はてなキーワード: 慰安婦像とは
昭和天皇の肖像を燃やしたり慰安婦像置いたりとやりたい放題の展覧会『表現の不自由展その後』
「こういう表現であっても認められるべきだ!」という賛成意見と「さすがにダメじゃない?」と反対意見、日々議論が白熱している。
私は賛成でも反対でもなく、こういった状況になることが企画者の意図、
……かと思って傍観していたんですけど展覧会が中止されたりかと思えば再開されたり、入場制限が行われたり市長による抗議活動などヒートアップするよくわからない状況。
と思って色々調べていたところ、そもそも企画者の意図していたことが全然違った。ちゃんと説明した方がいいよ。
まず前もって知っておいて欲しいのは『現代アート』そのものについて。
定義としては過去の美術、芸術に囚われない、『前衛的で新しい芸術』だろうか。
時代性を反映していることが現代アートの条件とされている場合もあるが、作家によってはそこまで意識をされていないことも多い。
最先端の技術で作られた作品であったり、今までなかった発想やテーマ、思想で作られたりと従来の美術や芸術の枠組みに入っていなければ現代アートと呼んで問題ないと思う。
アートのくくりだからといって美しいとは限らないわけです(ここを勘違いすると現代アートのなんでもありな表現に嫌悪感を覚えると思う)
で、自分が思っていた『表現の不自由展』とはこういった過激な作品を展示した上で、『表現の自由』とはどうあるべきかを考えてみよう!
で、調べた。全然違った。
これがこちらです
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/19768
長い!よくわからん!
っていう人もいると思うのでざっくり説明すると
アート界隈、戦後民主主義は『個(個人)の時代』だったけど今は『公の時代』!
↓
昔の『公の時代』といえば社会の抑圧や検問が厳しかった戦前の大正あたりだ!
↓
戦前と戦前の美術の間には『意識の断絶』があるように感じる……
↓
ドイツではそんなことおきていない、なぜ?
↓
↓
これです。いや、わかりにくい!
この騒動で読みにきた人は『ドクメンタ』って何〜?っていう人がほとんどだと思うのでウィキを貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドクメンタ)
あいだに出てくる『退廃芸術』も重要ワードなので貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/退廃芸術)
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戦時中ナチスドイツは模範的な美術作品を設定して『大ドイツ芸術展』を開催、一方で近代美術や前衛芸術を集め『退廃芸術展』を開き晒し者にした。
戦後、その晒し者にされ弾圧された『退廃芸術』名誉を回復しよう!と開催したのが『ドクメンタ』、1955年からスタートし今もなお毎年開催される現代アートの展覧会。カッセル市やヘッセン州の出資によるドクメンタ有限会社が企画、運営している。
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日本は戦後今まで排除してきたものにアートとして向き合ってないから、戦前と戦後で『意識の断絶』が起きている。
そんでもって公的な立場でやるとなおいいよね!っていう感じです。
ざっくりなので違ったらすみません。というかここまで問題になった訳ですから、公的にわかりやすい文章を出した方がいいですよ。
この展覧会がめちゃくちゃ炎上した原因となる1番の問題点だと思うのが、
これです。
なんて巷では議論が白熱していますけども、この展覧会がやりたかったのは『表現そのもの』に対する可否ではなく、今まで向き合ってこなかったものに対して受け入れたり、考えたりしていこうよ、ということ。
こんなタイトルが付いてるから作品が『表現』そのものに対してのジャッジの道具に使われている。
「表現の自由だからこういう作品であっても認められるべきだ!(賛成派)」「いや、こんな表現は到底受け入れられるものではない!(否定派)」
といった議論ではなく、
「今まで触れてこなかった考えを知ることができた(賛成派)」「こういうのはどうかと思うけど、どういった思想で作ったのはわかった。その上でこんな表現はいけないと思う(反対派)」
という議論がかわされるべきだ。
この展覧会を擁護、または批判している者の中に、企画者の意図を理解している者はどれだけいるだろう?
というか、こんな意図を説明なしにわかる人はエスパーだと思う。
企画者の意図を考えると、『表現の不自由展』というタイトルはふさわしくない。
インタビューから考えるならば、『意識の断絶』がこの展覧会を企画するにあたっての1番のキーワードではないかと私は思う。
企画者の考えとして、表現の不自由が起きている根本の原因は戦前戦後のアート界隈での意識の断絶、と読み取れたからだ。
『意識の断絶』というキーワードを元にタイトルを考え直した方がいい。少なくとも『表現の不自由展』というタイトルよりは誤解を与えずにすむだろう。
『表現の不自由展』、企画展名のインパクトを狙いすぎたため、意図が大きくぶれてしまっているのではないか。名前だけしか見てない者にも邪推をされまくっている。
例の慰安婦像、あちこちに設置されているのは無着色なので影響が少なかったかと思われるが出展されてる慰安婦像は着色されている。「警官の制服」を着ている像が警官像であるのと同様に「慰安婦の制服」や「慰安服」を着ているから慰安婦像なんだと認識されやすい。
実際に「この服を着ている女性は慰安婦なんだ」と思われて、罪もない方々が何らかの被害に遭うことにだってなりかねない。
同様の服の例 https://blog-imgs-122.fc2.com/h/e/l/hellfighter/201808272305438eb.jpg
創作物を多くの人々に向けて展示・公開する場合は、作者も主催者も様々な悪影響を及ぼす可能性を考慮すべきではないかと思った。
学校で慰安婦問題について習ったJKです。長文お気持ち。モヤモヤしたので文にしただけ。Twitterでトリエンナーレ問題とか、韓国人と日本人の言い争いとか見てて、何でこんなに揉めてるんだろ……と思っていたんだが、習った今でも何でこんなに揉めてるんだろ……と思っている。
相当な時間をかけて、残虐さとか、背景とか詳しく教えられたけど、全く罪悪感を感じなかった。これは性暴力が当然なものだった!って思ってるってことじゃなくて、私が罪悪感を感じないといけない理由がわからないという意味だ。痛ましい、繰り返しちゃいけない、忘れてはいけない歴史の一部だということはわかる。ただそれは私とは無関係の赤の他人が行った残虐行為であり、私に非は1mmもない。自分の家の家系図とか見たことないからわかんないけど、もし貴方の先祖が慰安婦問題に深く関わっていました!って言われても変わらないと思う。同じ日本人だとか、先祖だとか、そんな理由で責められても困るし、罪悪感も湧いてこない。その理屈で言うのなら、日本人も韓国人もアメリカ人も中国人もこの世の人間全て、自分と同じ民族の殺人者の罪を恥じながら生きていかないといけなくなる。同じ民族の人間の罪を恥じるって、それこそ団結意識が強い戦時中とかじゃないと無理なんじゃないだろうか。
それを踏まえて、何でそこまで熱くなってるのかがわからない。慰安婦像そんなに嫌か?別にただの歴史の一部じゃん。責められてるような気待ちになるのかもしれないけど、その気持ち自体抱かなくてよくない?やらかした張本人じゃないんだし、他人事っていうか、TVの殺人事件見てるような感覚にはならないの?殺人事件の被害者の女の子を弔う像が建てられてもなんとも思わないだろうに、慰安婦像がダメな気が分からない。韓国の人たちが熱くなる感覚もわからない。殺人事件も強姦事件もほぼ全部の民族の誰か一人は起こしてるだろうし、戦争でのそんな事件も調べれば他に幾らでもあるのに、何でこれにそんなにこだわるの?同じ民族の女性達が辱められた!ってそんなに怒れる気持ちがまたわからない。日本の原爆でも何万人もの人が亡くなってるけど、それは『けして繰り返してはいけない歴史の一部』で、痛ましく思うし、二度と繰り返しちゃダメだって思うけど、アメリカ最低!死ね!って思うか?って言われたら思わない。仮に家族がアメリカ人に殺されたとしても、アメリカ人を恨む人はなかなかいないだろう。恨まれるのはその殺人鬼だ。
なんて言ったらいいんだろう、アニメの一表現とか衣装とかそんな些細なことでもに慰安婦!ってキレたり日本敵視してくる感覚もそれに対して呆れるでもなく、そんなものなかった!ってキレ返す感覚も理解できない。歴史の一部として収束できないものなの?『こういう痛ましいことがありました、繰り返さないために忘れてはいけません』で終わりにならないんだろうか。そこまで民族に熱くなれないというか、恥じる必要性がわからない。歴史というか民族間の軋轢って本当に難しいものなんだな。もうちょっと勉強してみたいと思った。
偶々、ソ連と日本のドキュメンタリー見たけど、これは日本人から忌み嫌われるわ…
令和の今初めて見聞きしたけど、呪いのように頭に粘りつく問題だな。
(もちろん、交渉に応じた日本の開拓団が全く悪くないかと言われるそうではないけど…。)
急にネットや連絡手段が立たれて、独裁政治的な状況になったら正常な判断ができない気がする。
もしかしたら、韓国の慰安婦に対する考え方もこれくらい辛い事なのだろうか。
まあ、慰安婦像を各国に立てて知らしめたり、世界の人に同意を求めるのは如何なものかとは思う。
ただ、日本はネットが成熟する前にかたが着いた(?)から良かっただけで、今も引きずってたら同じ状況になっていたかもしれない。
未来の人のために遺恨を残さないように不必要に感情を煽る必要はないけど、史実として知って欲しいと言う被害者と遺族の気持ちもわかる。
何で自分(もしくは親族)だけって思いたくなる気持ちもわかる。
やはり、墓まで持ってくのは酷な話だわ。
難しい問題だな…。
「では」の意味がわからないけど、「日本軍が韓国人女性達を性奴隷にした」のは「性奴隷」という言葉が適切かどうかという"議論"(というか言葉遊び)はあっても、「従軍慰安婦として徴用した」のはただの歴史的事実でしょ。「徴用は強制だったかどうか?」は政治的に争点となっているものの、「作り話」ではないし。(「強制」なる概念を定義し辛いというだけで。)
状況次第では「事実の指摘」が差別になることもあるけど、少なくとも国と国とのやりとりや、「慰安婦像」が差別になることはないでしょ。それが政治的に偏っていたとしても。
政治的に偏った表現を保証するのは「表現の自由」だし、それを「批判する自由」もあるんじゃないの。
どんな「容疑者」や「犯罪者」にも与えられるのが人権だが、「反社会的勢力に目をつけられた善良な市民」を守るのに「人権を守れ!」なんて陳腐な言葉を使うのいい加減やめろと言ってるんだよ。
>正直、出来れば見たくないなと思っているのですが