人類は進歩しているので専門職がやってる事はシロウトには理解できないモノになって来ていると思うのですよ。
増田界隈に多いと思われるIT系技術者も自分の仕事を家族に理解してもらえてない人もいるんじゃないかと思う。特に親世代にわかってもらえないのはもう当然なんじゃないか。
金属の加工だって医療だって専門領域は深くなりシロウト的な知識と発想ではまったく追いつかない。
それぞれの領域を職業としなくてもしっかりと勉強しているシロウトは存在するがそれ以外の多くの人間には口出しすらままならないという話に異議がある人は少ないと思う。
ここまで「思う」で通してきてる事からわかるようにエビデンスやソースはないが文明が進歩して分業を進めるとはそういう事だろう。
この辺までに異論は少ないと信じる。ここまでを前提としてなぜ政治に関してはシロウトが堂々と口を出せる仕組みになっているのだろうか?と言うのが今回提起したい疑問だ。
納税額や学歴で選挙権を設定すれば今よりも不公平な世の中になるかも知れない。女性参政権や人種によらない権利は人類が勝ち取った権利だ。それはいいのだが複雑になった法律、条約、金融システム、国際関係、その他問題を判断し処理する政治家を何もわかっていない(自分を含む)大衆が選んで本当にいいのだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20170313204005
以下引用
「「オヤジ」とほぼ同義で使われ文脈や状況によって蔑称にも愛称にもなる。」
「漫画やライトノベルなどでも、少し気の好い年配(30代以降)の男性キャラクターは大抵「おっさん」と親しみを込めて呼ばれるが、~」
上にも書いた通り対面で使う気は無かったが、ネットに毒されてんだな。気をつけよう。
単純に切り替え出来ずに居たり、焦ったりして精神が揺れてしまうと得することが無いからです。
得しないから直ぐ切り替えるし、動じないようにしているんです。
もちろん営業マンも人間ですから、演技力で動じていないように見せたりする人も居ますし、今ヘコんでも仕方ないから後でヘコもうとネガティブになるのを先送りする人とか居ますね。
自分は先送り派で訪問先が反社系だったみたいな時は後から震え上がることにしました。
まぁつまり「メンタルが強く見えるのは得をしないから今はそうしない」というスタンスを取れる人が営業マンに向いて居るわけですね。
まるで男の子のようなショートカットの髪、金八先生に出ていた時の上戸彩みたいにCUTEな美少女だった。
ぼくの君に対する第一印象はただひとつ「胸がでかい」それ以外のことをぼくは何一つ思いつかなかった。
小柄なきみのカラダに不似合いなほど、その胸の隆起は際だっていた。
きみは一時期、ぼくと同じ学年の男子と付き合っていたね。
そのときぼくは思ったよ。
「あいつはあの大きな胸が目当てなのか」と。
もちろんそんなことはなく、彼は知的でCUTEなきみが好きで胸なんかはただのおまけだったのかも知れない。
しかし、どんな言い訳をしたってきみの第一印象が胸であることは疑いのない事実なのだ。
それに「どうせ胸が目当て」だなんて高校生の言うセリフじゃないだろう。
自慢じゃないがぼくのいた公立高校は男子童貞率96%、つまり非童貞はクラスに一人くらいしかいなくて、
しかも在学中に処女童貞を失った場合の浪人率は100%という恐ろしい世界だったから、だから禁欲=正義だったんだ。
もちろんぼくも受験勉強に精を出し、オナニーで精を出す一人の純朴な高校生だった。
受験勉強の甲斐あってぼくは現役で大学に合格し、その喜びもつかの間、片想いの女の子にはあっさりとふられ、童貞期間更新中だったぼくは、翌年の春にきみが関西のある有名私大に合格して大学生になったことを知った。
当時のぼくは手紙をよく書いたよ。在学中にちょっとした面識があったのできみにも合格のお祝いと自分の大学生としての近況報告のような手紙を書いた。そうしたら一度京都を案内して欲しいという返信が来た。そしてぼくは思いがけずきみとデートできることになったんだ。
「えっ、こんなところから胸がはじまるのか!」と思うほどにきみの胸の隆起はクビのすぐ下からはじまっていた。
ぼくはきみの目ばかり見て話をしていたが、視線を下に落とせばそこには胸があった。
向かい合ってる男が自分の顔ではなく胸を見ながら話してるなんてすごく不愉快じゃないか。
だからぼくはいつもきみの目を見て話をしていた。視線を伏せることなんてできなかった。
今思うとなんてもったいなかったのかと思う。サングラスでもして視線を隠して、思う存分胸を見ればよかったじゃないかと。でも、当時はそんな才覚はなかったんだよ。
京都でのデートの後で、ぼくは卑怯にもきみへの手紙の中に「好きだ」というフレーズを書いた。
しかし、そのときのぼくは本当にきみが好きだったのか、それともきみの胸が好きだったのか、正直言ってよくわからない。
ぼくは知的でCUTEなきみを本当に素敵な女の子だと思っていた。
しかし、その100倍くらいぼくはきみの胸が好きだったんだよ。そんなこと手紙に書くはずないけど。
秋になって、いろんな大学の学園祭の季節になって、ぼくはMを伴ってN女子大の学園祭に出かけた。
高校で同じクラスだったことがある仲間由紀恵みたいな黒髪の純日本風お嬢さんに誘われたからだ。
実はぼくはその仲間由紀恵のこともかなり好きだった。もしもその美女を射止めることができたならば、ぼくは同じ高校のあのさえない童貞軍団を見返してやることができたはずだし。そう、ぼくのあこがれの大本命は実は仲間由紀恵であり、Mの存在価値は「自分とつきあってくれる女」という点にあったわけだから。
N女子大学の模擬店でぼくは仲間由紀恵にMを紹介した。仲間由紀恵はMをみて、Mの胸をちらりとみて、それから妙につっけんどんな態度になった。
「あなたはこんな乳のでかい頭の悪そうな女が好きなのね!」と仲間由紀恵は思ったのかも知れない。
そんなことはないんだ。Mは決して頭の悪い女なんかじゃない。
とっても聡明で話していて退屈しない女なんだ。
でもそんな言い訳をするチャンスはなかった。
だって仲間由紀恵はその後ぼくに手紙をよこさなくなったし、彼女が風の噂にお医者さんと結婚したと聞いたのはその数年後のことだ。
N女子大の学園祭の後に控えていたのは京都大学11月祭だった。ぼくはそこでMと腕を組んだり、手をつないだりして歩くことができた。
普通のカップルのように彼女と学園祭デートをするなんて幸福をぼくは手に入れた。
しかし、ぼくは手をつなぐ以上のセクシャルな領域に足を踏み入れることはどうしてもできなかった。
その理由は簡単だ。ぼくは童貞だったから。どうやってその先に進んだらいいのか、ぼくは全くわからなかったのだ。
手を伸ばせばいつでも触れられるような距離にありながら、その胸はぼくにとって相変わらず不可視のものであり、かつ不可触のものであったのだ。
そのままお正月が過ぎ、春になった。ぼくはMと初詣に住吉大社に出かけ、そこから阪堺線のチンチン電車に乗って浜寺公園に出かけた。
潮の香りのするコンクリートで固められた護岸の上の散歩道をのんびり歩き、座って話をした。おだやかな一日だった。
あの頃ぼくたちはいったいどんな話をしていたのだろう。
そうして休日には手をつないで歩き、一緒に映画を見たりしたぼくたちはまぎれもなく「つきあってる」という状態だった。
しかしぼくにとってきみの胸は相変わらず不可視のものであり、かつ不可触のものであった。
どうすればぼくはその二つを可能にできたのだろうか。
まだ20歳にもならない自分はその方法を何一つ知らなかったのだ。
もしもできることなら今の自分が当時の自分に憑依して、知りうる限りの恋の手練手管を用いてその困難を可能にしてあげただろうに。
ぼくは免許を取り、中古車でいすゞジェミニを買った。それでMとドライブすることになった。
Mに向かって「どこに行きたい?」と聞いたら「鞍馬」という意外な答えが返ってきた。ぼくたちは鞍馬のおもちゃみたいなケーブルカーに乗った。
汗ばむような陽気の中で、同じようにデートしているカップルが居た。
ぼくは赤面した。
キスとは、ああキスとは、それは限りなく遠くに存在する行為じゃないか。
まだぼくは胸を見たこともないのに・・・・
いや、それは違う。少なくとも胸を見るという行為は、キスという行為のさらに先に位置するものであるはずだ。
ということは、自分が胸を見たいとか触れたいと思っていたことは根本的な間違いであり、それを実現させたかったら
先にキスという段階をクリアしておかなければならなかったのだ。キスとは、胸を見るための必要条件である。
もちろんキスをしても胸を見るところまで到達できない場合もあるだろう。しかし、キスをしないで胸を見るなんてことはどう考えても変だ。
つまり自分は、「胸を見るためには先にキスをしなければならない」という恋愛の発達段階の重要な法則をそのときに発見したのだ。
ストレートに胸に到達しようと思っていた自分が間違っていたのだった。
ぼくはその真理をここに理解したのだった。
その二人のための貴重な日曜日を、Mはこともあろうに私ではなく神に捧げてしまったのだ。
ぼくは一度Mにくっついて教会に一緒に行ったことがある。Mのスクーターの後を、ぼくは実家にあったヤマハパッソルで追走した。
当時はまだ原付にヘルメット着用の義務はなかった。そうして教会に出かけたのも一度きりだ。
ぼくにはきみの胸を見たいという願望があったが、教会で聖書を見たいとは思わなかった。
僕に必要なのは聖ではなくて性であり、聖書ではなくて早くぼくを童貞から卒業させてくれる性書こそがぼくにとって必要な書物であった。
「汝、姦淫するなかれ」という神の教えは、その反動でぼくの心をますます君の乳房への思いでいっぱいにした。
ぼくは教会についていくのを止め、ぼくたちの仲は自然消滅した。
そのとききみはブラウスのボタンを二つもはずしていたから、ぼくは思わず「うっひょ~」と心の中で叫んだ。
そのとき、きみのオッパイはぼくの心の中で永遠の憧憬になった。あれから34年経つけど、今でも君の胸は成長を続けているのかい?
面白いんだよ?どうやって商材を顧客に売るのか考えて実践するのって。
プログラミングが趣味なんですけど営業ってプログラミングに近いんですよ。
ソフトウェア開発の営業マンはしたことないので営業はプログラミングみたいだと言うとIT業界の人から叱られるかも知れませんけど。
上位層下位とかにもそういうのいるな。
自分たちがどれだけ上かわかってないみたいな。
そういう人は自分が頂点に達したら、次は別の価値観で色々言い出すんだろうから、まあ論理的に説明してもそういう問題ではなさそう。
その日のことはぜひ増田に書くように
喝が入るどころか増田が嫌われるだけだった
最近ではどんな作品でもミュージカル、舞台化するのが当たり前になってきた。どんな世界観作風でも既定路線のようにあっという間にミュージカル舞台化されて、イケメン俳優と呼ばれる人たちがキャラクターを演じる。
もはやミュージカル舞台化を喜ぶのが当たり前の世の中。好きな作品の多種多様なメディア展開にはひたすらについていく。オタクは熾烈なチケット戦争を勝ち抜き、時には害悪な転売屋から、ありえない値段で購入してまでこぞって舞台まで足を運ぶ。
うちわやペンライトを振って黄色い声援を送り、ファンサを要求する。俳優たちがツイッターでオフショットをアップすれば大興奮。各々が上げるレポにも大興奮。みんな狂喜乱舞している。
それを恐怖して見ているのがわたしだ。みんなが何を見に行っているのか、時々分からなくなる。自分の好きな作品、キャラクターを見に行っているのか、自分たちに媚びてくれるイケメン俳優を見に行っているのか、どっちなんだろうと考えてしまう。
自分の好きなキャラクターをイケメンたちが演じる=イケメンたちがオタクたちに愛想を振りまく(ファンサ)=オタクたちはファンサに喜ぶ=ファンサがもっと欲しくなる という構図が頭の中で至極勝手に出来上がるのだが、わたしの知る人たちはファンサを求める人たちばかりだった。みんなせっせとうちわを作り、公演が終われば目撃した、獲得したファンサの光景を文字にイラストにおこす。
ミュージカル舞台へ足を運ぶオタクたちが「好きな作品」を見に行っているのではなく、「イケメン俳優にファンサをもらう」ためにチケットを勝ち取りに行っているのではないかと思う。イケメン俳優の瞳に映りたいと必死なように見える。あなたたちは一体何が好きなのかと怖くなってしまう。実際にそう問えば作品が好きだと言うのかもしれないけど、わたしはそれを100パーセント信じることはできない。
オタクは許容範囲が広いほうが偉いと思ってる人が大多数(特殊な性癖でも愛せる自分、みたいなのとか)だけど、要はイケメンならなんでもいいのではと思ってしまう。しかもイケメン自ら媚びに来てくれるのだから願ったり叶ったりだろう。
イケメン俳優たちは仕事だから演技をする。ファンからの評判が良いに越したことはないので、オタクたちに更に火をつけるためファンサを怠らない。それが仕事だし、もはや二次元のミュージカル舞台の文化になりつつあるからもはや辞めるわけにはいかない。女性アイドルの握手会と同じ。辞めてしまえば顧客が離れるから辞めるのが怖い。商売としてはもはや仕方のないことだ。
ミュージカル舞台化が大好きな人たちにとってはわたしが原作至上主義の心の狭いオタクに見えるだろうけど、まさにその通りです。原作以上にメディア展開されたものを好きになり、盲信している人たちがわたしは怖いです。でもミュージカル舞台を原作以上に好きになった人に直接文句を言うつもりはありません。ひっそりさよならしますので、安心して下さい。
うん 二日ぶりだ 昨日おとといは 見てないんだ ここは
営業中に訪問先で園芸ホースで水をぶっかけられたことや、訪問すると男女の修羅場で包丁が出て来たことや、訪問したお宅が反社系だったことなど様々な経験していますので、ウンコ程度ならば営業トーク続ける自信がありますよ!
結論としては反省してます、以後、気をつけます。以外の何ものにも聞こえなかった。
著作権違反等があるのならば、著作権元だと思われる人や会社を調べて、謝罪すれば良いと思う。
結局、著作権違反したものは二次被害の可能性があるから明示できないけど、自分から探す気もない。
業種は違うが、日本の保険会社は被保険者が保険を申し出ないときに、わざわざコストをかけて、被保険者を探す。
DeNAは自分たちが盗用して儲けたのに、迷惑をかけた人たちを探そうともしない。
コンプライアンスだとか、ガバナンスだとか言うが、結局、この人たちは責任を感じていないと思うような会見だった。
著作権元を調べたり、アクセスすることはコストがかかるかもしれないが、これだけ大きい問題を起こしたのだから、コスト負担は当たり前である。