経験がなく、二次創作の発表作品数も僕より少ないというのは聞いている。
読書もあまりすることがないらしいのに何故なのか全く分からない。
マンツーマンで数時間色々な話をされ、数年中にデビューしろと言われたらしい。
僕はお願いして時間を取ってもらい、軽く話を聞かせてもらっただけである上、そんなことは言われもしなかった。
「才能の差でしょ」と妹に言われたけれど、多分そうなんだろう。
度々思い上がり、叩きのめされ、浮上してまた思い上がり、を繰り返しているだけだった自分には、「天性の才能」なんてただの夢物語だった。
それが本当に誰しもが夢見るだけのものだったならよかったのに。
「才能」という言葉、それが表すもの、僕も欲しかった。
言わないと、そのまま悪役にさせられるぞ。
言ったら、ケンカのような険悪な雰囲気になるけど、
”自分だけ悪い”のか、”両方悪いのか”は大きな違いだと思う。
1個人の経験ですまないのだが、そう思う。
自分は、集団発表の時にそれ感じた。
という内容を皆で話して決めて、
で、どう発表するかまで考えたんだけど……
お前のいってることや考えてることはおかしいって散々言われた。
その時に、二人の意見が違うだけで、勘違いとか誤解がお互いにあるはずだろ
二人(双方)の責任だと思ってたのに、言わないでいたら
その集団発表のメンバーから悪役・足手まとい扱いされたw
要するに、感情的になったり自分に都合の良いように相手を批判する奴の言ったことのほうが
皆の共通見解になる。だから、そういうときは両方の責任だよって、ちゃんと主張したほうがいいとおもう。
■追記
すぐ上?のコメントであったような、いじりとかスクールカースト的な意味で、そういう立ち位置にさせられているって
指摘の方が正しそうだわ。変な書き込みすまん。
と言っておきながら
と言うあたり、そもそも増田自身が「女性は誰もが常識的に恋愛のいろはを踏まえて行動している」と思い込んでいる。
つーか、そもそも女だって、「常識的に恋愛のいろはを踏まえて行動するべき」という圧力はかけられているんだけどな。
大いなる矛盾。
言ってることを要約すると、「俺は女のせいで恋愛のいろはを学べない非コミュになったんだ!女が責任取れ!」ってことだよなぁ。
恋愛したくてセックスしたくてたまらないのにそれができないコンプレックスとフラストレーションから、女のことを「やらせてくれない不親切な奴ら」と認識してしまっている。
マスコミで取り上げられるような華やかな女像しか見ていないのと、コンプレックスとフラストレーションの合わせ技で、女に対するイメージが歪みまくっている。
スクールカースト下位で、男にいじめられまくった経験のある女も存在するかもしれないということについては、考えもしないし想像もしないのだろう。
結局のところ、お互い様なんだよ。男も女も、恋愛やセックスにおける優位性を行使できるのは、モテヒエラルキー上位の人間だけ。
あと、セックスしたいという欲求が強すぎるにもかかわらず、自分が女から選ばれないために、女が一方的に男を選んでいるものと勘違いしているようだが、誰だって交際相手の選択権はある。もちろん非モテにだってある。
自分がどうしても付き合いたくないと思う女に迫られた場合、断る権利は非モテだってもちろん持っている。
女に対して非モテを受け入れることを要求するのなら、自分もまた、友達としてすら付き合いたくも無い女を受け入れなければならないだろう。
みたいな対立軸から、
に変わっているよね、ということが読み取れた。サークルとかバイト先とか勉強会とかインターンとか地元の仲間とか留学仲間とかのネットワークを広く密に持って、自分で面白い、ウケることをしているかどうかということで、スクールカースト(あまり身近じゃない言葉だけれど)的なランキングが決まっていく感じ。
学歴があまり関係なくて、むしろ学歴や国籍、住所、年齢、諸属性をまたいだネットワークを持っている人の方が格上で、レアなタグ情報があると更に上がる。
就職活動するときとかに、このランキングは顕在化したりしやすいのかもしれないね。むしろリクルートが作っ(てしまっ)た文化なのかもしれない。まあ勝ち上がり組以外の人たちは、楽しいやら苦しいやらだろう。mixiとかtwitterとかでネットワークの厚みが見えやすくなってるしさ。東大とか慶應とかの連中と付き合うけど、結構みかけるね。
「自分探し」文化の延長線上に出来た価値観というか、パースペクティブというか、な感じだね。オタク文化がしこたまやられてお洒落なオタクが出来てきたけど、あれの自分探し版かな。「ネオ自分探し」って感じ。一見全然自分なんか探していないようでいて、実はこういう人たちが求めることも、こういう人たちの重大な欠点も、変わってない。新しそうでいて古い現象なんだな。
あと付け加えることは、ネットワークって、脆いものだってことね。本人の精神状態如何で、ネットワークは厚いのに、ひとりぼっちになって鬱になったりね、そういうことあるわけ。だから結局ネットワークはツールや習慣に過ぎなくて、大事なことは、その適正なサイズを維持しつつ新陳代謝させることだったり、そもそも本人が健康でいることなんだけど、その辺はどういうわけか本人たちに見過ごされている気がするね。若いからね。
例えば二階堂奥歯さんの胸があと2カップ小さかったら自殺しなかったんじゃないかと、冗談半分本気半分くらいで思う。
だいたい何万年もかけて進化してきたのに、未だにオスを誘うために体の一部が肥大してるなんてナンセンス。
子どもができてから、必要なだけ膨れればいいじゃないと思う。そして子を育て終えたら萎んで無くなればいいじゃない。
生まれつき体の一部が欠損している人、逆に肥大している人がいれば皆気を遣うくせに、どうして乳の大小は明け透けに楽しげにどうこう言う。
小学校中学年のとき、学年に一人だけ腋毛のはえてる女の子がいて、陰でクスクス笑われてた。
クスクス笑ってる子たちは、身体測定のあととか、「見して見して」って私の服をつかんで襟ぐりから胸を覗き込んだ。
たぶん私も陰でクスクス笑われてんだろうなと思いつつも、本気で嫌がったりしたら余計からかわれるなと思ってへらへらされるがままになってた。
そういう私をクラスの学級委員長みたいな、女子グループからは浮いてるけど潔癖で真面目な子は軽蔑するような目で見ていた。
小学校を卒業するとき、母がお姉ちゃんの下着を買うのと一緒に、私も初めてブラジャーを買いに行った。
下着ショップの綺麗なおねえさんに「お嬢様のサイズですと、EかFになりますね」って言われたときの、母の戸惑った顔が忘れられない。
中学生のときは一回も水泳の授業に参加しなかった。私の仲良くしてるグループの子も皆参加しなかった。
スクールカーストの所謂ナードのチームにいたと思うけど、皆、実はむだに胸がでかかった。
でも、そのぶん胸の話とか異性の話とか避けてて、「自分達が女である話」には絶対ならなかったから、居心地よかった。
でも、女の子の一部は「でもあいつは胸がでかいからじゃん」「でもあれは巨乳じゃなくてただの鳩胸じゃん」とか言ってた。
いい先生だろうとそうでなかろうと、その人が女で、胸があれば、教師としての能力とか人柄は無視ですかそうですか。
違うクラスの男の子と図書室の狭い通路ですれ違うとき、相手の背中に胸がぶつかってしまったことがあった。
数日後、いきなりその子に告白された。ものすごい恥ずかしくてみっともなくて、死んじゃえよこいつと思った。
大学生のとき、派遣バイトに行ったら、その派遣先の担当者がものすごい感じの悪い男の人だった。
あるときバイトの子が皆着替えてるときに更衣室に当たり前みたいに入ってきた。「ごめん」の一言も勿論なし。
で、その日から私だけ評価がプラスにされて、実際の売り上げが良い子よりも給料が多くなった。
派遣じゃなくて直接雇用でバイトしないかと言われたけど断った。なんて気持ち悪い人がいる会社なんだろうと思った。
母親にも、「あなたは胸おっきいからあんまりへんなところうろつかないでね」と言われた。
へんなところなんて行きませんし、胸が大きくなかったらへんなところ行ってもいいみたいな言い方だなと思った。
それに、へんなところに行かなくても、私の胸にどうこう言うへんな人はどこにだっているのに。
頑張って筋トレして体脂肪率18%くらいまで落としたことあるけど、胸は1カップしか減らなかった。
久々にあった友達に「痩せたよね」「でも、相変わらず胸はでかいけどね(笑)」と言われた。
今はもう大人だから、多少のことでいちいち傷ついてなんかいられないし、
周囲が求めてるものに答えるのが自分にとってもいいことだと分かってる。私の胸を求める人がいるなら私もそれを利用させてもらう。
襟ぐりが開いててウエストが絞れてる服、体のラインが出る服のほうがスタイルがよく見えるから、胸が目立つことを承知で着るし、
「胸でかいからいいよねー」みたいなこと言われれば「胸だけでかくてもねー」「いろいろかき集めて寄せてつめてるだけだからねー」と笑って返す。
でも、心の奥底にある、周囲の勝手な「胸」への押し付けに対する怒りと、それを利用する自分への軽蔑は消えない。
どこか、虚勢を張っていないとすぐに周りが皆敵になる、みたいな緊張感を感じさせるから。
乳房に翻弄される自分の性への不安とそこからの開き直りというのか。
リリー・フランキーがナンシー関との対談で「地味な巨乳とか、萌える。巨乳なのに地味みたいな」とかなんとか言ってた。
で、横に裁断機使ってる事務員の巨乳のイラスト。全然面白くないと思った。そんなのでお金貰ってるなんて意味わからない。
世の中の派手な女と地味な女の比率を考えれば地味な巨乳のほうが圧倒的に多いのに、なに言ってんだろうこいつと思った。
はしごたんが暴れまわってた頃、巨乳に対して憎悪を燃やすエントリをあげてて怖かった。
「お前らは太ってるからマンカス溜まりやすくて臭いだろ」みたいなこと書いてあった。
なんでそんなこと言われなきゃならないんだろうと思って悲しい一方ですごく腹が立った。死んじゃえよこいつと思った。
ツイッターかの何かの投稿で、「マスカラを塗りやすくするために温め中」って胸の谷間に挟んでる画像を上げてる女の人を見た。
死んじゃえよこいつとまた思った。喜んでそれに反応してる奴らもまとめて死んじゃえよ。
「どうせ私は貧乳だよ~!」「貧乳いいよ!俺は好きだよ!」みたいなやりとりして喜んでる奴らも死んじゃえよ。
胸はみんな、あとから膨らませたり入れたりするものだということになれば皆納得するし世の中平和じゃない。
月経の前になると、私の肥大した胸はさらに1サイズ分くらい腫れて熱と痛みを持つ。ものすごく惨めな気分になる。
でも、そんなときに2ちゃんの女性の集まる板を見ると、同じような人が胸の下に保冷剤をいれて痛みをやり過ごしていたりする。
そういう書き込みを見ると、なんだか少しだけ心が安らぐ。理不尽に抱いた凶暴な感情も少しだけ和らぐ。
できることならずっと、こういうやさしい傷のなめ合いみたいな同調だけし続けて生きていたい。
「お洒落じゃなくても、清潔感があればいい」という言葉に「じゃあ具体的にどうすれば」という人もいるだろう。
ここにひとつの実例を記録しておきたいと思う。
出会った時の印象は「暗い、いかにも理系くん」。
でも、話してみると意外とウマが合って、いろいろあって付き合うことになった。
彼の外見は、
・足短い、頭でかい
・真っ黒な剛毛、一応短くしてますってだけの髪型
・古着屋で買った、くすんだベージュのミリタリーコート(冬中いつもこれ)
・おじさんぽい皮のスニーカー
・まゆげぼさぼさ(太い)
よく見るとかわいい顔してるのに、これはもったいないなーと思った。
本人は、こぎれいにしたいという気持ちはあるけど、どうしていいかわからないという。
で、買い物や、服のコーディネートに関して、全面的に相談に乗ってほしいと言われた。
そして、お洒落な知人男性から知恵を借りつつ、試行錯誤で実行したのが以下のステップである。
1.美容院に行った
一人では怖くておっさんがやってる床屋にしかいけない!というので、一緒に美容院に行った。
社会人なので染めることはしなかったけど、多すぎる髪をすいて、短めに切ってもらった。
ワックス等あまりつけなくても維持できる髪形。(沢村一樹みたいなの)
これでかなり劇的に垢抜けた。出来上がりを見て思わず笑ってしまったほど。
あと、私が持っていたアイブローお手入れセットで眉毛を整えた。
(本当は美容院でやってもらえばよかったのだが、当時それができることを知らなかった。)
それから、色味がきれいで、ジャストサイズのトップスを何着か。
とにかく、着古してよれてる、暗い色の服ばかりだったのでこれを一新した。
「着心地が楽」というだけで選んでいた、大きめサイズから、体にフィットするサイズに。
ここまでで、ぱっと見の「暗い」という印象はかなり変わった。
ずっと着てた微妙すぎるミリタリーコートのかわりに、アバハウスでジャケットときれいめダッフルコートを買った。
靴はマルイでカジュアルな革靴と、ABCストアでほっそりしたシルエットのスニーカー(アディダスかな?)を。
遠距離恋愛で、リュックにぎっちり荷物を詰めて会いにきていたので、モノコムサで鮮やかな黄色のキャリーを買った。
それから、ポーターの小さい肩掛けバッグを買って、財布・携帯を入れるようにした。
時計をしていなかったので、FOSSILのファッションウォッチを買った。
デニムも、ディーゼルでラインのきれいなのを一本追加。これが本当に足が長く見えて驚いた。
ステップ2までは3ヶ月くらい、ステップ3でさらに半年くらい。
結果としては、ずいぶん明るい印象になったし、さわやかになったと思う。
(と言って、モテになったわけではないけど。人見知りな性格が問題。)
お洒落!ではないけど、清潔感がある、見た目がプラスにもマイナスにもならない状態ではあると思う。
今でも自分で服を選んだり、服屋の店員と話すのは苦手なようだが、ワンシーズンに4,5着は買って、新陳代謝させている。
試行錯誤する中で、ユニクロでもなんでも、とにかくジャストサイズで、きれいな色の服を選ぶのが大事だと思った。
黒、グレー、カーキだけじゃなくて、さし色を入れていくこと。
本人は気に入っていて使い勝手もいいかも知れないけど、客観的にはやっぱりちょっと違和感がある。
というか、そのひとつのアイテムだけで、貧乏くささがMAXになる。
店やアイテムの選び方について、上記のは本当におしゃれな人から見れば笑っちゃうようなチョイスかも知れないけど、
そういう「おしゃれ界隈」での評価にとらわれずに、まずぱっと見こぎれいにしていくっていうのも、第一歩としては大きいのではないだろうか。
お洒落な人に「お洒落」と認めてもらうことが目的ではないからだ。
学生さんだと、スクールカーストやファッションによる友人選択が行われていて、難しい面もありそうだが…。
追記
増田に初めて書いたのですが、いっぱいブクマされておびえています。
特定怖いので少しだけ変えました。
小心者なのに深く考えず書いてしまい申し訳ありません。
私はもともと洋服は好きだったのですが、メンズにはあまり興味がなかったです。
あと、「プラスのお洒落」というか、特徴あるアイテムを買って凝った格好をするのが好きなのです。
つまり、私自身は服オタの気があるということです。
それで、「プラスマイナスゼロ」っぽいメンズの着こなし(と言うほどのものでもないが)と言うのをいろいろ試行錯誤しました。
そのときのノウハウのようなものを参考にしていただければなーと思って書きました。
完全にスタイリストみたいに振舞ったのではなく、二人三脚でいろいろやってみた、という感じです。
それから、さし色と言うのは、モノトーン(白黒グレー)や地味な色合いの服装をしたときに、
一色きれいな色(黄色、緑、ピンク、紫など)を加えることでワンポイントにする、というテクニックです。
グレーやカーキのような、くすんだ印象の色でなく、原色でもない、普通にきれいな色を指します。
さらに追記
「きれいな色」の例示ですが、実はこの質問に答えるのすごく怖いですね。
私だって、自分のセンスにそんなに自信があるわけでもないですし。
実物を見て選んだわけではないので、あくまで参考で。私個人の趣味・感覚です。
たとえば全身白黒でも、下のようなマフラーを追加するだけでアクセントになると思います。
(3色とも)
http://www.selectsquare.com/greenlabelrelaxing/g252301si/
ベーシックなジャケットのインナーにこんなのとか。(黒とグレー以外の色参照)
http://www.selectsquare.com/journalstandard/g240564/
定番チェックシャツならこんなのも。
http://www.selectsquare.com/quadro/g249131/
あと、お金ですが、ユニクロに行ってトップス2着とデニム1着で1万円くらい。
美容院は安いところ探せば3000円であります。
靴は奮発して2万円くらい(ここはあまりケチらないほうがいい)。スニーカーなら1万円。
あと30分で講義がある、だから30分暇なんだ。
今、経営学科で偏差値46?ぐらいのE?F?ランの大学生をやっているんだけど、昔はもうちょっとマシな偏差値の学校、いや、まぁ、どうせチラ裏だしほんとの事言うと偏差値でいったら57くらいのちょっとマシな公立行ってた、もうちょっと昔で言えば中学じゃTOP10くらいにはいて優越感に浸ってたし、小学生に戻れば学年一番で頭がよくて人受けも人生の中で一番良かったな、スクールカースト的にはまぁ全体的に地味目でも普通な感じだった。
あぁ、なんかもう最近となっては慣れたんだか、昔のことを忘れたんだか、わからないけど今と昔の比較なんてあまりしなくなってきた、しても何の意味もなさないのは理解してるつもりだし、でも今日までの遍歴を他人と比べたり考えたり、何の進歩、何の利も生み出さないことを知りながらも繰り返して悶え、鬱になり、躁なり、なんだか最近鏡を見てると鏡の中の自分が自分と感じられない有様だ
後20分か、あーあとこの文章は練ってない、ただの走り書き、読み返したりしてないから・・・嘘です、ちょっと気になって読み返しました。
で、なんだったかな、そうそう高校で弓道部だったんだ、これが以外と県内有数の施設でさぁ、結構強かったんだよ?
あんまり真面目にやってなかったんだけどさ、レギュラーにはギリギリ入ってた、インターハイは進出直前で前年覇者に当たって死んだ、シードにしとけよ前年優勝者くらい。
で、今通ってるFラン大学にも弓道部があってさ、これはもう鳴り物入りって感じで入れば、優遇されるんじゃないかって考えと、少し弓が引きたくなってしまったのが相まって入ってしまった。まぁ、雑用があるとか先輩におびえるとか雑用で休日で潰れるとか、は当たり前だよな一年だし、やってきたことだし。
ただ、弱かった。高校の後輩と今の先輩をぶつけたらきっと惨敗では済まない倍の点数差をつけられるんじゃねえかと思ってしまうくらい、それと自分の実力も一年生に戻ったが如くボロボロだった事とか、良くある先輩への不満なんかで、色々募っていった。
そんなこんなで何とか春学期を終えて、これから夏休みって時だった。
なんだったかな、夏休みも当たり前のように
あーもうだめだ時間が来た、9階から隣の棟の5階とかねぇよ、じゃあ、もし読んでくれた人がいたのなら、また後で
追記
こんなのを読んでくれた物好きな人が居たもので、今度から教室間の移動が億劫になる数だけコメントくれた人のことを思い出すことになりそうです。
さてまた後でとか言いながらもう5日くらい経ったかな。
今日は1コマ空いててあと一時間ちょっと時間があるから、またダラダラ書きますよっと
そうそう夏休みに入るところからだった。
夏休みに入るとほぼ同時に部活の練習が組み込まれていたんだよね、それでさ、練習場所がなんか毛虫が上空から降ってくるという野外練習場で、夏休み前に休日返上して掃除しに行った。まぁーショボイ、暑い、泥だらけ、本当に毛虫が降ってきた。
またこういうところで過去を持ってきてしまうところからして未練タラタラな自分は、あー高校の頃は、大会が自校開催できるくらいの立派な道場で好きなだけ、やりたい放題やっていた頃が懐かしい羨ましい妬ましいとか思いながら、初日の練習を次の日に控えて準備をしていた。ふと次の日の練習時間が何時からだったか知らないことに気づき同期に連絡を取る、俺は始発に乗っても間に合わない時間ということを知り、なんか不満が爆発。
まったく、最近の若者は無気力なくせにすぐキレるから困る、ちなみに松岡修造はキレるって言葉が一番嫌いなんだってよ。
次の日、無断欠席。その次の日無断欠席。その次のつぎの(ry
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ(ry
とまぁ、入ってくる留守番電話、着信、自宅の呼び鈴にビクビクしながら大学の夏休みは終わった。
この夏休みの事、不満爆発の原因(本題)も事細かに語るのは大変だから、必要に応じて小出しにしますか。
そしてぇ、秋学期の始まり。
あれだ、最初のほうに述べたとおり、そこそこの学校からFランに転落してきたから、未だにこの学校には馴染めていない、金髪のにーちゃんねーちゃん、根暗が沢山だし、タバコも嫌いだ。二人組みを作るのに本格的に苦労はしてないけど友達が居ない(本題)、ほぼぼっちだといっても差し支えない。
で、無駄に長い通学時間は読書して潰してる。最近は海辺のカフカ(上)とネガティブハッピーチェンソーエッヂと化物語(上)、グラスホッパーをほぼ同時に読み終わる。最早、本が友達になってきた。
西尾維新はいいよね、言葉遊びが好きです。でも表紙とか見るとあんまり他人には薦められないっていうか、そもそも自分の気に入ったものは他人に見せたくない、自分の中で自己完結させたいから他人には薦めないという心の引き篭もりっぷりを発揮している自分は寂しい奴のような気がしてなりません。
じゃあ本題に入りますか。
部活のことですけど、無断欠席を続けていてもう部内には居なくなった人になったと同期が教えてくれました。
実質退部。その理由
なんで友達を作れない、作らないのか。その理由
そのー、今の自分が大嫌いなんですよ。
予備校通って、受験勉強してきたつもりになって、自分の生活、楽しみを投げ打った結果Fランにしか受からねぇ。
春休みはそんな無力感で何もできませんでした。今までの自分はなんだったのか、過去の自分との対比から始まり、今後の生活、将来、周りへの影響、今までに無い程の自己嫌悪。いろんな物が急に押し寄せてきたような、そんな気がして動けないままに動き方を忘れた。
そして、そのまま学校は始まり、何となく居場所がなくて、部活に何となく入り。
何となく日常の授業をこなし、ノートのために友人らしきものを作り。
ある日、周りの人が自分と通じる、というか同じような、人であるという考えが思い浮かんだまま離れなくなって、自分と同じ場所に来てしまうような、自堕落な、自分と同じカテゴライズにされてしまう人間は嫌いだと、そんな風に思ってしまった。
その考え方が元で、この学校に属する人とは仲良くできる気がしない、自分を認めることができない、部室に居る先輩も、隣で授業受けている人も、教えてる先生も、誰一人、尊敬できない、認められない、居ないほうがマシだ、と思ってしまう。
いやぁー、我ながら酷い文だ、読み返す気にもならない、ちょうど後10分で次が始まる。
英会話が強制的に組み込まれてるのってどうなのよ、まったく。
追記の追記
一ー
というわけで、化物語で検索してこんなものを読ませてしまって申し訳ない。
その1 じゃなくて そのぉ っていったつもりだったんだ。
ブログもmixiもやってないからコメントが付くといちいち嬉しいね。続きが読みたいなんて言ってくれる人が一人でもいれば死なない限り続けると思います。
で、読み返したけど、読みにくいし、全体的にちょっとアレだし、句読点の場所とか漢字おかしいとことか結構あるよね、直さないけど。
現状ね。もうほんと最近さ頭働かしてないんだ。
最近どころじゃねぇ、もう半年くらい何にも考えてないといっても過言じゃないね、現状をどうにかしようとか、彼女つくろうとか、勉強しようとか、資格取ろうとか、オシャレに気を使おうとか(パーカー、ジーパン、シャツで成り立っているよ)、考える事をしなさ過ぎて、行動もしないし、それが続いてて、疑問を感じなくなって悪化している。そんなスパイラルにはまっているんじゃないかと、思ってる、ただ悪いことだとは、思えなくなってる。
どうしたいのか?と聞かれて今これだけの事が頭に浮かんだ、現実じゃそんなこと聞いてくれる人いないから、現状の打開なんていう事からすら無意識に逃げていたっていう事に気が付かされたよ、逃げていたというか、現状に対しての諦め、拒絶、無関心というのが正しいかもしれないかな。
唐突だけどさ、今週休4日なんだ、羨ましいでしょ?
これがまたいけないのかもしれない、今までの人生でこんなにボケッとしていることはなかった。
大学に行くまでにさ、二時間半も掛かってしまうと、授業を固めたくなっちゃうんだよ。
それにそんな、授業自体は難しくないし、宿題もそんなないし、レポートとかまだ2、3回しか作ったことないし、いいのかよこの学校。
あ、やばい、すごいことに気が付いてた。まだ大学に入ってから、自宅での勉強時間4時間行ってねえ。
ここまでくると少し自分に恐怖を感じちゃう。
追記
悪ふざけが過ぎたよ、ごめんなさい。
体育問題の主な論点は以下の二点だろう。
まあもうどうせ何を言っても受け入れてくれないだろうけど。
そりゃ「目の前にあるからとしか言いようがない」ならそういわれても仕方ないだろ。いくら小難しい言葉を並べたってそれが現実に当てはまるかどうかは別なんだし。社会人になれば運動能力より学歴・金稼ぎの能力で評価され、それらは知的水準と関係あるわけだから社会の学校化が大人になっても続くとかまで心配しなくてもいいように思うが。というか学歴による収入差が明らかにあるし、知的能力にも明らかに関係あるのに、なぜ知的水準が学校だけでなく社会でも評価されないと思えるのかわからん。認知が低いのだって多くの人の周囲ではスクールカーストがなかったからとも言える。スクールカーストがある環境にいた人がすべての人がそれを経験してるはずだと思い込んでるということじゃなかろうか。
まあもうどうせ何を言っても受け入れてくれないだろうけど。「どうせそのブログ主の個人的な感想でしょ?」なんつって。
でもいいわ。このログをどこかで見てくれている誰か、未来のどこかでたまたま検索で引っかかって読んでいてくれる誰かのために書く。
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2005/03/post_6.html
私が最近書いてきたスクールカーストについて、非常に鋭く分析されています。アメリカの話ですが、ほぼ日本の現状と同じです。あまりにも内容が濃く、まだ消化しきれていないのですが
http://blog.katei-x.net/blog/2008/01/000442.html
と
http://www.blog.net/nerds-jp.htm
の類似点。
知的水準は、他の条件、たとえば外見上の見た目とか、カリスマ性とか、運動能力といったものにくらべて、はるかに低い評価しか与えられなかった。
中高生にとっては、「一緒にいて面白いこと」「外見的魅力に優れていること」「運動能力が高いこと」が至上の価値を持ちやすいため、スクールカースト上位層は、自然とそういった者で占められることになる。
http://note.masm.jp/%B3%D8%B9%BB%B2%BD/
それが社会へ
http://mblog.excite.co.jp/user/manabisuto/entry/detail/?id=2656464
「実をいうと学校化社会とは、「家や地域社会が学校の出店になる」あるいは「学校的な機能をバックアップすることが、家や地域社会の機能だという風に自己認識する」要な状況だと僕は再定義します」(宮台真司「透明な存在の不透明な悪意」より)
そして元へ返ると
10 代の子どもたちは、かつて社会でもっと大きな役割を果たしていた。産業化が始まる前は、どんなティーンエイジャーも、何らかの形の徒弟だった。商売かもしれないし、牧場かもしれない。軍艦ということもあったろう。彼らは、勝手に自分たちの社会を作ったりはしなかった。大人社会の若い一員だったんだ。
今の大人には、これといったティーンエイジャーの使い道がない。オフィスにいたって邪魔になるだけだろう。だから、通勤の途中で学校に放り込んでいくわけだ。週末旅行に行く時に、ペット預かり所に犬をあずけていくのに近い。
実社会で大人たちが集団を作るとき、普通、それには何か共通の理由がある。リーダーは、結局、それがいちばん得意な人間になる。ほとんどの学校で問題なのは、そこに何の目的もないことだ。表向きの目的は学問ってことになっているけど、これは冗談みたいなものだ。それがいちばん得意な連中でさえ、まともには取り合っていない。でも、絶対に階層はできるはずだ。そこで、子どもたちは、無からそれを作りだす。
さしたる基準もなくランクづけするとどういうことが起こるだろう。それを表現する言いまわしがある。そういう時、ぼくらは「もはや単なる人気投票でしかない」というんだ。そして、これこそが、まさにアメリカの学校で起こっていることだ。この集団には、現実的な目的が何もない。地位の裏付けになる自然な能力の尺度がない。ランクづけは、ほんもののテストではなく、自分のランクを引き上げる能力を主体に測られる。ルイ 14 世の宮廷みたいなものだ。外部に敵はいない。だから、子どもたちはお互いを敵対視して、容赦ないゼロサム競争に突入するんだ。
前増田への返答としては
不運なことにスクールカーストの認知度は低く、「運動が出来ないくらいでいじめられるわけがない」「そんなに運動音痴が嫌なら上手くなれよ」「スクールカーストは僻みからの妄想」とリアルでもネットでも言う者がいるが、「そんなに言うならお前さん、サッカーの試合でオウンゴールしまくってみなさい」と言って、本人に身をもって体験させてあげると良い。
9割の根拠について。
目の前にあるからとしか言いようがない。ハンバーグがひき肉で出来てるという根拠を示せとファミレスでジュージュー言ってるハンバーグを目の前にして言われてるような気分だよとしか。
このカーストが低い人がうすうす気がついて担任に相談すると「そんなのはない!」と言い返す。でも、中間層以上の生徒には気づかなくとも、下の層の人間には、薄っすらとしても見えているのが分かる、あるものはあるのだ!また上層部には、断層としてではなくグループとして、並列に見える人もいる。