倭国は朝鮮半島の加羅諸国と緊密な関係を持つことで大陸に対する足がかりとしていた。
だが加羅諸国は高句麗、新羅、百済による騒乱に巻き込まれ、562年の新羅の侵攻で滅びることとなる。
朝鮮における拠点を失陥した日本は百済と接近し新羅との対立姿勢を強めていくが、中国に400年ぶりとなる統一王朝、隋が生まれる。
また周辺諸国への圧力を強め、582年に突厥を東西に分裂させ、598年以降四度にわたり高句麗に大軍を派遣する。
高句麗は新羅、隋に抵抗しながら東突厥や百済、また470年にはかつての敵国である倭国とも連携した。
しかし、倭国が対新羅関係を打開するには最早、新羅を冊封(君臣関係と)している隋と外交を行うしかなかった。
こうして、120年ぶりとなる中国への遣使が行われることとなる。
遣隋使は隋が滅ぶまでに五回行われ、またその間に冠位十二階の制定、十七条の憲法の制定や仏教文化の移入などの隋と対等な立場になるための改革が進められていく。