はてなキーワード: ウミガメのスープとは
これが明確に間違いで、正しくは「問題文と質問に対する回答から答えを導くゲーム」。
だから質問しない限り答えに辿り着かない方がむしろいい問題とされる。
これは上の勘違いに基づくもので、問題文と「質問」があれば唯一の答えが定まる。
というより唯一の答えに定まるまで質問をすることができる。
つまり質問権も問題文の一部であるのがウミガメのスープである。
これも最初の勘違いに基づく。確かに、同じ問題文から別の解を作ることをよくやったりするゲームではある。(一番多いのが「ウミガメのスープ」)
しかし、出題者が用意した最終解答が違う問題は、明確に異なる問題であって、別解とは言わない。
なぜなら最終解答が異なると、質問に対する回答が変わってくるからだ。全ての質問に対して同じ回答をして、なおかつ最終解答が違うのなら別解といえるが。
確かに出題者の用意した解答を当てるゲームではある。しかしこの言い回しは違うと言わざるを得ない。
そう思ってしまうのは質問が足りないからだ。ウミガメのスープは「問題文を読み進めるために質問が必要な文章題」だ。
そして文章題が完全に全部読めたその時には、誰でも解答にいたることが可能な、ちゃんと論理的なゲームである。
そういう問題も多いが、必ずしもそうではない。
「ウミガメのスープ」型の問題(水平思考問題などと言うらしいが)を楽しもうと思い検索しているのだが、どうもつまらない問題が多い。出題形式こそ「ウミガメのスープ」と同じだが、この問題の良さを正しく踏襲している問題は、少ないどころかほとんど見当たらないのだ。そこで何故、他の問題が「ウミガメのスープ」のように機能しないのか、この種の問題はどのような理由で悪問となるのか、ということを考えてみることにした。
Q. 薄暗い部屋で一人、ピアニストの女性が熱心なファンレターを読んでいた。読み終わってすぐに彼女は、自らの死を悟った。何故か。
A. ピアニストの女性は盲目でファンレターは点字。点字の間には毒針が仕込まれていて、ファンレターの最後に毒針のことが書かれていた。
これは私がつまらないと感じた悪問の典型だ。この例題の問題点は客観的に明らかであるはずの手紙の文面や毒針の存在が明かされていないことだ。それらを知っていれば謎など全く存在していないにも関わらず、出題者の脳内の状況を明らかにするために質問を重ねていかなけばならない。何故、こんなことが起こるのだろうか。
普通、推理の問題というのは答えに必要な情報は予め開示しておかなければ成り立たない。だが「ウミガメのスープ」型問題では回答者が質問をし、それに出題者がYes/Noで答えるというプロセスが含まれる。そのため、普通なら許されない情報の後出しが許されてしまうのである。出題者はあえて問題文を曖昧にし、部分的な情報しか明かさないことで、回答者からの質問回数を増やし、あたかもこのゲームが機能しているように振る舞わせることができるのだ。だが実際はこの時に行われているのは推理ではなく、単なる問題の補完に過ぎない。
例えば算数の問題に置き換えてみよう。まず、「3218+877=?」という問題。これは暗算で解くには少々集中力を要する問題と言えるだろう。次に「a+b=?」という問題。こちらの問題では回答者が「aに入る数字は1ですか?」「2ですか?」「3ですか?」…とひとつずつ尋ねていかなければならず、最終的に明かされる問題が「2+5=?」となっているとしよう。結果的に問題を解くのには同じぐらいの時間を要したとしても、どちらの問題がより思考を要するかは明らかだ。このように問題を明らかにする過程というのは決して知的なものではなく、単に参加意欲を満たすだけのプロセスでしかないと言える。
この点、「ウミガメのスープ」で伏せられた情報は非常に自然だ。情報の欠落は男の過去に限られており、これは客観的に起こりうるものだ。問題文の因果関係に偽りは無く、ウミガメのスープを食べた事と男が自殺した事という一見繋がりの無い2つの事象を結びつける男の過去を推理している。必要な推理材料は最初から揃っており、極論すればヒントなしでも真実に行き着くことすら可能だ(逆に言えば多くの問題は出題時点では問題として成立してさえいないと言える)。実際に作るとなると難しいのは確かだが、このように問題としてきちんと成立した良問が増えていってほしいものである。
(変則的な例として問題文に叙述トリックやミスリードが含まれているパターンもある。これについては回答者の気付きひとつで解けることもあるが、推理小説の面白さと叙述トリックモノのミステリーの面白さが別と言われるように、やはり別ジャンルと扱うべきで、どちらかと言えばクイズのような出題形式が適しているだろう。)
困ったときは共産党が助けてくれるという話を聞いて、具体的にどういった援助をしてくれるのか調べようと思い検索したところ、検索結果の一番上にたまたまこの増田が出てきた。
http://anond.hatelabo.jp/20100822200259
この人物の書いている内容に非常に見覚えがあり、まるでwattoさんのようだと感じた。
しかし内容にはほとんど触れず「自民党議員後援会幹部が、共産党系の生活相談に駆け込んだ」というエピソードを紹介しているだけだった。
当時の増田に書かれてある内容にも特定されたくないと書いていたので当然だろう。
http://www.watto.nagoya/entry/20141011/p1
大まかな流れ以外では、細かい類似点には以下の例が挙げられる。
wattoさんの「世紀が変わる頃の話」と増田の「ITバブル真っ盛り」で時期も同じ。
wattoさんの「2つ目の会社を、あまり愉快でない経緯で退職した。」と増田の「二度目の
wattoさんの出版した本「推理クイズ道場 ウミガメのスープ(作者: 海亀素夫,2ちゃんねる)」と増田の「2ちゃんねる本の出版」が同じ。
差異点もある。
はてなブログでは「書店のうち何件かとは店と顧客という関係を超えた付き合いをさせてもらっていた」と、書店と深い付き合いを表しているにも関わらず、増田では「たまに出入りする程度の、顔見知りというだけの俺に、そこまでしてくれたのだ」と、付き合いの浅い単なる顧客の一人と表現しており、共産党系書店の懐の広さを強調するような形になっており、気になるところではある。
ただwattoさんのエピソードも共産党系の書店の人が助けてくれたというだけで、共産党が党として何かしてくれたわけではないので、一飯の恩で感謝をする気持ちは分かるが、増田タイトルと内容には齟齬がある気がする。
わざわざ理由は述べないが、自民だろうが共産だろうが民進だろうが、一般論として一部の面だけを見て全肯定や全否定するのは危うい思想ではないだろうかとも思う。残念。
いやさウミガメのスープと同じだよな。ウミガメのスープが古いもなにも
そのウミガメのスープ自体がそもそもオリジナルから変化してオリジナルが忘れられてるだけとかの可能性すらある。
さらに、そのオリジナルとなると多分もうみんな忘れてるんじゃないかな。
変わっていく中で誤って失われたものがある。それを見なおした。それだけで新しい物ができたりする。
自分が思っている。ウミガメのスープがオリジナルなのか派生なのか?時間が立ってしまうと尾ひれに背びれがついて誰にもわからん。
ただなんだろう。悪しき風習と呼ばれるからには、本来風習は良いものなので、
誰かがどっかで何かを変えて、その変えたのが悲劇の原因で本来はその風習違ったんじゃね?
オリジナルニュースは正しいのに編集の過程で編集者が嘘をまぜて世論誘導をしようとする。だからデマばかりになる。
だから、風習というのなら、その風習が本当に正しいのか、だれかが嘘を言って風習をねじ曲げたのか確認するほうが先だろ。
ナマハゲがいつのまにか、ハゲのズラかぶって踊る風習になってるのかもしれない。
そりゃぁ悪しき風習て呼ばれるが、いやナマハゲは悪く無いだろ。ハゲのズラかぶって踊るって言い出した奴とそれを信じて広めた奴が悪い。
ウミガメのスープがいつの間にがゲームになっていてびっくりした。
俺達の世代は、それは短篇小説だった。(つまり答えが普通に書いてあった)
時代が変わったなぁと思うとともに、
おそらく回答がグロテスク(死を扱っているので)ちょっと取り扱いに注意が必要だな。
いろいろなものが変化して変わっていくけれども、難しいな。
物事なんでもそうだけど、スプラッターが好きな人が血みどろにしてしまって、自分は平気だからそのまま物語を流通させるけど
(そしてショッキングだからよく流通してオリジナルを駆逐する)
世の中はそうじゃなくて、ショックを受ける子どもも出てきちゃうからな。
なんでもかんでも、自分基準も良くない。
非常にマイナーなゲームで知る人ぞ知る「ウミガメのスープ」というゲームがあるのだが、はてなerの人達なら知っている人も少なくないだろう。
このゲームは水平思考を鍛えるゲームとして一時期ネットのライフハック()クラスタの話題を総ナメにしたけど、今となってはもう過去のゲーム。
未だに出遅れた一部の人間がプレイしているものの、古参はすっかり居なくなってしまったのが実情だ。
ウミガメのスープに着想を得たと思われ、おそらくウミガメのスープの128倍は有名なゲームakinatorも今ではすっかり名前を聞かない。
ウミガメのスープの人気が失われた原因の一つにそもそもキャッチフレーズでもある水平思考を鍛えるという文言に胡散臭さが漂っていたことは否めない。
水平思考は論理的思考(垂直思考)の対義語で、ロジカルシンキングだけではカバーできない思考領域を補完するものとして現れた、ということになっている。
水平思考ではアイデアを大量に広く考えることを求められる。これはロジカルシンキングの前工程にくる「仮説立案」のステップを鍛えているという位置づけである。
なるほどいくら論理思考によって仮説を論理的に検証できても、そもそも独創的な仮説、固定観念に囚われない仮説を考える能力がなければ駄目というのはその通りである。
そういう意味では水平思考が一部で話題を集めたのは良い傾向だったのだが、いかんせん水平思考を鍛えるゲームの質が悪すぎた。
繰り返すがウミガメのスープというゲームなのだが、これはやったことのある人なら分かるだろうが発想力がそれほど鍛えられない。そして時間がとんでもなくかかる。
さらに出てくる問題のパターンが決まっており経験者なら8割以上の問題に既視感を抱くことだろう。問題のパターンが決まっているため解き方もほぼ決まってくる。
こんな具合であるから、「これでは水平思考が鍛えられないわな。流行らないでくれよ。」と私は世間で話題になりかける頃に思ったものだ。まぁ流行りはしなかったが。
それでもゲームとしては面白いから一昨年までは時には徹夜までしながら連日熱心にやり込んでいたものである。
それが昨年になって完全に下火となって、私は相手が居なくなったこともありすっかりやる気を失い全くやらなくなってしまった次第である。
ウミガメのスープが水平思考ゲーとしてはクソゲーなのは分かったが、じゃあどんなゲームなら水平思考が鍛えられるって言うんだい?と思った人は多いだろう。
あいにくゲームではないが、例えばこんな習慣を身に付けたほうがウミガメのスープなんてやるよりもよほどマシである。
人間は意識せずとも心の中に思考が浮かんでくることがある。これを心理学では自動思考と呼ぶが、自動思考は明確に意識されないことが非常に多い。
自動思考は意識せずに発生するわけだが、発生した自動思考を意識することは可能なのであって、意識することで発想力の幅が広がるのである。
例えば、みんなに嫌われている人がいるとして、その人に対してなんとなく「意外といい人だな」とチラッと思っても、理性が「いやそんなはずはない」と打ち消して忘却の彼方に追いやってしまう。
しかし、後にその人と仲良くなってそこで初めて、以前にいい人だという印象をチラッと持ったことがあるのを思い出す。そういった経験があるはずだ。
そういうなんとなく思った自動思考をなるべく捕まえて明確に意識してみよう。さらにここが大事なのだがそれを5秒で言葉にしてみよう。
なぜ5秒かというと時間が経過すると自動思考を忘れてしまいやすいだけでなく、印象が理性によって塗り替えられてしまうからだ。
塗り替えられて改ざんされた自動思考はもはや原型をとどめておらず、常識や先入観にまみれたつまらないものになっているだろう。
だからなるべく速く言語化して元の感覚が色あせても思い出せるフックを作っておくわけだな。
フックとしての役目を果たすためにはなるべく独特な表現を使うのがいい。「意外といい人」では月並みすぎる。
「ライオンのようないい人」はどうだろう?ライオンのように乱暴そうに見えて、実は気がやさしい、という意味である。
最近ようやく仮説思考が新常識として浸透してきた感があるが、お前らちょっと待ってほしい。
仮説思考を結論ありきで思考することと混同してないか?
本来仮説思考とは、確からしいと推測される仮説を「複数」立てて、それぞれの仮説を検証した上で、最も妥当な仮説を決定するというプロセスのはずであって。
最初から1つの仮説しか念頭にないのでは単なる決めつけと同じ。馬鹿丸出しもいいとこである。
経営コンサルでありビジネスにおける意志決定の開拓者の一人でもある飯久保廣嗣さんは「複数思考」ということをしきりに言っている。
シンプルイズベストは真理だが、複数思考を経ないシンプル思考はただの思い込み。馬鹿丸出しということである。
君はGoogle面接で「ロジカルシンキングだけでは何が駄目なのか?」と問われたら何と答えるかね?
模範解答は「ロジカルシンキングでは仮説を立てることができません。ですから、先入観で立てた仮説に縛られてしまいます。」である。
厳密には統計分析を駆使すればロジカルシンキングで仮説を立てることは出来なくもない。
将棋棋士も感覚でまず仮説を立てる。味の良さげな筋をいくつか「第一感」で捉えて、それを「読み」と言って詳しく調べていくのだ。
複数思考には感性は欠かせない。
感性もその人の偏見だろ!思い込みと一緒じゃないか!と怒り狂う奴がいそうだが、少し違うのだよ。
思い込みは本人の願望。そうであってほしいという欲があるから、決めつけが発生してしまう。これでは複数思考じゃなく単一思考にしかならない。
感性というのは願望だけでは決まらない広がりのある世界。だから複数思考が可能になる。
ラテラルシンキングを育てるのに、「ウミガメのスープ」というゲームがあるが、俺はこのやり方には断固反対だ。
確かにいろんな可能性を考える力が育つ。だけど実践的ではない。なぜなら人間の仮説立案には、先ほども述べたように願望に強く引きずられる性質があるから。
社会心理学における帰属のことを思い出してもらえると、このことがよく分かるだろう。
ウミガメのスープはフィクションのお話なので自分に直接利害のない話ばかりであり、願望に引きずられずに仮説立案する力が育たないのだ!!
結局のところ、ウミガメのスープは頭のよい人達が現実の人生で行っている思考プロセスを誰でも再現できるように生ぬるくしたものに過ぎない。
いまめまぐるしいネット社会なので不特定多数と短文でコミュニケートするのが常識になっている。リアル社会においてもその傾向は少しずつ加速している。
そんな時代においてシンプル思考が重んじられるのは当然のなりゆきであるが、
複数思考がないがしろになってシンプル思考だったはずのものが単なる決めつけに堕してしまってゐるのもまた事実である。
シンプルな主張は、それをバックアップする論理構造や事実確認、それから事実を幅広く見渡す視野があって初めて価値がある。
結論ありきの単一思考しか出来ない馬鹿は、そうした思考過程を丸ごとすっ飛ばして主張するから始末におえない。
複数の仮説を比較するという発想がまるまる欠けている。
彼らがもし対立する仮説を提示された時には、公平に比較する代わりに、相手が間違っていると最初から決めてかかって難癖をつける。あしらう。
確かに、短文コミュニケーションが主体の現在のネット社会では、それがスマートなやり方と言える。
しかし、人生全体を考えた場合には、バカもバカ、大バカである。
ネットのノリで結論ありきで排他的に何もかも丸め込むようなやり方でしか思考できなくなったらもう重症の2chねらー。
残念ながらここ数年、リアルの人間を見ていてそういう2chねらーが急速に増えてきた。
向こう数年、人類が正常な進化を遂げるには、正しい仮説思考の普及が危急される。
賢い人はどうしてるか?賢い人は、ネットでは結論ありきの態度でいるが、それは演技であって頭の中ではちゃんと思考しているのだ。
それが可能なのは、賢く現実問題を解決できる分、色んなことを考える余裕があるからなんだよ。
バカどもはとにかく余裕がない。余裕がないから短絡思考が当たり前になる。