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はてなキーワード: ゲームデザインとは

2013-03-10

パズドラゲームデザインと運営の両面で魅力的な要素がある

プレイし始めたきっかけ は App Store で売っていたのを見たのか、ネットの記事を読んだのかどちらかだと思うが覚えていない。

ただ人気が出ているということは知っていた。

人気の高さから当初2011年頃にリリースされたものだと勘違いしていて、購入時点でリリースされてから1、2ヶ月しか経っていなかったことを知ったのは大分後になってからだった。

まさか1年間ほぼ毎日ゲームを開くことになるとは思わなかった。

(さすがに毎日プレイはしなかったが)

何がこのゲームをここまで魅力的にさせるのか?

自分なりに考えた結果をここにまとめておく。

本当は自分ブログに書こうと思ったが、最近ブログ方向性とかなり異なる内容のため増田に書かせてもらう。

本文の要約

長文を読みたくない人は以下の要約だけ読めばいい。

パズドラゲームデザインと運営の両面で魅力的な要素がある。

実力と運のバランスがほどよく、課金により圧倒的優位に立てるわけでもないのでユーザは公平感を感じてプレイできる。

覚える要素が少ないため、少しブランクが空いてもすぐにプレイに復帰できる。

魔法石という課金通貨を頻繁に配布するため、ユーザは常に課金時と同様のユーザ体験をしている。

そのため実際に課金したときに期待するユーザ体験と実際のユーザ体験にギャップがなく、不満を感じることがない。

システム障害時にもお詫びとして魔法石を配布するため、普通は大きくユーザ体験を損なうようなシステム障害が逆に良質なユーザ体験を提供する機会に変わっている。

常時開催されるイベントにより、単調になりがちなパズルゲームを飽きさせない運営の工夫がなされている。

著者のスペック

著者のスペックは以下の通り。



実力と運と課金バランス

このゲームのいいところは、あまりモンスターが強くなくても、パズルの腕と、落下してくる玉の色の運次第では割と勝ててしまうところにある。

実力と運どちらも関係するというところが重要

実力だけでもそこそこ勝ててしまうからパズルの腕を上げて勝ち上がるというプレイも可能だし、運だけでもたまに勝ててしまうのであまり頭を使わないギャンブル的なプレイもできる。

パズルの腕がよく、かつ運がいい場合だとかなり難しいエリアでもクリアできてしまう。

逆に若干格下のエリアプレイしていていも、気を抜くとたまにやられてしまう。

札束で殴るゲームなど揶揄されるように、ソーシャルゲームにはとにかく課金すれば誰でも勝てるという印象があった。

パズドラ課金だけでは勝てないようなゲームバランスになっている。

例えば課金専用のモンスターガチャ(ランダムで強力モンスターを入手できる仕組み)でしか入手できない「神」タイプという種別のモンスターがいる。

これらは確かに強力だが、決して最強ではない。

パズドラではモンスターパーティを組むため、やみくもに強力なモンスターだけを使うよりも相性のいいモンスターで編成した方が強力なのだ

また、たとえ強いパーティを作るとしても、ある程度のパズルの腕がないと結局勝つことができない。

ゲーム開始2、3日の人が10万円課金しても勝てないのだ。

実力のみのゲームだとプレイヤーとしての腕を上げ続けなればならないのでずっとプレイする必要がでてくる。

逆に運のみだとただのくじびきと変わらないので、ギャンブルに興味がない私はすぐ飽きてしまっただろう。

課金たからといって実力も運が無関係にならないというところも魅力的だ。お金で簡単に強くなれるゲームなら努力してプレイしようと思わないだろう。

このあたりの「公平さ」も魅力の一つである

覚えることの少ないゲーム

パズドラは覚えなきゃいけないことが少なく、ちょっとブランクが空いてもすぐに遊べる点が魅力だった。

最近ゲームはとにかく覚えることが多くて辛い。

大作RPGや複雑な話のノベルゲームは途中でブランクを空けると設定や伏線を完全に忘れるのでもう話についていけなくなる。

シミュレーションゲームパラメータ意味や敵味方のユニットスペックなどについて全て把握していないとまともなプレイができない。

FPSスポーツと一緒なのでプレイし続けないと腕が落ちてやっぱりまともなプレイができない。

そういう「ゲーム疲れ」を感じて近年まりゲームプレイしなくなった。

かといっていわゆるカジュアルゲームのようなあまりに単純なゲームだとすぐに飽きてしまう。

このゲームで覚えるべき情報量自分にとっては楽に記憶しておくことができるレベルだったので、仕事で忙しくブランクが空いてもすぐにプレイに復帰できた。

パズル方法と所持モンスター能力、あとは目標とするプレイフィールドの難易度を把握するだけでプレイができる。

モンスター能力も、HP、攻撃力、回復力、スキルリーダースキルの5つしかないので覚えやすい。

魔法石をばら撒く

パズドラも、他のソーシャルゲームのように課金要素がある。

ガチャコンティニューなどを行うには、「魔法石」と呼ばれる課金通貨必要となる。1個60-85円ぐらい。

私が驚いたのは、この魔法石をこれでもかというぐらいばら撒くことにある。

まず、毎月のように行われるイベント魔法石がプレゼントされる。

1日1個が1週間から10日ぐらい続くので、月に大体5-10個近く入手することができる。

それだけでなく、パズドラではシステム障害時にもお詫びとして魔法石をプレゼントする(通称詫び石)。

障害の規模にもよるが、大きな障害のとき10個もまとめて配布する。

私にとって何より衝撃的だったのがこの「詫び石システムである

この運営方法により、ユーザである私はシステム障害を期待するようになってしまった。

こんなことは業務システムでは全く考えられない。

通常業務システムにおいて障害が発生した場合ユーザは苛立ち、怒りの電話メールを運営者にぶつけてくる。

ユーザにとってシステムが稼動し続けることは当たり前のことであり、障害などもっての他なのだ

しかパズドラでは全く異なる。

ユーザは障害を嫌がるどころか、むしろ期待している。

運営側は障害により若干の収入が減るかもしれないが、UX(ユーザ体験)を下げるどころか上げるということに成功しているのだ。

この魔法石のばら撒きにはもう一つの意味がある。

私のような無課金ユーザでも、常に手元には魔法石が余っている。

から課金ガチャを回したりコンティニューしたりということが気軽にできる。

これが何を意味するかというと、課金した状態のUXゲームプレイにおける日常として組み込まれているということである

もし私があるとき気が変わって課金をしようとしたときでも、課金したらどういうユーザ体験が待っているか課金する前に十分把握しているのだ。

期待するUXと実際のUXギャップが非常に小さいため、課金しても不満を覚えることはないだろう。

もっとも、この驚きをゲーム開発会社に勤める友人に話したところ、「今のソーシャルゲームでは当たり前」と言われたので昨今のゲームに詳しい人には驚くことではないのかもしれないが。

途切れないイベント

もう一つ、私が驚いたことで友人に「それも普通」と言われたことがある。

パズドラでは常にイベントを開催していて、イベントが開催されない期間が存在しない。

現在だと常時最低でも2つのイベントを同時開催していて、これらは月曜に開催され、2週間行われる。

開催期間は2つのイベントで1週づつずらされているため、ユーザからは毎週新しいイベントが開催されているようにみえる。

ゲーム自体はパズルを行うだけのシンプルものなので、こうして工夫で飽きさせないようにしているのだろう。

先述の友人の話によると、ネットゲームにおいてはイベント開催が非常に重要らしい。

特に日本文化的に年間行事が多いため、これらに合わせて緻密にイベントスケジュールが組んでいるようだ。

まとめ

パズドラゲームデザインだけでなく、運営も驚くような工夫がなされている。

私がこのゲームプレイしていたのも、この運営の方法研究たかたからという側面もあった。

運用・運営という側面はゲームだけでなくITシステムレストランホテルサービスなどあらゆる場面で重要ではあるが、あまり一般の人には注目されない。

こうした「舞台裏」にこそ成功秘密があるのだということをあらためて認識した。

おまけ: 最近プレイしてない

なぜ丸一年が経過したタイミングではなくこの時期にこんな文章を書いているかというと、最近プレイしていないかである

引退というわけではないが、気持ちとして一区切りついたのでこうしてまとめてみた。

理由はすごく単純で、ここ1、2ヶ月でモンスタードロップ率とスキル成長率が大幅に下がった(と感じた)からである

ドロップ率2倍でもほとんどドロップせず、スキルアップ率2倍時にスキルが全く上がらないと、さすがに砂に水をかけているような気分になって急速にプレイに疲れてしまった。

これはあくまで私の体験で、別にドロップ率が低いことを批判するような幼稚なクレームをするつもりはない。

パズドラは上記の通り素晴らしいゲームだし、いつでも戻ることができるので気が向いたときにまたのんびりプレイしようと思う。

2013-03-06

http://anond.hatelabo.jp/20130306014237

 初めて書いた拙い記事に対してトラックバックが寄せられたことに驚きました。頂いたトラックバックの一部を引用してレスします。失礼ながら引用の際に一部句読点追加した部分があります

自分時間を使ってゲームする以上、ゲーム人生の一部だし、人生は有限なんだから時間効率的に使わないといけない。

 全面的に同意です。時間は有限なので、より多くのゲームプレイしようと思えば効率を求めざるを得ません。ただ、効率的方法を探る過程面白いゲームもあるので、インターネットから情報を得ることがベストだとは考えていません。そこら辺は個人の最良で決めるべきなのですが、対戦ゲームMMOでは前提知識として知っておかないと損をすることになります。その結果ジョブが偏ったり、ゲームスタイルが限定されてしまうのはどうかと思います。新しくMMOや対戦要素のあるゲームに参加するとき、そういったゲームスタイルを求めるものでしょうか。いろいろなジョブがあって、育成の選択肢も多く、駆け引きのあるゲームを期待してプレイし始めるものではないでしょうか。某掲示板ではしばしば「〜して〜するだけのゲーム」という言い回しが見られます。もちろん、悪い意味でです。どんなゲームでも最も効率の良い方法というものがあるはずで、それをうまく隠したゲームが良いゲームなのかもしれませんね。

 この先は極論ですが、効率の先にはTASしかないと思います念の為に言っておきますが私はTAS動画が大好きです。悪魔城ドラキュラTASなどには美学さえ感じます)。TASでは最短時間クリアすることの効率を求めた結果、システムバグを付いてエンディング画面にたどり着くことすら認められているようです。もし、攻略サイトに一瞬でエンディングへたどり着く方法が示されていたら試すべきか?MMOBOTは許されるのか?課金アイテムを購入してまで効率を求めるべきか?自分でも言いたいことがわからないのですが、ここらへんは個人の最良で決めるしかないですね。突き詰めていくとサンデル教授が好きそうなテーマに発展しそうです。

人間と対戦したり記録を競ったりする以上攻略サイトに書いてある程度のことすらできないわからないってのはある意味スタートラインにすら立てていないということでもあるんだよな。でも攻略サイトなんてなくても誰でもスタートラインに立てるようなゲームはある程度ゲーム好きな人から見るととても薄っぺらなゲームに見えてしまう。

 同意します。ただ、その結果初心者が寄り付かなくなることは避けられないと思います。私は正直なところ、買ったら即攻略サイトで調べないと勝てないようなゲームには手を付けたいと思いません。私はそれなりにゲーム好きな人間だと思っていましたが、実のところそうでもないのかもしれません。いつだったか、「勝つの好きな人間」という言い回しを見かけたことがあります。負けそうになると故意回線を切断したり、複数のアカウントを作って初心者狩りをする人達のことを指して使われていたと記憶しています。私もゲームが好きなのではなく、勝ちたいと思っている割に攻略真剣に取り組んでいない「勝つの好きな人間」の一人なのかもしれません。ゲームが真に好きであるならば、こんな記事を書かなかったでしょう。効率を追求しないで楽しもうとする姿勢は横着だったかもしれません。

 「ウェブ進化論」と「勝ち続ける力」を引用してトラックバックをして下さった方へ。自分がうまく言い表せなかったことをズバリと言い当てていて、感動を覚えました。こんな拙い文章を、「私気づいちゃったんですけど…」的なしたり顔で書いてしまって恥ずかしい限りです。「勝ち続ける力」については以前から関心があったので明日にでも書店で買い求めてみようと思いますプロインターネット時代に入ってもプロの座に居続けられるのには理由があるのですね。

>結局万人に受けるゲームってのはどこかでプレイヤーをうまく騙したり錯覚させたりするゲームデザイン必要なのかもしれない。

 ゲーム本質は「騙す」ことにあるのかもしれませんね。「俺つえー!」の万能感、「窃盗から殺人までどんなことも自由にできる」のだという錯覚、「この攻略法思いついた俺天才じゃね?」という勘違いこそがゲームゲームたらしめているのでしょう。決して悪い意味で言いたいのではありません。騙されることを期待するというのはゲームに限ったことではないかもしれません。小説映画に求める没入感についても本質は同じではないかと思います私自身がゲームに求めているものがそれであって、騙されることを目的としてゲームプレイするのですから。そんな幻覚に浸りきった状態で調子に乗ってオンライン対戦などに手を出した結果、幻覚から覚めてしまっただけなのかもしれません。ゲームに対し、騙されることを望むんでいるのならばオンライン要素のあるゲームには手を出さないほうがいいのでしょう。

 多少卑屈な感じになりましたが、昔も今もゲームが好きですし、これからも騙されるためにゲームを続けていくと思います

2011-09-09

http://anond.hatelabo.jp/20110909094433

「老若男女皆が楽しめるゲーム」であって「老若男女皆が楽しめるシナリオ」ではないよ。

ドラクエシナリオと呼べるほどのもの存在しない。舐めすぎ。

何かゲームデザインシナリオを混同してるんじゃないかな。

2011-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20110310130252

それをMMOだと勘違いされるような量産MMOが多すぎるが(所謂チョンゲー、クリゲー)、ゲームはそういう一面だけではないし、当然それを好まない増田のような人たちもいる。

ちょっと古い書き込みだが http://anond.hatelabo.jp/20090312044936 これとこれについてるトラバを読めば、元増田MMOに持ってる疑問がすこし氷解するかもしれない。

一人でやるゲームでも自分が上手くなる事に充実感を感じるタイプゲーム(わかり易い例ではシューティング音ゲーなど)は、ゴルフ登山などの自己追及系スポーツと似た性質がある。

チームで対戦するようなゲームにはチームでやるスポーツと全くおなじ楽しみがある。FPSではその名の通りeスポーツといって、スポーツと同じようにチームやプレイヤー企業スポンサーがついて大会を行ってる。スポーツと同じようにチームは訓練した合宿したりする。

そして、当然MMORPGにもゲームデザイン次第でこれらと同じ楽しみはあるし、コミュニケーション重視であれば現実SNSと同じ楽しみがある。

しかし、それをわずらわしい、家ゲーみたいに一人でやりたい時間をかければ最強になるのがいい、頭つかいたくない、という需要があるので単純作業させるクリゲー系MMOが(極東アジア圏では)量産されてるのが現実

2010-09-13

http://anond.hatelabo.jp/20100913203514

前に進んでいるんだよ。何をしようが時代は前に進み続けている。

それを納得出来ないのは、昔のほうが良かったという価値観にとらわれているだけ。もちろん、どの世代にもどの人間にもそういった傾向はあるからあなただけを責めるわけではないが。

考えるのが面倒というのは、機械文明が発達すれば当然出てくる。

そもそもソーシャルゲームはスキマ時間プレイすることを目的設計されているが、そのスキマ時間で手軽にやれる楽しさに目覚めた人々は今度は「ゲームのためにスキマ時間をつくる」ようになった。これが時代の流れというもの。

面倒なことはやりたくないから暇な時間ゲームをやるだけだったのが、むしろ面倒なことを抜きにした簡単なゲームデザイン楽しいということに気付いたんだよ。

昔からゲームをやっていて、ゲーム=意気込んでプレイするもの と考えている人にはまず理解できないだろう。それは単にはじめてゲームに触れた年齢や、時代の違いだったと言わざるを得ない。だから誰も間違っていない。

あなたがそう感じるのは勝手だが、もしこれでソーシャルゲームを潰せとか言い始めたらそれはあなたは社会害悪だってことになる。

2010-07-11

http://anond.hatelabo.jp/20100710183910

それは、資本の集中が起きないほどの再分配を行う国家資本主義国家と呼んでいいかどうかという問題じゃね?

集中を遅らせるだけなら「回避」ではなく「先送り」だろ。

永続性のある先送りならどうだろう。

前にこのように書いたとおり、

そもそも資本主義は指摘の通りの特徴を持つからこそ、

運用にあたっては様々な再分配のための仕組みが導入されるのではないか。

税による再分配は当然のこと、あとは独禁法とか。他は思いつかんが、とにかくたくさんあるだろ。

原理的に集中が起きるとしても、システムを破たんさせてしまうような集中には至らないよう、

先送りするための仕組みを導入するのが「○○主義」の運用においては必須だろう。

攻撃的サッカーといってもディフェンスはちゃんとするように。

そういった運用面を無視して主義の特徴だけで議論すると、

資本主義にも共産主義にも将来性はないのでは。

あれ、もしかすると共産主義は主義の特徴だけで議論すると将来性があるのかな。

個人的には共産主義は嫌いではないのだが、どうも運用面の現実性が無い気がするんだよ。

そこの泥臭い所を無視してロジックを固めても、どうも信ぴょう性に欠けるというかなんというか。

いや、武力によるちゃぶ台返しが起こらない限り、資本主義を掲げる国家が勝つかもしれないが、そこに含まれる大多数の人間社会主義国家の人間より幸福にはなれないだろうということ。

そう、資本主義国家は基本的に競争したら強いよね。そして世界は有限なリソースの奪い合いをしているわけだよね。

国家内で競争を取り除いたところで、国家間では競争を強いられるという状況において、社会主義はどう戦うのか。

国家間で負けても国家内では幸福度が保たれる、というのであればいいのだけど、そんなことは可能なのか。

資本主義国家に生きる身としてはなかなかそれを現実的な話として聞けないんだよなぁ。

社会主義ってのは、外部の国が別の主義を採用して世界的には競争が強いられる状況においても、

ちゃんと成立するように設計されているものなんでしょうか。

資本主義の問題は、つまるところ勝者が次の勝負で圧倒的に有利なポジションを得ることになってしまうせいで、ゲーム煮詰まることなんだよな。

そう、結局はゲームデザインなわけですよ。

んで時間経過とともにゲームデザイン更新されなくちゃいけないんですよ。人も状況も変わるから。

F1レギュレーションもそうだし、サッカーオフサイドとかバックパス禁止とかもそうだし。

そのとき重要なのはF1らしさ、サッカーらしさを失わずに、ゲームを成立させるデザインですよね。

話を戻すと、理念として持つのは「資本主義らしさ」なのか「社会主義らしさ」なのか、と。

それで、その理念が持つ「らしさ」を失わずにゲームを成立させるデザインが必要になってくる。

それをここでは「運用」と言ったわけだけど。

俺としては「資本の(ゲームを破たんさせるほどの)集中が起きないような再分配を行う」のは、

資本主義らしさを失う運用ではないと考えているんですね。で、あなたは違うと。

そもそもご指摘のように「資本主義」という言葉が持つ意味がお互いにずれているわけですよね。

まぁあんまり詳しくないンど得、俺の方がなんか勘違いしているのかもしれない。

つまるところ資本主義とか社会主義とか借り物の言葉で議論するから悪いわけで、

自分理想とする理念は何か、そのために必要な運用は何か、を語るべきなんですよね。

Wikipediaで「資本主義」を調べて驚いた。こんなに違うんかいな。専門家が見れば同じに見えるのかな。

資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」をそのまま回せば、

生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者存在する生産様式」

になるのかもしれず、それだと将来的に破たんするというのはわかる。気がする。

それに対して、「生産手段が少数の資本家に集中し~生産様式」となることが問題であるならば、

資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」を維持するための運用として、そうならないルールを設ける、というのが俺の解釈だったりする。

「それは資本主義じゃないよ」と言われるかもしれないが、

資本主義を「資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」くらいの定義としているので、

これも資本主義だと思ってしまっていたりする。

かしこういう風に話を整理すると、日本が一番成功した社会主義国家という説明は正しいのかも。

かつての日本資本主義的な運用はしたけど、社会主義的な理念を持っていたような気がする。

# まぁ詳しいことは良く知らないんだけどねー。

2010-06-29

http://anond.hatelabo.jp/20100629154230

割とみんな目を背けがちだけど、ネットゲーム世界においてアバターに「性別」が存在するのが何よりもその証拠のような気がしてならない。ゲームデザインにおいて性別なんぞ意味を持たないはずだぜ? 

???

2010-04-02

おれは、ゲームが作りたいんだ。


 小学校の頃に「どろけい」という遊びが流行った。

 団地中の遊びともだちでランドセル姿のまま一号棟前に集まる。

「何人いる? もうはじめる?」

「森口、まだ来てないじゃん」

「あいつ、今日スイミングスクール田無は、ピアノ

「なんだあいつ、男のくせにピアノなんてならってんの?」

田無うまいらしいぜ、東野が言ってた」

 少ないときでも十人は面子が集まる。

 今にして思えば、習い事でぽつりぽつりと面子が抜けていく直前だったから、小学校の低学年、しかも3年生ぐらいの年頃だったような気がする。

 おれの住んでいた団地新築共働き世帯ばかりがどっと入った団地だったから、小学校クラスでも団地子供が占める割合が多く、揃いも揃って鍵っ子ばかり。それでランドセル姿のままでしょっちゅう一緒になって、あれこれ新しい遊びを始めるのが常だった。

 そのとき流行っていた「どろけい」は、泥棒チームと警察チームの2チームに分かれて、泥棒はひたすらに逃げ、警察はひたすらに泥棒をつかまえるというシンプルゲーム。泥棒はつかまれば開けたところにある刑務所に入れられ、仲間の泥棒にタッチして貰えれば見事脱獄ということになる。そうなってはたまったものではないので、警察チームは刑務所を陣地にして、あれこれと泥棒をつかまえる作戦を練る。

 おれたち小学生にとっては、五号棟まであった団地は格好の遊び場で、当然ながら「どろけい」も団地舞台に繰り広げられる。団地は、最上階が8階、左右に二棟のエレベーターホールがあり、両端はどちらも非常階段になっている。高島平のような左右に長い団地想像すると分かりやすく、そこを小学生のおれたちは駆け抜けた。

 よく迷惑だと苦情が来なかったものだと思うのだが、共働き世帯ばかりだったこと、そして、今よりも寛容な時代だったのだと、振り返って思う。

 この「どろけい」という遊びは、逃げるにも追いかけるにも工夫とチームプレイが必要な遊びだ。

 舞台となっていた団地には袋小路のようなものがなかったので、泥棒をつかまえるために警察チームは、複数人での挟み撃ちをする以外にない。泥棒が潜むことができるのは二棟のエレベータホールのみで、非常階段廊下警察の陣地から丸見えなので、捕物帖が始まれば、警察の陣地から指示が飛ぶようになる。

「錦原が、五階の西! 誰か西の非常階段を抑えろ!」

非常階段、誰かいる! 降りてる!」

 三人四人で泥棒の逃げ道を封鎖していくのだ。

 警察の陣地でもひそひそと作戦会議が開かれる。

「なあ、野々村どこにいると思う? エレベータの9階(作業室があった)みたよな?」

「みたみた。そういえばこの前は非常階段の裏に隠れてたな」

 けっこう丸見えな割にはちょこっとずつ死角になるところがあり、そういった所に泥棒は好んで潜む。それを警察は必死になって探すのだ。

 泥棒の方でも無策ではなく、エレベータホールなどでばったり出くわすと、情報交換になる。

小田捕まった?」

「たぶん、みてないけど、走る音が聞こえないから」

「じゃあ、あと3人か。泉川はどこだろ?」

「あいつ、隠れてるの好きだからさ」

「じゃあ、こうしよう。おれは三階で仕掛けるから、木村は二階な。泉川は東の方にいる気がするから、おれは西の非常階段から脱獄かける。お前は東のエレベータホールな。泉川も気付いて、いっせいに脱獄かけれるかも」

「ちょ、ちょっと休ませてよ」

「たく、だらしねえな、60秒な」

 エレベータホールに囁くような60カウントが響く。

 そして、作戦開始。

 それはたぶん子供の頃の大切な思い出だった。

 「どろけい」は毎日のように号棟を換えて遊ばれる。

 おれの住んでいた団地は、おそらく建設された時期が違っていたからだと思うが、それぞれの号棟に微妙な差異があった。たとえばエレベータホールが一棟しかなかったり、廊下の柵に隠れやすい板がついていたり、階が6階までしかなかったり、屋上と称する場所があったりする。

 そうすると、号棟が変わる毎に作戦やセオリーが代わり、泥棒も警察も新しい手を考えなければならなくなるのだ。

 なので、一号棟前にランドセル姿で集まって、今日の面子をながめながら、みんなでわいわいと相談する。

「なあ、今日どうする?」

「少ないから五号棟じゃん?」(五号棟は一番ちいさい号棟だった)

「五号棟好きじゃないんだよな」(エレベータホールが一棟しかないとつまらない)

「じゃあ、こうしよう3号棟で6階まで、これならどう?」

「作業室なしかぁ。あ、お前ずるとかするなよ」

「しないって。分かった。したら3回警察でいい」(警察は不人気だった)

「よし、じゃあみんな、ずるしたら3回警察な」

「あ、あのさ、三号棟にするなら、刑務所近くしない?」(エレベータホールにの意)

「どの辺にするの?」

ピロティーを刑務所にしたらって思うんだけど」

「え? 近すぎない?」

「いいよ! いいよ! ピロティーからなら警察見えないじゃん。そっちの方が絶対面白いよ!」

 他のみんなはどうだったのかは分からないのだが、おれは分かってしまった。

 こうやって、どうすれば「どろけい」が面白くなるかという事を相談しているときが一番楽しいって。「どろけい」をしているときももちろん楽しいのだけど、それよりもルールを決めながら、どんなルールにすれば、遊び方が広がるかを考えることは、小学生のおれにとっては、とてつもなく楽しいことだったのだ。

 そうやって、少しずつ楽しさの源泉となるルールが積み上がっていき、「どろけい」はますます洗練されたゲームになっていく。おれたちは気付かないうちにゲームデザインをしていて、それは小学生のませた心に、楽しいってどういうことかって事を植え付けてしまった。

 おれは「どろけい」をしている間にも、こんなルールにすれば「どろけい」はもっと面白くなるのに、ということをしきりに考えるようになった。それで、もっとみんなが面白くなれば、それはとても嬉しいし、楽しくなる。

 この「どろけい」遊びがやがて終息していったのは、人数が増えすぎたというのが原因だった。

 この面白い遊びが徐々に広まり、仲間が増えてくると、少人数の精鋭でやっていた頃とは格好が違ってくる。日曜日などには女子まで入って数十人で「どろけい」を行ってしまう。

 そうなると、一号棟だけでは足りなくなって、一号棟から三号棟まで、といったように無秩序に規模が拡大していく。それはそれで楽しかったではあるが、やはり散漫で緊張感のない遊びになってしまった感は否めない。

 さらに、休日に数十人の小学生たちが団地中を駆け巡り、大きな声で泥棒を追い詰めたりするとなると、さすがに周囲も迷惑を感じ始める。それで、どこだったか何号棟かで禁止令が出て、それから徐々に終息していたような気がする。折良く習い事で仲間もどんどんと抜けるようになり、外で大規模に遊ぶという事はこれが最後になってしまったと思う。

 ただ、あの楽しさを味わってしまうと、今この歳になっても胸がうずく

 ああ「どろけい」がやりたい。

 楽しかったって。

 そして、あの初期にルールを作り上げていったときが一番楽しかったと。

 おれは趣味ゲームを作っていると、しばしば言われて、誤解されて困ることがある。

 増田ストーリー面白い

 増田ストーリーきゅんきゅんきた。

 おれは、そのたびに思う。

 おれは、物語が作りたいんじゃない!

 おれは、ゲームが作りたいんだ!

 「どろけい」みたいにルールを考えるのが、好きなんだよ。

 物語はその上に載っているパセリみたいな物なんだよ。

 って。

2009-07-12

http://anond.hatelabo.jp/20090712222825

元増田とは別人です

ゲームデザイン大事だよ。

> 単純に数で決めていいのか

今も単純な数なんぞで決まっていない。

単純な数の上にゲームルールが構築されている。

組織票や票田を固め、浮動層を減らすのが今の必勝パターンで、

単純な数での勝利を満たすために、如何に利益誘導しつつリスク(浮動層の集団的投票)を減らすかが勝負の分かれ目になっている。

> 代替案を教えてください

ゲームデザインを変える。

例えば公職選挙法を改め、選挙期間中にブログ更新は勿論、ネットをフル活用出来るようにする。

例えばネットから投票可能にして投票率を上げる。

例えばマニフェストと実効度合いのトラッキングを行って政治家モデレーションを行えるようにする。

例えば人口構造と今後の社会への関与度を考慮し、若年世代の投票にウェイトを乗せるような世代間格差是正を入れる

2009-05-15

5%のファンが無料サービスを支える試み in Webゲーム

少し前にひろゆきが、ゲームマジコン潰して、口コミ潰してばっかりで、新しいビジネスモデル作らないからダメじゃね?

http://hiro.asks.jp/57339.html

みたいなことを言ってたときから若干引っかかってたんだが

ネット無料コンテンツを支える5%のファン」

http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20090410/1239342652

とかいう記事も見て、ああこれゲーム業界にもあるなあ。ゲームゲームで新しいビジネスモデル考えてるよな。と思ったので書く。

兼、俺のお勧めフリーゲーム集。

ちなみに俺は、関係のある仕事をしてはいるものの、直接情報を見聞きできるほど近くもないんで、以下ほぼ又聞きと俺個人の憶測であることは承知で読んでほしい。

まず、Cursor*10というFlashゲームを知っているだろうか。

知らなかったらネタバレを知る前に是非やっておいてほしい。なかなか斬新なゲームだ。

http://www.nekogames.jp/mt/2008/01/cursor10.html

サイト見てもらえれば分かるが、このゲームPSP移植されることになった。

興味深いのはこのCursor*10というゲームは、元の作者の年賀状のオマケゲームだったということ。

それが口コミで話題になり製品化したわけだ。

こういう、PC無料ゲームが発掘されて製品化という流れは珍しいものではない。

勇者30なんかもそうだし

http://uue.holy.jp/

http://www.mmv.co.jp/special/game/30/

かなり前の話になるが、ょすみん。WebからDS移植した。

http://game.nifty.com/cs/catalog/game_freetitle/free2/catalog_sp00563_1.htm

ウケるかどうかわからないゲームという分野において、まずユーザーの反応を見てから商品化できるというのは強みがある。

こういう時に問題になるのは、既に無料で遊べたゲームを、はたしてユーザーが買うのかどうか?

結論を言えば、実験の域を出ていないからまだよく分からない。

が、DSゲームZOO KEEPERが公式サイトでほぼそのまま遊べるところを見ても

http://pc.kiteretsu.jp/games/zka/zka.htm

無料で遊べるものにも金を払うユーザーが、それなりにいるという希望はあるんじゃないかなと思う。

これは俺の憶測になるが、商品化を踏まえて、Webの場で求められているよりもハイクオリティに作っているゲームが、ここ数年で登場している。

「Fumikes」(フミケス)という名前ゲームは、

http://game.nifty.com/cs/catalog/game_freetitle/free2/catalog_sq00005_1.htm

曲がFlashゲームクオリティレベルじゃない(特にmenuボタン押したときやステージが進んだ先のBGMの凝りようは凄い)し、

ライトユーザーに向けたゲーム性デザインもしっかりしてる。

というか「ょすみん」と同じ開発者だと思われる。

明らかにDS商品化を目指せるゲームデザインだ。

彗星が見たくて」というゲームは、学習要素を含んでいるものの、ほとんどちゃんとしたマリーのアトリエゲームだ。

http://j.benesse.ne.jp/special/planet/index.html

ょすみん。」「Fumikes」や、shockwave.comなどでもゲーム広告が表示されるというのに、ゲーム広告なしに無料でこのレベルは驚愕ものだ。

世界観も各アイテムも丁寧に作ってある(おそらく星の王子様モデル?)

そもそもベネッセたまDSゲームを作っているので、人気さえ出ればゲーム化という絵を描いているのは容易に予想できる。

先に言っておくが、商品化を目論むことは嫌儲ユーザーにとっても歓迎すべきことだ。

そのおかげで俺らは面白いゲームを多く遊べることになるからな。

商品化を目指したせいで、ゲームの面白さが削がれる危険性は残るが)

Fumikesは広告で(直接はnifityに対するレンタル契約だろうが)、彗星が見たくては会員登録の促進で、一応の利益を得ているんだろうが、明らかに目的に対してコストがかみ合っていないはずだ。

その超過分を補う物のひとつに、ゲーム自体の商品化というのがあるのだろうと思われる。

逆に言えば、気に入れば金を払う人間がいる、という前提で、俺らは今までよりもクオリティの高い無料ゲームを遊べている。

(もちろん、アマチュアレベルでこれ以上クオリティの高いゲームは幾らでもあることは承知している。

そういう天才趣味で作った系はビジネスになりにくいので除外して考えている。)

制作サイドにとってはWebでのゲーム公開はユーザープレイスタイルを知ることができるという副産物も生み出す。

技術的には、ユーザーがどういうプレイをしたのかを、ブラウザゲームに送信させて分析させることが可能だ。

プライバシーどうのこうのと言う問題も孕むが、ユーザーがどこで詰まって、投げだし、どこを何度も遊ぶのかを知れることは、大きな財産であり改良にも役立つ。

上記のゲームが既にそういう機能を内包していることもありえる。

まとめると、

まず受けそうなゲーム無料放出する。

この段階で様々なユーザーデータが得られ、人気が出そうなゲームの選出と、ゲーム改善策が得られる。

多少の付加価値をつけ、商品化。5%のファンが買う。

色々荒いが、全体としてはこういった流れが考えられる。

音楽無料配信して、金払いたい人間にだけ払ってもらうモデルや、アニメファンだけにDVDを売って食いつなぐモデルより、ゲーム業界での試みはもっとビジネスとして成立するかもしれない。

なぜならゲームというコンテンツは、音楽アニメよりも要素の追加がしやすいし、PCではなくゲーム機で遊びたいと考えるユーザーは多い。

よって、例え無料で手に入っても、さらに買わせる工夫がしやすい。

近年Flashの表現力が上がってきたことと、パッケージゲームにあまり高額な映像を求められなくなったことで移植の敷居は低い。

DSの影響も大きく、タッチオペレーションFlashマウスオペレーション親和性が高いし、ダウンロードコンテンツも開始している。

iPhoneも似たようなことが言える。実際iPhoneゲームにはWebゲームの流れを汲むものが多い。)

ゲームの質が評価され、口コミ効果も期待でき、無料コンテンツも楽しめる。

幸運なのは、ゲームもしくはゲームアイテムに対して金を払うという行為は、アイマスMMOモバゲーが切り開いたおかげで、音楽アニメに比べてあまり違和感のない感覚だということだ。

このシステムが機能するかどうかはまだ未知数だが、音楽よりゲームのほうが先に新天地を見つけるのかもしれない。


余談だが、すずぬーとのゲームは誰も商品化しないのだろうか?

http://suznooto.com/

ちょっと絵を変えてボリュームアップすれば、面白い話だと思うが。

それとも、もう声はかかっているのかもしれない。

2009-05-14

http://anond.hatelabo.jp/20090514091544

で、その酷い体制のゲームグラフィックに割いた予算を難易度調整やらに振り直したとして、それは面白いゲームになったと思う?

つまんないゲームって、根本的な発想からつまんないから、レベルデザインとかの難易度調整で何とかなったとは思えないゲームばっかりだと思うんだ。だから「グラフィックを良くして、内容が疎かになった」ではなく「内容を良くする余地がないからグラフィックだけでも良くした」んじゃないかと。

予算と言うよりも人数と発言権なんだよ。

グラはグラとエフェクトを表現することしか考えていないから、ゲームデザイン会議がグラ品評会になって

ゲームデザインが無いままプロジェクトが走り出すんだよ。

グラが長々したオナニーアニメーション作るとそれを無理矢理にでもどこかに挿入しないといけない。

ハードスペック的にギリギリだからゲームエンジンリソースを削ってグラが割り込んでくる。

そう言うのが繰り返されるとゲームのテンポがどんどん悪くなっていくし、

細かいゲームのおもしろさに影響するアクションチューニングがおろそかになっていく、

それに、グラに手間をかけるとプログラマーゲームデザイナの時間バンバン取られるんだよ。

グラは自分でグラ部分のプログラム修正できないからな。

マスターアップ直前のゲーム性のアップのための作り込みの時期にグラの修正ばっかりしないといけないとバランス調整もできない。

ドラマジャニタレ使って台無しというのと同じ構図だよ。

ジャニ大根に合わせるために台本が変更されたり、無駄ジャニ大写しシーンが挿入されて雰囲気がぶち壊しになる。

リズムにあわせてリモコンを振って、町行く人にリモコンを向けると行列に加わる」

そう言うのはリストラ部隊の穀潰し作品だから別問題。

2009-05-13

http://anond.hatelabo.jp/20090513153845

大昔みたいな小規模体制での開発じゃあるまいし、グラフィックを強化するためのスタッフと、難易度調整やデバッグをするスタッフは別でしょ。「グラフィックに労力を割いたばかりに難易度調整が疎かになった」みたいな事態はそう起こらないよ。

横だけど

一人しかいなディレクターがグラにかかりきり

難易度調整するスタッフの声が伝わらない

マスターアップ間近にグラ変更、辺り判定なども合わせて変更されるがノーチェック

グラ10人、音楽2人、プログラマ1人、デバッガ2人、ゲームデザインディレクターが片手間

グラ出身のディレクターがそもそもゲーム下手くそで難易度鬼下げ

2009-02-01

聖剣伝説4ってそんなにクソゲーなの?

個人的な趣味として、ゲームの面白さって何だろう?と、最近は色んなRPGシステムを字面で見てみたり実際にプレイして研究してみたりしている。

その中でプレイした自由度の大きさを売りにしたジルオールは、大きく膨らんでるだけで中身や実が無いからすぐ飽きた。CGの背景と末弥純の絵だけあればいいんじゃね?

そういう話は放っておいて。

そんな中で、『聖剣伝説4』というゲーム存在を思い出した。よく知らないのだけど、この素人レビューサイトにも見られるように、当時から絵と音以外全否定とばかりに糞みそに嫌われ、完膚なきほどにコテンパンにクソゲー呼ばわりされることだけは知っている。そういえば、昔の知り合いにも自称被害者がいた。

ファミコンからプレイステーションの時代に散見された無名メーカーと違って、JRPGいろはを熟知し、それを実際のゲームで示してきたスクウェア・エニックスが作っているのだから、RPGの体裁が保たれていればRPG好きなユーザーであればそこそこに遊べるはず・・・なのになぜ?と思って調べてみたら、そもそもRPGじゃなかったということを初めて知った。

はっきり言って、システムを見る限りはかなり面白そうだと思った。自分はあまりゲームを知らないのだけど、ムチを使って物理法則によって動くMONOというオブジェクトを駆使しながら進んでいく、というゲーム日本にはあまり無いものだと思うし、ビリヤードみたいにオブジェクトをうまく動かしてアクションが決まれば爽快なものだと思う。

ただ、自分プレイをしてないから糞だとは断定できないけど、「これはクソゲーだろ」と思える部分はこの素人レビュー群の中できちんと示されている。「自分の思っていたものと違う」という疑念を実際のアクションで晴らせた様子は見られない。そもそものゲームデザインが悪いのか、または優れたゲームデザインだったとしても操作性の悪さやカメラワークの悪さが帳消しにしてしまっているのではと思った。自分3D酔いをしやすい体質(あの酔わないように工夫されてるスーパーマリオギャラクシーでもちょっと酔った、特に水中面)なので、自分から酔って苦しい思いをするためにこのゲームプレイしようとは思えない。そういう意味でこのゲームレビューは役に立った。

でも、先のレビューにしても、プレイアビリティの批判以外のほとんどは、ジャンルシステム設計構造を無視したものばかり。

街がない、フィールドがない、仲間がいない、アイテムが少ないとかはゲーム性を考えたら当然。レベルリセットにしても、だって動かせるMONOレベルによって変わるから、レベルを任意で上げられたらゲーム開発者の思うとおりに成り立たなくなってしまう。そもそもレベル上げはこのゲーム本質じゃない。

(それでも、一度上げたものを下げるというシステムRPGユーザーにはかなりヘコませるものがあるらしいけれど)

ここにある与えられたものを楽しむという自然な心構えでゲームプレイできないのだろうか。そういう自分も昔はあまりそういう気分でプレイできなかったのだけど。

それどころか「(俺の中で)聖剣伝説はかくあるべき」ということを併せて書いてるレビューが多すぎる。そういうの信者同士の共感しかもたらさないからいらないから。まるで去年一時期のサンダーフォースVIみたいで、気持ち悪い。信者の私情を挟んで批判なんかしなくても「前作とは全く違うシステム」の一言があればレビューとしては十分だから。余計なこと挟まなくていいから、その前提で「操作性が悪い」「カメラワークが悪い」とかあれば良レビューだから惜しい。

それでも腹の虫が収まらなかったらかくあるべきものを作っちまえよと言いたいけれど、それは許されないだろう。

聖剣伝説過去シリーズ作品に一切肩入れをしていない傍観者としては、せめて『ギルティギア2』と、良か糞かの違いはあるにせよ、同質の扱いを受けてもいいのではないか、と思った。具体的には「惜作クソゲー」というぐらいには。

日本では、というか人間の心理として、ドラスティックシステムの変化を遂げた続編というのはあまり受け入れられないのかもしれない。個人的には、同じことを続けても楽しくないと思うのだけどね。『ギルティギア2』の関連作の『GGXX』は自分もそこそこやったけど最新作のACが一番好きだし、これだけでももっと遊べると思う。

もっとも、ゲーム性が良かったら、「これはこれで面白いけど、次はかくあるべき聖剣伝説を出してね(はぁと」という感想がもらえるはずなので、責められるべきなのはもちろん、別ゲーかつクソゲーに仕立てた開発者なのだけれど。

聖剣4がこういう作品になってしまった背景は今になっていくつか思い当たる。

このゲーム企画したスクウェア古参スタッフ石井浩一独立して立てたグレッゾという会社Wii専用の新作ゲームとして製作しているのが、線を振り回して攻撃するというアクションゲーム「ラインアタックヒーローズ」(仮)で、これも聖剣4と同じく物理計算を利用したゲームと分かる。らしい聖剣伝説な『レジェンドオブマナ』のスタッフ独立して設立したブラウニーブラウンは「マジカルバケーション」ってレジェンドオブマナ二番煎じ製作してるのとは対照的。

たぶん、石井氏は近年、こうした「物理法則」を取り入れたアクションゲーム自分の中ではパッと思いつくのが『マーブルマッドネス』)に傾倒していたのではなかろうか。結果として生まれたのが『聖剣伝説4』だったわけだ。クソゲーになってしまった理由としては、スクウェアRPGに注力してきた反面、アクションRPGは多く作ったけれども、アクションゲームを作った数はPS時代のヘッドハンティング期ですら少なかった(もしくは無かった)し、ノウハウ不足だった、早すぎたのではないだろうか。

まあ前作の存在するシリーズもので全く別ジャンル冒険することもないだろうに、という話だが。スクウェア・エニックス企業体質としてシリーズもの以外では売り出しにくかったのであろう。

まあとにかく、ゲームの一つ一つには、娯楽のための売り物である以上に製作者の魂が込められているわけで、そういうのを無視して一面的に糞糞糞とされるのは個人的に不憫だと思うのでここに書いてみたわけだけど。

そんなこと、多くのプレイヤーは知ったこっちゃないのだが。

2008-05-27

任天堂に対抗するだって?w 無駄な抵抗はやめておけ ~最強の55歳~

任天堂宮本茂Wiiに関するNew York Timesの記事。

http://www.nytimes.com/2008/05/25/arts/television/25schi.html より拙訳。タイトル含め、所々意訳。

追記:原題の " Resistance Is Futile (抵抗は無意味だ) " はスタートレックに出てくる有名なフレーズだそうですね。これはそのままのほうがよかったかもしれません。教えてくれた人どうも



任天堂に対抗するだって?w 無駄な抵抗はやめておけ 〜 最強の55歳 〜」



宮本茂ゲーム界のウォルト・ディズニーと言っても決して言い過ぎではない。


ディズニー1966年に亡くなったとき、宮本さんは14歳の少年だった。学校で教鞭を執っていた父の元、彼は日本古都京都で育った。当時漫画家を目指していた彼はディズニーキャラクターに夢中になり、ひたすら絵を描いていたという。絵を描いていない暇なときは、自ら遊び道具を作った。祖父の工具を借りては木彫りの人形を作ったり、予備のモーターを見つけてはそれに糸とブリキの缶を組み合わせてカーレースをしたり。


かの有名なドンキーコング、そしてマリオゼルダといったゲームを生み出し、最近ではWiiを世に送り出した宮本さんは世界で最も知られ、影響力のあるゲームクリエイターだ。世界中ゲーマーにとっても憧れの的である。しかし有名人になっても彼の仕事への態度は微塵も変わることはない。その姿勢はまるで謙虚な職人さんと言ったところだ。


ミッドタウンマンハッタンのとある高層ホテルの特別室にてインタビューは執り行われた。彼は部屋に設置されたソファの一角に座っていた。今年で55歳になる男とは思えない天使のような笑顔の彼は、長年人々を楽しませてきた人が持つ独特のオーラを発していた。


宮本さんの生み出した数々の作品は世界中の人々に文化の壁を越えて受け入れられ、経済的な成功をもたらした。その成功はエンターテインメント世界で比べるならば、ディズニーのあの伝説級の成功と肩を並べると言ってもいいほどだ。


そんな宮本さんがもし西洋人間だったら、早々に会社を辞めて自ら会社を興していたかもしれない。きっと何千億もの大金を得られたに違いない。セレブになってエンターテインメント界の象徴としての地位を築いていたかもしれない。


しかし彼自身は任天堂王様として人々の憧れの対象になったにも関わらず、妻と子二人という家庭のごく一般的なサラリーマンという印象を与える。ただ一般のサラリーマンと違うのは、創造力に満ち溢れて特別幸福な点だが。そのためタブロイド紙を賑わすセレブのようにマスコミの餌食になることもなく、比較的平凡な生活を送っているようだ。


インタビュー中、宮本さんをウォルト・ディズニーに例える話が出た際、宮本さんはディズニーの功績にはとても及ばないとした上で、こう補足した。「僕にとって大切なことは、僕だけでなく任天堂で活躍する人たちがもっと世間に認められて会社全体のブランドが今以上のものになることです。もし皆さんが任天堂ブランドディズニーのそれと同等のものと見なしてくれるのならば、それは会社として大変光栄なことですし、私自身も嬉しいです」


宮本さんが30年近くも前に生み出したひげ面のイタリア人配管工・マリオは、ある調査によれば地球上最も有名な架空のキャラクターだそうだ。彼と肩を並べるのはミッキー・マウスぐらいだという。


宮本さんが生み出したゲームのうち、ドンキーコングマリオゼルダシリーズだけでも売上合計は3億5千万本はくだらないという。そして彼が生み出したのはゲームだけではない。任天堂ゲームばかりを買い求める熱狂的なファンも生み出した。全人類が今までゲームに消費した途方もない時間のうち、そのほとんどは宮本さんが関係しているのではないだろうか。ちなみに、今春に行われたTIME誌によるインターネット調査では、宮本さんは世界で最も影響力のある人物に選ばれている。


しかし宮本さんの最新の作品・Wiiに群がっているのはなにも古参ゲーマーだけではない。少し説明を加えよう。


ほんの18ヶ月ほど前、ビデオゲーム市場マニアだけが喜ぶニッチ世界へと沈みかけていた。だがそんな折、この産業に大革命をもたらしたのが何を隠そう、任天堂社長岩田聡とこの宮本茂宮本さんの正確な役職は代表取締役専務情報開発本部長)だったのだ。彼らのアイデアシンプルであるがゆえに革命的だった。ゲーム作りにおいて、コアゲーマーを刺激する次世代技術ばかりを追求するのではなく、家族で遊べることを重視し、複雑な操作の必要がない安価でお手軽な娯楽を追求しようとしたのだ。それがWiiの発売へと繋がる。そして特に従来のビデオゲームとは無縁だった女性層を呼び込むことに成功している。今のところ、Wii世界で2500万台以上を売り上げている。これはライバルのソニーマイクロソフトを上回る数字だ。


この成功をさらに積み上げようと、先週任天堂北米においてWii Fitを発売。従来のゲームドライブしたり物を投げたりジャンプしたり銃で撃ったりという動作を楽しんできたのと同じ感覚で、テレビの前に立ってヨガなどを楽しめるゲームだ。今のところ明らかにできる具体的な売り上げデータはないが、既に売り切れの店舗が多数報告されているようだ。


世界中アメリカメディア文化が幅を利かせているが、ビデオゲームに関しては日本が最も成功している。そしてWiiDSの成長により、任天堂日本で最も価値のある企業のひとつとなった。また経済誌・Forbesによると、前経営者山内溥氏が総額8000億円ほどで日本一資産家となったと報じている。(任天堂宮本さんの報酬を公開していないが、彼は資産ランキングには参加していないと思われる)


宮本さんがいなければ任天堂はただの花札屋に戻っていたかもしれない」 No.1ゲーム雑誌・Game Informer 編集長、Andy McNamara氏は任天堂1889年創業当時からのビジネスに言及して指摘した。「彼はおそらく、ゲーム業界にいる99%の人間に影響を与えている。宮本さんと任天堂がいなければビデオゲームなんて存在しなかったに等しい。彼はすべてのゲームクリエイターの父の父なんだ。ゲーム業界に数々の遺産を築き、業界を象徴するキャラクターをたくさん生み出してきた。それでもおかしなことに、いまだに彼はWii Fitなどを通じて自らの限界を超えようとしている」


宮本さんは1975年金沢美術工芸大学卒業後、2年ほどして工業デザイナーとして任天堂に入社している。そして彼の作った初代ドンキーコングは、スペースインベーダーアステロイドパックマンとともに、当時急成長していたゲームビジネスの立役者となった。その後も初代マリオブラザーズによってアタリショックで疲弊していた家庭用ゲーム機市場を救い、1980年代以降、彼は社内で頭角を現し始め、任天堂と言えば宮本茂と言われるほどだった。


市場クソゲーが氾濫し、アタリ社が失脚した際に登場したのが、かの有名なNESNintendo Entertainment Systemである。任天堂NESによって人々の家庭用ゲーム機に対する熱を再び燃え上がらせることに成功した。西洋1985年に発売されて以降、瞬く間に当時最も普及したゲーム機となったのだ。


それ以降宮本さんは、最近マリオカートWiiスマブラXスーパーマリオギャラクシートワイライトプリンセスなどといったヒット作も含め、70近くものゲームに直接携わってきた。下請けメーカーの作るゲーム監督し、今までにのべ400人ほどのゲーム開発者と関わってきた。


Wiiによってゲームには無関心だった層を魅了する一方、馴染みのタイトルの最新作においても宮本節は健在で、ゲーマーたちの信頼も厚い。


彼はなぜこれだけのヒット作を生み出せるのか。彼のゲームデザインに徹底して一貫しているものは、細部への気配りと拘りの積み重ねである。それだけだ。ディズニー社がしゃべる動物たちであそこまで会社を大きくできたのにちゃんとした理由があるだろうか。それと同じだ。青い作業着を着た風変わりなおじさんが人気者であることにも、これといった理由はないのだ。


あえて言うなれば、宮本さんがゲーム世界において生き神のように崇められる理由、ひいては私が20年以上前スーパーマリオブラザーズを遊ぶためにピザレストラン行列に並んだ理由はこうだ。彼のゲームには、もうワンコイン投入してコンティニューすることを厭わない魅力があるからだ。現代風に言うと、もう一時間ソファに座っていたいという魅力だ。


また、映画評価が特殊効果の質で決まるわけではないのと同じように、ゲームの評価もまたそのグラフィックスだけで決まるわけではない。この基本を大概のゲームクリエイターは忘れてしまっている。しかし宮本さんはその基本を忘れることはない。それは映画マニアが例えば…そう、先日公開された「Iron Man」なんかよりも昔の白黒作品を好むように、宮本さんの初期の作品群もまた、今でも娯楽としての役割を充分果たし、広く楽しまれていることからもわかるであろう。


ディズニー副社長で、Disney Interactive Studios社のゼネラルマネージャーを務めるGraham Hopper氏は電話インタビューを通じてこう言っている。「ビデオゲーム産業において幾度も成功を重ねて来た人物、しかもそれが世界規模で、となるとそんな人はほとんどいません。宮本さんはそのうちの一人です。しかも彼の場合、長期にわたり成功を重ね続けて来たわけです。同じレベルで肩を並べられるクリエイターはおそらく存在しないでしょう」


宮本さんの生み出すキャラクターマリオドンキーコングだけではなく、ピーチ姫ゼルダ、そしてクッパリンクゲーム界の有名キャラ目白押しであることを考えると、彼がキャラクター中心のゲーム作りをしていると思われるかもしれない。しかし実際はまったく逆だ。宮本さんによれば、ゲームシステムや仕組みを考えるのがいつも先で、キャラクターゲームデザイン全体を見て考えられ、配置される駒に過ぎないという。それは一見平凡で退屈に見えるゲームの基本要素に注力するということだ。ゲーム全体の流れや設定をどうするか、ゲーム内で達成すべき目標や克服すべき障害はなにか……。


「自分としては、私たちが作ったマリオリンクなどのキャラクターを皆さんが好きになってくれるのは、ゲームそのものが楽しいからこそだと思います。ゲームに夢中になれるからこそ、結果的にゲーム同様、キャラクターも好きになっていくんだと思います」と宮本さんは語る。


宮本さんの最近の作品はマリオキノコ王国ゼルダのハイラルのような風変わりな架空の設定や創作キャラクターに頼らないものとなっている。彼のペットであるシェットランドシープドッグに触発されたNintendogs を始めとして、Wii SportsWii Fit、そして次回作Wii Musicのようなゲームを見ればわかる通り、宮本さんはペットボーリングヨガフラフープ音楽といったいわゆる"趣味"に根ざしたゲーム作りに惹かれているようだ。まるで抽象画を極めた画家が最後には写実主義に目覚めたかのように。


「ここ5年間で自分のゲーム作りの方向性は変わったのかもしれませんね。昔はもっと自分自身の想像力を使ってゲーム世界観を練り上げていったと思うのですが、ここ5年間は自分の私生活での興味を引っ張りだして、それを何かしらの遊びに繋げられないかなと考えるようになっていったと思います」


このイカれた配管工はなんで亀を何度も踏み続けてるの? この緑のナイスガイはなんで同じお姫様を何度も助けにいくの? そんな考えを微塵も起こさないほどゲームに無関心な人たちの目を向けさせることに任天堂は成功している。それは宮本さんのこれらの考え方が強力な武器となったことの証ではないだろうか。


そして強力な武器はもうひとつある。


さて、プレイヤーゲームに直接参加したいと思ったときどうすればいいのだろうか。インターネットにはSNSMySpaceがあるし、テレビにはオーディション番組American Idolがある。何を隠そう、それを実現してくれるのがWiiMii機能だ。MiiWiiユーザーが自由に作れる変幻自在のアバターだ。そう、最新の任天堂ゲーム主人公マリオでもゼルダでもない。あなた自身なのだ。


「私はMiiに関してはマリオゼルダと全く同じ任天堂財産だと思っています」宮本さんはMiiに関してこう述べた。「Miiが面白い点は、子供であろうと大人であろうと、ひとたびゲーム画面のMiiを見てプレイし始めれば、もうその人はゲームに没頭できるんです。通常のキャラクターで遊んでいるときは、ゲーム世界から一歩下がって遊んでしまうことがありますが、自分のMiiを作成して遊べばゲームとの一体感はより増します」


任天堂は今夏にWii Musicの続報を発表すると期待されている。その基本コンセプトは、既に完成された楽曲を楽しむGuitar HeroRock Bandとは大きく違い、作曲即興演奏の楽しさを体験させてくれるものだという。


ところで、宮本さんは学生時代からBeatlesLovin’ Spoonfulのような洋楽を聞いて育ったという。ピアノカントリーギターも弾けるし、カントリー音楽マニアでもあるという。インタビューの後、宮本さんと会食の場を設けた際にこんなことがあった。その会食があったレストランのショーステージカントリーミュージシャンのRicky Skaggsが数日後に上がる予定だと聞いた彼は、即座にその名前に反応し、半ば冗談ではあるが「滞在期間を延ばしたい」と苦悶の表情を浮かべたのだ。実際には予定通り彼は帰ったのだが。


そんな音楽好きの宮本さんが作るWii Musicに関して彼はこう言及してくれた。「遊ぶ人がまるで本当に作曲しているかのような体験が簡単にできるものをお届けしたいと思っています」


これだけ彼のゲームがヒット作ばかりだと、次回作がヒットするかどうか賭けをするのはさすがに馬鹿らしい。誰よりも"遊び"を知り尽くしているのはデジタル時代のウォルト・ディズニーこと宮本茂なのだから。

2008-05-07

モンハンを遊ばない欧米人

日本で大ヒットの「モンハン」、なぜ海外で売れないのか という記事が出ていたのだが、私も前から考えていたことなので、2点書いてみる。ちなみに私はMHFを少しやったことがある程度。

ネトゲMORPGは全く訴求力を持たない

あくまで個人的な経験上だが、この話題が出たときにここに触れる人は意外と少ない。はてブでもここに触れている人は二人しかいない。

DiabloFPSの例を挙げるまでもなく、海外ネットゲーム歴史がもの凄く長い。日本コアゲーマーゲーセン人間関係を築きつつゲームしていたのと似たような形で、海外ゲーマーは10年以上ネットゲームに慣れ親しんできている。しかもこの状況はPCだけの世界ではなく、少し前にはてブでも取り沙汰されていたように、XBOXでも同様の環境が構築できた。XBOX Liveサービスインしたのは2002年11月だ。

PCなら10年以上、コンシューマでも5年以上前から「ネットゲーム」が浸透し、ボイスチャットなども使ってきてフルにコミュニケーションを取ってきたゲーマーに、キーボードすら持っていないような人も多いMHのネトゲ部分のどこをもって訴求出来るというのか。

タイミング押し系は流行らない

一概には言えないが、米国ではタイミング押しが必要となるタイプゲームは比較的流行りにくい。アクションゲームとして、FPSを始めとする反射速度と操作の精密さを求めるゲームとは傾向が逆だ。

特にMHはその傾向が顕著なゲームだ。ネトゲ研究日誌コメントでも次のように述べられている。

北米在住の友達とMHについて話したことがあるんですが、どうもあらゆる行動に儲けられた2,3秒のwaitが、彼らを苛立たせるようです。(これがメディアに信じられないほど鈍くてイライラする操作性と書かれます)

あの設定はゲームデザイン上不可欠なものですが、たぶん楽しむより先に投げてしまうんでしょう。あちらでもユーザーの評価は高いので、それこそ最初の10分で楽しませれる所まで行けばあっちでも爆発するんじゃないかと思っています。

思うこと

日本人ゲーマー海外をバカにしすぎではないかと感じることが多々ある。酷いものになると「あいつらはバカだからFPSみたいな単純なゲームしかわかんねーんだよ」などという意見まで出てくる。一度海外流行ったゲームをやってみればいい。長大なストーリー、複雑なアイテムスキルシステムなど、バカには理解しきれない要素がてんこ盛りだ。むしろ日本ネットゲームなど海外のものの劣化クローンの方が多いぐらいだ。ましてや短調な成長曲線の韓国MMOのようなゲームなどほとんど無い。

地域などによって指向が違うのは良くあることだし、それを理解できない人間英語が出来ようがフランス語が出来ようが、異文化を理解することは出来ないだろう。普段こぞってバカにしている中国韓国と何も変わらない。

日本ゲームが下らないなどとは思わない。日本ゲームは良く作り込まれていて面白いゲームがたくさんある。日本より海外の方が受けがいい日本製ゲームだってある。

日本ゲームが好きなら、あえて一度海外ゲームをやってみるべきだ。日本ゲームだけにとどまっていては井の中の蛙だ。ゲームに限った話ではないが、大海に出て初めて気付く井戸の素晴らしさもあるし、また大海の素晴らしさも知ることが出来るだろう。

2008-04-07

[]一般人よりシューティングゲーマーが優れている7の理由

  1. 抽象化・具体化ができる
  2. 適材適所ができる
    • シーンごとにどの武器を使うべきか、いつボンバーを使うべきかということの最適解を常に模索しています。一般人よりも適材適所に対する感度が高いと思います。
  3. 目標までのプロセスを常に明確化している
  4. PDCAサイクルを習慣としている
  5. 改善することに楽しみさえ感じている
  6. 常に新しいことを学び続けている
    • 次々と新しいゲームが出てくるので、学び続けることが習慣になっています。一般人は、学び続けることを習慣にまではしていません。
  7. リスクとリターンについて正しい判断ができる

http://d.hatena.ne.jp/jdg/20080405/1207450767

こんな言説が許されるのならなんでもアリだろ。

(参考) シューティング脳の恐怖 - 真性引き篭もり

2007-09-17

酒のみながらぐだぐだ書くよ

匿名で書くことでもないが、他に書く場所がないのでこちらに書きます。

ゲームバランスが良いと思われているが実は大したことはないゲーム(1)

http://guuji.net/blog/index.php?e=18

ゲームバランスが良いと思われているが実は大したことはないゲーム(2)

http://guuji.net/blog/index.php?e=19

上記記事では、ゲームバランスが良いと一般的に言われているドラゴンクエストシリーズを例に「ゲームバランスが良いと思われているが実は大したことない」ことを書いているのだが、筆者が根本的に勘違いしていることがある。

それは、筆者が「プレイヤーに選択を迫る場合は、どの選択肢にも選ぶ意味がないといけない」と思い込んでいること。

それを感じさせるような書き方は随所になされているが、それは一見正しそうで実は正しくない。

なぜならば、ゲームの攻略とは「もっとも効率のよい進め方をするためにプレイヤーは何をすればよいかを探すこと」だからである。

つまり「無意味選択肢を除外する」ことはすでに攻略であり、それに対して「無意味選択肢存在するのでバランスがよくない」と言うのはお門違いなのである。

ドラクエVの例で言えば、数多くいるモンスターの中からスライムナイトが強いことを発見することがもはや攻略なのであって、スライムナイトが強いからダメだとはその時点では言えない。

「どのモンスターもそれなりに使えるべきではないか」というのは、開発者がどう遊ばせたいかというゲームデザインに対する話であって、ゲームバランスの話ではないのだ。

つまり、堀井雄二が「多くのモンスターの中から使えるヤツを見つけるのが面白いんです!」と言ってしまえば、そういうゲームなのである。

(「自分のお気に入りのモンスターを仲間にできます!というなら、どのモンスターもそこそこ使えるようにしておいてよ」と言いたくなるが「お気に入りなら弱くても我慢して使え、というデザインなのだ」と返されるとやはりそこで終わってしまう)

つまり「ゲームバランスが良いと思われているが実は大したことない」例をあげたいのであればこの例では不適なのだ。

ゲームバランスの話をするなら「FCドラクエIIで薬草が15Gするのは高すぎる!」というような話をするべきである。(実際リメイクでは10Gになった)

2007-01-27

「『FF』って何?」ってことじゃない?

http://anond.hatelabo.jp/20070127144404


FF12まで至るシリーズの中でさ、一貫して保ち続けられている要素って何があるんだろう?って常々思う。

物語キャラクターゲームデザイン

どれにも一貫性が見出せない。

例えばドラクエだったら、物語キャラクターは変われど、

「親子」とか「宿命」とか「勧善懲悪」とかいった要素が盛り込まれているじゃない?

言葉を借りると「水戸黄門的」なゲームなんだよね、良くも悪くも。6以降は違う流れになっちゃってるっぽいけど。


じゃあFFの場合どうなのかって言ったら、正直分からない。

新しいのが出るたびに思うのは、このシリーズを買っている人達ゲームのどの部分、ひいてはシリーズのどの部分に

魅力を感じているんだろうかって。


それに「ファイナルファンタジー」って名前だけど、言うほどファンタジーしていないと思うんだ。

確かに「飛空挺」とか「魔法」とか「召喚獣」とか「クリスタル」なんかはファンタジーの世界のものなんだけど、

どうもあのゲームの中ではファンタジーじゃなくなっている。

それは何でかっていうと、リアルになり過ぎたのが原因じゃないかと僕は思う。

ファンタジーってさ、きっと想像するから楽しいんだよ。

FF6までのあのドットで描かれた召喚獣モンスター達は、僕らユーザーそれぞれの想像の中でいろんな姿に映っていた。

クリスタルなんかも、想像の中ではキラキラ輝いていた。

もしかしたらそのユーザー想像こそが「FF」というゲームの本質だったのかもしれないとも思える。


だから僕なんかは、新作発表キャラクターが紹介されているのを見るとウンザリする。

「なんだまた美男・美女か」と。

別に不細工な奴を主人公にしろって言うわけじゃない。はっきり理由が分からないけど何か違うと思ってしまう。

一体ユーザーに何を見せたいのか。何を体験させたいのか。そういうのが全く伝わってこないんだ。


結局、僕の中で「FF」というシリーズはもう終わってるんだと思う。単にゲームそのものとしてね。

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