はてなキーワード: アーティストとは
もう30歳になるのだが、女性声優に対してのガチ恋 (疑似恋愛) がやめられない。
最後に自分の周りにいる人を好きになったのが中学のときで、声優へのガチ恋が始まったのが高校時代なので、人生の半分近くまともな恋愛ができていないことになる。
なんとなくその恋愛遍歴 (?) を書きたくなったので書く。キモいな~と思いながら読んでもらえれば。
中学時代、ニコニコ動画の影響で少しずつオタク向けアニメを見るようになったのだが、高校に入ってからより一層のめり込むようになった。
高校ではあまり周りの女子と話す機会がなく、恋愛感情を抱くこともなかった。
かわりに、高校2年の頃に、自分の好きなアニメに出演していた声優Aさんのことを好きになった。初めてのガチ恋である。
Aさんは自分より7歳年上で、正直なところそんなに美人ではないのだが、声・歌声が異常なくらい可愛かった。正直今でもそう思う。
ただ、当時はアニメのイベントに参加できるような環境にはなく、ラジオを聞くような習慣もなかったため、そこまでドハマリするわけではなく、1年も経たないうちにこのガチ恋は終わった。
高2の終わり頃から高3の初め頃に自分の好きなアニメに出演しまくっていたBさんのことを好きになった。
若いのだが超演技派で、顔もそれなりに可愛かった。
また、当時もまだ声優ラジオを聞く習慣などはなかったのだが、Twitterなどでその本人の情報は入ってきており、どうやらオタク気質らしいということで性格面でも推せる、となった。
大学進学で上京し、イベントに参加できるようになったというのも大きいだろう。
金銭的な問題もあり、全てのイベントに参加できるというわけではなかったが、興味のあるイベントにときどき参加するようになった。
親元を離れて自由に生活できるようになり、よりのめり込んでいくことになる……と思ったのだが、あるとき、Cさんが現れた。
Bさんへの恋心が若干薄れてきていた大学2年生の頃、Bさんが出演するイベントにCさんがいた。
Cさんは同い年の声優で、そのイベントで美貌と圧倒的なトーク力を発揮していた。その姿に一目惚れしてしまったのだ。
Cさんはラジオ声優として人気があったこともあり、イベントで興味を持って声優ラジオを聴き始め、Cさんにどっぷりのめり込んで行くことになった。
また、当時自分の好きな作品に何本も出演していたというのもガチ恋を後押しすることになった。
これまでガチ恋相手がコロコロ変わっていたのでCさんへの想いも数年で終わるのだろうと考えていたのだが、気がつくとコロナがやってくる2020年頃までガチ恋し続けることになっていた。
一目惚れのきっかけになったイベントが2013年だったので、7年近くCさんへガチ恋していたことになる。
自分の興味のないコンテンツにCさんが積極的に関わるようになったことや、コロナでイベントがなくなったことが影響したのか、2020年頃にCさんへの興味が薄れていった。
代わりに2020年の終わり頃に自分の熱中していた作品に出演していたDさんにガチ恋した。
当時、Dさんはその作品の宣伝番組やライブに積極的に出演していて、その切り抜きなどを見るたびにその容姿や人柄に惹かれていった。
Dさんはアーティスト活動も積極的に行っており、ライブではかっこいいパフォーマンスを披露する一方で、MCでは可愛らしさや自身の弱さを見せてくれる。ズルじゃんそんなの。
しかしながら、この歳でガチ恋を拗らせるのはかなりキツく (年の差もあるし)、また、Dさん自身の活動に関しても色々思うところがあり、いい加減ガチ恋なんてやめてしまいたいと思っているのだが、まったくうまくいかない。
ラジオは聞くのをやめたし、参加するイベントも最小限に抑えている。
となると、マッチングアプリなどに手を出してみるべきだと思ったりもするが、別にDさん以外のそこら辺にいる女性と恋愛がしたいわけではないし、結婚願望もないのでなかなか気が進まない。
「一方的な愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元のキャラクター」だとか、そのあたりのことだ。
人から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。
近日、「蛙化現象」という言葉があたかもミームのように流行った。流行ったそれ自体は誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。
あるとき自分を分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。
これが、適当な意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすときの根底にあるんだろう。
己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である。
だから、「自分のいちばん近くで自分を理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。
ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。
だから、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的な愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。
本題。
私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。
特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである。
ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。
「自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。
私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。
世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズを自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。
そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。
要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。
だから凄く辛い。
「自身の尺度で他人の持つポテンシャルや性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。
なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分の盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。
Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空の人物の言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。
ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。
とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路やバックグラウンドを空想してしまう。
まあ、ただ考察するくらいなら至って個人の自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。
どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライドと自分の性質がそれを許してくれない。
薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。
私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。
だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。
私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。
拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察が事実であろうと、他人が私の秘めたる感情を時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。
自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。
そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉を自分の中で大事に大事に仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。
あくまでも自伝であるのに、その言葉に共感したり感銘を受けている私が。
だけど、好きなのである。どうしても。
人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉と性格に惹かれる。
けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。
だから、絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。
私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。
乱雑でこんがらがったままだけれど、自分の感情を推察する余地を他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。
最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである。
「他人に一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとからの好意を受け入れたい。自身の根本を推察されることを拒絶したくない。
とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。
このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います。
もちろん売れないってのは世界規模とか日本のチャートで上位にいないって意味で
音楽だけでちゃんと生活できてるし、人によってはそれなり稼いでる模様
ジャンルは、雑にエモ(←こういう括り方したら本人とファンにガチギレされそう)、HIP HOP、EDMだね
そもそも、有名DJ(EDMアーティスト)やラッパーのカバーが結構出てるけど無風だよな
↑YouTubeに無かったので各種サブスクで聴いておくれ。代わりに下記↓
↑ 有名どころ。タイアップで有名な曲をもう1曲↓
↑このバンド、個人的にめっちゃ売れて欲しい。STEPとか前向き曲も好きだけど、とりあえず下記↓
出てないアーティストなら
Operation Ivy/Sound System
Less Than Jake/All My Best Friends Are Metalheads
Ska Tune Network/Buddy Holly(cover)
この辺おすすめ
東日本大震災のあったこの年、カオスラウンジのメンバーである梅ラボが
画像掲示板のふたばで作られた「キメこな」を丸パクリしたことが発覚
リーダーの黒瀬陽平が「ネットの画像は好き勝手に使わせてもらう」と明言したことで
pixivを巻き込んだ大炎上となったことで一躍有名となった。
当時のカオスラウンジは
アート業界からは村上隆、オタク業界からはpixiv、言論業界からは東浩紀という
三業界からの強力なバックアップを受けた一大プロジェクトであった。
しかし、この炎上が原因となり、村上とpixivはカスラジとの関係を断ち
以降は東浩紀率いるゲンロンのバックアップの下で活動していくことになる。
当時、東浩紀は「福島もチェルノブイリのようにダークツーリズムで客を集めよう」との考えから
https://togetter.com/li/609484
また、2015年には「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」を開設。
「表現の不自由展」で有名になったあいちトリエンナーレ2019には
2020年、当時カオスラウンジ社員の女性が黒瀬のセクハラ、パワハラを告発し告訴。
後に「調査した結果そのような事実はなかった」として女性側を逆告訴した。
2022年に「セクハラはあったがパワハラはなかった」と判決が下ったが、女性側は控訴している。
なお、黒瀬は本件の責任を取りカスラジを退任。後任は藤代嘘となった。
2011年の炎上の当事者である梅ラボは、本件には無関係で被告にもなっていない。
本人曰く「黒瀬らと被害女性との話し合いの仲介をしていたが、裁判を避けられなかった」として
同時に「契約違反があった」としてカオスラウンジを提訴しているが、違反の内容や裁判の結果は明らかになっていない。
2013年8月にキュレーターとして「お分かりでしょうけれど、私は画家であることをやめていません。」展を開催した。
はてブを含むネット上で落合陽一は過剰に持ち上げられるか過剰に貶されるかのどちらかで、バランスの良い評価が無い気がするので、なるべく色眼鏡を外すよう努めつつ個人的な見解を書く
作品の評価に好き嫌いはあると思うが、世の中の「メディアアーティスト」たちとポートフォリオを並べた時に上位にいることは間違いないんじゃないか。作品が貶されてるところも割と見るけど、メディアアートって良くも悪くもこんなもんでしょ。個人的に彼の作品は割と好き
発表文献リストは長いが、アカデミアで「業績」にカウントされる査読つきフルペーパーは少なく、いわゆるポスター発表・デモ発表の類、査読なし会議や競争率の低い論文誌での発表が多い。したがって「研究者として膨大な実績がある」というような評価は明らかに誤り。ただ、トップレベルではないとはいえ、世の中の「准教授」の標準くらいの業績はあると思う
彼の研究室の学生に話を聞くと、先端的なイベント・企画に参加させてもらって得難い経験をしているようで、面白そう。ただ、研究指導はほとんどされてなさそうで、勉強や研究が苦手な人が学位を取りたい場合は辛いかな…
これは明らかに向いてない。瞬発力があるタイプではないのか気の利いたコメントが出てくる事がない…というか、むしろ何を言ってるのか分からず司会者が困ってるシーンに良く遭遇して見てて辛い。滑舌も辛いので、この仕事を続けるつもりなら最低限ボイトレは受けてほしい
政府系の会議体の構成員などの仕事、これは便宜上「有識者」と言われるが実際のところ特に有識ムーブは求められてない事が多い。ぶっちゃけ私もやったことあるけど「各界の声を聞きました」という証拠を残す目的が主で結論は初めからだいたい決まってる。彼は名前が売れてるし似たタイプの人材がないので、特に裏の事情などが無くとも政府から声が掛かりやすいのは理解できる。
ここ20年くらいでアニメを作ることが社会的に認められてきたために、参入してくる制作者たちが基本的に「クリエイター」ではなくなってしまった結果です。どういうことかと言うと、キャラクターをきれいに作るだけなら、普通の人が技術を習得すれば、それなりにできるようになります。でも、そこに魂を入れられるかどうかが、クリエイターかそうでないかの違いなのです。クリエイターというのは、もともとそういう資質を持った人が、自己修練してクリエイティビティを高めてくことによってなるもので、大学や専門学校で養成できるような甘っちょろいものではありません。
わかりやすい例を挙げると、京都のお土産の中には、とても高度な技術で作られている民芸品がたくさんありますよね? でも、それらは「作品」ではなく「工芸品」と言われることが多い。技術だけで作ると、いくらきれいに作ってもそうなってしまうんです。一方、ゴッホの絵は一般的な意味できれいじゃないから「工芸品」にはならないけれど、数億円という評価額がついたりする。
それはなぜか? そこにアートとしての作品性があるからです。アートは工芸品のレベルを超えます。つまり今のアニメ業界の制作者たちは、工芸品を作っている技術者でしかないのに、アーティストだクリエイターだと嘘をついているんです。他のジャンルもそうですけどね。
だけど、僕は「魂が入っている」という言い方は個人的に嫌いです。なぜかと言うと、「魂」という言葉は誤解を生みやすいからです。「魂を入れれば作品になる」という説明がなされた瞬間に、「全身全霊をかけて一週間不眠不休で作ったから、魂が入った」とか言い出す輩が現れる。「作品」かどうかの判定基準は、そんなに生やさしいものではありません。
https://char-blog.hatenadiary.org/entry/20100811/1281549867
AIに限られた話ではない
現代においてアニソン歌手ってのは、アニサマを代表とするアニソンフェスなどに、アニメ単体作品依存ではなく、単体アーティストで出るような、多くのアニメOPEDなどを手掛けてきたサブカル系専門のアーティストのことだ。
非声優でありながらアニメ界隈にガッツリコミットしている人々、というニュアンスを加えてもいい。
具体的には、藍井エイル、LiSA、May'n、鈴木このみ、ASCA、やなぎなぎ、オーイシマサヨシ、いとうかなこ、みたいな人々だ。
ユニットを入れるならClaris、GARNiDELiA、Kalafina、fripSide、EGOISTみたいなのも挙がる。
しゅんき氏の、ラニーノーズ、Runny Noizeに対するファンとしての失敗に関するnote(https://note.com/syunki0910/n/n0bbc0a2e4b96)が話題になり、
それにより「推し活は、推しが理想と違った場合は呑み込んで応援するか離れるかしかない」という言説が出回っているが、私は少し違う意見だったためその旨を記す。
以下はしゅんき氏が記事内で挙げた、何らかの推し活をするうえでのファンのパターンだ。
この2パターンがいて、両者は分かり合うことができないということには共感をする。そして本記事は、②であることが多い立場からの発言である。
また、こちらの記事(https://note.com/syunki0910/n/n9e7ab2259c1c)の嫌われた原因の項目で書かれている、「自分の振る舞いはおかしなことではない」という点も、一部は理解することができる。
私のスタンスは、
・人には他人を傷つけたりその自由意思を妨げない限り、発言の自由は担保されるべきである
・プロのアーティストが生み出した作品に厳しい意見がつくことは(誹謗中傷や言葉選びによっては許容されないが)ある程度想定されることであり、その発信自体は叩かれるべきではない
というところだ。
前置きが長くなったが、以上のようにしゅんき氏に一部共感するところがある人間の視点から、問題を分析したいと思う。
しゅんき氏は、noteの中で、「人がどんな感情を持つのもどんな行動をするのも、基本的には自分勝手である。勝手に人に感動したり怒ったりするのだ。誰でもそうだ。人間はそういうものなのだから、別になんの問題もない。」と述べている。この一文はまったくその通りである。だから「推しに不満を持っていても、不満を吐き出しながら応援する」という行為自体に問題はなく、「推し活は~すべき」ということには当てはまらない。
特に規模が大きいアーティストになればなるほど、様々な葛藤を抱えながら応援しているファンはいる。私が今回記事を書こうと考えたのは、冒頭に述べた「推し活のファンの在り方二元論」に異議を唱えたかったからだ。あのような言説が広まると、多くの葛藤するファンが「自分は推しを応援する資格はない」と自分を責める原因になりかねない。「どんなスタンスで応援しようと自由」なのである。
今回、しゅんき氏は、以下のように述べている。
これは、「アーティストはかくあるべき」という押し付けであり、アーティスト個人に対する自由意思の妨げである。
もちろん、客の声をよく聞き向上に努めるスタンスは、商業的に正しいとされる。これがたとえば、利益創出を目的とした企業それ自体が相手であれば、もう少し理屈は通る。しかし本件の相手はアーティストとはいえ個人である。私は洲崎氏という方を本記事で初めて知ったが、どういうスタンスで活動するかは自由であり、それが利益に繋がるか繋がらないか、繋がらない場合どうなるかはファンが判断することではなく、本人自身や所属会社が考えることである。
存じ上げないうえで例とはいえこのようなことを述べるのは申し訳ないが、たとえば「今はコントより音楽活動に比重を置きたい」と思っており、作品の完成度が低くなった場合も、それはアーティスト自身の自由である。
しゅんき氏が「ファンとはこうあるべき(たとえば本人が提示していた①のような全肯定であるべき)」「作品への不満は言ってはならない」ということを強要されるのをおかしいと思うことと同様に、人の創作活動やアーティスト活動を強要することはできない。
しゅんき氏がそれを傲慢だと述べるのも自由だが、洲崎氏が傲慢と思われても構わないと思うこともまた自由なのである。
しゅんき氏の初期のnoteの中には「自分はこういう人間である」という記述、そして自分がなぜ間違っているかわからないという記述があった。
1でも述べたとおり、間違っているわけではないという点は共感する。ただし、その自分を周囲が受け入れるべきだと考えると、それは今回のような事態を生む。
見る限りしゅんき氏のなかには2つの欲求や理想(細分化すれば3つ)の状態があると思う。
1つは、アーティストと良好な関係を築き、ライブに参加し続けること(これは2つに分けられる)
この2つは、現状の方法では両立することが困難である。そして氏は両立できないことについて、「相手が譲歩し両方の欲求を満たしてくれるよう振る舞うべき」だと考えている。
ここが今回の一番の問題であると考える。よく言われるように他人は変えられない。だから自分がやり方を変えるしかないのだ。
②SNS上の振る舞いを優先し、良好な関係は諦める。現場では交流を求めず作品だけ楽しむ
③完全に降りる
そして、④は(今からはもう難しいかもしれないが)、「欲求が両立する方法を考え、折衷案的振る舞いを見つけること」だ。
こういった場合、人は④の方法を取ることが多いのではないだろうか。
・この職場に自分の仕事の進め方を浸透させた方がいいと考え、同僚には仕事の仕方を合わせてもらえるよう交渉する。後に実績で報いられると信じ、その場の人間関係の軋轢は覚悟する。
・合わない場所にいることはしたくないが1年ほどは我慢できそうなので、転職のために1年は必要な実績を積むことにする。そのために時に妥協し時に我を通すなど状況に応じて変える。
・人と良好に働くことを優先したいため、同僚の進め方に合わせる。関係を構築してから徐々に自身の意見を述べるようにしていく。
以上の違いは、「進め方へのこだわり」「実績」「人間関係」様々な要素がある中で何を優先するかだ。自分の価値観を点検し、どこにどれだけ比重を置き、逆にどれが不足していると耐えられないか、どれくらいなら耐えられるかを見極め、自分にとって心地の良いバランスを探っていく。それが人間関係であり人の営みではないのだろうか。
ここで、すべてを満たそうとただ声高に叫んだところでそれが叶えられることはないだろう。しかししゅんき氏は、自分の欲求すべてが同等に叶えられるべきであると考えている。
欲求を複数持つことや叶えようとすることは問題ではない。問題は、他人や環境は変えられないという点への無自覚さと、自分の中の優先順位が不明瞭なことである。
自分にとってもっとも理想的な状態は何か。それが実現するためにはどのような振る舞いが適しているかを「相手が変わる」という選択肢を除き、「自身の妥協点」や「自身が新たに身につける思考や振る舞い」を考慮したうえで計画し、実行に移す。
こうした行動が、氏には必要だったのではないだろうか。
とはいえ、まだ若い方が以上のようなことを考えて振る舞うことは難しい場合が多いだろうと思う。
そしてこうした振る舞いを自身が二十歳そこそこの時に身につけていたかというとはなはだ疑問であり、だからこそ私は、こうした記事を書いている。
なんてもの、ファンダムのなかの「べき」論は幻想だと思っている。ただそこは人の営みであり、アーティストも含め、心の通う、自分と違う人たちが多くいる場所だ。
迎合を覚えろという意味ではなく、ただ、自らの思い通りにならないことを理解したうえで、なるべく心地の良い落としどころを見つけていくこと(あるいはそれを試すこと)を、私は若い方に推奨したいのかもしれない。
今まで色々なジャンルに身を置いてきたが彼女が生まれて初めての女の子の推しだった。
出会いはTwitterで流れてきた自撮りが可愛くて、リツイートしたあとに○○ちゃんって子可愛いと呟いた。その時は何も期待していなかったしすぐ忘れてしまうことだと思っていたが違った、リプライが返ってきたのだ。
今度無料でライブがあるから興味があったら来てねという趣旨。びっくりした、リプライ送っていいんだって。
予定を確認すると行ける日程で、悩んだ結果私は初めて地下アイドルのライブに参加することになった。
そこからあれよあれよとハマっていきライブ以外にも撮影会、配信やオンラインチェキ、オフ会にも足繁く通いお菓子から洋服までいろんなプレゼントもしていた。
私はどちらかというと同担拒否気味の気持ち悪いアイドルオタクだったと思う。もちろん嫌いなオタクもたくさんいるし、そんな人たちと一緒にされるのは嫌だ。だからこそ、嫌われないように言動に気をつけて、身だしなみにも気を遣うようにしていた。
おかげで多分、多分だけどオキニだったと思う。
体調が悪い時や病んでいる時は心配してくれた。
あげた服のセンスを褒めてくれるしバレンタインのチョコレートが美味しくて感動していたらしい。
それが嬉しかった。
推しと喧嘩したことのある人もいるかもしれないが私は推しとオタクが対等な関係なわけないと思っている、喧嘩するほど仲が良いは通用しない。一回喧嘩したら出禁に一歩前進だ。そう考えている。
気がつくと2年が経っていた。
今までのオタ活の中でも2年間も1人の人間を推すのは珍しい、だからこの時間がずっと続くと思っていた。
その反面、少しだけ薄々とその時が来るんだろうなというのは感じていた。
地下アイドルが人気を得るにはやはりSNSでバズるのが手っ取り早い、さらに言えば、言い方は悪いが脱げば割とインプレッションは伸びる、元々グラビアに力も入れていたしスタイルも良い推しにとってはチャンスだと思う。でも推しは違った。正々堂々ビジュアルで勝負しようとしていた。でもライバルは多く、可愛いのが当たり前な世界、なかなか上手くいかなかった。なかなか自撮りが伸びないと落ち込んでいたのも知っている。でも私は頑張って毎日自撮りをあげて、配信を頑張って、TikTokもやる気あった推しが大好きだった。
明らかに他のアイドルグループのが事務所に推されていても、推しより可愛くないアイドルがエロ自撮りでバズっても、現場から少しづつおまいつな人たちが減っても、頑張って応援した。いつか報われると思ったいたから。
ある時期から少しづつSNSの更新が減っていった。配信もしなくなり、TikTokの更新も減った。さらにオンラインチェキも人が集まる時間帯ではなくど深夜にやっていたりすることもあった。
私は不安で、でもきっと疲れているんだろうなとか、忙しいのかなとかそう思って自分を誤魔化した。
不安は的中した。
ある日、推しのツイートの通知をつけているためいつもと同じように通知が来ており、ラーメンを啜りながら私はなんとなくスマホを見る。
そこには推しがグループを卒業する趣旨のお知らせが添付されていた。
頭が真っ白になって、食べていたラーメンの味もよく覚えていない。なんなら味がしなかった気もする。
地下アイドルのグループ卒業や脱退なんて当たり前ではあるが、私は違った、だって初めての推しだから。
あれよあれよとラストライブや最後のオフ会、最後の地方遠征などの予定が決まり嵐が来たのかと思うくらい次々といろんな予定がたっていく。
私はそれを受け入れられなかった。
そんな中1組のアーティストに再熱した。
きっとこの人たちはずっとこのままでいてくれる、そう思って現実逃避のようにのめり込んだ。気がついたら通知をつけた推しのツイートから目を逸らし、おはようツイートにリプライもしなくなった。それでもなんか元気に生きていけたし、厄介なオタクや運営方針への愚痴などで落ち込まなくなったし世界が明るく見えた。
ある日なんとなく通知を見るとオンラインチェキの予約が始まっていた。なんとなくその日は話したい気分だったので久しぶりに推しと話した。
「そう言えば○ちゃん最近ツイートしないけど、浮上すると○○の話ばっかりしてるね、ウケる。でもそれで楽しかったら私も嬉しい。」
何を言われたのか一瞬わからなかった。
考えた結果、推しがこまめに私のツイートを見ていることがわかった。
そこからなんの話したか覚えてなくて、チェキもなんてコメントが書いてあるのか怖くていまだに見れていない。
正直、そんなこと言わないで欲しい。
私のことなんて見てくれなくていい、現実逃避してるだけなんだから、現実なんか辛いだけなんだから、当たり前じゃないか、あなたが居なくなるから私はずっとそのアーティストの話をしてる。
「辛いことは考えなくていいから他のライブ行って元気つけてもらってね。」
そう言ってくれた。
そんなこと言わないで欲しい。
現実逃避の世界は明るかった。でも辛い現実と向き合うと、通知をつけたツイートとも、おはようツイートへのリプライだって、ずっと見てたし私もおはよう、今日は洗濯物回さないとって言いたかったしインスタントラーメン食べたって話したら一緒だねって、私はずっとそういう話をしてたかった。
現実逃避しながらも度々推しのことを考えていた私はその度に自然とと涙が止まんなくなり、声が漏れて、気がつくと号泣していた。
これからの人生の決断をしてアイドルを一度卒業する人間にずっと今のままでいてなんて、そんな自己都合な感情をぶつけられない。ぶつけても何も変わらないし困らせるだけなのに、私は涙が止まらなくて、悲しくて、ずっと応援して優しく送り出してこれからも頑張ってねとは言えない。だってまだ応援したいから。
いつか、いつになるかわからないが、泣かずにこの話ができれば良いなと思い、ここに気持ちを昇華させるために記事を書いた。
わかっている。