はてなキーワード: 上野千鶴子とは
聞いてる側もはてなやTwitterで聞いてる時点でまともな答えを欲してないからな。
昔見たツイートのパクリだが、Twitterのアンチフェミはインターネットにいるフェミニストの最底辺を見つけてきてバカにするだけのお仕事で、本や論文は一切読まない。
まともなフェミニストを紹介しろと大声で言うやつにも、具体的にお前が何を読んで「まともなフェミニストはいない」と判断したのか聞いても、ダンマリかせいぜい上野千鶴子の名前を挙げるくらいだ。
奴らにとってアンチフェミニズムはインターネットでレスバする以上の用途がないから、"まともなフェミニスト"をそもそも求めてない。
昨今の表現規制問題で、「表自はあいちトリエンナーレにはダンマリだった」というコメントを見かけた。
確かにどちらも政治による圧力によるものではなく、「民間の声」によるものである。(津田氏は政治家の圧力が中止の原因ではないと言っていた。)
個人的には萌え絵だろうがあいちトリエンナーレであろうが、法に触れるものでなければ自由に表現されるべきであると思っているが、
萌え絵に賛成⇒あいちトリエンナーレにも賛成しなければならない、という主張には首をかしげざるをえない。
これまでの色んな人の意見を見る限り、この2者に対する態度としては自分が思いつく範囲では以下の3パターンが考えられると思う。
私と同じ考え方。
法に触れるものでないなら自由であるべきだし、仮に法に触れるというならその指摘をしたうえで、表現者が従わないなら法的措置で対応するべきだろう。
個人的には同意できないけど、「見たくないものを見ない権利」とやらを大前提にするならこういう考え方もあるだろう。
そう考える人がいるということは理解できる。個人的には同意できないけど。
基本的に表現の自由は重視されるべきだけど、実在人物の肖像権をはじめとした人権も重視しようという考え方だと思う。
たとえばもし萌え絵ポスターが、本人の許可を得ることなく、「なぜか極端な巨乳になった上野千鶴子」が使われていたら、彼女にシンパシーを抱いている人は怒りを覚えるだろう。
このように特定個人を侮辱していると取られかねない表現はNGだと考える人もいるだろう。
あいちトリエンナーレは言うまでも本人の許可は得ずに写真を燃やしたうえで踏みつけるという表現だ。
しかし自分の知っている範囲で炎上した萌え絵はすべてオリジナル作品だ。だから彼らはこのルールに従って萌え絵は擁護する。
さてこのように2者に対する態度3パターンを見てきたけど、では萌え絵はNGであいちトリエンナーレはOKであるという理路はあるだろうか。
宇崎ちゃんの頃には公金が投入されているかどうかという観点もあったが、あいちトリエンナーレにも公金が投入されていた。
次に公共空間という観点があるが、あいちトリエンナーレの会場は公共施設だ。
あいちトリエンナーレは入場料があるからゾーニングされた空間で問題がないという人がいるかもしれないが、中学生以下は無料だったし、
たわわでは、日経の広告には表現上全く問題がなかったため、わざわざ原作を見に行ってうえで作品を叩く人が現れた。
(無料公開部分以外に言及していた人もいたから、わざわざお金を払ってみたことになる。さもなくば海賊版でも見たというのだろうか。)
巨乳女性を描くのは差別だけど、実在する他人の写真を燃やして踏みつけるのはOK?ちょっとそれは理解できない
とまぁこのように自分には(法律に反していない)萌え絵はNGであいちトリエンナーレはOKというロジックは思いつかない。
もうあとは全力で主観で判断します!しかないだろう。萌え絵はアウト【要出典】であいちトリエンナーレはセーフ【要出典】。
ただそれが認められるというなら主観で萌え絵を擁護してあいちトリエンナーレを批判することも許されるべきであろう。
というわけで、萌え絵に賛成⇒あいちトリエンナーレにも賛成しなければならないという主張は理解ができなくて、
どちらかといえばあいちトリエンナーレに賛成⇒萌え絵にも賛成しなければならないのほうが妥当な主張に見える。
では萌え絵に反対している人はあいちトリエンナーレも全力で否定しているのだろうか?
「いや私は見たくない人に配慮してあいちトリエンナーレも批判していますよ!」というひとや、
「私ならあいちトリエンナーレはOKで萌え絵はNGであると主観抜きで主張できますよ!」という人がいるなら、ぜひ教えてほしい。
兄のツイッター覗いてるとツイッターでまだあたりの柔らかい(いいこと言ってる風、客観性を装ってる風の)アンチフェミ垢のツイートを見つけてはシュバババっていいねしまくっててこわい。
娘をもつ親がこれって…
上野千鶴子はやばい!!フェミニズムという主義に近寄りすぎて偏ってる!学問としてあるべき姿を保ててない!みたいなツイートにいいねしてて笑っちゃったよ。小山(狂)?とかにもいいねしてたし、白饅頭とかのも前にいいねしてたな。
フェミニズムも学問だし、主義主張のない学問てなんだよ…なんか脈絡が謎だけどフェミニズムの批判をしている!!!シュバババ!って感じのいいねで痛すぎる。
この話は2018年にも一度盛り上がっている題材で、その当時は結局「肉体労働は男にアウトソーシングする。その理由は女性が女だけの街を求める原因は男にあり男は責任を取るべきだから」という何か最近似たような主張を見たなという感覚に陥る。
2018年から肉体労働を男にアウトソーシングしたがる傾向は変わっていないようだ。ちなみに一部の人は女でも街作り出来ると主張していたようだ。
女だけの街論はこれ以外でも不定期に話題へあがる。
しかし2022年へ入ると上野千鶴子先生が女性の肉体労働について一石を投じたことが話題となる。
特に上記の発言へ対して流石のブクマカにも疑問を持つ人がかなりの割合で現れるという状況になった。
将来的にどうこうではなく今の現場のことを指しているようで、かなり頑張って擁護しても上野先生は学者さんだから現場に詳しくないから仕方ないよねとしか言えない。
これらを踏まえて5月になるとこのツイートが注目を浴び、更にこのようなnoteも注目を浴びて2022年に再び女だけの街論は展開された。
様々に飛び交う女だけの街論、上野先生をリスペクトしているのか機械があるから女でも街作りは大丈夫論なども展開され、その最中に飛び切り光る主張が登場した。
上野先生の主張を根本から揺さぶる機械があるとは言うがそもそも機械や資材が男性基準で女性が扱うのを想定してない論だ。
女だけの街を作りたいのであれば男基準の労働を撤廃し労働のジェンダーフリー化、労働のユニバーサルアクセスを達成しよう、これで女だけの街が作れるという主張に多くのブクマカたちはこれ以上無い回答だと大絶賛する。
女性労働者だけでなく男性労働者、更には高齢労働者問題まで解決してしまいそうなくらい示唆に富んだ増田の主張にケチのつけどころはないと思ったその時、当該主張のブコメをよく読むと「屈強な女性も居るから既存の道具でも大丈夫論」を展開しているブクマカが散見する事態となった。
なんてこった!男性の屈強さへの依存を否定する、男性とは屈強なものだというステレオタイプから来るジェンダーロール強制を否定する、屈強じゃなくても女であっても新しい道具で街作ろうぜ!という主張へ対してバックギアに叩き込み思いっ切りアクセルを踏み込むかのような恐るべき議論の後退が起きてしまった!
セメント袋を軽くしたという先人の思いを真っ向から否定するあまりの事態に流石に見てられないと増田の姐さんがブチギレ散らかした。
そりゃそうだ!男女限らず屈強であれば肉体労働を推奨(実質的な強制)し職業選択の自由を制限しようという考えだからだ
というところまでが今のところの雑な理解。
上野千鶴子をはじめとしたフェミニストが「欧米並みに女性が社会進出すれば出生率が上がる」って主張して、
そりゃいいや!と思った30年前の政治家たちが莫大な予算を付けたから
でも実際はこうだった、莫大な予算をつけたのに(あの予算をシンプルに子育て支援につけてたらどうなってただろうね)
でも今更「あれは間違いでした無駄遣いでした」なんて言えない
だから「支援が足りない!女性差別解消が足りない!」と「私たちの言うとおりに正しい政策をすれば少子化は解消する」と繰り返すしかないのさ
【追記】
反論を削除されたということはご納得いただけたということだと理解します
堕落しているのは確実だよ。
昔より狡猾で、権威に頼るダーティなフェミニストが増えたのは間違いない。
フェミニストの知行合一って一昔前はもっと言われてたはずだけど、ある時期からパタッと話題に上らなくなった。
例えば、男性社会を批判しながら、自分は勝ち組のオスをパートナーに迎える事に、フェミニストが逡巡しなくなった。
フェミニストが負け組のオス(例えば男性オタク)を罵倒する事について、躊躇しなくなった。
オスの勝ち組負け組選別機構をしっかり使う、と言うことは、それだけ強いジェンダー規範を男性側に課す事になるが、そこに目を向けて自らを律するという事にはなっていない。
勝ち組男性やモテ系男性に対する攻撃性とオタクに対する攻撃性があそこまで極端に違うレベルなのは、つまり、自分の内心の醜さ、ダブルスタンダードから目を背けているから
さらに、上野千鶴子は「エリート女はエリート男しか愛せない」って言語化することで、そういう甘えを正当化した。
フェミニストやフェミニズムは、こうやって自らを甘やかす議論を積み重ねて、着実に堕落してきた側面はあるんだよな。
んだよ。