はてなキーワード: 尊厳とは
性の尊厳てよく聞くけど何? 🤔
弱者男性が必ずしも自業自得とは言わないけど、性に恵まれないからといって勝手に性的消費したりするのは(倫理的な意味で)良くないと思ってて。
考えたこともなかったけど言われてみると死の恐怖が和らぐ気がする。
死の恐怖っていっても身体的な痛みへの不安とか夢が実現できない無念さとか色々あると思うけど、自分が死んでも宇宙が存在し続ける虚しさみたいなものもある気がする。
自分は宇宙の中心じゃなくてあくまでモブの一人ってことを受け入れさせられるような、尊厳が傷つけられる感覚。
この部分は宇宙も死ぬってことにしてしまえば、自分が死んだ後も宇宙は存在し続けたとしても、あくまで有限の時間って思えば早いか遅いかの問題だけで皆んな平等。
そもそも自分が死んでも宇宙は存在し続けるっていう前提が証明できないし、論理が破綻しているかもしれないけど、うっすらと納得感はある。
その年齢だと犯罪にならないからやられっぱなし確定なんだよ。むしろやり返したらこっちが犯罪者にされる。つまり現状泣き寝入り強制で尊厳売り渡されてるんだよ。おかしいよ。
あなたは映画を見に行った時、エンドロールを最後まできっちり見るひとだろうか?私は”当然”見るし、なんなら明転してからも謎の余韻に浸って、劇場を最後の方に出ることもある。
私が”当然”といったのは、題名にもある通り、映画のエンドロールで帰る人が理解できないからだ。エンドロールを見ずに帰る人たちは何をそこまで急いでるのだろうか?そんなに忙しいなら、そもそも映画を観に来る時間があること自体不思議だ。
映画館に来るということは、行きかえりの移動含めて、少なくとも2~3時間の余裕を抑えてるはずで、その中のたった5分や10分すら待てないほど忙しいとは、どういうことなんだろう。
その数分をねん出したいほど忙しいということは、そのあとのMTGの資料がまだできていないのだろうか。だとしたら優先順位のつけ方やばすぎだろ!
だいたいそんなに重要な用事をあとに控えて、映画の内容に集中できなくないか。絶対そわそわして楽しめないと思う。だからこそ私は、基本休日か仕事を片付けたあとのレイトショーしか見ないようにしてる。
エンドロールとは映画の感動をじっくりと噛みしめる時間で、映画制作に関わったクリエイターの人たちの努力や才能に敬意を表す瞬間という意味でも映画の重要な一部分だと語る人も多い。正直私はそこまで高尚な考えをもって座れてはいないけれど、それでもその5分を切り上げると切り上げないとでは映画体験の深まり方が違う気がする。
あとなによりマーベル映画に代表されるようにエンドロールの最後にちょっとしたサプライズや続編の予告が含まれていることもたまにあるから、どんな映画であっても「この映画にはないだろうな」と思いながらも、
ちょっと期待して待っているふしもある。あと最近映画料金の値上げも激しい中で、その5分にも値段発生してると考えるとなんか悔しいから消化して帰りたい。
もしかすると、彼らはただ「忙しいフリ」をしているだけなのだろうか。映画が終わった瞬間に席を立つことで、自分がいかにも重要な人物で、やることがたくさんあるというアピールをしているのかもしれない。
あとはお腹or膀胱が決壊寸前の人だろうか。まあこれは仕方がない。人間の尊厳とエンドロールを天秤にかけたら、私だってそうする。
でもエンドロールで帰る人の素振りをみると、大抵は別に急いでいる素振りもなく、さらには「もう映画終わってるからいいっすよね?」といわんばかりに、かがむことすらせず歩いている人すらいる。
臨界状態に至らないように肛門をあえて締め付けながら歩いている可能性もわずかに存在するが、もしそうだったならたぶん最後の30分くらいの内容頭に入ってないだろうしもっと早めに出るべきだと思う。
Yahoo知恵袋で私と同じような疑問をぶつけている質問を見つけた。そこにはこんな回答があった。※それぞれ別の人による回答
「あなた方は駅や電車内での、アナウンスの違いや電車の走行音に興味はあるか?ないだろう。ないのが普通だ。あるやつはマニアとかオタクだ。私もそこまで鉄道キチガイではない。乗るのが好きなだけだ。
あなた方は映画マニアであって、鉄道マニアではないから電車の走行音や道具などには興味がないが、エンドロールに価値を見いだすわけだ。だが興味のないやつにとっては、
なるほど。なんだかこの回答を呼んで妙に納得してしまった。映画を見に行っている人はみんな一律に熱量が高いわけではないのだ。
私は何をここまでイラついていたんだろうか。
ASD男性でも、彼女がいるなら問題ないという人は考え直してほしい
雰囲気がわからないことをはじめとして、利用されていることに気が付けないこと、相手の立場に立つことができず傷つけてしまう苦しみ
大切にしたい関係性を壊したあとの、声にできない悲しみを聞いてほしい
むろん彼女がいないこと、異性から求められない苦しみは甚大なものだ。
それはとても深刻な、自分の尊厳や魂が傷つけられるような、深い飢えと絶望なのだと思う。
それに比べればこの苦しみは恵まれていると考えたことも何度もあった。しかし、好意を持っている人を傷つけてしまうことは、これもまた悲しいものだ。
発する言葉と意図が違いすぎるのだ。「大丈夫だよ」という言葉は大丈夫ではないし、「怒ってない」といえば確実に怒っている。「プレゼントのお返しはいらない」と言ってもお返ししないといけないし、「一人にしてほしい」と言うから放置したらさらに機嫌が悪くなる。
言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの差が大きすぎる。ふざけんな。毎日ブービートラップをかいくぐっているようだ。
「女なんてそんなもん」といわれることも多々ある。というかそういわれた記憶しかない。面と向かって言えないがめんどくせえ。男女の関係に合理的配慮なぞ存在しない。
考えても考えても、自分の持つ全ての知見を総動員しても至らない。そりゃそうだ。一番大切な情報である「相手視点」が欠けているわけなんだから。クソゲーだなってよく思う。
ゴミみたいだ。どれだけ強く想っても相手になんて伝わらない。傷つけて後悔して謝って、原因に気がついたころにはもういない。部屋に浮かぶ面影を見つめながら、懐かしむことも悲しむことも、僕にはできない。
わかる。いや100%同じではないし気軽にわかるなんて言えないかもしれないんだが。明日会社に行きたくない。強者たちから尊厳なしに仕事を振られることはとんでもなく心がすり減る。つらい。行きたくない。
というか、この4日間もうずっと頭が痛かったし泣きたかったし、生きているのがつらかった。
ぐるぐるとマンションの非常階段をのぼる。最上階から下を覗く。
死にたくない。生きていたい。心からそう思う。
でも涙が止まらない。
一昨年親友(だと私は思っている、大学時代私は一番遊んだ友達だった。その子がどう思っているかわからないけれど)が亡くなった、自殺だった。
その死は直接は知らされず、昨年の夏に知った。
怒りとか、悔しさとか、悲しみとか、様々な気持ちがある。
飼い犬は高校生の頃に死んだけど、身近な人の死は初めてだった。
なんで相談してくれなかったのかなとか、コロナ禍で会う機会も減っていたけどもっとコミュニケーションをとっておけばよかったなとか後悔が止まらない。
遺された側になって、自殺はやめようと思った。
希死念慮との付き合いは長いので、死にたいって思う気持ちも一定程度わかる。
そして、死なれた側の気持ちもわかる。その中で私は何ができるだろう?というのは考えている。
今の仕事が直接何か役立つわけではないかもしれないけれど、周りの人には幸せになってほしい、という気持ちに嘘はない。
とはいえ、落ちこむときはあるのでそこはうまくやり過ごしているつもりだった、
というか、社会人になって1年、考え方とかも変わったりしたし、うまくやっていけるのかもしれない、と思うようになった。
でも、久々にしんどい。
いいように使われてるな、利用されているな、と思うとどうしようもなく心がすり減る。
しょうがないだろうな、と思うこともあるけど、この人には無理言っても大丈夫だろう、と思われることは
尊厳を認められていない感じがする(社会人経験が短いことは伝えてないけれど、こういう扱いはどうしてもされてしまう)
もっと経験を積めば大丈夫、今だけ我慢すれば、と思うのだけどなかなかしんどい。
しかもそれが原因となってほかの人に迷惑をかけているだろうから情けなさに拍車がかかる。
情けないなって思うのと同時に、若い女性に対しても、そういう利用してやろうという考えで接しないでほしいなという気持ち(怒り)もあるのだけれど。
怒りのほうが大きいな。
まあとにかく、恋人との関係もそうだけど、未熟者として甘えることは確かに楽だけど
それを続けていると人間として見てもらえなくなる、尊厳を失ってしまうので、
至らないことの方が多いけど、1人の人間であるという姿勢だけは失わないでいたい。そのための努力はするので。
この春そういうようなことが立て続けに起きて、疲れてしまい、GWは泣きながら過ごした。
多分ほかの人が当然と思えるものを当然と思えなくて、
あと40年も働くのか、人生が続くのか、と思うとうんざりするけど、
何とか泣きながらでも生きていこう。
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別によって殺されたようなもの。
冒頭、雨宮さんは、最近の政治のキーワード「リベラル」について「共産党は『リベラル』政党と呼んでいいのですか?」と質問しました。
小池氏は、現在の安倍政治は、戦後民主主義の到達のうえに立ってきた従来の自民党政治とも異なる「破壊の政治」だと指摘。「リベラル」は、安倍政治への対抗軸として、「個人の尊厳」を土台に、戦後民主主義の到達点に立って政治をつくるという文脈で語られているとし「そういう意味でのリベラルであれば、まさに共産党は、最も個人の自由、基本的人権を主張している政党」「筋金入りの『リベラル政党』です」と応じました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-01-27/2018012705_01_1.html