はてなキーワード: 慰安婦像とは
1 作品を読まない
自分の目から視るとどんなに片寄っているように見えるかだけが大事で、文脈や他の人の感想、意義は無視し、読まずに批判する。ツイフェミ、表現の自由戦士、ネトウヨ、リベサヨなどお互い敵対相手を名指しした上で自分の仲間を作ってネット上の居場所を確保しているため、炎上が起こると仲間内に対して自分は仲間だというアピールをいち早く行う必要があることの弊害かもしれない。どうでもいいが、リベサヨかつ表現規制反対だと面倒なことになってしまう。
ネトウヨの頭の中では、慰安婦や特効兵を題材にした芸術は日本を貶めている。彼らは、戦争中の日本が行ったようなことは他国もやっているのに自国だけを批判するのはおかしいと思っている。他の国のことは無視して(欧米も植民地政策をやっていた、アメリカは原爆を落とした)日本についてだけ悪かった点をことさら強調するからリベラルの欺瞞などと言われる。白人や黒人その他いろいろな人種の慰安婦像を作って並べたら案外文句が出ないかもしれない。ある意味公平性を求める運動ともみなせる側面がある。欧米その他の国々の歴史の暗部と日本の暗部を対等に扱えと要求している。
フェミニストの頭の中では萌えイラストは差別を再生産するものである。性的側面が強調されたイラストは女性を性的にのみ扱うことを肯定するメッセージを発していると主張する。そして、このメッセージを世界からなくすために萌え表現をなくそうと主張する。ネトウヨの頭の中では、慰安婦像は日本を他国と比較して道徳的に劣った存在としてのみ扱うことを肯定するメッセージを発している。だから慰安婦そのものや慰安婦像を世界からなくして(なかったことにして)日本を他の国々と対等にしようとしている。
言うまでもなく慰安婦像は日本だけが道徳的に劣っていると主張などしていない。萌え表現も、女性の身体の素晴らしさを表現する側面がある(余談として、女性が作ったBL文化や女性による男性の性的消費についてもっと語られないと公平とは言えない)。表現の意味を自分が感じた通りにしか捉えずそれ以外は認めないところ、表面では公平を求めた運動だというところが似ている。
表現の不自由展には暴力の行使を示唆する脅しが入った。赤十字や雑誌にクレームが入れられた。ネトウヨの方が悪質さが一歩先を行っているが、クレーム対処をコストにして主宰者に表現が存在することを諦めさせようとする共通点がある。
雑な個人的まとめ
どれだけ醜い顔の人でも、存在を拒否されるのはおかしい。世界に存在していいものを判断する権力は自分にこそあると主張するのは傲慢と考える。
世界に存在しているものに対して「消えろ」と主張するのに躊躇いがないところが怖い。
付記 ゾーニング論は、フェミニスト自身が、ゾーニングされた作品をわざわざ持ち出して騒いでいるフェミニストを批判して叩きのめして初めて検討に値する。
献血ポスター問題でデジャブを感じると思ったら、憤ってる人々に感じる異様な雰囲気はナディア・アトランティス問題に近いんじゃないかな?と思った。
アトランティス本編を見れば分かるが、終盤の板野サーカスリスペクトな戦闘シーンや、津波から都市を守る為に巨大ロボットが出現し
バリヤーを展開するスペクタクルはとても見ごたえがあり、この作品が単なるパクリではないことは一目瞭然である。
だが「俺たちがパクリだと思ったのならそれはパクリだ!!」で力押ししようとする当時のオタク界隈は、
今のフェミ界隈の「私たちが性的搾取だと感じたらそれは搾取だ!!」という理不尽な理屈と全く同じだと言っていい。
そして当時の2chの書き込みを見る限り、アトランティス叩きは必ずと言っていいほど中韓叩きとセットの言説になっており、
「ディズニーが中韓のパクリアニメと同レベルに墜ちた!!」というフレーズでネトウヨ思想を煽っていたことは決して許されることではない。
あれから18年、とうとうナディアのキャラクターデザインに関わった貞本義行氏までが「キッタネー慰安婦像!!」とまで言ってしまうような最悪の事態になってしまった。
今宇崎ちゃんの献血ポスターに怒りを覚えている人々に次ぐ。一度立ち止まって冷静になってほしい。
下品で稚拙な展示なので、個人的には大嫌いだが、批判しているブクマカのほとんどがダブスタに気づいていないので書く。
「あの団体が言うことは全部ヘイトスピーチだろ」と思うのは無理も無いが、それを決めるのは法や条例を運用する機関であってお前らじゃない。
事前に検証するのはあいちトリエンナーレで散々言われていた検閲にあたるし、展示されたものを即時検証して個別に判断するしかない。
表現の自由という原理原則を守るためには今回の短期間の展示に対処することは難しかったと思う。
「あの団体が作った展示なんだから全部ヘイトだろ」と思うのも当然だし、実際にカルタは擁護のしようがないが、慰安婦像のパロディは何のヘイトにもならない。
(もちろん下品で芸術性は一切無いと思うが、その評価とヘイトであることは無関係である)
しかし展示場内の展示であればゾーニングはされているのだし、見たい人だけ見るのだから例えヘイトスピーチをしそうな団体であろうと貸し出しを拒否するのは重大な権利侵害である。
もちろん実際にヘイトスピーチが行われていることが確認されたら、即座に責任者に対応を求めたり、繰り返しになるが事後に訴える措置をすることは正しい。
天皇の写真←ヘイトではないが、ヘイトと勘違いしても仕方ない。展示側に説明責任がある
放射能最高←見ればヘイトじゃないとわかるのだが、デマに騙されてしまうことは人間ならあり得ること
慰安婦像←「ヘイト」と「政治的偏り」の区別がつかないのは単純に認知が歪んでいるのでは
以上、宇崎ちゃんを全力擁護した表現の自由戦士による三文解説でした。
補足だけど、天皇の写真もそうだし「日本しね」もそうだけど、元の表現自体にヘイトの意味合いはなくても、それを援用する第三者の中にはヘイトだと言われるのが妥当な人もいただろう。しかしその例にしても「流行語から死語にしたい」と言った政治家を叩くのはおかしいよね。
今からたったの2か月前、愛知トリエンナーレで慰安婦像や昭和天皇を燃やして踏みつける失礼な表現が批判されたことがあった。
サヨクは表現の自由を振りかざしたり、アートとは何かをグダグダ言っていたけど。
あの表現や作品を見て不快な思いをした人間の「お気持ち」をガン無視していたのがサヨク。
そいつらが今、献血ポスターで女性の「お気持ち」を代弁しているのは笑い話にしては質(タチ)が悪い。
献血ポスターが性的消費ならば、昭和天皇を燃やして踏みつけるのはサヨクの「逆張り消費」だよね。
昭和天皇を燃やして踏みつける表現に不快感を持つ人間が多数存在している以上は、表現の自由を言い訳にしないで他者の気持ちを考えろ。
を規制したい訳でもないです。
ただ、日本に対してこのような表現を許容することが、現在の「日本が憎悪される苦痛」の温床になっていることを知ってほしい。
国家が憎悪されることの苦痛を他国人にわかってもらうのって難しい事だと思ってます。
憎まれることを受け入れている人々もまた、私のような事をいちいち言う存在は煩いことでしょう。(でも、煩いと感じるということは、憎まれることで傷ついた事があるからではないでしょうか)
反日、天皇が駄目なんでしょ、お気持ち案件、と言われるのが耐えられず長文を書きました。
トリエンナーレという公的な場で、日本への憎悪をあおることを許容する描かれ方をしている点です。
天皇の絵を自画像だと言い張っても、慰安婦像は反人類的な少女像といいはっても、最初に使われた日本憎悪としての情報は残ります。
つまり、作品全体が日本を嫌悪的に見ており、また作品の解説もそれを許容している表現が公的な場に相応しくない、と言いたいのです。
日本を憎むことは普通の事なんだよ、という教えが公的の場におかれていることが問題なんです。
当たり前のように世の中にあったら、それが当たり前なんだ(文句を言う方がナンセンスなんだ)と思ってしまいませんか?
若い頃からそういった環境に身をおいていると、段々感覚が麻痺してしまいます。
韓国向け雑誌など、意図がある媒体で表現されているのは問題ないです。
韓国向け、という意図があるので、当たり前なんだ、とはなりにくいです。
日本を憎悪的に消費する絵が公的の場に置かれ、許容されている事が問題なのです。
現実の日本人は公的な場で、嫌悪的に見られることを許容していませんよ。
その言動が愛国的だったとしても、その人が良いと思っていっているのであって、反日家に消費されたくて言っている訳じゃないです(あくまで公的な場では)
私もオタクなので、表現が規制されることに怯える気持ちはわかります。
受け手にとって都合の良い表現を生活の糧にしている気持ちもわかります。
そういうものを、見たい人が自分で選択して見ることは良いことだと思います。
ただ、公的な場において公的なコンテンツですよ、と展開されていることが問題なのです。
小さい頃からのこういった刷り込みで「日本は嫌悪的に消費しても怒らない存在なんだ」「日本は嫌悪的に消費されるのは当たり前の事だから怒ってはいけないんだ」という意識が少しずつ形成されていくと思っています。それを危惧しています。
今までは許されてきたことなので、感覚が麻痺してしまうのもわかります。
実際、私も数年前までは何が問題かわかっていませんでした。
感情論にせず、言語化して訴える人がまだまだ少ないからだと思います。
こういう造形を公的な場で起用しても日本人は怒らないと思われているんですよ。
些細なことだとは思うし、今までのように目を逸らしてやり過ごすこともできます。
ただ、それだと日本は嫌悪的に消費されることによって傷つく社会を変えることができません。
日本人だから、という理由で無用に傷つきたくない、傷つく人を減らしたいとおもっています。
反転可能性として
答え合わせ編も書いたよ! 20191027021610
「事実として存在してるかしてないか」という歴史学的問題より、「強制」という言葉がどこまでを指すかという政治的な問題じゃないのかな。
例えば戦争前後でひどく貧しい生活に陥るなどして、従軍慰安婦として働く以外の選択肢がなくなった場合、それが本人の主観では「強制」と感じるのは普通のことだと思うんだよね。
こういうのって別に慰安婦問題に特殊な話じゃなくて、アメリカじゃ軍人になるしか選択肢がない状況が「経済徴兵」なんて揶揄されてたり。それを「自己責任」と言い切ってしまうのは違うだろうと思う。まあそれ自体の賛否はあれど、少なくとも「人間らしく、当たり前に発生する問題の一つ」ではある。
ただ慰安婦問題のような場合は、「日本政府の責任」とは別に「韓国政府の責任」もあるだろうと思うので、そこも含めて政治的に決着してもらうしかないだろうね。自分も「全面的に日本が責任を認めれば良い」とまでは思わないよ。
昭和天皇の肖像を燃やしたり慰安婦像置いたりとやりたい放題の展覧会『表現の不自由展その後』
「こういう表現であっても認められるべきだ!」という賛成意見と「さすがにダメじゃない?」と反対意見、日々議論が白熱している。
私は賛成でも反対でもなく、こういった状況になることが企画者の意図、
……かと思って傍観していたんですけど展覧会が中止されたりかと思えば再開されたり、入場制限が行われたり市長による抗議活動などヒートアップするよくわからない状況。
と思って色々調べていたところ、そもそも企画者の意図していたことが全然違った。ちゃんと説明した方がいいよ。
まず前もって知っておいて欲しいのは『現代アート』そのものについて。
定義としては過去の美術、芸術に囚われない、『前衛的で新しい芸術』だろうか。
時代性を反映していることが現代アートの条件とされている場合もあるが、作家によってはそこまで意識をされていないことも多い。
最先端の技術で作られた作品であったり、今までなかった発想やテーマ、思想で作られたりと従来の美術や芸術の枠組みに入っていなければ現代アートと呼んで問題ないと思う。
アートのくくりだからといって美しいとは限らないわけです(ここを勘違いすると現代アートのなんでもありな表現に嫌悪感を覚えると思う)
で、自分が思っていた『表現の不自由展』とはこういった過激な作品を展示した上で、『表現の自由』とはどうあるべきかを考えてみよう!
で、調べた。全然違った。
これがこちらです
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/19768
長い!よくわからん!
っていう人もいると思うのでざっくり説明すると
アート界隈、戦後民主主義は『個(個人)の時代』だったけど今は『公の時代』!
↓
昔の『公の時代』といえば社会の抑圧や検問が厳しかった戦前の大正あたりだ!
↓
戦前と戦前の美術の間には『意識の断絶』があるように感じる……
↓
ドイツではそんなことおきていない、なぜ?
↓
↓
これです。いや、わかりにくい!
この騒動で読みにきた人は『ドクメンタ』って何〜?っていう人がほとんどだと思うのでウィキを貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドクメンタ)
あいだに出てくる『退廃芸術』も重要ワードなので貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/退廃芸術)
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戦時中ナチスドイツは模範的な美術作品を設定して『大ドイツ芸術展』を開催、一方で近代美術や前衛芸術を集め『退廃芸術展』を開き晒し者にした。
戦後、その晒し者にされ弾圧された『退廃芸術』名誉を回復しよう!と開催したのが『ドクメンタ』、1955年からスタートし今もなお毎年開催される現代アートの展覧会。カッセル市やヘッセン州の出資によるドクメンタ有限会社が企画、運営している。
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日本は戦後今まで排除してきたものにアートとして向き合ってないから、戦前と戦後で『意識の断絶』が起きている。
そんでもって公的な立場でやるとなおいいよね!っていう感じです。
ざっくりなので違ったらすみません。というかここまで問題になった訳ですから、公的にわかりやすい文章を出した方がいいですよ。
この展覧会がめちゃくちゃ炎上した原因となる1番の問題点だと思うのが、
これです。
なんて巷では議論が白熱していますけども、この展覧会がやりたかったのは『表現そのもの』に対する可否ではなく、今まで向き合ってこなかったものに対して受け入れたり、考えたりしていこうよ、ということ。
こんなタイトルが付いてるから作品が『表現』そのものに対してのジャッジの道具に使われている。
「表現の自由だからこういう作品であっても認められるべきだ!(賛成派)」「いや、こんな表現は到底受け入れられるものではない!(否定派)」
といった議論ではなく、
「今まで触れてこなかった考えを知ることができた(賛成派)」「こういうのはどうかと思うけど、どういった思想で作ったのはわかった。その上でこんな表現はいけないと思う(反対派)」
という議論がかわされるべきだ。
この展覧会を擁護、または批判している者の中に、企画者の意図を理解している者はどれだけいるだろう?
というか、こんな意図を説明なしにわかる人はエスパーだと思う。
企画者の意図を考えると、『表現の不自由展』というタイトルはふさわしくない。
インタビューから考えるならば、『意識の断絶』がこの展覧会を企画するにあたっての1番のキーワードではないかと私は思う。
企画者の考えとして、表現の不自由が起きている根本の原因は戦前戦後のアート界隈での意識の断絶、と読み取れたからだ。
『意識の断絶』というキーワードを元にタイトルを考え直した方がいい。少なくとも『表現の不自由展』というタイトルよりは誤解を与えずにすむだろう。
『表現の不自由展』、企画展名のインパクトを狙いすぎたため、意図が大きくぶれてしまっているのではないか。名前だけしか見てない者にも邪推をされまくっている。