はてなキーワード: タヒチとは
・U!S!A! U!S!A!
・爆弾投下するまでのハラハラ→「あっ日本で原爆が爆発する様子とか被爆者の直接的な描写は無い感じやつ?最後のテロップで何人亡くなったとか出るやつ?」→難しい政治のやり取り…若干眠→プロメテウスや…って感じだった
・「プロジェクトの進捗具合、この器の中がいっぱいになったら完成です!」「この造形の全パーツ埋まったら試作品?完成です!」と文字通り「目でわかる」ようにしてくれて助かる
・ケチらずIMAXでみればよかったか…?!しかし大音コワイコワイマンであの爆発音と光+上映時間3時間はきついかも…のやじろべえしながらみてた
そこがかなり気になりながら観てた
・ベビーシッターさんを雇えばいいのでは…?
最近の映画は「子育てってメンタルにくる大変さ性別関係なく向き不向きあるしできるなら性別関係なくやりたくねえよ」描写多くて助かる
・思ったより多彩なオッペンハイマーさん
(多分)国費で留学ガンガンできるかつオッピー集団を展開できたり不倫できたりコミュ力強だなんて強すぎるじゃん…
「色んな意味で目茶苦茶話題作だしみとこ〜(ノーラン監督の映画、IQ不足で楽しめたことないけど)」って見たけど(政治劇はマジ知識不足登場人物多くてでわからなかったが)原爆開発してしまった(今後の世界への影響)のくだりはインタレスティング〜ってなった 林の会話シーンとか最後のストローズさん勘違い逆恨みアインシュタイン会話とか強キャラ同士のみ解る「世界」や… 「あなたなんかより大事なことを」扉パカーがいいバフ演出かけとる
・ストローズさんの「俺の悪口を吹き込んでいるんだ!だからアインシュタインは俺を無視したんだ!」勘違い逆恨みはマジでよくやので気をつけようと思った
・原爆試作品?の爆発の瞬間があえて無音のとこでDr.STONEで銃をクリエイトしたコマに擬音がなかっつのを思い出した
・あの足音ドンドンの「時流・世相の流れの圧表現」関連の演出ほんま的確
あの原爆落としたあとの集会の一連の流れ、達成感と罪悪感のミックス具合表現具合が圧倒的な「クリエイターの才能による説得力」で感性をねじ伏せられて「こういうののために映画を観ている」っなった
・テラーさん、味方ではないが最初の講義1人めのヒヨッコ感から終盤までの変化に目茶苦茶「よくぞこんなに成長して…」となってしまった
・バービーとのあれは「それぞれの観点の違いからの違い〜〜」って感じだけどここのところ40代〜50代以上向けばっかりのリバイバル作品だらけで停滞した映画の中でバービーとオッペンハイマーみたいな完全新作のエネルギッシュな作品が立て続いたらそりゃ無神経な位はしゃぐのは理解はできる
・この作品見る前に今年のアカデミー賞レースについて語ってももしかして、あんまり意味…なき…?
オッペンハイマーのごめんね日本感引きずってのチョイスになってない?ゴジラとか出東京大空襲どう生きるか(宮崎駿創作神の遺作になりそうやしスパイダーバース2連続受賞はな〜とかもありそうだけど)とか
でも助演男優賞は哀れなるものたち脳破壊されおじさんのがおもろかった
・雨の日の会合登場「でも落としたほうがいいよ!」の黒レインコートの悪役感
・藤子・F・不二雄の「ある日…」だ
タヒチのようなリゾート。青い海には点々と離れ小島。木造のコテージ/宿舎は暗く寺院の宝物殿のよう、外の眩い自然の緑と海の青に対して黒黒とした、時代がかった木造建築物内部のコントラストが美しい。様々な対応をしてくれる、体格の良い20代〜30代のスタッフが居る。
仏像がコテージ内に散見される、私は仏像の台座を見ている、年代物と思われる仏像本体に対して台座は新しい木材とパテで形作られている。柔らかな曲線の輪郭。パテの塗り跡/マチエルや鑿(のみ。木材を削り落とす刃物)の跡は研磨されておらず、人の手が行った仕事の跡を残しながら、ふわりとした曲線を形造っているのが、私にはこの上なく好ましく感じられた。
その台座を作ったのはスタッフの1人の男性である、というキャプションがついている。妥当な比喩が見つからないが、お菓子のコロンに似ている。外側に薄く硬いクッキー層(木材)があって、内側がふわっとしたクリーム(パテ)になっていて、異素材による色彩対比は馴染ませるのではなくそのまま活かされている。仏像自体は年代物で、台座を新たに作ったようだ。仏像自体ではなく、仏像に対する保護、賛美、敬意を示すような、仏像を支えて彩る台座の方をじっくりと見ている夢の中の自分について考えると、私だなあと思って面白い。仏像の方を見ろよという気にもなるが、仏像本体は既に多くの人間に崇められてきたのだろうから、私如きが見る必要もない、と、思う間も挟まずに態度がそうなっている。時間を経て今に語り継がれる敬うべき尊い宝、それを遺してきた人々の努力等も勿論素晴らしいが、今を生きる誰かがそれに添えた、それに寄せる想いが形となってそこにある、それを目の当たりに出来ることこそが私にとっての喜びなのだと。
夢なので特に脈絡はないのだが、離れ小島で海遊びをしていると、海でダメージを負った人間が浮いているので救護をする。コテージへ連れて帰りスタッフに任せる。
視点はコテージから離れる。広大な砂利採取場のような、開けた岩場、明るい灰褐色の地面と岩山、青い青い空、そこに古い巨大な機械がある。機械と機械が向き合った合間に錆びの浮いた金属の籠、口の開いた箱のようなものが固定されていて、材木を長いまま丸々その中に敷き詰めてぶんぶんと機械で振り回す事によって材木に捻れを生じさせるという、まあ理屈で考えると無理なのだが夢の中に出てきたのだから仕様が無い、そんな機械だ。イメージとしては遊園地にある振り子の遊具、あれの両端が結合部で支点となっており、交互に動いて捻れを生じさせるのだろう動きをしている。材木の高さは3メートル程で、長辺方向に×3で敷き詰められているから箱部分は9メートル程ありそうだ、それがぶうんぶうんと振り回された挙げ句に捻じ曲げられた(らしい)材木は向こうの方へそのまま弧を描いて放り出されていく。まともに考えれば放り出された先で重みで粉砕されていそうだが、まあ夢なので大丈夫だろう、兎に角その様子はなんとも爽快で豪快で清々しいものであった。
英語の小説を挫折せずに読む方法というエントリをこの前書いた増田だよ。その後『月と六ペンス』を英語で読み続けて、とうとう今日読み終わったよ。めちゃくちゃ面白かったよ。
サマセット・モームの小説はテンポがよくて、英語も簡潔で読みやすいよ。エンタメ要素が多くて普通に楽しいよ。人物描写がとにかく上手いよ。
ロンドンで株式ブローカーとして40歳までわりと平凡に暮らしていたストリックランドという奴が、絵を描きたいとか言ってパリに失踪して、その後タヒチに渡って絵を描き続けて、死後になって美術の世界に革命をもたらした偉人扱いされる話だよ。このストリックランドという画家はポール・ゴーガンがモデルになっているらしいよ。
バルガス=リョサもゴーガンを題材にした『楽園への道』という長編小説を書いていて、そっちの方を先に読んでいたから、『月と六ペンス』を読んだらなにかしら既視感があったよ。こっちの方が時代的にはもちろん先の作品だね。バルガス=リョサはモームの作品についてどう思っていたんだろうね。
それはともかく、『月と六ペンス』の前半はストリックランドという男がどれほど周りの意見を気にしない自己中心的な男で、どれほど他人を残酷に扱ってきたか、嫌というほど読ませられて、強烈な印象を受けるよ。それで小説の後半はストリックランドの死後に周りの人間の傍証をたどる形で、色々な人の声が挟まれていく文体になっているよ。いわゆるポリフォニー小説だね。
ストリックランドは最後はタヒチでハンセン病になって、まったく治療を受けず壮絶な最期を遂げるんだけど、この描写がかなり強烈だったよ。ストリックランドが追求し続けた世界を作者は垣間見させようとして、けっきょくよくわからないので、読んでいてもどかしい感じがするよ。
小説の始めの方で、ストリックランドの(最初の)妻は、ストリックランドが他に女を作ってパリに駆け落ちしたと思っていたんだけど、じつはそうではなく、恋愛絡みではない理由で自分が捨てられたと知ると、この女はストリックランドを激しく憎むよ。
小説のラストシーンは、それから20年ぐらい経って、語り手がロンドンでこの妻に、ストリックランドの最期を告げるシーンだよ。この時になったら妻の態度はガラリと変わっていて、すっかり有名人になったストリックランドと自分との関係性を周りに触れまわりたそうにして、馴れ馴れしくストリックランドのことをチャーリーとか呼んで、家にきたストリックランドの研究者からノリノリでインタビューを受けているよ。この妻の俗物ぶりがとにかく胸糞悪いよ。この胸糞悪さは、それだけモームによる小説の構成がうまく行っている証だと思うけど、それにしても胸糞悪いよ。
最後の最後にストリックランドの家族が聖書を引用して何か言って、語り手がそれをうけて自分の思いを語って終わるんだけど、これはぜんぜん意味がわからなかったよ。
たぶんこの小説はまたいつか読むと思うよ。
はじめてiPhoneのBooksアプリだけで英語の長編小説を読んだら、まずまず快適だったよ。英語のわからないところはその場で辞書を引けるから楽だったし、新しい語彙をけっこう覚えたよ。
ここ一か月弱の感情の変遷を残しておきたい。いや、この二年半の、かもしれない。
初めてその報道を目にしたのは、仕事帰りの駅での事だった。呆然としたまま電車に乗ったのを今も覚えている。全く信じられなかった。たちの悪いフェイクニュースでは?とも疑った。スキャンダルとは無縁のグループで、頼れる兄貴分の彼が、まさか。
その後しばらくのことは、あんまり思い出したくない。四人の謝罪会見。生放送で毎日泣いている太一くん。そして退所が決まり、四人のTOKIOの写真がタヒチにアップされた。どうしようもなく悲しかったけど、受け入れるしかなかった。メンバーの方がはるかに悲しかったと思うから。やっぱりTOKIOが好きだったから。
DASHもトキカケも、四人で続けられた。続いているだけでもありがたいのかもしれない。でも、終われなかった、という一面もあるのではないか。様々なジャンルの仕事を抱えるTOKIOは、存在が大きくなり過ぎたのかもしれない。吹けば飛ぶようなグループであれば、一人の不祥事くらい抱え込んで、うやむやに続けられたんじゃないか。そんなくだらない事を考えたりした。
茂子のリサイタルで、「このままじゃ終わらない」と言う言葉を聞けて、嬉しくて悲しくて泣いた。でもその後、メンバーから、TOKIOのこれからに関する言葉は、きちんとは聞けなかったように思う。
もやもやした状態のままでありつつも、残ったメンバーのお仕事はとても順調なように見えた。それは今まで培った信頼の証であると思うので、誇らしいことでもある。ただ、汚れを切り捨てたからこそ、という面もあるように思えて、悲しかった(自ら退所したのだというのはもちろん承知の上で)
25周年には何かあるのでは?とソワソワしているところに山口くんの週刊誌インタビューがあって、四人で音楽を再開するのでは、と話題が上がったりした。それを歓迎できない自分がいた。
私は特に担当というのはおらず、箱推しというか、五人の絆萌え、みたいなタイプのオタクだ。TOKIOは五人でないとダメで、特に音楽活動は五人以外考えられなくて、でもそれは無理な相談で、自分でもTOKIOにどうしてほしいのか分からなかった。こんなに五人推しだったことに、四人になって気付かされた。それくらい、いくつになってもTOKIOは五人だと思っていたのだ。
彼が事件を起こして、失われてしまったものは数えきれないほどある。大好きな平家派もJフレも、存在が一人欠けてしまった。きっと盛大に祝われるはずだった25周年、それを記念したライブも。聴けるはずだった新曲も。音楽番組でのガヤも。
それらを奪った彼のことを、それでも嫌いにはなれなかった。本当は悪い子じゃないんです、とモンペみたいな気持ちにもなった。長いことファンをやっていて、もう勝手に身内みたいな感覚になっているのだ。
昔から、甘いところ、不注意で軽率な一面はあったと思う。ただそれを、持ち前の器用さソツの無さでカバーできてしまっていた。無免許も離婚もなんとなく受け入れられて、その後の仕事に影響しなかった。それも不幸の元だったのかもしれない。
起こした事は擁護しようのないものだ。それでも嫌いになれないのは、彼の今までを見てきたからだ。
24時間で、ゴールするリーダーを見つめる潤んだ視線。明雄さんのお見舞いで、その手を握る姿。東京に避難してきた北登を撫でて、涙ぐむ様子。まな板事件。思い出すのが泣いているところばかりなのは、彼は悪い人じゃない、と信じたいからなんだろうか。
何が彼をここまで追い詰めたのだろう。
村がまだあったらなら、明雄さんがご存命だったらまた違ったのだろうか、等らちもないことを色々考えたけど、もちろん答は出ない。
おそらくアルコール依存症だと思われる状態になるまで、誰も彼を救えなかったんだろうか。一連のことで私がもっとも落ち込んだのは、この事かもしれない。メンバーの存在は、山口くんの救いにはならなかったという事実。
家族でもなく友人でもなく同僚でもない、メンバーという特別な存在に、夢を見過ぎでいたんだろうか。
一時期話題になった、連帯責任という言葉がもし適用されるなら、彼が病んでいくのを止められなかった、という点ではないか。もちろん実際のところは全くわからないけれど、思ったよりメンバー間の繋がりというのは薄かったのかな、と。アラフォーにもなれば、それが自然なのかもしれないけど、やっぱり悲しかった。
もう彼は見たくない、早く四人で音楽活動を、という声もネットでよく目にした。理屈では理解できるけど、感情的にはまったく受け入れられない意見だった。私には音楽の専門的なことは分からないけれど、例えサポートのベースを入れたとして、それは果たしてTOKIOの音楽と言えるのか。あの甘い歌声、ツインボーカルやハモりの美しさも、TOKIOの音楽の大きな魅力なんじゃないのか。深い信頼をおいた存在が奏でるリズムだからこそ、生まれるものがあるんじゃないのか。表立ってはとても言えなかったが、そんなことをつらつらと考えていた。
ファンの感情をよそに、結局TOKIOが音楽を再開することはなかった。かわりにささやかれ始めたのが、長瀬くんの脱退説だ。まさか、いやでも。また感情が振り回され、DASHやトキカケのちょっとした発言に一喜一憂したりする日々が続いた。
そして7月、正式に長瀬くんの退所が発表された。ショックと同時にああやっぱり、という気持ちもあった。でも、そのショックを打ち消すような、タヒチでの太一くんの言葉で、全てが報われたような気がした。ツイッターで、「浄化」という言葉を使っていた方々いたが、まさにそんな感じで。それくらい、「TOKIOは五人」という言葉はありがたいものだった。
何がつらかったって、まるで始めからいなかったみたいに扱われることで、何かのバラエティの結成秘話VTRで、山口くんの存在が抹消されていたときはもうファンやめそうになったくらいだ(やめてないけど)
だから、ひっそりと彼の痕跡を流してくれるDASHには本当に感謝してたいた。
そんなところに、メンバー本人からの、五人発言だ。大げさでなく涙が止まらなかった。今までの自分の感情を肯定してもらえた気がした。五人のTOKIOが好きだと、堂々と言っていいんだ。それが何より嬉しかった。
その後の会社設立、インタビュー、そして921のサプライズプレゼント。
会報の中でも、彼の話題が出ていた。松岡くんの「兄ぃ」を久々に目にしてまた泣いた。校正でいくらでも修正できるところに、あえてそのままにしてある辺りに、覚悟というか決意というか愛情というか、いろんなものを感じた。そもそも退所した人の話題が載ってるのがすごいかもしれない。更に写真が最高だった。やればできるんじゃんアイドル!なんで出し惜しみするの!でもありがとう!
正直にいうと、1回めよりはショックは少なかった。もちろん、このタイミングでなにしてくれてんの!とは思った。
しかし、ここ最近のTOKIOの動向やら、五人発言やらが影響したのでは、ということの方が気になったのだ。まだまだ回復には遠い状態なのだ、というのが悲しかった。これもネットで見た意見だけど、人様に怪我をさせたりすることがなかったのは、せめてもの幸いだったのかもしれない。生放送でのリーダーの言葉には、少し救われた。メンバー自らの発言はやっぱり大きい。
TOKIOは五人です、と言い切るならば、こういう事も起こり得るという、リスクも伴ってくる。だからそれなりの覚悟を持っての発言だったんだと思う。(まさかこんなにすぐ事件になるとは思ってなかっただろうけど)
これをきっかけに、TOKIOの今後が何かが変わるのか変わらないのか、それもよくわからない。
ただのファンには何もできない。ただ、適切な治療を受けられて、人や自分を傷付けることのない状態にいることを、祈るだけだ。
他のメンバーもだけど、どこでどんな仕事をするにしても、とにかく健康でいてほしい。幸せであってほしい。それが今の気持ちだ。
今もずっと感謝しているし、TOKIO名前を残して、続けてくれることが本当に嬉しい。
何なら今も、コロナやら何やらで結構人生のピンチなんだけど、今はTOKIOに救いを求められない。私はV6との掛け持ちオタクなんだけど、25周年のお祝いムードにもついていけていない。むしろ温度差の激しさで病みそうな状態だ。あったはずのTOKIOの25周年に思いを馳せたりしてしまう。不毛だ。
アイドルのファンでいるって、ただの趣味で、本当はもっと幸せなことであるはずだ。こんなに落ち込んだり考え込んだりするならやめた方が楽だろう。
今まで行ったライブで味わった幸福も、CDもDVDも、大切な宝物でありお守りだ。
一時期聴くのが辛かったけど、今はふつうにTOKIOの曲をシャッフルして、久しぶりに再生したカップリングなんかを聴いて、めちゃくちゃ名曲だな⁈と改めて衝撃を受けたりしている。
未来のことは分からないけど、元気で生きていてさえくれたら、いろんな可能性があると思うので。当分はこんな感じで、低空飛行なオタ活を続けていくんだと思う、たぶん。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。