はてなキーワード: 拡張とは
「オタサーの姫」って言葉、だいぶ狭い範囲を指すので、実在するとしてもヘタするとヒトケタ人とかじゃないのかな?
だって、「オタク系の大学サークルの姫」だから、ネット上の大抵の「姫」は「オタサーの姫」の要件を満たさない。
よくゲーセンとかで女囲いの集団を目撃したみたいな話もあるが、これもおそらくサークルではないので「オタサーの姫」ではない。
「オタク系サークル」をどうとるかも問題で、アニメ漫画以外のサークルも「オタク」に入るからと適用するのは語義拡張が過ぎる。
文化系サークルすなわちオタク系サークルみたいなめちゃくちゃな定義もよく見る。
結局、大抵の「オタサーの姫」は実物を知らない状態で空想された「オタサーの姫的」イメージの当てはめに過ぎず、本物のオタサーの姫は非常に少ないだろうということ。
あまりに当てはまる人間が少ないのか、高校の部活動すら「オタサーの姫」認定する向きもあるが、論外。
ほとんど架空の存在と言ってもいいだろうけど、もしも実在すれば特定個人を指すような言葉なので、私はとても怖くて使えません。
具体的なフェミニストの方はむしろ僕の批判の対象外であるばかりか、尊敬の対象であることがほとんどだと思いますよ。
そういう方のフェミニズムというのは、哲学的・論理的基盤がしっかりとあり、「どうして女性の権利を拡張すべきなの?」という質問にも真正面から答えられる人が大半でしょう。恐らく。
そして弱者男性との関係についても、上記の質問の答えと矛盾が無いように弱者男性も助けるか、あるいは助けない理由(弱者男性は助けなくてもいいが、女性は助けるべき理由)を述べられる人が大半でしょう。恐らく。
そういうわけで論理的矛盾が無いわけですから、当然批判のしようがありません。むしろ尊敬されて然るべきです。
逆に、弱者男性との関係において、その「女性の権利を拡張すべき」という信念との矛盾を露呈してしまうようなフェミニズムは、端的に言っていらないんです。フェミニズムにとっても邪魔でしょうそんなもの。
しかし残念ながら、フェミニズムの最前線はともかく、その後続となる一般人的フェミニズムと呼べるであろう集団は、そうした矛盾を抱えてしまっている。
「自分のクラスのいじめに立ち上がる」こと(フェミニズムで言えば「女性のために立ち上がること」)は批判されるべきではないでしょう。
でもフェミニズムはそもそも他勢力や社会に対して「女性のために立ち上がらないこと」を批判することでしか「女性の権利を拡張すべき」という命題の必然性を主張できません。
つまりフェミニズムは「自分のクラスのいじめに立ち上がらないこと」をクラスみんなに責めている、ことになるわけですが、
一方で「弱者男性」という自分のクラスの別のいじめに対してはフェミニズムは立ちあがっていない。
そこが矛盾です。
ところで上記にももしかしたら違和感を感じたかもしれませんが、僕の中ではフェミニズムにとっても弱者男性いじめは「自分のクラスのいじめ」です。
なぜ「他のクラス」になるのかわかりません。弱者男性はあなたと同じ社会に間違いなく暮らしています。
もし仮に「フェミニズムは女性クラスに属していて、弱者男性は男性クラスに属している、だから別のクラスだ」と言いたいなら、女性差別は一体どのクラスのいじめでしょうか?それはむしろクラス間の争いになってしまう。比喩としては不適切と考えます。
この議論は女性の権利拡張が「過剰な」権利拡張とは言えないことに対して、僕が「現時点で」と保留を付けたことから連なる議論と存じます。
つまり僕は現状の女性の権利が「過剰だ」と言っているわけではありません。故に、「女性が「1時間働いたら最低賃金1億」を求めた」と言ってるわけではありません。
「1時間働いたら最低賃金1億」と同様に、なんらかの弊害を生みうる方法が、痴漢を告発するという正当な目的のためのもしかしたら過剰な方法として採用されている、かもしれない、という「保留」を僕は行っている、と理解して頂けるとまず間違いないかと。
「海外の難民が救われない現状」を肯定したってことにならないとしましょう
それに対して何の行動を起こさない人は
そしてもしならない場合、一体誰が「女性が差別される現状」を変えるために努力しなければならないのでしょうか?
繰り返しますが問題は「女性の権利を拡張すべき」という命題の真理性です。
仮に女性差別に対して何のアクションも起こさないこと(女性の権利を拡張しないこと)が「女性が差別される現状」を肯定したことにならず、そしてそれが何も悪くないなら、
「女性の権利を拡張すべき」必然性はどこにもないということになり、「女性の権利を拡張すべき」は偽ということになります。つまりフェミニズムは間違いだった、ということになるわけです。
欺瞞ですね
何故なら「女性の権利を拡張すべき」というフェミニズムの至上命題は、「万人が平等に扱われるべき」という別の命題に依存しているからです。
つまり「万人が平等に扱われるべき」が偽なら、「女性の権利を拡張すべき」もまた偽になります。
そして「弱者男性が平等に扱われない」現状を肯定すれば「万人が平等に扱われるべき」は偽ということになり、「女性の権利を拡張すべき」もまた偽になり、フェミニズムは間違いだったということになる。
ので、フェミニズムは自らの真理性を保証するために、「弱者男性が平等に扱われない」現状を否定しなければならない。ということになるわけです。
まぁ、理想論ですが。
http://anond.hatelabo.jp/20150531002201
昨日同じことを聞いたが、ほとんど答えられる人はいなかった。(答えられたのも「そうすればモテるから」という男性側の理由だった)
なんでこんなことにも答えられないものが、そもそも「思想」として認められているのか。
ただの妄想と一体何が違うのか。
フェミニズムが弱者男性を助けない場合 → それを理由に「どうして女性の権利を拡張しないといけないの?」という質問に対するある答えを封殺できる。
自分もそう思う。
だからこそ、これ以上痴漢冤罪に関する女性の権利を拡張させても、見掛け上の女性の権利が大きくなるばかりで、実際には女性にとってももちろん男性にとっても何の得にもならない。
例えば女性がAという点では弱者であるが、Bという点では強者であるとき、
往々にしてAという弱点を根拠にしてBの更なる強化が図られる。
結果としてAは放置され無視されることになるし、Bは更に女性を化け物じみた強者にする。
現在の女性の持つ痴漢冤罪に関する狂気じみた権力を減らすことが、ひいては女性の未だ残る弱者としての部分の保護に繋がると思う。
この件とか
むろん痴漢冤罪の裏には本物の痴漢と痴漢被害者としての女性がいるのだとは思うが。
しかし電車という使用頻度の高いインフラの中で人生が簡単に終わってしまうリスクを考えると、そうのんきな事も言っていられない。
ある場面では完全に被害者だし、別の場面では他人の人生を指先一つで左右できるほどの強者でもある。
弱者としての女性には非常に心強いが、どこまで行ってもその権利拡張は終わらない。
システム的にそういうものが用意されてないから、女性がある面で強者になっても権利拡張は止まらないし、むしろこの権利拡張がフェミニズム自体に資する形で加速度的に力を増す。
一方で依然残る女性の弱者としての側面は放置され、解決されない。
弱い点がある分、より拡張が容易な既に強い部分で補填しようとするし、女性の強者としての側面への反感がフェミニズムへの反感に繋がるのは一連の議論を見れば分かる通り。
女性の弱い部分はどんどん弱くなり、強い部分はどんどん強くなる。
こうして弱者とも強者とも言えない歪さがどんどん尖鋭化されていくことになる。
男性も結局のところそうなのかもしれないが、現代の女性について弱者or強者という素朴な二元論はなんら有効性をもたない。
それはフェミニズムの掲げる「女性は一方的に抑圧される者」「男性は一方的に抑圧する者」という素朴な対立構造も同じ。
実際には双方、抑圧しつつ抑圧され、弱者でありながら強者でもある。
男性にとっても女性にとっても、まず、弱者VS強者、抑圧VS抵抗、というあまりに単純過ぎる構造を脱構築するところから始めるべきではないのか。
再びお返事どうも。
そうですなぁ。フェミニズムは「男女同権運動」じゃなくて「女権拡張運動」と考えるべき思想だってことが、今回の件でハッキリし
ましたわ。↓の記事の「学問としてのフェミニズム」と「運動としてのフェミニズム」の違いとか、超わかりやすかった。なにこの俺w
http://anond.hatelabo.jp/20150527003222
個人的には、「ジェンダー規範に苦しめられている」という点で、弱者男性とフェミニストは仲間だと思うのだけど、なぜこの観点か
ら両者は分かり合おうとしないのかってことが超絶に謎。
フェミニストは、ジェンダー規範に苦しめられてきた人間なんだから、弱者男性の気持ちや立場が理解できてもおかしくないと思うん
だけどなぜか弱い者が同じように弱い者を叩くし、弱者男性は理由は知らんけどなぜかフェミニストを敵視してるっていうね。両者とも、
異性は敵ってミソジニー/ミサンドリー思考に染まりすぎちゃってんのかなー。
先のエマ・ワトソンなんかは、まさに「ジェンダー規範に苦しめられている」という点では男性もまた同じように苦しめられている
と看破し、共闘していこうっていう主張だから、これにはすげー共感できるんだけど、フェミニズムの主流ではないっていうし、超がっかり。
まぁ、フェミニストの主流派が「フェミニズムは女のもの!男は敵!」って考えているミサンドリー野郎たちだってことは今回わかったから、
「性別を問わないジェンダー規範からの解放」について、フェミニズムに期待するのはもうやめますわ。やっぱりメンズリブかなー。
仮に、平和に暮らす人々の「恐怖心」が魔王軍団の活動の源泉だとしたら
魔王「新たに再建!世界統一したものの、さすがにちょっと世界広すぎるわ
瞬間移動できるけど、いちいち各地区自分で見回りに行くのもしんどいなぁ」
魔王「各地に拠点を構えてそこに担当をつけて定期的に「恐怖心」取れ高報告してもらうようにしよう」
魔王「あ、適当に洞窟掘ったり、塔作ったりで、それぞれの担当の好きな感じでいいよ。
で、近所の住民が入ってきたら危ないんで、気安くは入れないように、
もし入ってきてもビックリして引き返すように
四半期ごとの「恐怖心」の報告だけして~」
魔王「あと、水飲み場作っといてね、みんな冷たい水飲みたいでしょ、
あとでそこワープゾーンの部屋にするかも!みんなが行き来便利でしょ。
ま、予定だけどね」
各地ダンジョンの発生と、回復・セーブポイントやらはそういう理由か~
基本、魔王いい人なん?w
食べる/見世物にするということを、「人類が自身の都合で自由に扱って良い」と解釈して、人類が自身の都合である種を自由に扱って良いかどうかは、その種の知能によって線引きされると仮定してみる。
妥当そうな理由を考えるとすると、「知能の高い種は後々人類と対話して共生することになる可能性があるので、禍根を残さないようにしよう」ってことかな?
例えるなら、「黒人を白人の都合で奴隷として扱ったのはマズかった。彼らは対話可能な存在だった。同じ過ちを繰り返さないようにしよう。」という考えを種を超えて拡張すると、イルカやクジラが当てはまるということか。この例えは微妙というか黒人の立場からすればアウトだけど。。
「何百年待ってもイルカやクジラと対話できるようになんかなんねーよ」って話もあり、無視して良いのかという気もするが、「対話は無理でもパートナーシップを持つことはできるんじゃね?」という感はあり、地上におけるヒトとイヌの関係ぐらいは持てるような気もする。イヌを食べる人々もいるが。。
食べることに限って考えれば、「なんかしら食わんといかん。それは人類に限らないし、これはしゃーない。」って話はあり、その視点では種を区別せず何でも食べるのが最も正しいのか?。知能によって区別するなんてそれこそ差別!。なのか?。え?じゃあ人間も含む?。
飢えた地域もあるものの、人間は同族も含めて何でも食べないと種を維持できない状態ではないので、なんらかの線引きを行うに至ったのは自然なように見える。とすると、その線引きはそれぞれの文化によってそれぞれ独自に決定される?。とすれば鯨漁やイルカ漁に対する批判は異文化への無理解とみなせるのか。
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おれのアタマじゃ結論出ないので、倫理学の専門家に説明してほしいなあ。
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2015/05/24 19:45 追記。
書籍を紹介してくださった ChieOsanai さんとブログまで書いてくださった DavitRice さんには感謝です。
DavitRice さんのエントリ。
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2015/05/24/110640
とりあえず「動物からの倫理学入門」伊勢田哲治 はポチったので楽しみに待つという状態。
個人的には DavitRice さんの説明に納得感があり、「もうこれで良いわ。受け入れた。」などと一瞬思ったが、先を急ぐのも危険なので本を読んでまた考えるということで。
DavitRice さんの説明で一点モヤったのは
”「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張が「イルカ以外の動物は頭が悪いから殺しても良い」という主張を含意しているわけではない”
の部分で、
”「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張は「イルカ以外の動物は頭が悪いから殺しても良い」という暗黙の主張を含意せざるを得ない”
とはならないのかな?という点。これはおれの理解に抜けがあるのか。論理学とかの出番なのかな。まあ、本読んだら納得できる説明があるかもしれないので、後々ということで。
ブコメでは文化的背景や感情をベースとした素朴理論が多い印象で、この件についてはそうした論も排除される必要は無いよなー。という感覚。
これが素朴理論を背景としたヒトという種の中で線引きを行うような話なら即刻排除される必要があるだろうけど、アニマルライツ(今日知った言葉だ!)については、ある程度の多様性が認められても良いんじゃね?みたいな。動物愛護団体の人からすれば「ざっけんな!」って話だろうけど。
一方で、文化をまたがって統一された規定を設けようとして、それぞれの線引きに乖離がある場合、「え?じゃあどっちに寄せるよ?」って話にはなるわけで、アカデミアからの裏付けがある方が強いのは仕方ないのかなあとも。とはいえ WAZA と JAZA は雑すぎだろ。。
実際に迷惑を蒙ってる被害者に対して、現実の迷惑には直接の利害関係があるわけじゃなければ解決策を持ってるわけでもない外野が「少子化なのに!」ってお為ごかしに怒る構図が一緒。
いや、大抵は保育園利用して同僚に迷惑掛けながら働いているワーママ&その夫或いはその予備軍による
自分達以外の人間への配慮より自分達の利益を優先しろっつーポジショントークだろあれ。
そうはっきり言うと流石に反感買うから「少子化なのに!」と社会のせいにしてるだけ。
財源も現実も気にしないで好き勝手なこと言ってもいいんなら、保育園・幼稚園小学校の周囲30m圏内ぐるっと「子育て家族専用賃貸」にして、子育て中の人が人垣になって防音すればいい。
幼稚園や小学校まで巻き込むなよ。問題になってるのって保育園ばかりだろ。
東京都が騒音に対して条例作ったからそれがよく取り上げられるけど、実感としては騒音より交通マナーの方が問題視されてる印象。
(騒音は迷惑被るのは隣接した家の人間くらいだが、交通マナーの悪さはその道使う全員に影響が出る。
影響が出にくい広い道沿いの場合は大抵商業地区か田舎で、そういう所なら騒音も問題になりにくいだろう。
実際幼稚園も小学校も近くにあるのに保育園だけが反対運動に遭ったなんて事例も何度かあったみたいだし)
幼稚園は大抵園バスあって園バス使わないのは近所の子(つまりその地域の子)だし、小学校も公立なら近所の子&子供だけで歩いて登校だけど
保育園は全員が親連れ登園で人数が多い&家が近所とは限らず遠くから車や自転車で来て路駐しまくったり大渋滞引き起こすんだよね。
しかも騒音と違って防音壁とかじゃどうにもならない(道拡張するのは無理だし車登園禁止にするくらいか。破る奴絶対いるけど)という。