はてなキーワード: ぼっとん便所とは
不思議な夢だった。うちに友達が泊まりにきて「うち狭いから寝る場所ねーべ」と僕が言ったら「いいよオレあそこで」と言って彼が向かった先はトイレだった。なぜか和式のぼっとん便所になっていてそのぼっとんの空間がすげー白くて広くてベッドまで完備されていて……!?友達はマジでトイレで寝ると言う。「気を遣ってくれてるのなら別にいいよ」「いや、オレはここでいいよ」「トイレしたくなったらどーすんだよ」「その時は一旦退くから」一旦退くからって……貴方は僕の黄色いおしっこがビシャビシャ降り注いだベットのうえにまた寝るってこと……?意味分かんねえし普通に部屋に来いよと思ったけどこの友人は自分の意思をなかなか曲げないことで有名な頑固野郎だったのを思い出して、「そうかい、じゃあ今からおしっこするから待ってて」と言って僕はトイレに入り放尿した。真っ白だった空間の壁やベッドのシーツには当然のごとく黄色い液がビシャビシャついていった。汚ねえ……とドン引きしながらトイレから出、手を洗っているうちに友人が「じゃ」と言ってトイレに戻っていった。嘘でしょ?ほんとにあそこに潜るの?いくらなんでもそれは……。それはただただ恐怖だった。見てはいけないような気がした。だから僕は目の前のドアを開けてその真実を知ることはできなかった。僕の脳裏には黄色いおしっこのシミがついた寝具の上にごろりと寝転ぶ友人の姿がぼんやりと浮かんだ。何かが狂っている、そんな夢だった。
生まれは地方の港町。5人家族、3人兄弟の3番目(姉、姉、自分)。
平屋の町営住宅で、トイレは和式のぼっとん便所。そんな家に俺は生まれた。
それが母親の口癖だったように思う。事実、実家を出るまでわたしは実家が裕福だと感じたことはただの一度もない。
高校生の時、友達が遊びに来た時「お前の家のトイレ臭せぇ」ってとても遠回しに言われたことを覚えている。(うちのトイレはハエ取りキンチョールスプレーの匂いが常にしており、なんとも言えない匂いを放っていた)
父親は公務員だが酒飲みで、自宅にはよく借金取りが来た。夜、2人組の男を母親が玄関先でを追い返したことを今でも覚えている。
父は家の中でよく暴言を吐いた。そして暴れた。
狭いリビングの中で大声を出して暴れることもよくあり、皿が良く家の中を飛び交った。
「やめてよ!!!」という声を出して、裏庭に逃げたこともある。
隣人の森田さんに何度かその話をしたことがあったが、自分の親よりも年上だった森田さん。今思えばすべて事情を把握していたのだろう。
「大変だねぇ」みたいなことを言われた記憶が何度かある。
欲しいおもちゃも満足に買ってもらえなかった。
1980年代生まれなので、ファミコン、スーパーファミコンドストライク世代。
自宅ではスーパーマリオの動く紙芝居みたいのを作って、その上でキャラクターを模した手作りの置物を動かして「ぽよーん」とか「キノコゲット!」とか言っていた。
だから母親が牛乳配達をしていたため、どうしても余る牛乳パックを重ねてひな壇を作って、その上に包装紙を貼って「おひなさまできたー」みたいなこともやった記憶がある。
注。一応私は男です。
小さな港町。裕福な家庭なんてそうそういないのだが、自宅から歩いて100mくらいのところに、たまたまお金持ちの同級生が住んでいたことも、「うちは貧乏なんだ」と思うことを加速させる一因にもなった。
彼の家は一軒家、3階建て。広い庭あり。
冬休みは家族みんなでハワイに行く。よくお土産をもらっていた(その時にもらった野球鉛筆はいまでも捨てられずに保管してある)
彼のおじいちゃんはとても野球好きで、彼にとても情熱を注いで野球を教えていた。(親が子供に野球を教える。。。のおじいちゃんバージョン)
俺の家ではとうてい変えるはずのない、ティーバッティング用のネットを自宅に用意し、休日も野球の練習が出来る環境があった。
彼の家にあるものが、うちにはない。
彼の家では誕生日に豪華な食事が出るが、うちではケーキと父親が居酒屋で買ってきた七面鳥くらい。
小学校でも「びんぼーびんぼー」といじめられていた記憶がある。
うちは、家も狭いしシャワーも無いし、トイレはぼっとん便所だし。
服だってほしいものも変えないし。ビンボーなんだ。そうなんだ。 本気でそう思っていた(今でも多少はそう思っている)
父に対して「お母さんに手を出したらぶっ殺すからな!(黒歴史)」と言って家を出たのも、あの狭い平屋の町営住宅だった。
社会に出て20年。自分は実家のことを「金持ち」だと思ったことはただの一度もない。本当にただの一度もない。
ただ最近「うちって貧乏だが、実は実家が太いというやつなのでは?」と思うようになった。
この年齢になってくると、やれ親の介護だ、やれ両親が亡くなった。家族の問題、毒親だの、いろいろな話を聞く。
職場でたまたま一緒になった同い年のヤツも、在宅勤務なのだが、その理由が母親の介護らしく、事実業務中に「(親の介護用の)アラートが鳴ったから」との理由でちょくちょく業務を中座する。
今日久しぶりに再会した、前職の知り合いも「何の前触れもなく父親が亡くなって、実家の仕事を引き継ぐことになった。加えて、兄が認知症っぽくなって、その対応に一人で追われていた」とたった1年なのに、とてもやつれた顔をしていた。
この時思った。
「家族が健康で、かつ自分に口を出してこない(なんなら必要なときに金銭的な支援をしてくれる」というのは相当な資産なのでは? そしてそれは「実家が太い」と言い表していいのではないだろうか。
実は、「家族の健康は資産」という言葉は、数年前に知人に言われた言葉である(その知人とはもう連絡が取れない。あぁ。悲しい)
もちろん家ガチャもあるだろうし、家族ガチャ兄弟ガチャもあると思う。
うちの家庭は前述の通り、借金まみれ、貧乏、父は酒飲み(のちに自己破産)、姉2人はそれぞれ違う新宗教に入っているなど、傍から見ると普通の家庭では無いと思う。母も、新宗教ではないにしてもある宗教の熱心な信者だ。この話を他人にすると「へえ。凄いね・・(消え入りそうな声)」とよく言われる。
土地も無ければ、財産もたぶんない。人脈もコネも学歴も無い。両親は2人とも大学に行っていない。母親は確か高校にも行っていない気がした。
世間的な定義に照らし合わせるならどう考えても太い家では無い。それどころかただの貧乏家庭である。
それでも、その両親はわたしに何の干渉もしてこず、かつ80近くになった今でも子供に迷惑をかけることなく元気である。
父80歳。母76歳。
父はちょっと弱弱しくはなったが、それでも電話をしたら2人ともはきはき話す。母親にいたっては今でも畑仕事に精を出す。おかげで足腰は元気だ。
もし、仮に死ぬことになった場合は、費用も含めて手筈は整えているらしい。わたしとしては当然ながら生きながらえてほしいが。もっと一緒にいたい。
ただ、正直ありがたいとも思った。
実家、家庭で問題が無いという事は、それだけ自分のことにフォーカス出来る。集中できるという事を指す。
そしてこの「家庭、家族の問題に振り回されることなく自分の人生に集中できるという事は、当たり前のことではないんだ」ということに、最近まで気づかなかった。
ここ最近、職場など様々なシーンで関わる人と我が家を比較してみて、「実家が太い」とは必ずしも財産、資産などの有形資産のことばかりを言うのではないのだなと感じた。
経済的には貧乏なんだろうけれど、それでも太い。そんなわたしの実家の話し。
DPZ、イッテQなどで有名になった「旅行先で散髪」企画ちょっとやってみたい
岡山の農家が一番刺激的でまさに昭和初期、サツキとメイの家より設定上古い。最初はぼっとん便所に五右衛門風呂が体験できたしイノシシも見かけることができた。夜になると屋根裏でヤマネかハクビシンかが運動会はじめる。朝は早くから雄鶏のときのこえがきける。子機つきのすえおき電話あげたら感謝された。
茨城の農家はキジとうぐいすと野うさぎくらいで大したこと無いけど薔薇が綺麗でめしがとんでもなくうまい。wifi設定してあげたら感謝された。そろそろアイフォンかアイパッドを贈りたい
感謝はじいばあの孫やひ孫の世代にのし袋で渡されることになるからオレ世代は交通費を支払うだけ・滞在費用も(ホテルよりは安いくらいの寸志)渡すだけ。
迂回小遣いなんだけどそれはそれで楽しい。
だが自分が物心ついた時はまだ私的録音メディアはカセットだったし、トイレもぼっとん便所がまだまだ残っているところには残っていたし、ダイヤルを指で回すタイプの公衆電話だってよく見た。電車は流石にすぐ自動改札に化けた気がするが本当に小さな頃に数度駅員さんに切符をカチカチしてもらった記憶があるし、バスカードなる謎の磁気カードを通してバスに乗ったこともあった。どこぞで参加した抽選会の目玉商品はポケベル(のような何か)だった。
一応世間的にはぎりぎりまだ若年世代と括れなくもない自分の子供時代ですらまだそんなものだったのだと思い返すと、本当にこの30年で何か起こったのかという気になる。手元のスマホでぼんやりYoutubeの動画を眺めているとき、ふとそういやこのスマホだって自分の中学時代にはまだ影も形も無かったんだよな……iPodはあったけど……と気が付いて愕然とする。
仕事でも当然のように離れた場所にいる相手に今日中に対応してくれーみたいな連絡をメール(同じオフィス内にいる場合はチャットツール)で送りつけたりしているけど、自分の親が若いころバリバリでやっていた時代は最速でも固定電話かファックスで連絡取り合ってみたいな世界だったのかと思うと、逆に想像するのが難しいというか。
一世代経たないうちにこれなんだから、(古代エジプトの頃からあるとはいえ)世代による価値観の対立も先鋭化していくのは仕方ないかもしれない。既に自分も00年代以降に生まれた世代とは価値観から何から全然違うんだろうなという予感はある。
おれは逆。
大学の授業料が全額免除になるほど親の収入低くて、ぼっとん便所で、お風呂は薪で沸かすやつで、家の中には虫がたくさんいるような(ナナフシがいたときは笑った。お前わりとレアなやつだろ!どこで擬態してんねんって)とこで育った。カマドウマが超嫌いだった。ちなみに実家は未だに汲み取り式で薪で沸かすやつ。
大学で国立、就職で都内ITベンチャー、学生時代のインターンでは有名企業の社長の息子が経営するベンチャーで働いてみたりしてた
都会は衝撃ばっかだった。東大生はゴロゴロいるし、部活超強かったやつとか、高校時代からビジネスやってて年収おかしいやつとか。
いろいろなセミナーでやたら会うパチモンみたいなやつもいっぱいいた。
田舎だったら社長って聞くと雲の上の存在みたいだけど、こっちじゃ掃いて捨てるほどいるし、起業したって全然たいしたことないことは(今となっては)わかってる。
田舎には割と夢がない。仕事がないのが一番の原因で働くのは近くの工場か土方が一般的で、工場勤務なんかは親世代と子供世代がみんなそこで働いてたりする。
彼は、乳豚と呼ばれるほど乳が好きだった。
乳豚は毎晩、おっぱぶで遊んでいた。
乳豚の乳への興味はつきなかった。
乳豚は乳を上に思いっきり引っ張り、そのまま落としたらどうなるのか?と疑問に思った。
いてもたってもいられなくなった乳豚はすぐさまおっぱぶに行き女の子に試してみた。
思いっきり乳を押し上げ…落とす。
何度も試みたが、乳はゴムまりのようには弾まずただ落ちただけだった。
殴られた乳豚はなぜかにやにやしていた。
断っておくが、彼はマゾヒストではない。
乳豚は乳に宇宙を感じていたのだ。
「おっぱいは落ちるのに、月は落ちてこないのはなぜだろう」
殴られて頭がおかしくなった乳豚は、その疑問を解決すべく、研究に没頭する。
まず、用意したのは梅干しだった。
ほしはほしでも食べれるほしはな~んだ?
今時、幼稚園児でもやらないような典型的かつ古典的ななぞなぞだが、乳豚の時代はそれが最先端だった。
梅干しを用意してみた乳豚であったが、どうしていいか分からない。
しかし、アナルは落ちるものなのか?また疑問が始まる。が、すぐに解決した。
排便だ。
「ぼっとん便所の下で待ち構えていたら、いくらでも星のかけらが落ちてくるではないか!」
早速乳豚は近所のけんブリ痔大学の穴ニーカレッジの女子トイレに潜入を試みた。
潜入は成功し、ひたすら落ちてくるものを拾い集めた。幾日も幾日も…
いつしかピーピング豚と呼ばれるようになったが気にしなかった。
そして、うんこを大量に集めた豚は、スカトロに転向し、尻の広げ方を計算する尻分方程式の研究をし始めた。
同時期にレイプニッツという人物も尻分方程式を研究していたが、レイプニッツの考案した常尻分方程式は、
結局、豚は梅干しを食べてうんこを広い集めスカトロになっただけの人生だった。
彼らの考案した常尻分方程式は語り継ぐものがおらず、いつしか忘れ去られてしまったが、
アナルマニアやスカトロマニアの中で伝説として語り継がれている。