はてなキーワード: 物自体とは
音楽評論家の宇野功芳に「メータ(注:インド出身の指揮者)のブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」という言葉がある。
その言葉にならうのであれば、本作を過剰に批判する側にも、称揚する側にも、「ヱヴァンゲリヲンはそういうものなのだ。知らなかったとは言ってほしくない」の言葉を添えたい。
「Q」はアップデートされた「エヴァ」であるから「旧作の狂気が帰ってきた」と称揚する評は間違っている。「意味がわからない、映画としての書法をなしていない」との評価も間違っている。
その言葉は伊達ではなかったと、冒頭シーンで感じないものがいればそれは不感症なのだ。
あの冒頭シーンを見てこの作品を全否定するその神経が分からない。
状況の分からない空間戦闘からNノーチラス号の発艦シーンまでの息詰まる緊張感と圧倒的なヴィジュアルにため息をつかないものがいるとすれば、それはブーレースの演奏するマーラーを前に「精緻にすぎる」などと見当外れの批判をする童貞クラヲタのようなものだ。
圧倒的な美しさ、スタイリッシュさ、その疾走にはに頭を垂れるしかない。涙は追いつけない。
参照される古今東西の映像作品の断片に庵野の美意識が振るわれ、結晶として屹立するその様はベルント・アロイス・ツィンマーマンの音楽を思わせる。
あるとすれば、脚本、演出による。
いくつか代表的なものあげてみよう。面倒なので3点に絞る。
1.いみがわからない
私も意味がわからなかった。もう自己パロディとしか思えないほどのとっちらかった謎、伏線、設定に呆然とする気持ちはわからないでもない。
しかし、こうした要素は「わからない」ことも含めて、自らを「サービス業者」と規定する庵野の「サービス」であり、そのインタビューにもあるように「酒のツマミ」として楽しむべきものなのだ。すでに2ちゃんには解釈をめぐりいくつもの「名解釈」が登場している。そこにエヴァの本質はないのでその解釈論争の成立自体「そういうもんだ」と楽しむのが正解だ。「しらなかったとは言ってほしくない」
だいたい、我々が生きているこの世界自体、意味がわからないだろう。
2.登場人物の行動に整合性がない
そうだろうか。ある程度登場人物のおかれた状況に寄り添って、「補完」すれば整合性は保たれてはいないか?たとえば「破」で「行きなさいシンジくん」と煽ったミサトが「Q」で別人のように冷淡だというのも「ミサトの14年間の辛苦」といったものを忖度すればあながち整合性がとれないわけでもない。
だいたい、我々が生きているこの世界の人物自体、行動に整合性がないだろう。
3.リアリティにかける
ゲンドウと冬月の「二人のネルフ」はどんな金で動いてるんだとか、吹きっさらしのグランドピアノがなんであんなに綺麗なんだよ普通弦さびるだろとか、まぁ分からないでもない。
しかし、エヴァとは「私小説」なのだ。プライベートフィルムにおいて、美意識と表現される「わたくし」の前に「世界」のリアリティはある程度犠牲になるのだ。
つーか、あの廃墟、ぐっとくるじゃん。それでいいんだよ。
だいたい、我々が生きているこの世界の自体、リアリティがないだろう。
どこ見てんのかね。この「狂気」は完全に「作った狂気」だ。綺麗にまとまりすぎているし、旧劇場版のアドリブ奏法のようなどこに行くのかわからない狂気ではなく、計算された狂気だ。
「序」と「破」をいったんたたき壊すための仕掛けであり、旧劇場版の「狂気」に魅せられて未だに90年代から一歩も動けていないものへの「釣り針」だ。
この作品は「シン」へのかけ橋である以上、注意すべき点は以下の3点に絞られる
・旧劇場版とほぼ同じ立ち位置にいる「無限に後退していくシンジ」をQで再度設定しながら、決定的に違うのは旧劇場版のシンジの周りにはダメな大人と壊れたアスカしかいなかったのに、新劇では導き手としてのアスカとマリが設定されていること。
・旧劇場版で「鬱シンジ」を否定し、「序」、「破」で設定した、ポジティブな「シンジさん」(セカイよりもポカ波を選んだシンジ)も「Q」で全否定したこと。
・露悪的な破壊の中で、通奏低音のように「やり直し」「成長と大人になること」「社会とつながること」を流していること。
上記を踏まえると、庵野<旧劇場版で引導を渡したはずの「エヴァ」に依存するヲタク>をもう一回、別のアプローチで説教しようとしているように見えて仕方ない。ヒントは同時上映された「巨神兵、東京に現る」に流れていたようにも思える。
我々は上記3点の「伏線」に「シン」でどうオトシマエが付けられるのかを見守るべきであり、やはりつまらぬ結論ではあるが、それまで判断を留保すべきなのだ。
実在縛りじゃなければ単なる「最強スレ」の論議になってつまらん。
鬼小島は思いついたから入れたけど、いちおう実在が疑われている旨は併記している。
忠勝の個人的武勇がわかる逸話
一言坂の戦いで殿を務めたあたりだろ。張飛のパクリっぽいけど。
秀吉が「東国に忠勝という無双の大将が…」と言って褒め称えたのも逸話に入るだろうし。
お前の基準はグッダグダである
それなりに統一した基準でやってるつもりなんだよこれでも。
別に「これが決定版!」と言ってるわけじゃないしな。
「あの武将を忘れてる」とか「こいつよりあっちのほうが強い」とか「俺ならこの三人を選ぶ」とかよろしく。
先日、年齢はまばらだが付き合い深い友人同士数人でこのような会話をした。
「あくまで仮の話だよ。もしも宝くじか何かで3億円当てたりでもしたら、
この友人らの誰かにその事を話す?」
当然、それぞれの返答は違った。
1人は「絶対に言わない。身内にすら言わない」
ある2人は「家族には言うが友人には恐らく隠す」
他の1人は「酔った勢いで、たぶん君らにも言うかもな~」
もう1人は「どうせ降って湧いた金だからみんなを誘ってパーティをしたり奢りで旅行に誘う」
といった、ある程度予想できてた答えが返ってきた。
ちなみに私自身は最後の友人と同じ思考で、友人同士ととことん遊ぶために使用する。
(もちろん自分自身が欲しかった物を買い漁ったり、夢のために投資したりもする)
そんな中、今年高校を卒業したばかりの18歳の男の子の意見だけは、他と違った。
(この子は友人同士の中では一番低年齢)
『みんなに言うどころか、そんな大金いらないので誰かにあげる』
度肝を抜かれた。
理由を探ると、『大金あってもしょうがないし、その金額分までの欲しい物はない。
欲しい物はあるけど、どうせ余計な金が余るのでいらない』と。
この子について深く説明すると、
彼はとりわけ裕福な家庭に育ったというわけではなく、
家庭も複雑な環境で育ったそうだ。
更に若くありながら、幾つもアルバイトをこなし、
よく、「全く無趣味なので使い道がない」という話は聞くが、
彼はその真逆で、インドア・アウトドア問わずに非常に多趣味であり、かつ欲しい物もたくさんあるようだ。
欲しい物を買うために学生の身でありながらアルバイトを欠かさないのだと。
「多趣味だし欲しい物もたくさんあるんだよね?新しい物好きな性格もあってよくあれが欲しいこれが欲しいと言ってるし。
3億円当たったらだなんてそもそも夢話だけど、それでも3億円当たったら嬉しい気持ちも使い道もないの?」
と指摘してみたが、このように返答された。
『欲しいものはいずれ自分で買うし、欲しい物自体が自分で稼いで買える範囲のものだけだ』と。
追い打ちをかけるように、このような意地悪な質問もしてみた。
「今はまだ若いから欲しい物も高価なものじゃないけれど、多趣味な性格だから大きくなったら
すると間髪あけずにこう切り返された。
『そんな高価なものでも自分で稼いで買う。むしろそれくらい稼げるような人間になる』
度肝を抜かれただけでなく、価値観の違いというか、大きさに心を打たれた瞬間であった。
恐らく、こういう考えの子が将来資産家になれるのかもしれないな・・・と。
・無趣味ではなく、多趣味で欲しい物もやりたい事もたくさんある彼なのに、
そこに驚いたのである。
これは、「立派」というべきなのか、
それとも「まだまだ若いからお金のありがたみや大切さを知らないのか」
いずれにせよ、実際に大金を稼ぐくらいの大物になるか、
または将来泥水をすするくらいお金に苦労して、「当時の考え方は若かったんだ」と苦笑いするかのどちらかになるかとは思うが、
私が知りたいのは、彼のような考え方の人間には初めて出会ったので、
なぜそのような価値観を持つのだろう?と好奇心が湧いたのである。
否定しているわけじゃなく、
363,000円。
2年半(30ヶ月)で放送大学に納入した入学金、および学費である。
私は理学部卒であるが、現在はマーケティング分野の仕事をしているので、
今、この金額をみて思うことは、
「安くはなかったな」ということである。
もちろん真面目に大学(国立大学への学士入学)に通えば、この期間、
で1,323,600円かかるわけなので、圧倒的に安い。
おそらく何百万円という価値はあるだろう。
しかし、二番目以降に関しては、あって無いようなもののように思う。
363,000円。
人によっては大したことのない金額だが、
363,000円で何ができただろうか。
お金の賢い使い方というのは、
というような話を本で読んだ気がする。
大して必要なかったり、
それほど良い結果が得られなかったということは
枚挙にいとまがないだろう。
もちろん、だからといって、放送大学そのものが無駄ということではない。
ただ、少なくとも私にとっては、
よく考えるべき案件のように思う。
ご存知池田信夫主催のライブドア系オピニオンサイト。リバタリアニズムを標榜しているが、その実態はリバタリアニズムからは程遠い新保守主義。そもそも池田信夫という人物自体、罵倒芸と炎上芸しかなく、まともな議論が出来る人でもないためアカデミズムでもジャーナリズムでも傍流である。
ライブドアのもう一つのオピニオンサイト。こちらは有名無名関係なく様々な立場の人が参加しているため、まともなものから唖然とするデマまで玉石混交である。特にライブドア自体に主義主張がないためか、左右関係なくゴミが集まる。稀に秀逸な記事が見られるが、査読されていないせいか藤沢数希やすくらむといったデマゴーグも紛れ込む。
アルファルファモザイク、痛いニュースと言った2chコピペブログ。コピペブログの大半はライブドアかFC2に置いてある。ほとんどがエロDVDやエロフィギュアのアフィリエイトが貼ってあり、まず見た目が目障り。加えてデマ拡散、ネトウヨ煽動、個人の炎上に対する燃料投下など、SPAMのかなでも非常に悪質である。
そもそも トリミング以前に死亡確率や食中毒確率が異常すぎる。
殺菌に関しては詳しくありませんがトリミングしたり手袋したりして未然に大腸菌は防げる物なのでしょうか?
管理体制で防げる問題防げない問題あるとおもいます。納品物自体が問題でありそれが偶発的にえびす焼き肉に納品されたのであれば
やはり2回目の若干ぶちぎれ気味の会見が本心なんじゃないでしょうか。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1593777&media_id=20
納入後の食材の扱いで人の生死を左右するような失敗があるとは考えにくいし
同チェーンの別店で同時多発的におきていることからやはり納品物自体に問題があったんじゃないかと思ってしまう。
だとするとここの社長かわいそうだなぁ。
BSE規制のときもアメリカで1人しか死んでいない牛肉の輸入を法律でストップしたわけだし。sarsの時も新型インフルのときもそして何より原発も未知の生死を扱う新規問題が生じた際。過剰反応が必ずでるよね。
今SGの日本料理屋いくとかならず目につく「Our food is safety for consumption」 って張り紙。
北海道でも西日本でとれた食材であってもいっしょくたにされて風評被害を感じるよ。誰一人死んでないのにね。
しまいには「We import all stuffs from China」って書かれてるからね。
どこをつっこんでいいのかわからなくなるよ。
数人死ぬと社会的問題になるえるが例えば年間数百人しぬような事象だととたんにリスクに対して盲目になってるきがする。
しってるか?お餅で年間200人死んでるんだぜ。
うわー。分かるわ。
そういう論理的な物を求めても仕方ないとは思うんだ。
「楽しんだ者勝ち」っていうのは
「いいや、違うよ」「俺はこれについてはこう考える」ってレベルの反論すらできない層が
「あーあー聞こえなーい」(本音:良くわかんなーい)
って訴えているんだから。
で
実際にはファン層の大半はそいつらだと思うんだ。
本来、批判というのはその物自体をちゃんと知らなければできない事だし
好き、もしくは非常に興味がある、という姿勢そのものなのに
「批判・否定しない事が好きで楽しんでいる証拠!」
としか考えが及ばないというのは
そこまで「好きじゃない・興味がない」って現れなんだよ。
でも、好きで楽しみたい。
そうすると、ただ好きで楽しむ為に(自分が感じる)ネガティブなものを全否定しなければ「無知・無理解へのプレッシャー」で楽しめないから
「楽しんだ者勝ち」って自分に言い聞かせる必要があるんだ。
コアなファン・マニア層が1としたら、そいつらがファンの9割を占めている。
そいつらは、言い聞かせないと、「好き・楽しい」を持続できない層だし
言い訳が出来なくなったら、「ここが悪い=こうしたらもっと良いのに」という妄想や提言もせずに他のコンテンツに移っていく。
マニア層は「聞こえなーい」をしたい奴らに、聞こえないところで批評・批判をするか
あるいはそういう事を言う奴らを生暖かく見守る義務がある。
まあ、別にわざわざこっちから言いふらす気も無いから、今後もずーっと未解決事件であり続けるんだろうけどね。
誰かがその気になって調べれば分かる事なんだろうけどね。面倒だし、謎のままの方が面白いだろうし。
http://anond.hatelabo.jp/20100526020935
俺が知ってる範囲の親類で妙な宗教(学会とか科学とか)に入ってる人はいないな(当然その人も)。追い返された記者の背景もそういう団体関係ってわけでもない。どこのコンビニでも普通に売ってるような媒体だったはず。
DELLは確かに安いかもしれない。
だが、送料でぼったくって安く見せてる部分がある事を知っておこう。送料は、最後の最後にならないと出てこない
今回、職場のPCを更新する際にまとめてDELLから購入したのだが、送料に関して、やけに高いと感じた。
ネットブック3500円・17インチノート3500円・デスクトップ4000円・デスクトップと液晶のセット(2個口)5000円・一体型デスクトップは5000円
それぞれについて2台ずつ購入、送料の複数割引等は一切ありませんでした。
さすがに高いと思ったので、運送会社の料金で調べてみたところ、正規の料金は以下の通りでした。
ネットブック950円・17インチノート1160円・デスクトップ1260円・デスクトップと液晶のセット(2個口)2420円・一体型デスクトップは1260円
上記は持込割引や複数個割引は適用しない金額です。
怪しいと思ったものの、その送料を了承して購入したのは確かに私。
だが、いくらなんでもほぼ3倍の額、ものによっては4倍近いの金額をふっかけているDELL、こういった商行為というものは許されるのだろうか。
これまで使っていてDELLの対応は悪くないと思っているが、この送料ボッタクリに関しては非常に残念に思った。
どうせ運送会社とは、一個500円以下の契約で送っているんだろうから、せめて、正規の送料を請求すべきだと思います。
追記します。
短い時間にこれだけ反応があるとは思いませんでした。
まず、保険の話がありましたが、個人でも法人契約の場合でも、保険料は送料に含まれるのが一般的です。
保険の対象額は30万円までが多く、それ以上は追加料金がかかりますが、微々たる額ですね。例としては佐川急便の場合、1万円の増額に付き10円程度の保険料ですね。
今回購入したPCはどれも30万円以内、近年では30万円超えるPCなんてそうありません。
もしも、DELLが運送料を保険料抜きで安く契約するとしたら、保険代と送料あわせて、保険込の一般契約送料よりもさらに安くなる場合でもなければ、メリットはないでしょうね。
法人向けと言っても、送料において運送会社は発送物自体の金額以外の補償はしないはずです。
納期遅れて仕事がダメになったから謝罪と賠償、的な保険が別にかけられていたとしても高すぎますし、そういう保険が必要な場合、購入する企業側で掛けるのが一般的でしょう。
個人で購入する場合だって、そういうことはありえます。法人が個人向けPCを買うのも珍しいことではありませんよ。
前に書いた通り、記載された送料であることを了承して注文したのは確かです。
送料で嵩上げして本体を安く見せてるのでしょうけど、その送料を含めてもDELLはもともと安いと思っていますし仕方ありません。
ただ、送料調整額分の税金、誤魔化していないか気になりますね、誤魔化せる可能性も無きにしもあらず。
どちらにせよ、そこは税務署が目を光らせてるはずです、そういえばアマゾンの脱税の件は結局どうなったんでしょうね。
まさか、デルもアマゾンみたいなことやってるから、こういう送料になる?外資とはいえ防衛省にも納入している企業ですから、そういうことは無いと思いたいですが。
個人向けの送料は
http://www1.jp.dell.com/content/topics/segtopic.aspx/misc/shipping_pricelist?c=jp&cs=jpdhs1&l=jp&s=dhs&~ck=anavml
以上のようになっているようです。法人向け送料よりは安いようですが、きめ細かいBTO注文で売りのDELLの割には、ずいぶんザルなんですね。
個人向けは送料無料の時もありますね。確かに法人より安い。法人と個人で価格差があるのは理解に苦しみますが、価格調整の為かもしれません。
DELLの送料が国際運送料なのだとしたら、国際運送会社(FEDEXとかDHL,UPSとか)か、郵便局(国際郵便扱)が持ってくるのなら少しは仕方ないと思えますが、
普通に国内の運送会社が、それも国内発送元(空港でも港でもありません)の送り状シール付きで持って来ています。
注文時、しっかり見えるところに(送料は製造国からの国際運送料と国内運送料の合計です)とでも書いてあれば、まだ少しは納得できるかもしれません。できないけど。
ヤフオクで出品手数料が掛からないように1円で出品して、本来より高い送料と、さらに梱包料とっているようなあこぎな業者ならともかく、
国内に現地法人を持っているような大企業が、国際運送料を取るのはおかしくありませんか?中国のDELLから直接買ってるとか、フリーオじゃあるまいし。
2010/9 追記
http://www1.jp.dell.com/content/topics/segtopic.aspx/misc/shipping_pricelist?c=jp&l=ja&cs=jpdhs1
DELLも少し改心したのか、送料が少し安くなったようです。まだ一部高いけどね。ボッタクリ送料だったのを認めたということとも言える?
以前のあからさまなボッタ価格よりは安くはなったが、まだまだ充分ボッタクリっぽい、
せめて佐川急便やヤマト運輸のほぼ横並びの正規料金レベルまで下げるか、着払を選べるようにするかしたらどうかと。
ヤフオクの悪徳業者じゃあるまいし。
ちょっと話がそれるだろうけれど思ったこと。
(http://anond.hatelabo.jp/20100203213456を読んでなんだけどhttp://anond.hatelabo.jp/20100204094106にもつなげとく)
まず、大前提として年齢如何に関わらず
があるとして。
その上で
を考える。つまり、何をするってわけでなく、ただ、小学生を好きになったんだとする。
何故か小学生ばかり好きになる。何故か大人には恋をしない。欲情しない。するとペドフィリアだと。異常であり病気なんだとなる。
第二次性徴が来ていない生物学的に男や女になってない異性とは呼べない相手に欲情するのは異常であり病気なんだとするのは分からなくもない。
ただ、
何故か同性ばかり好きになる。何故か異性には恋をしない。欲情しない。すると異常であり病気なのか。嫌悪すべき対象なのか?
いや、同性だろうとそこに生物として途上ではない「性」があり、同性であれ異性であれその性に惚れる、欲情するのは許されるが、無いとは言わないまでも弱い、言わば「無性」の側の子供に欲情するのは病気なんだというのも分からなくはない。嫌悪を抱くのもわかる。
しかし、それを強力に否定するのはどうなんだと思う。
様々な病気、障碍、嗜好があるなか、それに対し嫌悪を抱くことはままあり、嫌悪を抱くなとは言えない。しかし、理解は示すべきだし、それを否定すべきではない。
うつ病や寝たきりや喫煙家を嫌うとしてもそれらの人物自体を否定すべきではないし排除すべきでも無い。(所謂「公共の福祉に反しない限り」という但し書きはつくけれど)
それに、私は同性を性的に好きになれないからといっても、人として好きにはなれるように、「性」というのは大きく強力ではあるが、人や社会を構成する要素の一つに過ぎないといえば過ぎないわけだし。
でまあ、結局何が言いたいのかわからなくなってきたけど、
ペドを嫌うのはいいけど、それに理解を示そうとするのを否定するのは少し考えた方がよいんじゃない?ということ。
あと、念のために言っておくと、大元の増田に対してはペドを嫌ってはいるけれど、それは前述のように良いし、痴漢は年齢如何に関わらずダメだし、大人は子供を保護すべきだから、子供に対する態度には配慮せよってのも、社会的にそのとおりだし、別に「ペド死ね」と言ってるわけじゃないので、あとは言い方だよなという感想。
[blog][music]学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20091025/1256479650
はてブクマしてほっといたがコメントを後から読んでみた感想を増田に書きますよ。
あ、先に断っとくとブログ主じゃないですよ。
主さんの考え方とはおそらく明らかに違うことをざっと書きますので。
さて、センス至上主義の人たちってのはことごとく残念な方が多いですね。
僕も頭は悪いけど、どんなことでも自前で考えることを辞めてはいませんから、
この人たちと比べりゃ少しはマシかなと思っています。
なぜマシかな?と思っているかを書きましょう。
芸術に限らず物事を見るっていう行為には、必ず束縛されるものがあります。
物事を見るヤツの脳みそです。
脳みそ(全身の神経、肉体を含んでもいいです)にはそいつが生きてきたあらゆる経験が蓄積されています。
全部喋るワケにはいかないので、芸術鑑賞に限りますが、
鑑賞するにも当然経験というものが大きなファクターを占めることになります。
というか、芸術における生来のセンスなんてものは人間には備わっていません。
しいて言えば、生まれた環境、育った社会で目にし耳にしてきた事、この蓄積が異なるくらいでしょうか。
ですが、肉体の素質の差というのは、確実にあります。
有名な話ですがピカソは10歳ごろには既にものすごく達者な写実絵を描かれていたそうです。
そんなに幼いころにすばらしい絵を書けたという事はものすごいセンスの持ち主ということじゃないか!と言われるかもしれませんが
残念ながら全くの早とちりから来る誤りです。
写実絵というものは、インプットとアウトプットの精度の問題であり、センス云々は全く関係しない分野なのです。
つまるところ、肉体性能…筋力とかじゃないですよ。この場合は目の力、空間把握能力、そして手の器用さです。
これが達者だったからピカソは幼くしてすばらしい絵がかけたんですね。
あ、こういうとまた文句を言うヤツが出ますね。
写実絵というのもセンスは必要ですよ。
構図のとり方、ライティング、描くものの配置など、考えなければならないことはたくさんあります。
生まれ持ってのセンスなどではなく(そもそもそんなものは存在しないといいましたね)、蓄積されたセンスですがね。
ピカソの絵はルールを破っているということを理解できてはじめて意味がある。守破離と言うヤツですね。
ルールが無いヤツは最初から型破りなんて出来ないんです。ルールが先にあってこそ、型破りを実行することが出来る。
美においてルールとは、観察と経験の蓄積と人間の肉体感覚によってのみ規定されるものなのです。
かつては文化圏、文明圏ごとに感覚が分かれていましたが、ネットによってある程度統一化されてきているなぁと感じます(脱線)。
精巧な写実絵を幼くして書くことが出来たピカソは、それまでの画法と異なる彼独自の画法で表現を行っていく道を行った。
何故かと言えば、それが彼が伝えたいことを彼が伝えたい人に一番伝わる方法だとピカソが結論したからでしょう。
優秀な表現者というものは、ここでは芸術家のみの例を挙げていますが、文筆家にしろ、技術者にしろ、あるいは一個人でも同じですが、
自分が伝えたいことが自分が伝えたい相手に、どうすれば伝わるのかを常に考えているはずなのです。
純粋な芸術なら、当然、芸術家本人が持つ問題意識(単純に環境破壊とかそういうものでなく、
「赤ちゃんをどうやって可愛く描くか」のようなライフワーク的なものも考えられますね)からなるテーマがあり、
それに対する回答が作品となるでしょう。受け手は問題意識を理解してほしい鑑賞者であり、作者自身でもあります。
商用芸術では昨今では仔細なマーケティングが行われていることは周知の通りです。
それがたとえアウトサイダーアートだとしても、自覚的に商売としてやるのであれば
自分が何をしているのか、自分はそれをどうしたいのか、どう売り込みたいのか、考えているはずです。
それが理解されるかどうかは別として、自分が伝えたいことを自分で明確に出来ない芸術家は大成するはずがありません。
伝わるアテの無いものを創ることは幼い子供や、本当の趣味人に与えられた特権と言えるでしょう。
「そんなこと一切考えて物を作ったことなんて無いけど芸術で暮らしていけているよ!」という方は
きっとダウンタウンの松本氏における浜田氏の様な素晴らしい相方と出会えたのですね。おめでとうございます。
さて、問題は伝わる方です。
自分の見たことの無いものを鑑賞するとき、人はどうするでしょうか?
生来のセンスがあれば、ちゃんとした評価が下せるのでしょうか?
それとも、間違っていてもセンスで感じたことが正しいのだと言い切れるのでしょうか?
順を追って考えれば、殆どがまずそのものをちゃんと見ようとするはずで、
目にした瞬間エレクトリックサンダーが全身に走るような至福の体験を得るなどということはありえないはずです。
人間なんてもんの見た瞬間に出る感情は、自分がそれまでに見てきたものから割り出すように出来ているんです。
人は完全にわからないものと触れる時、評価を下すには多少の時間を要するのです。
生来のセンスなるものがあるなら、そんな時間は必要ないでしょう。何も考えずその場でパッと決めてしまえばいいのです。ゲド戦記はクソ、とか。
ま、ゴッホみたいに死ぬまで放置されてから評価される画家もいますから、そんなヤツはセンス0の大馬鹿者であると断じてしまえるわけですが。
ちょっと古いですが、アイフォーンをはじめてみたとき、
「ああ、ついに完全タッチパネルの携帯が発売されるのだな。人類の革新だ」って思った人は先に記事を読んでる人だけで、
そうでない人は「キーパッドないの?」「液晶DEKEEEEEEEEE」「なにこの□」のように、
見た目からはこれまでの携帯とは形が違うから、どういうものなのかを判断しようとしたと思います。
芸術だって同じです。見たことが無いような作品、バックグラウンドがわからない作品を理解することは出来ないのです。
ゲルニカを最初に見た時、僕はこの絵が壁画として作成されていることがわかりませんでした。
あと感じたことは、「ちょ先生教科書に微グロ入ってるんですけどこれ」くらいのもんです。
だってなんか変な生き物が人を食んでいるんですから。
戦争の絵って言われても戦争まんがははだしのゲンしか知らない僕からしても大いに差があり(だって人間しか出て無いですからゲンは)、
「戦争関係なくね?マジキチ」としか考えられなかったことを思い出します。
今ではこの絵がどういう背景で、どういう意図を持ってかかれたものかわかります。
だから、あの大きな絵に描かれた一つ一つの人物、動物にどんな意図があるのか、
それがピカソという偉大な画家の考えと一致するかはわかりませんが、僕なりに思いをはせることは出来ます。
即断即決で評価を下す必要なんて無いのです。時間がたてばわかることだってあります。それが蓄積されたセンスの成長なのです。
一つの作品を前に、作者とその時代、昔の自分、今の自分、そして作品そのものと触れ合う体験が出来るのが芸術鑑賞なのです。
同じような体験として、聴かなくなった音楽を久々に聴いたときの感覚があるでしょうね。
卑近な例で示したとおり、自分自身というものは変らないように思えて、
仕事や学校や人間関係を経ることで常に変化しているものなのです。
センスなんて言葉を確信的に使ってはいけない理由はこの一点なのです。
使っても問題ないのは人を褒めるときくらいでしょう。それ以外の場面では、使わない方がいい。
人間のセンスはある程度のブレ幅までは抑えられるが、完全に固定できない。
それなのに、センスなどという曖昧模糊なもののみを後ろ盾にし、
他に根拠の無い好き嫌いを強弁するなどという子供じみたマネは
それとも、共感できれば、自分が根拠なく、しかし好きだ、正しいとは感じることが出来ればそれでいいのでしょうか?
僕はそうは思わない。
勿論経験によるセンスは人それぞれなんで、好き嫌いはあります。
見たものをそのまま感じ取ってそれがよい体験となる芸術作品もたくさんあります。
ですが、感情にそのまま訴えかける芸術というものは、やもすれば危険物にすらなりうる可能性を捨ててかかってはいけないのです。
人類の歴史は、いかに肉体欲求をコントロールしてきたかの歴史でもあるわけです。
人間のしくみが生命機械であるとわかっている以上、感情もまた肉体欲求の一つです。つまり、制御出来うるのです。
オカルトなんかじゃありません。
あなたがメディアを通してあなた自身とかかわりの無い人間に対してどれほど多くの感情をもっているかを想像してみれば、わかるはずです。
MMRに書いてあったサブリミナルみたいなヨタなんてメじゃない恐ろしさです。
出自や成り立ちは芸術大学なんて出てませんから知りませんし、教養も無いからわかりませんが、
視聴覚(場合によっては他の感覚)を通して物事を伝え、感情を伝えるという共通点があります。
もしあなたがメディアになにかしらの違和感を感じ、それが問題であると考えるのであれば、
芸術に触れた違和感を感じたら時にも問題意識を持たないといけません。
あなたの友達がそう訴えてきたら、ちゃんと話を聞いてあげないといけません。
(ま、友達の感じたことも受け入れられないのであれば芸術鑑賞そのものの否定をしていることと同じと言えなくも無いですが)
そんな窮屈な思いはしたくないと言うなら、好き嫌いすら語らないことです。
それならセンスが似たもの同士で集まればいいじゃないかと思われるかもしれません。
それが良くないとは思いませんが、しかしその集団に居続け他の意見を聞かないことは、
徐々に感覚を麻痺させ自分たち以外の感覚への無理解をはぐくみ、閉塞へ向かって突っ走ってるだけであり、
「スイーツ(笑)」やらなにやら言って喜ぶ人間に成り下がるだけのよろしくない行為と言えましょう。
現に今の社会は閉塞したコミュニティの複号体になってしまっており、
表現という形でコミュニケーションを図る物自体の存在意義が変化していることの表れなんでしょうか。
(テレビみねー、ゲームとか興味ねぇ、美術館とかブルジョアか!などいろんな派閥がいるでしょうな)
その変化が感覚や感情のような曖昧でふわふわしていると思われているものに密着しているなら、危惧すべきことだと思います。
なんかとっちらかっちゃいましたが、つまるところ、
センス至上主義者は考え直せ、頭を使え、鑑賞してる時の楽しみ方に文句をつける気は無いから。
と、言いたいわけです。
僕としては、こんなクソ長くクソ面白くもなく他人人を完全に否定するようなシャドーボクシング的文章を最後まで読んでくれたあなたが
自分の考えもオンリーワンで世界に一つだから思想修正主義絶対反対とか言いながら
芸術作品に対して自分の考えのみを誇示し続け、異論をことごとく無視し自分と同じセンスの持ち主だけで結託して外に出ない、
あるいは自分と異なるセンスは認めず叩き潰すことに快感を覚えるようなサイコパスでないことを祈るばかりです。
だって、芸術の感じ方なんて、人それぞれでしょう?
元増田です。
まあアレです、今の時点では誰もゲイの方々の事情をBL作家さん達に押し付けるようなことはしておりませんし(私の知る限り)。
少なくとも私は無理に押し付けようとは思っておりません。
ただ、もしそのことについて作家さん達が、深く考えてくれるような余地のある心境にいるならば。
創作物自体の質の向上に繋がるかもしれませんし、あるいは、渦中のゲイの方々からも、創作家さんたちについて何らかの好意的な関心が寄せられるかもしれませんよね。
まあそういう点で、私は『ステップアップの必要性』を論じているのですが、お分かり頂けたでしょうか?
私は物心がついてから高校生までという非常に長い期間において、母子寮という環境で過ごしてきた。「母子家庭」という物自体は今時大して珍しいものではないが、「母子寮」と聞くと、何か変わったものであるような印象を抱く人がいるかもしれない。人格形成期の多くをここで過ごしてきた私は、多少その環境による影響を受けてきたのではないかと思う部分がある。そこで、母子寮にすんだ経験がある人間による、某母子寮出の生活の感想を、思い出せる範囲でつづってみようと思う。
今の時代、オートロックが正面玄関に採用されているアパートやマンションも珍しくないので、集合住宅が閉鎖的な環境であることはさほど驚くことではないかもしれない。しかし、母子寮の閉鎖性は、管理人室に訪ねなければ中に入れないというセキュリティ上の問題だけが作り上げているものではおそらくない。
まず、母子寮に住む大人はすべて仕事と家事を両方こなさなければならないという、非常に忙しい生活を強いられているため、職場と母子寮以外での人との接点がほとんどない(離婚か死別を経験しているため、子ども以外の家族との接点も比較的希薄である)。また、その子どもたちも親の家計の制約により部活や塾などの課外活動にあまり参加しない場合が多く、学校と母子寮以外での人との接点はあまり多くない。よって、母子寮に住む人と、それ以外の人との間には、見えないが、厚い壁が形成されやすい。この外界と隔絶された環境が、まずは母子寮の大きな特徴である。
閉鎖性の高い環境で長く生活し続けたことによって、私は外界の誘惑に囚われることなく勉学に集中できたので、あまり勉強熱心でないにもかかわらず、成績では学年で中の上くらいを維持し続けることが出来た。しかし、親や兄弟姉妹以外との接点があまり無かったためコミュニケーション経験が不足し、大学で一人暮らしをしてからは人付き合いで相当苦労した。また、自分が極度のマザコンであるという自覚はあるが、その原因に母子寮の閉鎖性があった可能性もまったく無くはないと思う。
母子寮での生活は、独特のストレスとの戦いであった。まず、毎晩、子供が泣き叫ぶ声とその子供を怒鳴りつける親の叫び声で、非常に騒音が激しい夜を過ごしていた。別に家族喧嘩がうるさくてイライラしたことは母子寮を出てからも多々あったが、それでも母子寮で過ごしていたときと比べれば大分マシであった。母子寮で家族喧嘩が比較的多かった原因には、親が仕事で忙しいためなかなか子どもをしつけられないこと、前述のとおり母子寮は閉鎖性が高い環境のため、にもかかわらず家族同士の相互依存度は必然的に高くなり、よって家族間の摩擦が起こりやすいこと、この2点だと思う。
また、同じ住宅に住むほかの住人とのトラブルも絶えなかった。バツイチの経験ゆえか、非常にヒステリックな母親が多かったように思える。それは仕方の無いことかもしれないが、子どもにはその辺の事情はよくわからないので、隣近所の怒りっぽいおばさんに怒鳴られるが怖くて、毎日びくびくしながら過ごしていた。これは、近くにいる人とトラブルを起こさないほうが身のためであるという教訓にはなったが、一方で家族や友人以外の人々(特に大人)に対する条件反射的な警戒心を強めてしまったように思う。
最初のほうで述べたとおり、母子寮に住む子どもたちは主に金銭的な制約によって学校以外の外の世界に触れる機会が少ない。そのため、私が住んでいた母子寮では、その内部で子どもたちだけのコミュニティが形成されていた。しかし、それはとても健全なものであるとは言えず、むしろいじめの温床となっていた。
母子寮内におけるいじめで一番の問題点は、セーフティネットがまったくと言っていいほど存在しないことである。親は忙しくてなかなか子ども同士の問題に向き合えない。管理人はおそらく外部から来た人間であるから、あまりきつく指導したり介入したりすることは出来ない。また、母子寮は外界から隔離されているため、外部へ救済を求めることも難しい。また、母子寮の子どもはどうしてもしつけが行き届いていない場合が多いので、いじめにおいても加減というものを知らない。暴力や盗難なんて、日常茶飯事であった。
私は不安定な精神であったため、学校でも、母子寮でもいじめにあっていた。また、勉強は出来ても性格がダメだったので、いじめから解放される糸口を見つけられず、ただただ泥沼にはまっていた。学校でも、学校から帰っても、いじめに遭い続けるというつらい経験で負った傷は、後も長く引きずることとなってしまった。
大体、母子寮で生活した感想はこんな感じである。母子寮は家賃こそ安いが、それはこういった数々の問題が横たわっているからである。厳しい環境で生活したおかげで、私は少し優しくなれたかもしれないが、同時に負った傷も大きかった。また、学校と近所の母子家庭以外はテレビと新聞から見える範囲でしか「社会」というものを知らなかったため、大学に進学した時点では非常に社会性が欠如していたこともまた事実である(もっとも、これは社会についてきちんと勉強しようという意思が弱かった私にも責任はあるが)。家計やその他の環境が許すならば、避けたほうがいい場所だと私は思う。
http://anond.hatelabo.jp/20090310011805
と言っても、「儲ける」にしても色んな道があると思うのね。
1つは「いい物を作って沢山の人にその対価を払ってもらって、その結果儲かってハッピー」というある意味一番理想的な道。
1つは「物自体の価値はホントは(ゴニョゴニョ)なんだけど、宣伝方法を凝らして沢山の人を錯覚させて買わせて儲けよう」というTVやネットショッピングでありがちなパターン。
1つは「物自体はそれなりのモノで、ただ普通に売ってたらそんな儲からないから下っ端の人件費とかを切り詰めてやって何とか儲けちゃえ」というジャイアニズム的なパターン。
「ホントは別にこんなの本意で作りたいジャンルじゃないんだけど、これ出してるとみんなガンガン買ってくれるからしばらくは私もこのジャンルの波に乗ります」っていうやつとか。
何しても「儲けたもん勝ち」では無いような気がするんだよね。
なんというか、儲かるべくして儲けている人はそりゃいいと思うけど、他人を欺いてでも自分が儲ける事は悪いことでない、とは思いたくない。それはやっぱアカンよ、って言いたい。言わないけど。
もう既に三ヶ月近く経った。
新たな就労の意欲も湧かないので、ここを見習って薬を飲みながら昼はゴロゴロして過ごす。ただ、眠ってしまうと規則正しい生活ができないので、何でもいいので暇つぶしをする。ネットやゲームばかりに興じていても仕方がないので、購入後未読の小説を読み始めたりして、自由に過ごしている。
最近になって少しずつ就労以外への意欲が湧いてきた。まず部屋を片付ける。以前の仕事に就いてから退職するまでの数年間、掃除機を軽くかけるくらいで、物自体は部屋中に放置していたままだった。心が弱ってくると清掃や身だしなみに気を遣わなくなる(部屋を片付けない、風呂に入らない、など)というが、ありゃ本当だ。それが、今はじょじょにだが片付けようと動き出している。
次に、昼間小説を読むだけではあまりに暇なので、何か勉強しようと思い、毎日パソコンを開いているんだからコンピューターに関連したものを一つやってみようとPHPとMySQLのテキスト買ってきた。XHTMLとCSSを趣味で齧ったことがあったし、テキストにWEB系云々と書かれていたのでちょっとやってみようと思う。書店でテキストを開いたときには正直ちんぷんかんぷんだったのだが、XHTMLのときも似たような状態ながらも何とか最後まで到達したし、こいつも時間をかけてでも最後までやってみようと思う。他には、デブになるのが嫌だから(現在の体型を維持したい)筋トレをじっくり。
現時点での問題点として、お金がまったくない(同族零細サービス業言葉&リアル暴力有の正社員手取り9万で全く貯金できていなかった。今も督促なんかが来て「払わなければ」という気持ちにはなるんだけども)のと、就労の意欲が湧かないために失業手当の認定を受けることができるかどうかということ。あと、親知らずが痛いこと。
鬱状態に関しては快方には向かっていると思う。性欲も出てきた。ここでは「治りかけが一番危ないから」って書いてあるので調子には乗らないけど(第一治りかけなのかどうか自己判断しちゃいけないわな。一時的に調子が良くなっただけかもしれんし)、30という節目?ゆえに人生に関してはこれから快方へと向かうかどうか…こればかりはどうなるか分からない。
転勤で人口5万人くらいの市へやってきた。配布されている広報を見る限り、大体男が2万、女が3万ってくらい。
休みの日に早速周囲をぶらついてみたのだが……これが驚くくらいのド田舎!いや、この地方への転勤が決まってから覚悟はしていたのだが、俺の予想を遥かに上回るほどのド田舎!
本屋がねえ、映画館がねえ、開業医がいねえ、コンビニまで歩いて15分、ネットはADSLが一番早い…ざっと何も考えずに書いただけでもこんな感じ。まあ、それでも今いるアパートでネットさえ整備できれば何とかなるかもしれんが、一番辛いのが交通手段だ。俺は車を持っていない。今までの勤務地では電車やバスなどの公共交通機関が発達していたので、車を買う必要がなかった(普免は持ってる)。ところが、ここでは車がないと本当に身動きが取れない!バスは一時間に二本走っているが、8kmくらい乗ると500円とか600円取られる。市内でも少し開けた地域へ出るためには12kmくらい乗らなければならず、運賃が900円近くかかる。往復で1,800円。前に住んでたところじゃ、バスは指定区間をどれだけ乗っても200円だったぞ。運行本数も桁違いに多かった…。電車は走っていない。
地元のスーパーへ買い物へ行く。アタック1.0kgが498円!?はあ?イオンで買うと298円だぜ?コカ・コーラのペットボトル1.5リットルが298円!?イオンで買うと198円だぜ?何でこんなに高いの?ほとんど定価じゃねえか。…そう、定価だ。前に住んでいたところは、広大なイオンショッピングセンターまで無料バスが運行していたから買い物自体に困ることはなかった。更には、そのイオンから5kmも離れないところに同じイオン系列のスーパーがでーんと構えていたりと、もう意味が分からないくらいにスーパーが乱立していたから、惣菜や魚なんかが安くなる時間を狙って買いに行ったり、折込チラシを見て生活雑貨を安い日に買い込むなんてことで出費を抑えることができた。今住んでいる市内でイオンが出店している地域まで買い物に行くためには、バスで片道880円…。結構大きな出費だ。ネットを整備したら、多分買い物はすべて通信販売で賄うと思う。
家賃も高い。俺が住むアパート(1R)は家賃45,000円。共益費別途で3,000円。前の勤務地で借りていたアパートは同じ1Rで家賃・共益費込みで32,000円…しかも水道代は3,000円で固定。転勤の際には会社が部屋を探してくれるのだが、こんなところしかなかったのか…。しかも光熱水費は実費。いくら住宅手当があるとはいえ、もうちょっと安いところを探してくれ…。そして給料上げてくれ…。思えば、前の勤務地は大学生や短大生が多かったから、物件情報を見ていても割と安くてしっかりとした部屋が多かった。
地元の人たちに話を聞くと、俺が住んでいる地域は市内の中でも一番のド田舎らしい。なんてこった…トホホ。でも、一番開けているようなところへ行っても、あまり変わらんような気がする。若いヤツなんか見かけないし。ジジイとババアばっかり。スーツ着てるとかなり浮く。
俺は新しい土地へ行くたびにその土地のハローワークで求人票を見る変な癖がある。そこで暮らしている人たちがどれくらいの給与帯で暮らしているかが、何となくだが分かるからだ。で、今住んでいる地域の求人票を見てみたが…まず求人自体がない。あったとしても「給与14から18万」のレベル。賞与もねえ。こんな賃金で暮らしているの?まあ、零細企業が多そうな地域ではあるが……。俺も安月給だが、ここの住人たちよりはまだマシってことなのか。
しかし…地域の給与が安いくせにこんなに物も家賃も高くて、生活ができているのか?娯楽だとカラオケボックス(シダックスのようなチェーン系ではない)を見つけたが、平日の一時間で500円とか高過ぎだろ…。他にもっと安い店とかあるかもしれないけどさ…。稼ぐ金は少ないのに、出て行く金は半端じゃねえくらい多い田舎…。ここの人たちは一体どこで遊んでいるんだ?息抜きひとつ出来ないんじゃねえか?
今度は飲食店を巡ってみようと思う。ただ、ここまでで言えることは、「田舎は物価も安くて暮らしやすい」というのはまったくのデタラメということ。都会で安アパートを借りたほうが、交通インフラも発達していて動きやすいし、息抜きも容易だし生活の出費もまだ抑えられると思う。
※10月8日 21:14 訂正:はてブコメで「コカ・コーラの値段がおかしい」というご指摘を受け、スーパーへ確認に行きました。手書きのPOPに298円と書かれておりました。お詫びして訂正いたします。