はてなキーワード: 交換法則とは
小学校教員経験者としての個人的な意見です。といっても大卒後2年だけ勤務(5年生, 6年生担任)してその後転職してるので、経験は少ないし時差があります。ただ最近、というか定期的に話題にあがる、かけ算の順序問題について自分の考えを書きたいと思ったので
(2)かけ算を元にしたわり算の理解
という2つを考えつつ書きなぐります。
ここではかけ算の順序を固定するという表現を使ってみようと思います。まず現状としてかけ算の学習では
(1つぶんの数)x(いくつ分)=(ぜんぶの数)
乱暴な言い方かもしれませんが、このように固定するのは必要悪だと思っています。
かけ算の順序を固定する理由をざっくり言うと、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するため、です。それに伴い、順序を固定する必要が出てくるということです。固定は副次的なものです。
例えば3 x 2という式において、(1つぶんの数)にあたる数は3なのか2なのか、(いくつ分)にあたる数は3なのか2なのか、順序が固定されない限り判断がつかず評価ができません。どっちの数がどっちだか混乱してしまいます。なので、かけられる数に(1つぶんの数)を、かける数に(いくつ分)を対応させることにより、明確に(1つぶんの数)と(いくつ分)を式の中で表明することができます。
あと、計算だけ指導するのであれば、順序の固定は不要です。実際に、意味がわからなくても計算ができる人は山ほど居ます。ただ、かけ算やわり算の意味をとらえるためには、(1つぶんの数)と(いくつ分)を区別して考えていかなければなりません。
これだけじゃわかんねーよって人は以下も参考にしてください。
授業をするからには、かならず評価をすることになります。実のところ、この順序をつけなかった場合、問題の文脈を正しく理解して立式したのかどうか、評価が難しいです。問題において提示されている事象、より厳密に言えば「現実モデル(*1)」を、正しく「数学化(*2)」して処理しているかどうかが、評価のポイントになるわけです。もちろん児童ひとりひとりにインタビューをして評価できれば良いのですが、ペーパーテスト上では、立式ができているかどうかをかけ算の順序で判断するしかありません。(もちろん、正しい順序で書けたからといって正しく数学的に理解できているかどうかはわかりません。適当に数字を選んで立式している可能性もあります。逆に、現実モデルは説明できるのに式でそれを表現できていない場合もあります。これは現在のペーパーテストによる評価の限界でもあります。)
このままだとわかりにくいので、次で具体的な例を挙げながら説明します。
(*1)「現実モデル」...例えば「1ふくろにつきももが3こ入っていて、それが5ふくろあります」というものが現実モデルの一例です。現実にはその場にももがあるわけではないですが、その現実事象を模したものが現実モデルです。
(*2)「数学化」...ここでは文章題から立式する過程のことを指しています。問題を数学(算数)の領域で解決できるようにすることです。数学化した時点で、現実モデルの情報はそぎ落とされます。たとえば[現実]→[数学]の動きの場合、「りんごが2こと3こでぜんぶでいくつ」→「2 + 3」と容易に数学化できますが、その逆の[数学]→[現実]の動きの場合、「2 + 3 」→「 」の部分は無限に答えが考えられます。りんごじゃなくてもも2こと3こにしてもいいし、今日は1月2日です3日後は何日ですか、でもいいわけです。数学化されたものはそれだけ抽象化されていて、元の現実モデルを言い当てるのは困難ですし、現実モデルがそもそも無い場合もあります。
よくあるひっかけの文章題では、文中で(いくつ分)をわざと先に出し、(1つぶんの数)をその後に登場させるものがあります。
「6枚のお皿にりんごが3個ずつのっています。りんごは全部で何個ありますか」
文章題の順序通りに立式すると、6 x 3という式になります。固定した順序で考えると、これは(1つぶんの数)と(いくつ分)の順序が逆になっています。この場合、実際には
1皿に3個のりんごがのっていて、そのお皿が6枚分ある(式 3 x 6)
1皿に6個のりんごがのっていて、そのお皿が3枚分ある(式 6 x 3)
という現実モデルになってしまい、結果的に6 x 3という式は後者の現実モデルを元に立式したと判断することになります。
りんごのぜんぶの数はどちらも等しいですが、6 x 3という式の元の現実モデルが実際の現実モデルとは異なるため、問題にある現実モデルを正しく数学化できたとは言えず、誤答になるということです。
(1つぶんの数)を3、(いくつ分)を6
として捉えているのか、
(1つぶんの数)を6、(いくつ分)を3
として捉えているのかには大きな違いがあるわけですが、(1つぶんの数)x(いくつ分)の順序で書こうと決めておくことで、どちらで捉えているかを特定することができるようになります。
そう考えると、順序は逆にして固定しても問題はなさそうです。今の
(1つぶんの数)x(いくつ分)
という順序は、ただ言語的な順序に従っているだけだと思います。
かけ算がたし算の延長ということを思い出すと、
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を
2 x 5
と表しているだけで、これは
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を、2が5つ分という風に捉えて、その順番で2 x 5と順序づけているのかもしれません。5つ分の2と捉えれば、5 x 2と順序づけてもいいので、捉え方の問題なのかもしれません。個人的には前者の方が自然に感じるのですが、刷り込まれてきただけかもしれません。
(共通性のある例を考えると、2/3という分数について、日本では「3分の2」と分母から読み、記述するときも大抵の人は分母の3から書き始めると思います。「3分の2」と考えなから、分子の2から書き始めるのは違和感があるのではないでしょうか。一方で英語圏の場合、Youtubeとかで実際に確認した限り、2/3は「two third」と分子から読み、記述の際も分子の2から書き始めます。)
繰り返しになりますが、順序自体が大事なのではなく、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現することが大事で、そのために順序の固定が副次的に必要になるということです。
改めて考えると、この固定というのは非常に厄介でもあります。まだ学習し始めの子どもを混乱させないために条件を固定しているという意図もありますが、順序を交換しても答えは変わらないという事実と照らし合わせたとき、納得いかないのも当然です。しかもその事実自体は小2の九九の時点で学習します。
順序が問題にならないときというのは、既に数学化されたものを取り扱うときです。つまり、そもそも数学化の過程が評価の対象にもなっていないものです。算数的に言えば、文章題のような問題ではなく、既に立式されている問題です。
2 x 3
という問題であれば、
2 x 3 = 3 x 2 = 6 答え6
と計算しても間違いはひとつもなく、正答です。2 x 3が計算できなくても、順序を変えて3 x 2で計算しても良いのです。その根拠は、かけられる数とかける数の順序を逆にしても答えは変わらないからです。むしろ学習が進むにつれて、交換法則は便利に使うことができ、積極的に使えるようにしていくべきです。(教科書でもちろん学習します。)
また、アレイ図(↓のやつ)を考える時、自分でどう括るかによって、(1つぶんの数)と(いくつ分)が決まり、どちらの順序でも考えることができます。例えば
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
上のようなアレイ図であれば、縦3個でくくれば3 x 4という式になりますが、横4個でくくれば4 x 3という式になり、かけ算の順序が逆になります。自分で現実モデルを作り出してそれを数学化しています。
わり算の考え方には2つがあります。「等分除」と「包含除」です。その違いを説明するために、虫食い算のかけ算を考えます。というのも、わり算はかけ算の拡張なので、発想として虫食いのかけ算で考えるとわかりやすいです。3 x 2 = 6と、順序を逆にした2 x 3 = 6を虫食いにして考えましょう。かけ算の順序を変えただけなので、どちらも答えは同じ6です。
・等分除
□ x 3 = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(1つぶんの数)にあたり、例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。これを3枚の皿に平等にわけると、1皿あたり何こになるか。」
という問題になります。1つぶんのりんごの数が、求める答えです。これが「等分除」です。わり算と聞いて想像しやすい、平等に分けよう、というものです。教科書でもこの等分除から学習します。
・包含除
3 x □ = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(いくつ分)にあたります。例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。1皿に3こずつりんごをのせていくと、皿は何枚必要になるか。」
という問題になります。皿の枚数が、求める答えです。これが「包含除」です。イメージ的には、6つある物を1セット3ことして何セット作れるかな、というものです。
以上のように、□ x 3 = 6と3 x □ = 6のどちらも6 ÷ 3 = □というわり算になるのですが、もともとのかけ算の式をみると、求めている□の部分が(1つぶんの数)なのか(いくつ分)なのか、という違いがあります。一見、全部わかりやすい等分除で考えればいいじゃないかともなりますが、包含除は等分除ではとらえにくい、余りのあるわり算を考えるときに非常に有用で、必要不可欠です。
この等分除と包含除の考え方は、かけ算での(1つぶんの数)と(いくつ分)を明確に区別しているからこそ理解でき、学習できることです。3回目くらいになりますが、(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するために、順序を固定する必要が出てくるということが、かけ算の順序を指導する理由であり、今回書きたかった結論です。もし順序を固定しない場合、式の中でどっちがどっちなのかを示す記号を加えるなどの工夫が必要なのではないでしょうか。
単に順序を逆にしても同じ、として学習を進めると、(1つぶんの数)と(いくつ分)に区別のない世界で考えることになります。このとき、子どもにかけ算やわり算の意味をどのように指導すればよいのでしょうか。計算だけ指導するのであれば、何も問題ないのですが。
「算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。」
「算数的活動」とは「児童が目的意識をもって主体的に取り組む算数にかかわりのある様々な活動」を意味しています。先ほど考えたわり算の理解は、この算数的活動を実現しうる機会の一例そのものだと思っています。
正直、計算自体が重要なのであれば、現代では電卓やコンピュータに入力する力が求められるだけです。もっと時代が進めば、こんな等分除や包含徐を学習しなくてもなにも困らない時がくるかもしれません。もちろん、先ほどの算数科の目標は社会の移り変わりによって広義に変容するものですから、時代が変われば内容も変わるでしょう。しかしそんな中でも、根本として算数・数学を探求することが大切ということはゆるぎないと思います。
小学校の教員は基本的にほとんどの教科を一人で担当します。私は自分の算数の指導に課題を感じ、よりよい授業のために調べたり足を使って研究会・学会に参加したりしてきたのですが、正直いうとそうしてきた算数だってあまり自信が無いです。すべての教科を完璧に仕上げるのは結構な難易度だと思います。
勤めている人はみんなそうですが、現場の教員たちも同じように膨大な業務に追われています。また、子ども・保護者のトラブルの対応も多々です。学校では毎日事件が起きているといっても過言ではありません。若い先生は特に教材を研究する時間が必要ですが、所定の勤務時間内にできる時間はほぼゼロです。朝と夜の残業時間も、授業そのものに関係しない業務が多いです。学校で子どもが過ごす大半の時間は授業時間なのに、その授業の準備が満足にできないということです。経験を積めば良いと言われても、今担任しているクラスの子どもが被害者になるだけです。あたりまえですが、その子たちは一度だけの1年を毎年過ごしているわけです。貴重で大事な時間です。
現場にもっと人が欲しい、というのが素直な感想です。算数では少人数授業やチームティーチングが増えてきていますが、根本的な問題は解決していません。算数に限らず、教員がもっと授業に関することに時間を割けるようにするべきです。毎日授業があるのに、その授業の質が低くなっては意味がないです。結局、先生たちもかけ算の順序について教えてくれる人なんて居ないのかもしれません。そんな状況で教えなくちゃいけないんです。
とか言う人はしょうがない
そもそも頭が悪いので数学で習った抽象化されたものを、具象化して現実に適用する能力が低いのだから
そういう俺も抽象化は得意だが、具象化は割りと苦手だ
有名な例で言うと、ビートたけしが因数分解を映画のシーンの構成に使えると説明した
銃を撃つシーンと撃たれて死ぬシーンを1組出せば、あとは銃を撃つシーンだけで撃たれた相手は死ぬことを表現できる
つまり
(銃を撃つシーン1+銃を撃つシーン2+…)撃たれて死ぬシーン
という風になる
これは逆でも成立する
銃で撃つシーン(撃たれた死ぬシーン1+撃たれて死ぬシーン2+…)
他の例で言うと、人と目が合うということも数学で表せる
簡単に言うと相手の視線ベクトルと自分の視線ベクトルの外積が0になることだ
人間の脳は素晴らしい
a×b (1≦a≦9,1≦b≦9)
について現れる数字を単純に考えると、
9×9 = 81通り
a×b = b×a
は同じものとして1通りで数えなければならないので、2で割ることにします。
ただし、b = aである場合、a×aは1通りしか含まれません。
なので、1×1, 2×2, ……, 9×9の9通りについて、割る前に9通りを足しておきます。
よって、
(81 + 9) ÷ 2 = 45通り
これが予想される数ですが、実際にはこれよりも9通り少ない36通りです。
なら、どこかで9通り重複しているはずです。
ここから分かることは、4,6,8,9について、
乗数が4,6,8,9、被乗数が1,2,3,4,6,8,9とした組み合わせの場合、異なった乗算で表現できるかもしれません。
以上、9通りが重複していました。
http://anond.hatelabo.jp/20170215231444
どうもまだわかってない人がいるというか分かる気もないのだろうけど…
かけ算の算数的意味と数学的交換法則をレベルの異なる大勢の子どもに教えるのはムリなわけ
なんと、かけ算を初めて勉強する小学校2年生で教えることになりそう!!
順序あり派はこんな感じになるのかな?
先生「かけ算にはかける数とかけられる数があって、正しい順序で式を書いてくださいね」
こども「はーい!」
先生「かけ算では交換法則というのがあって、かける数とかけられる数を入れ替えても同じ答えになります」
こども「はーい!」
こども「交換法則だから、かけ算する2つの数があってればいいんだよね」
テスト返却
先生「この問題は交換法則の問題じゃないから、順番が正しくないとダメなんです!」
先生「……」
ちゃんと小学2年生のこどもがわかるように説明するの無理でしょ!
いい加減、「かけ算には順序がある派」の人、降伏しなさい!!
これだよね
掛け算も足し算も順序はある派。
x+dxをdx+xとか書かれたらキレる。
掛け算も、小学校のルールと逆順に書くときは、「掛ける数は演算子」だと認識するようにしている。
「3.9+5.1=9.0」は減点対象 小学校算数の“奇習”が議論に
これも「9.0は減点」に賛成派。「有効数字ガー」とか言ってるバカがいるが、有効数字を考えるなら、例えば「3.9+5.01」なら8.9を正解にして8.91は不正解にしないと整合性が取れない。算数じゃなくなる。
畢竟これらの議論は、「数学的に同値だが形式的に異なる記述について、それらに異なる文脈的意味を持たせたり、一方のみを「適切」とすることにどれほどの理があるか?」という問題に帰着する。この観点を持つと、「理あり」とされているものは実は多くあることに気づく。
たとえば分数の約分。ふつう最終的な解に「2/6」と書けば減点対象だ。(でも、この書き方だって有用性はある。ピザを6等分した後なら「ああ二切れ分だな」とすぐわかるが、「1/3」だとわからない。)
小学校なら「帯分数」とかいう謎の書き方もあった。あんな奇妙な書き方、中学校以降で書いた覚えがないのだが、小学校少なくともある時期は「5/3」というような答えは減点対象だったと記憶している。
こういった「既約分数で答えよ」「帯分数で答えよ」という暗黙ルールは、「足し算・掛け算はこの順序で書け」「小数点以下の0は省略せよ」というのと本質的に同じだ。数学的に同値な書き方のうち、一方をなんらかの意図で強制させているのだ。
どのルールにも、それを強制する意図がある。「約分できることに気づかせる」「5/3は1+2/3であることを理解させる」「かける数とかけられる数、という役割の異なる数字があることを認識させる」「なるべくシンプルな形で書くことを心がけさせる」など。それに意味があるかないかは、教わった小学生たちが決めることだ。小学生たちから「自分で判断する」ことを奪っちゃいけない。
ネットに渦巻く算数教育への批判には、なんというか愛がない。小学校教員の知性への信頼も、小学生たちの知性への信頼も、全然ない。「こんなことを教える先生は頭がおかしい」「小学生にはこんな教育は混乱を招くだけだ」。そんなはずはない。先生だって交換法則くらい知っている。
小学生にも、もっと自分で考える力があるはずだ。「掛け算は交換法則が成り立つが、割り算では成り立たない。なぜか?」「かける数とかけられる数には違いがあるのか?」こういった問いかけに、自ら考えさせることこそ教育だ。子供が持ってきた答案用紙に×がついているのを見て、「先生が間違っている」という「答え」を教えてはいけない。「君はどう思う?」と問いかけることから教育が始まる。
算数の問題で2x3=6が○で3x2=6が×になる、というのが叩かれている状況が理解できない。
2つ入りのリンゴの袋が3袋あるのと3つ入りの袋が2袋あるのではリンゴの総数は一緒でもシチュエーションとしては全く異なる。
(たぶん小学2年生のテストだと上記のように文章になった問題が結構あったと記憶している)
算数のテストだからって答えが同じになれば良いなんて教え方はたぶんどこでもしてないだろうし、
最近読解力が無いとかの話題を見かけたけど、そういうのをきちんと身につけさせつつシチュエーションを想像して式を組み立てるってのもテストで見る重要な部分じゃないのか。
足し算、引き算、かけ算と来てその後割り算を教えるわけで、ただ単に問題に出てきた数値を並べれば良いなんて誤解を与えると
割り算の時点でできなくなってしまう。(そもそも引き算の時点でできなくなっている)
それを防ぐために明確に順序を気にしましょうって教えてるはずなのに何でそんなに叩かれてるんだ。
だいたい交換法則を習うのはもっと後になってからだったと記憶しているので、
かけ算を習う段階の小学生にしたら2x3=6で3x2も6ってのは5+4=9で2+7も9になるのとおなじくらい偶々なんじゃないだろうか。
というのが自明じゃないんだよなぁ。
そこを説明するためにわざわざIf文/Switch文に置き換えているんだよ。
掛け算足し算の順序の入れ替えは(暗黙的に)交換法則を用いることで行われるんだから、
交換法則を教えていない段階で、勝手に使ってはイカン、というのは解る。教えた内容で回答して欲しいというのも解る。
だから、「不正解」にするというのが判らん。間違っている、ということなんだろ?
禁止する(switch文を使わずに、if文で回答せよ)は、解る。禁止してもいいか?なら、してもいいと思う。
それを不正解にしても良いか?なら、イカンだろ。間違ってないのだから。
☓にするなら、「switch文では、if文と同じことは出来ない」と宣言していることになる。不正解にするなら。
だから、switch文で回答した生徒に対して、△にして、「実行はできるし結果は同じになるが、if文で回答しましょう」とコメントするのはアリだと思う。
(繰り返しになるが、「if文で回答せよ」と問題文に入っていて、switchを使ったら☓にして良いと思う。)
特に前提無く最初の問題出して、switch文で回答した生徒に☓つけたら、プログラマーなら総ツッコミだと思うが。使って欲しいという出題側の願望とか知らねえし。百歩譲っても問題文がクソだろ。
というのが自明じゃないんだよなぁ。
そこを説明するためにわざわざIf文/Switch文に置き換えているんだよ。
掛け算足し算の順序の入れ替えは(暗黙的に)交換法則を用いることで行われるんだから、
交換法則を教えていない段階で生徒が勝手に交換法則を用いるのは、
Switch文を教えていない段階で生徒が勝手にSwitch文を用いるのに等しい。
出題者「せやな(白目)」
この問題は子供の算数ドリルに載ってたものを数字だけ話題のツイートのに置き換えたものなんだけどねw
でも問題文に厳密さが欠けていることに突っ込むのは良いセンスだと思う。たぶん日本の算数教育では減点対象にされそうだけど。
要は、どちらが足される数でどちらが足す数かなんて議論は、少し問題文をひねっただけでとたんに混乱するようなあいまいな議論だと言いたかったわけだ。結局「出題者や採点者のかもし出す空気を読め」という空気の研究にすぎない。
先に挙げた問題で、例えば駐車場に主軸をおけば、駐車場に残った車5台に出て行った車9台を足して5+9=14。
出来事の時系列に主軸をおけば、車9台が出て行った結果として車5台が残ったということで9+5=14。
どちらが足す数でどちらが足される数かなんて読む方の解釈の仕方で何とでも入れ替わりうるし、別に足し算の交換法則なんて持ち出さなくてもどちらも正しいといえる。これは掛け算の順序論争でも批判者にさんざん言われていたことだが。
で、ふりだしに戻ると、話題になったツイートの問題文だって解釈は一つだけではないし、解釈を厳密に一つに絞るような但し書きも問題文中のどこにもない。だから本来なら立式は一意に定まらず、無理に定めようとすると問題文をどう解釈するのが自然か、出題者の意図に沿っているかなどという空気の研究の水掛け論に陥ってしまう。
そもそも前提として、車の数え方に分配法則や交換法則などの整数の持つ性質が当てはまるというのが先にあって、だから整数の足し算が応用できるというのが後からくるんだろ。そこを逆に考えているから「まだ算数で習ってないはずの交換法則を使うな!」なんてアホが出てくる。それを前提としないのなら、そもそも車の数え方に整数の足し算が応用できるなんて無前提に考えてはいけないってことになる。
それを1+4と立式すべきかどうかはともかく、文章から立式する問題なんだから言語依存なんだって。
数学的に考えて正しいかどうかじゃなくて、子供への教え方として正しいかどうかの問題なんだよ。
さいきんのゆとりは、と言われそうなので、三十代半ばと年齢を先に申告しておく。
試験にノートを持ち込めるわけでないし、教科書に書いてあることを黒板に写して、それをノートに写すなんてどうして?と思ってた。
流石に、大学では「データを残すために」紙に記録することにしたけれども、紙に書くことが理解の助けになるとか、記憶の助けになるとは思わない。
忘れてしまうことはノートやメモに残すけど、忘れてしまう前提だから残すのだ。
逆に、アウトプットのために、紙にかくことはとても有用だと思う。
文章を作る前、数式をたてる前、スライドを作る前、出来上がりのイメージを図にしてから始める。
あれをつくるためには、この順番で組み立てて、それぞれの部品はこうやって表現して、そのためにはあれが必要で、ということを考えるためには、紙とペンはとても有用だと思う。
学校教育では、アウトプットのための紙とペンの使い方をもう少し教えた方がいい。
と、ここまで書いておもったのだが、僕の思考は、まずはアウトラインを決めて、そこに合うように部品を嵌めこむ「トップダウン型」だ。
対して、学校教育は往々にして、知の積み重ね、「ボトムアップ型」だ。
たとえば、乗法の交換法則の証明を終えてはじめて、掛け算の順序問題から開放されるというように。
それはある意味では正しいと思うんだけどね。
A・BとB・Aは通常 別なものになる。つまり 順序が重要なのが
A・BとB・Aで
A・B !=B・A != は等しくない
a*b = b*a
言い方を変えれば 掛ける数、かけられる数があるのはベクター。 スカラーはない。
ちゃんと 順番が重要なものがあるんだから、順番があるものはコレ ないものはコレ って正しく教えろよ。
料理でいえば 煮物は さしすせそ だが ステーキなら 最後の 塩コショウ 順番が逆でも大丈夫
煮物にさしすせそ があるからって ステーキも 塩 コショウの順番でふりかけろ コショウ 塩 は 邪道 というのは 意味がわからないよ
× じゃなくて ・ を使え でFA
※ すまん 内積ではなく 外積だよ orz なので記号もXで OKだよ。
http://www.iwata-system-support.com/CAE_HomePage/vector/vector4/vector4.html
掛け算順序問題を見ていて感じる根本的な疑問は、
「なんで小学校の先生をまず信頼するというところから議論を始めないの?」
ということに尽きる。
たしかに、交換法則を教えたうえでなおも「順序」にこだわるのは明らかに合理性に欠けているように素人目には見える。
でも、自分には理解できなくても、そこに何らかの合理性があるからそういうことをやっているはずで、その合理性がどこにあるか。仮に数学の専門家でもその合理性がすぐ分かるかというと分からないと思う。
だって、数学者は数学の専門家であって、算数を小学低学年に教える専門家じゃないから。
小学校における算数の教育に詳しい人、現場の先生たちがそれぞれ議論するのはいいことだと思うし、それはそれで分かるけれども、今ネットで言われていることはそうじゃない。
はっきり言えば、小学教育の専門家を軽視しているだけで。ほとんどがそういう議論じゃないんですか。
もっとはっきり言うと、あれでしょ。みなさんあれこれおっしゃるけれども、問題は「A×B も B×A も正しいからそのように扱え」ということじゃなくて、
「おかげで理不尽な減点をくらった」
云々というのが
「許せない」
という「親心」の発露、以外に何があるのか、全く理解できない。
さらに、この「親心」という極めて私的な感情の問題を(僕にはこれは「親心」ではなく、「単なるエゴイズムの発露」にしか見えないんだが)、
という公的な問題にすり替えてしまいさえすれば、それが立派な正義になってしまうわけで、その正義を構築する議論の過程では、論者は必ずしも子の親である必要は全くない。単なる「(親)バカ」の議論を、社会的・公的な議論にすり替えてやればよいだけだ。
小学校の先生にも質が色々あるでしょうし、親が一切口を出すなとも全く思わないけれども、
「どういう合理性があってこういう教育がされているのかよく分からないが、小学教育の専門家であり現場で苦闘している先生がたをまずは信頼しようじゃないか」
とだれも言い出さないあたり、ああなるほど、小学校の先生ってこれほどバカにされているんだなーと思いますね。なるほど、教育が軽んじられるわけですよ。先生をまずは尊重しないんだから。