2009-11-14

[blog][music]学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点

http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20091025/1256479650

はてブクマしてほっといたがコメントを後から読んでみた感想増田に書きますよ。

あ、先に断っとくとブログ主じゃないですよ。

主さんの考え方とはおそらく明らかに違うことをざっと書きますので。

さて、センス至上主義の人たちってのはことごとく残念な方が多いですね。

僕も頭は悪いけど、どんなことでも自前で考えることを辞めてはいませんから、

この人たちと比べりゃ少しはマシかなと思っています。

なぜマシかな?と思っているかを書きましょう。

芸術に限らず物事を見るっていう行為には、必ず束縛されるものがあります。

物事を見るヤツの脳みそです。

脳みそ(全身の神経、肉体を含んでもいいです)にはそいつが生きてきたあらゆる経験が蓄積されています。

全部喋るワケにはいかないので、芸術鑑賞に限りますが、

鑑賞するにも当然経験というものが大きなファクターを占めることになります。

生来のセンス、なんてものはここでは殆ど意味を成しません。

というか、芸術における生来のセンスなんてものは人間には備わっていません。

しいて言えば、生まれた環境、育った社会で目にし耳にしてきた事、この蓄積が異なるくらいでしょうか。

ですが、肉体の素質の差というのは、確実にあります。

有名な話ですがピカソは10歳ごろには既にものすごく達者な写実絵を描かれていたそうです。

そんなに幼いころにすばらしい絵を書けたという事はものすごいセンスの持ち主ということじゃないか!と言われるかもしれませんが

残念ながら全くの早とちりから来る誤りです。

写実絵というものは、インプットアウトプットの精度の問題であり、センス云々は全く関係しない分野なのです。

つまるところ、肉体性能…筋力とかじゃないですよ。この場合は目の力、空間把握能力、そして手の器用さです。

これが達者だったからピカソは幼くしてすばらしい絵がかけたんですね。

あ、こういうとまた文句を言うヤツが出ますね。

写実絵というのもセンスは必要ですよ。

構図のとり方、ライティング、描くものの配置など、考えなければならないことはたくさんあります。

ま、これはセンス至上主義者、才能至上主義者信仰するような

生まれ持ってのセンスなどではなく(そもそもそんなものは存在しないといいましたね)、蓄積されたセンスですがね。

ピカソの絵はルールを破っているということを理解できてはじめて意味がある。守破離と言うヤツですね。

ルールが無いヤツは最初から型破りなんて出来ないんです。ルールが先にあってこそ、型破りを実行することが出来る。

美においてルールとは、観察と経験の蓄積と人間の肉体感覚によってのみ規定されるものなのです。

かつては文化圏文明圏ごとに感覚が分かれていましたが、ネットによってある程度統一化されてきているなぁと感じます(脱線)。

精巧な写実絵を幼くして書くことが出来たピカソは、それまでの画法と異なる彼独自の画法で表現を行っていく道を行った。

何故かと言えば、それが彼が伝えたいことを彼が伝えたい人に一番伝わる方法だとピカソが結論したからでしょう。

優秀な表現者というものは、ここでは芸術家のみの例を挙げていますが、文筆家にしろ、技術者にしろ、あるいは一個人でも同じですが、

自分が伝えたいことが自分が伝えたい相手に、どうすれば伝わるのかを常に考えているはずなのです。

純粋芸術なら、当然、芸術家本人が持つ問題意識(単純に環境破壊とかそういうものでなく、

赤ちゃんをどうやって可愛く描くか」のようなライフワーク的なものも考えられますね)からなるテーマがあり、

それに対する回答が作品となるでしょう。受け手は問題意識を理解してほしい鑑賞者であり、作者自身でもあります。

商用芸術では昨今では仔細なマーケティングが行われていることは周知の通りです。

それがたとえアウトサイダーアートだとしても、自覚的に商売としてやるのであれば

自分が何をしているのか、自分はそれをどうしたいのか、どう売り込みたいのか、考えているはずです。

それが理解されるかどうかは別として、自分が伝えたいことを自分で明確に出来ない芸術家は大成するはずがありません。

伝わるアテの無いものを創ることは幼い子供や、本当の趣味人に与えられた特権と言えるでしょう。

「そんなこと一切考えて物を作ったことなんて無いけど芸術で暮らしていけているよ!」という方は

きっとダウンタウン松本氏における浜田氏の様な素晴らしい相方と出会えたのですね。おめでとうございます。

さて、問題は伝わる方です。

自分の見たことの無いものを鑑賞するとき、人はどうするでしょうか?

生来のセンスがあれば、ちゃんとした評価が下せるのでしょうか?

それとも、間違っていてもセンスで感じたことが正しいのだと言い切れるのでしょうか?

順を追って考えれば、殆どがまずそのものをちゃんと見ようとするはずで、

目にした瞬間エレクトリックサンダーが全身に走るような至福の体験を得るなどということはありえないはずです。

人間なんてもんの見た瞬間に出る感情は、自分がそれまでに見てきたものから割り出すように出来ているんです。

人は完全にわからないものと触れる時、評価を下すには多少の時間を要するのです。

生来のセンスなるものがあるなら、そんな時間は必要ないでしょう。何も考えずその場でパッと決めてしまえばいいのです。ゲド戦記はクソ、とか。

ま、ゴッホみたいに死ぬまで放置されてから評価される画家もいますから、そんなヤツはセンス0の大馬鹿者であると断じてしまえるわけですが。

ちょっと古いですが、アイフォーンをはじめてみたとき、

「ああ、ついに完全タッチパネル携帯が発売されるのだな。人類革新だ」って思った人は先に記事を読んでる人だけで、

そうでない人は「キーパッドないの?」「液晶DEKEEEEEEEEE」「なにこの□」のように、

見た目からはこれまでの携帯とは形が違うから、どういうものなのかを判断しようとしたと思います。

芸術だって同じです。見たことが無いような作品、バックグラウンドがわからない作品を理解することは出来ないのです。

ゲルニカを最初に見た時、僕はこの絵が壁画として作成されていることがわかりませんでした。

あと感じたことは、「ちょ先生教科書に微グロ入ってるんですけどこれ」くらいのもんです。

だってなんか変な生き物が人を食んでいるんですから。

戦争の絵って言われても戦争まんがははだしのゲンしか知らない僕からしても大いに差があり(だって人間しか出て無いですからゲンは)、

戦争関係なくね?マジキチ」としか考えられなかったことを思い出します。

今ではこの絵がどういう背景で、どういう意図を持ってかかれたものかわかります。

だから、あの大きな絵に描かれた一つ一つの人物、動物にどんな意図があるのか、

それがピカソという偉大な画家の考えと一致するかはわかりませんが、僕なりに思いをはせることは出来ます。

即断即決で評価を下す必要なんて無いのです。時間がたてばわかることだってあります。それが蓄積されたセンスの成長なのです。

一つの作品を前に、作者とその時代、昔の自分、今の自分、そして作品そのものと触れ合う体験が出来るのが芸術鑑賞なのです。

同じような体験として、聴かなくなった音楽を久々に聴いたときの感覚があるでしょうね。

卑近な例で示したとおり、自分自身というものは変らないように思えて、

仕事学校人間関係を経ることで常に変化しているものなのです。

センスなんて言葉確信的に使ってはいけない理由はこの一点なのです。

使っても問題ないのは人を褒めるときくらいでしょう。それ以外の場面では、使わない方がいい。

人間のセンスはある程度のブレ幅までは抑えられるが、完全に固定できない。

それなのに、センスなどという曖昧模糊なもののみを後ろ盾にし、

他に根拠の無い好き嫌いを強弁するなどという子供じみたマネは

魔術的盲目さすら感じる薄ら寒い行為と断じるほか無いのです。

それとも、共感できれば、自分が根拠なく、しかし好きだ、正しいとは感じることが出来ればそれでいいのでしょうか?

僕はそうは思わない。

勿論経験によるセンスは人それぞれなんで、好き嫌いはあります。

見たものをそのまま感じ取ってそれがよい体験となる芸術作品もたくさんあります。

ですが、感情にそのまま訴えかける芸術というものは、やもすれば危険物にすらなりうる可能性を捨ててかかってはいけないのです。

人類歴史は、いかに肉体欲求をコントロールしてきたかの歴史でもあるわけです。

人間のしくみが生命機械であるとわかっている以上、感情もまた肉体欲求の一つです。つまり、制御出来うるのです。

オカルトなんかじゃありません。

あなたがメディアを通してあなた自身とかかわりの無い人間に対してどれほど多くの感情をもっているかを想像してみれば、わかるはずです。

MMRに書いてあったサブリミナルみたいなヨタなんてメじゃない恐ろしさです。

で、メディア芸術の違いは、僕からみれば非常に曖昧です。

出自や成り立ちは芸術大学なんて出てませんから知りませんし、教養も無いからわかりませんが、

聴覚(場合によっては他の感覚)を通して物事を伝え、感情を伝えるという共通点があります。

もしあなたがメディアになにかしらの違和感を感じ、それが問題であると考えるのであれば、

芸術に触れた違和感を感じたら時にも問題意識を持たないといけません。

あなたの友達がそう訴えてきたら、ちゃんと話を聞いてあげないといけません。

(ま、友達の感じたことも受け入れられないのであれば芸術鑑賞そのものの否定をしていることと同じと言えなくも無いですが)

そんな窮屈な思いはしたくないと言うなら、好き嫌いすら語らないことです。

それならセンスが似たもの同士で集まればいいじゃないかと思われるかもしれません。

それが良くないとは思いませんが、しかしその集団に居続け他の意見を聞かないことは、

徐々に感覚麻痺させ自分たち以外の感覚への無理解をはぐくみ、閉塞へ向かって突っ走ってるだけであり、

スイーツ(笑)」やらなにやら言って喜ぶ人間に成り下がるだけのよろしくない行為と言えましょう。

現に今の社会は閉塞したコミュニティの複号体になってしまっており、

その要因の一つが芸術メディアの受け取り方だとすれば、

表現という形でコミュニケーションを図る物自体の存在意義が変化していることの表れなんでしょうか。

(テレビみねー、ゲームとか興味ねぇ、美術館とかブルジョアか!などいろんな派閥がいるでしょうな)

その変化が感覚や感情のような曖昧でふわふわしていると思われているものに密着しているなら、危惧すべきことだと思います。

なんかとっちらかっちゃいましたが、つまるところ、

センス至上主義者は考え直せ、頭を使え、鑑賞してる時の楽しみ方に文句をつける気は無いから。

と、言いたいわけです。

僕としては、こんなクソ長くクソ面白くもなく他人人を完全に否定するようなシャドーボクシング的文章を最後まで読んでくれたあなたが

自分の考えもオンリーワン世界に一つだから思想修正主義絶対反対とか言いながら

芸術作品に対して自分の考えのみを誇示し続け、異論をことごとく無視し自分と同じセンスの持ち主だけで結託して外に出ない、

あるいは自分と異なるセンスは認めず叩き潰すことに快感を覚えるようなサイコパスでないことを祈るばかりです。

だって、芸術の感じ方なんて、人それぞれでしょう?

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