はてなキーワード: 学問とは
教養がどうの、古典がどうのと話題になっているけど、正直教養を身に着けて役立つかどうかなんてなんの役にも立たない。それが勘違いの原因。
教養の本質は「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」ってことだぞ。
つまり前提となる知識をどれぐらい共有してるかを判定する装置だ。
例えば雑談の中で「お前それwwwこち亀の『どれもおなじじゃないですか』みたいなヤツだよwww」っていって相手に伝われば「あぁ、コイツはこち亀かネットミームに最低限は強いんだな」って判定できるからそっち方向の語彙をつかったりネタを振ったりできる。
分からなければそういう話は使えないなってなる。
そういうものの判定装置なわけ。だから漫画でも古典でもアニメでも教養があると言っていい。
ただし、いわゆる『教養』ってのは戦前の高等学校由来の「教養主義」に基づくものだから話がややこしいわけ。
こいつらはエリートだったからやたらと古典や外国文学に詳しかった。だからそういうのに精通しているのが「教養」だと誤認された。
でも本質はさっき言った通り「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」だから、高等学校のエリートガキの間限定の教養が古典や外国文学だったわけ。
一方でいろんな人とコミュニケーションをとってみたかったら広く文化や学問を齧っておいた方がいい。それが結局「教養」になるだろう。
でも現状のカリキュラムほど割くべきでは無いと言うてるの
公教育では古文漢文の入り口、さわり程度で、こーゆーものもあるんだよ
興味があるならこれを専門に学ぶ方向にいってもいいよ程度の導線で十分じゃね?
こーゆー提案なの
ここんところにはなーんも答えてない。
日本語能力大丈夫?古典漢文やりすぎて2周くらい回っちゃった?
でも義務教育でここまで時間かける合理性を数字で立証できますか?
いやいやいや、やるなら是非やって欲しいの
古典漢文をカリキュラムから抜いたグループと長期追跡のコホートやればいい
やっぱ古典いるわ、よくわからんけど漢文ガチでやらせたグループの方がスコア高いわ
ならばこっちはなにも言いませんよ
でも、少なくとも、アホみたいに古典漢文をやり続け日本は経済停滞してる
古文漢文なんていらねぇ!という主張は、とにかく評判が悪い。受験期になると毎年のようにこの手の論争が再燃するが、話がまともに前進することは稀である。
ほんとうに意味のない教養信仰やマウントやwhataboutismをとりのぞいたとき、私の考えでは、必要派のまともな論拠は以下の一点に絞られる。すなわち、古文漢文を学習することは、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるので、古文漢文は学ばれるべきなのだ。
いずれにしたって、古文漢文に優先的に学ばれるだけの価値があるとすれば、それは役に立つからである。
任意の学問について学ぶことにはそれ自体価値がある(誰もこれを否定するべきではない)のだが、それだけでカリキュラムに組み込まれるわけではない。古文漢文は英語や数学とならんでとりわけ役に立つからこそ、受験科目にするほどの価値を認められているのだ。そうでないとすれば、あれやこれを受験科目にせず、古文漢文を受験科目にすることがまったく正当化できない(これはいくらかwhataboutismだが)。
古文漢文はなんの役に立つのか。古文漢文をやっていれば、これに絡んだワードセンスや物語の優美さ・ユーモアが汲み取れる、というのはどう考えても小さすぎる利点なので、この程度の「役に立つ」を指摘して満足してしまうのは小物のやり口である。
もっとがっつり役に立つ、例えば大学や社会に進んだら漢文や古文を読む機会がたくさんある、古文漢文で読解力や論理的思考が大幅に養われる、などと指摘するのは嘘つきのやり口である。そんなことないからこそ、不要論が立ち上がるのだ。
したがって、古文漢文が真に役に立つのだとしたら、上に述べた通り、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるというのが、その「役」なのである。この「役」は、聖書やプログラミングを学ばせても代替できない点で、古文漢文をとりわけ優先するもっともらしい理由を与えてくれる。中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきであり、古文漢文はこの望ましい帰結をもたらすからこそ役に立つ、優先的に学ばれるべきなのだ。というか、これこそが古典教育の目標であることは(ここまで露骨ではないものの)高等学校学習指導要領に書かれている。
古典としての古文と漢文、古典に関連する文章を読むことによって、我が国の伝統と文化に対する理解を深め、生涯にわたって古典に親しむ態度を育てる。
古文漢文必要派は、この一点突破を狙うべきだろう。小さすぎるお役立ちを挙げるのも、大きすぎるお役立ちを挙げるのも、教養信仰やマウントやwhataboutismに徹するのも、墓穴を掘って自らを辱めるだけだ。
しかし、「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提は、すでにかなり党派的なものである。それはれっきとした国粋主義であり、軍国的な仕方で「国民」なるものを要請している。このグローバル化が進みきった時代において、なぜ日本人(にっぽんじん)としてのアイデンティティを持たなければならないのか、それがなんの「役に立つ」のかという疑問はスキップされており、とにかく、「文化的アイデンティティを養うべだ」という義務だけが突きつけられている。
実際、古文漢文不要派の一部は、まさにこの「国民」の押し付けにこそ反対しているのであり、特定の文化的アイデンティティに固執するべきではないと考えているのだ。必要派が本質的にナショナリストならば、不要派は本質的にアナーキストである。
というふうに、「古文漢文必要派vs不要派」の争いは多分に政治的な争いであり、私が思うに、発信する人の多くはこれを分かっている(ほんとうに無自覚な人もいるが)。しかし、両陣営ともに自らの政治的立場を明言しないのが普通である。というのも、露骨に党派性を示してしまえば、そうしなかった場合には言いくるめられたフォロワーまで引かせてしまうからだ。そのせいで議論はいつも上滑りし、互いに口汚く罵り合って、相手は馬鹿だと結論し、翌年の再戦を待つばかりだ。
「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提の是非にのみ話を絞れば、古文漢文の必要性をめぐる議論はもう少し見通しが良くなるだろう。
なんにせよ、アイデンティティを持つことは、心身の健康にとって必要不可欠であるかもしれない。国民であるという拠り所すら失われたときに、人はどれだけの孤独を感じるのか。そんなものに寄りかからず自分の脚で立て!というマッチョな個人主義に、みんながみんなついていけるわけではない。
はたまた、仮に日本人としてのアイデンティティを養うべきなのだとして、古文漢文をやらせるというのは理にかなった方法なのかという疑問も意味をなしてくる。これだけ少なくない人々に、古文漢文という科目への悪いイメージを植えつけているのだとすれば、それはいわゆる「義務教育の敗北」ではないか。
はたまた、少なからず党派的な思想を陰に陽に植えつけようとする事自体、中高生の自律性を脅かすパターナリズムでなくてなんなのか。「自分の脚で立て!」とまではいかないにせよ、子どもたちには一定の選択が与えられるべきであり、古文漢文を必須の受験科目とすることはその道を閉ざしているのではないか。
そんなに言うなら、私立理系に進めばいいだけの話だ!と言われるかもしれない。しかし、だとすれば理系はなぜ日本人としての文化的アイデンティティを養う義務から(ある程度)自由を許されるのか、と問われるかもしれない……。
疑問・議論は尽きないが、私たちはいまや「古文漢文は必要なのか」というはじめの問いよりも、はるかに全うな問いたちを手にしつつあるのではないか。
こういう奴がいるから強烈な嫌悪感を表現せざるを得ないんだよな
差別は、その基礎である人権や歴史や哲学とセットで理解しなければ分かったことにはならない
無教養でバカな日本人は教養がなく基礎がなく何も理解できてない。そしてバカどもが「俺の考えた俺だけに都合のいいサイキョーの差別」を適当にギャースカ言い出して国内の醜悪な差別は放置
汚染水を海に垂れ流してるのも放置でくらげがどうたらなんて寝言よく言えるよな
海を虐殺して壊しておいて、くらげなんてよく軽々しく海の生き物を喩えに出せるよな
哲学とか倫理とか人権とか差別とかは学問だからね。「三角形は3つの角と辺がある」という認識が、海外の文化の代表にはならないのと同じことなんだが?文化じゃねえんだが?
無教養すぎない?小卒アホが喋んな。
私は小中高の授業や高校大学入試の必修科目として、古文漢文は相応しくないと考えている。
こういうことを言うと「三角関数だって将来使わないじゃん」とか言い出す人がいるが、古文漢文と三角関数では話が決定的に異なると思う。
確かに三角関数を使わない人生を歩む人は大勢いるだろう。しかし一方で、三角関数や微分積分、そうしたものを学んだ先の高度な数学を学ぶことでしか就けない仕事は沢山ある。そしてそうした職業は大抵世の中に必要不可欠でもあるのだ。建築業に製造業にITに電気通信、もはや現代社会のあらゆるものは高度な数学によって成り立っている。従って、将来使わないのに三角関数に時間を費やす人がいる無駄を容認してでも、数学の素養を蓄えた人間を増やすことには重要な意義がある。
では翻って、古文漢文の重要性とはなんだろう。古文漢文が必要不可欠な仕事とは?一体社会に、人の人生にどのように役立つ?もちろん全く役に立たないということはないだろう。古文漢文を学術的に研究する仕事があるのがその証拠だ。しかしそれだけでは、義務教育や入試の科目に採用されなかった他の学問分野との違いがない。
仕事にならずとも人生を豊かにするのが古文漢文だ、という人が大勢いる。それ自体は確かに間違っていない。あらゆる知識はあるに越したことはないものだ。しかし同時に、私は彼らに問いたい。それは、例えば中国語などの第二外国語や外国の古典などにも言えることではないか。私が言いたいのは、それらではなく古文漢文を義務教育や入試の科目として選ぶ意義はどこにあるのか、ということだ。
こうした論点で古文漢文の必要性に納得させられる意見を、私は読んだことがない。なのでもし反対意見があればぜひ聞かせて欲しい。自らの不見識を詫びる準備がこちらにはある。
み、身も蓋もない……けど言い訳っぽい理由並べられるよりはしっくりくるかもしれない
しかしそれにしても現代語訳した文章を授業で読ませるだけで十分だろうと思う、原文を読む能力を鍛えあまつさえそれをテストすることにはやっぱり納得し難い
学問自体の価値とそれを教えることに価値があるかは全く別の話では
そもそも基本的には不満のある人だけが言及してそうでない人はスルーするので、各話題で挙がる意見は同じ人の意見ではないし、別に理系の多数派でもなさそう