はてなキーワード: 冊封とは
倭国は朝鮮半島の加羅諸国と緊密な関係を持つことで大陸に対する足がかりとしていた。
だが加羅諸国は高句麗、新羅、百済による騒乱に巻き込まれ、562年の新羅の侵攻で滅びることとなる。
朝鮮における拠点を失陥した日本は百済と接近し新羅との対立姿勢を強めていくが、中国に400年ぶりとなる統一王朝、隋が生まれる。
また周辺諸国への圧力を強め、582年に突厥を東西に分裂させ、598年以降四度にわたり高句麗に大軍を派遣する。
高句麗は新羅、隋に抵抗しながら東突厥や百済、また470年にはかつての敵国である倭国とも連携した。
しかし、倭国が対新羅関係を打開するには最早、新羅を冊封(君臣関係と)している隋と外交を行うしかなかった。
こうして、120年ぶりとなる中国への遣使が行われることとなる。
遣隋使は隋が滅ぶまでに五回行われ、またその間に冠位十二階の制定、十七条の憲法の制定や仏教文化の移入などの隋と対等な立場になるための改革が進められていく。
原因・背景[編集]
1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。
先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日、遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。
開戦準備へ[編集]
宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。
初代龍驤は台湾出兵の旗艦であり副島種臣と大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。
孟春(砲艦)は三本マスト・スクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。
外務卿の副島種臣はデロングを仲介しルジャンドルと会談、内務卿大久保利通もルジャンドルの意見に注目し、ルジャンドルは顧問として外務省に雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。
1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。
明治六年政変における明治天皇の勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変で下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的に企画したのである。
台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日、木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。
水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]
国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日、三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日、台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日、谷干城と赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日、海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。
5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。
明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは当初は日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉し[7]、主たる交渉相手は総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった[1]。
日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年(明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年(明治13年)の北京での交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。
また、明治政府は兵員輸送に英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱は政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。
日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。
1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省と海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省からは外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部の前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。
最近というほど最近の文化ではなくなってきたかもしれませんが、同人誌の「お取り置き」についての話。
知ってる人がほとんどだと思うけど、同人誌の「お取り置き」がどんなものかというと、即売会の前に作者に「この本が欲しいので、私に売る用の分を売らずに取って置いて欲しい」とお願いするものです。
この「お取り置き」システム、即売会で欲しい本が必ず(サークル側にミスがなければ)手に入る神システムだと思います。確かに神システムです。
ただ、このシステムがほとんど一方的に、買う側にしかメリットがないことを知らない人も多いんじゃないかなあ、と最近思うようになりました。
・取り置きは頒布物を取って置いてもらうものなので、お金を払う必要がある。
・取り置きはサークル側の義務ではないため、していないサークルに当たり前のように頼まない。
同人活動のスタンスは人それぞれなので色々思うことがあると思いますが、上記二点はほとんどの人が同じ認識だと思います。
さすがにこの二点は当たり前だろうと思っていても、この二点すらわからない・知らないような人をそこそこ見かけるのが恐ろしいと思います。
まず、取り置きをすること自体、はっきりいってサークル側にほとんどメリットはありません。
人によって管理の仕方は違うと思いますが、まず取り置き分の名簿を作り、在庫から取り置き分を分け、人によっては取り置き分は一冊一冊封筒などに入れて渡す人もいます。
これは普通に頒布をすれば一切必要ない作業で、取り置きをしたからと頒布価格を上げるサークルというのはあまり聞いたことがないので、これはサークル側が好意で手間をかけてくれているだけです。
強いて言えば、印刷の発注をする前なら部数の目安にならなくもないですが、受注生産でもなければあまり意味がない気がします。
その上、取り置きをしてもそれ以降音信不通になり、取りに来ない人、もしくは「取り置きを頼んだけれど普通に買ったので大丈夫です」という人が時々いました。これをやられると普通に頒布すれば残らなかった在庫が手元に残ることになるので、結構つらいです(場合によっては取り置き以外手元にないため、頒布を断ることもあります)。特に後者は好意だったりするのが本当につらい。
どちらもすごい手間、リスクと言うわけではないので伝わりにくいかもしれませんが、こういうデメリットがありながら取り置きを許容しているサークルは少なくないと思います。
では、なぜデメリットばかりの取り置きがここまで一般化しているかというと、個人的には「サークル参加していて買い物に行けないサークル同士のやりとり」もしくは「友人同士のやりとり」が原点だったのかな~と思います。
それがTwitterなどの普及で「普段フォローしてくれている人に」と敷居が下がったのが現状だと思います。
サークルは必ずしも売り子をスペースに呼べるわけではありません。朝から頒布、落ち着いた頃に買い物、となると既に周りのサークルの本は売り切れ、ということはめずらしくなく、そういうサークル同士がお互いの本を買えるように、というものだったのではないかと思います。
私も人間なので、読みたいと思ってくれる人には頒布したいと思って取り置きを受け付けていたことがありますが、そもそも本を買ってくれている時点で同じく「読みたい」と思ってくれている人であることには変わりないのに差を付けるのはどうなんだろう?むしろ朝一で来てくれる人の方がどうしても欲しいと思ってくれているのではないか?と思って取り置きを受け付けるのをやめました。そもそもできるだけ売り切れないように刷っています。
サークル参加をしているため売り切れるまでにどうしても買いに行くことができない、事情があって会場に来れない、それでも欲しいと思ってくれている人への対応はしたいと思いつつも、Twitterだと周りに見えてしまうのでDMやスカイプなどでやりとりをしています。
それじゃあ仲の良い人にしか頼めない、と思うかもしれませんが、本来取り置きってそういうものだと思います。
これを「絵描きは絵描きしか贔屓しない」とか言われても本当に困るし、正直、一体何を言ってんだ!?と思います。
すごく意地悪な言い方をすると、取り置きをお願いして他のサークルの列に並ぶのって「並んでまで欲しい本ではないと思われている」って捉えられても仕方ないかな、と思います。普段から付き合いがある人ならともかく、イベント前だけ突然「取り置き良いですか?」なんて言われても、さすがに嬉しいとは思えません。少なくとも私はそうです。
手軽に、ほぼ確実に本が手に入る手段として重宝されている取り置きについてですが、ただの予約システムだと思わず、間違ってもお金を払わずに本をもらえるシステムだと思わず、少しでもサークル側のことを考えてもらえると助かります。
これは本当に、どうしても欲しい本が残部僅少、一般参加しかできないときに取り置きをして欲しいとメッセージを送るのが悪だ、と言いたい記事ではありません。
サークル側からの言葉だと上からになってしまうようで心苦しくはありますが、買い手でもある立場としても、取り置きをしてもらうことに最低限の感謝や礼儀は必要だと思います。
例えば、お願いする際にどうして取り置きを頼むほど欲しいのかという理由などを添え、他の人から見えない場所でお願いする、などの心遣いは大変ありがたいです。
もちろんそれでも断られることはあると思いますが、同人活動は趣味の範囲、個人と個人のやりとりなのでそもそも正解はありません。
この記事にだって「別に取り置き手間ではないし、どんどん受け付けたい」と思う人がいると思います。
ただ、すべての人がそうではないこと、快く受け付けてくれる人が当たり前であり、そうでない人が悪である、という考えが減ってくれたら少し心が楽になると思い、この記事を書きました。
「思います」ばかりのかなり主観的な記事であり、読みにくかったと思いますが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
確かに出てくるわけないわなぁ、とも思いつつ、ここは微妙なポイントかもしれん。沖縄に住んでいる人がアイデンティティを語る場合には、今でも標準語の文脈で実際に自らを「ウチナンチュ」と呼んでいる。となるとこれは「単なる日本語の方言」ではなく、沖縄問題の専門用語とも捉えられるから。
また、琉球という名称は中国との冊封をしていた頃がイメージされ、沖縄という名称は廃藩置県以降がイメージされるという傾向があるようだし。ということを踏まえた場合 Ryukyuan (=琉球人)と、ウチナンチュ(=沖縄人=Okinawan)とには微妙な差異がある。
横だけど、ネットなんかでよく使われる文脈での「中華思想」の説明は、Wikipediaで言うと、「冊封」の項の華夷思想の説明がわりとしっくりくる。個人的には。
冊封が行われる中国側の理由には華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部を礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想はそれら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。
王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。
↑これは天人相関説だよね?
「王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。」という天人相関説の部分まで「中華思想」と言ったときの内容に含めちゃうと、「中華思想」がなんかすごく包括的な語になってきちゃって、多分そういう意識ではあまり使われていないような気がする。あくまで個人的にだけど。
ttp://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/taiwan3.html
(1953年度北京政府発行国定教科書『現代中国簡史』に基づく)
「中国」(満州・内モンゴル・ウイグル・チベット・東カシミール(アクサイチン地区)の占領地域を含む)
東南アジア(ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーシア・シンガポール)
旧英印領地域(インド領シッキム・バングラデシュ・ブータン・ネパール領の一部)
これをご覧になられた方はどの様な感想をお持ちになるでしょうか? 現在、支那と東南アジア諸国が、領有権で係争中の南沙(スプラトリー)諸島や西沙(パラセル)諸島どころの話ではありません。支那の領土観に従えば、フィリピン・インドネシア(旧蘭印領)・東ティモール(旧ポルトガル領)・東マレーシア(カリマンタン島北西部のマレーシア領サバ州・サラワク州)・ブルネイ以外 ── つまり、支那と陸続きになっている東南アジア地域は全て「中国領」となってしまうのです。そして、現在の「中国」領以外の「潜在的中国領」は、現在の「中国」領に匹敵する程、広大なのです。と、ここ迄は、海を隔てた「他国の話」であって、自分達には直接関係無いと考えておられた方もおありでしょう。しかし、上記の表には「潜在的中国領」とされる地域の全てを記載した訳ではありません。実は、これにはまだ続きがあるのです。では、その続き ── 記載しなかった「潜在的中国領」とは具体的に何処(どこ)を指すのか?
支那が「潜在的中国領」と考えている地域に敢えて書かなかった地域、それは何と驚く事に、
だったのです。いや、より正確には、日台支三国で領有権を係争中の尖閣諸島(詳しくは、コラム『94.「お宝」目当ての領有権主張 ── 尖閣諸島問題』を参照)を含む琉球諸島全域(沖縄県)・奄美諸島(鹿児島県)・対馬(長崎県)と言った地域なのです。これらの地域は、今更言う迄もありませんが、日本国の施政権が及んでいるれっきとした「日本の領土」です。その「日本の領土」迄も、本来あるべき「中国領」と支那は考えているのです。最早、到底笑って済ます事の出来る話ではありません。
支那が何故、沖縄を「潜在的中国領」と考えているのか? それは、かつて沖縄が「琉球国」と呼ばれていた頃 ── れっきとした「独立国」だった頃に迄遡ります。(コラム『42.琉球独立!! 「沖縄基地問題」に対する処方箋』を参照) 沖縄が「琉球国」だった時代、琉球は支那(明国及び後継の清朝)に朝貢し、琉球国王は支那の皇帝によって冊封されていました。つまり、支那から見れば、琉球は支那の「属国」あるいは「属領」であり、単に「自治権」を与えていたに過ぎないと言う訳です。しかし、琉球は1609年以降、薩摩藩によって王国体制を維持した形での支配を受ける様になり(島津支配)、これ以後、琉球は日清両国に朝貢する ── つまり、日本と清朝と言う二つの「宗主国」から支配を受ける事となったのです。その後、明治維新後の日本によって1871年に保護国化され、1879年、遂に王国は解体、日本に編入され「沖縄県」となったのです。しかし、支那はかつての「宗主国」として、琉球が沖縄と名を変え、日本領となった現在も「自国領」との認識を捨ててはいないのです。