はてなキーワード: 反知性主義とは
反知性主義を間違って使ってるな
昭和の終わりから平成にかけて中高を過ごし、地元は左翼系メディアが強かったエリアなので、反自民が正義という感覚で育った。竹下首相から始まる自民バッシング、旧社会党や日本新党の躍進などもテレビで見てきた。
大学入学とともに東京に来てからはしばらく政治には興味をなくしていたが、基本はリベラル。大学の雰囲気もリベラルだし、保守については反知性主義というイメージから基本的には嫌いで、投票する時は民主系を選んでいた。当時は「自民は地方の農家、民主は都市のサラリーマンが支持層」なんて言われてた。要は自民はダサかった。
小泉以降に潮目が変わり、民主党支持層にも食い込んでくる一方で、民主党が政策での対立軸を出せなくなってきたように思う。2000年以降は改革をうたう自民党に基本的に投票してきたと思う。政権交代して以降の2011年からは、逆に旧民主が俺にとってのダサい勢力になった。ただ、俺自身は今でもリベラルだし断じて保守ではない。世の中は変わるべきだと思ってる。
ところが、最近の自民党には我慢できなくなってどうにかしたいと思ってた。安倍晋三やその取り巻きに顕著な、有権者を舐め腐った姿勢がけしからんと思うようになった。権力が腐敗している。これはどうにかせねばならんと思ってる。そんなタイミングでの今回の都知事選である。
自民はいやだ。でも旧民主も絶対にいやだ。俺はこの国を動かしてる連中に冷や水をぶっかけたいと思った。そうして彼らがヒヤリと感じて、ちょっとはまともになればそれでいいと思った。
奴らを驚かすには蓮舫ではないのは確かだ。今回は維新が出てないが、出てても維新には絶対に入れない。維新は反知性主義だ。若さと新しさだけがあればいい。そう思って石丸に入れた。石丸のことなんか知らない。ただ直前の状況を調べて石丸と蓮舫が接戦だと知っていたので、これで石丸が次点になれば、奴らを一番ビビらせられるだろうと思った。余談になるが、投票前日の夜には外山恒一の動画を見ていた。
反知性主義は「反・知識人」「反・エリート」のような意味であって、「反・科学」「反・学問」という意味ではない
国際基督教大学教授の神学者、松本あんり氏によれば、反知性主義とは知性的なものを侮蔑する態度や科学的な根拠に基づかない政策や思想でなく、権威ある知性的なエリートが権力と結びつく「知性主義」、即ち知的な特権階級に対する反発だという。「反知性主義」という言葉の名付け親は米国の歴史家、R.Hofstadterだが、米国の反知性主義は「反・知性」主義ではなく、「反・知性主義」を意味する。リベラリズムの根底にある意思力崇拝や設計主義、理想を完璧に実現することを求める完全主義に対する疑念ともいえる。この考えの根っこにはどんなに偉く知性のある人に対しても、神の下に同じ人間として平等だという宗教的価値観がある。キリスト教が育んだ反知性主義だが、当然だと思われていた古い権威を問い直し、解体していく期待や可能性も包含する。
https://www.niigatashi-ishikai.or.jp/newsletter/contribution/202104014568.html
いや、おれも知らん。
文化資本(英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。
wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC)
フランスの社会学者ピエール・ブルデュー,P.(Pierre Bourdieu, P.)とジャン=クロード・パスロン,J-C.(Jean-Claude Passeron, J-C.)が考案した概念で,人間の知識技能を資本として捉えたゲーリー・ベッカー,G.S.(Gary S. Becker, G.S.)の人的資本概念を文化領域に拡張し,貨幣や財の経済的側面のみならず,教育や文化の面において財が相続・生産・蓄積・投資される過程を説明する。文化資本は言葉遣いや立居振る舞いなどの身体化された様態,書物・絵画などの文化財所有による客体化された様態,学歴・資格によって制度化された様態からなり,それらを教育や就職など,経済的には「市場」となりうる「場=界(champ)」に投資することで,再生産戦略を可能にする物質的・象徴的な利益を引き出す。それは幼少期の家庭から相続継承され,学校教育を通じて中立的な能力証明へと変換され,社会的な地位や権力の再生産に結びつく。この概念によって,一見利害関係なく実践される文化慣習行動を,貨幣経済より広範な「象徴交換の経済」に取り込んで分析することが目指される。
コトバンク(https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC-377212)
小難しいがようするに、
という前提があって、
・金だけでなく、文化的素養や学歴、スキルなどの見えない資産も子に受け継いでいるんだ!
ということなんだな。
で、その受け継ぐ過程で使われる個人的資産(=投資のもとになるもの=資本)を文化資本というらしい。
てことは、美術館それ自体は文化資本ではないやんけ!(個人資産じゃないから)
おいおい、「文化資本」という言葉もまた、はてなーたちの反知性主義によって意味が捻じ曲げられているじゃないか。
「なんか語感がかっこいいから、意味はよくわからんけど使ってみました」じゃねーんだよ。
美術館そのものではなく、「親が美術館によく行く習慣がある」とか、そういう「家のなか」の話なんだよ、文化資本てのは。
しかも資産や社会的地位の再生産に結びついていることが前提なのであって
庶民が「お、、おれはモネの展覧会とかよく行くし?」とか「いやー、声優の舞台挨拶が家から近くていいっすわ!」とかホクホクしてるのは文化資本じゃないんだよ。単なるエンタメ消費だそれは。アホか。
「親父が社長やってたんで、起業は自分にとって自然な選択肢でしたね」ってやつだよ。
あれこそ文化資本だよな。
・・・と、こうやって知らない言葉の意味の確認すら行わない、知的誠実さ皆無のお前らが親からたいした文化資本を受け継いでいないのは明白。
地方民は「美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」とかなんとか自慢してるスノッブどもを見下していいぞ。
・適当に調べたり考えたりしてみる感じ、居住地域に美術館だとかいい学校があるだとかは社会資本の話な気がするわ
・文化資本て、「親の語彙の豊富さ」とか「親同士の会話の知的水準の高さ」とか「親が教育資格を保有していて、知的水準の高いフィードバックが日常的に得られる」とか、「社会的地位の高いオトナとの会話機会の豊富さ」とか、そういうものなんじゃねーかな
・「文化資本の定義を都市や地域に援用」とか言ってるやつ、文化資本て社会階層の再生産を説明するロジックで生まれた言葉らしいから、「都民=殿上人、地方民=下層民!」的な東京の選民思想を前提に生きてるってことになると思うんだが、大丈夫そ?
・つーか、東京のなかでも当然ながら格差や階層があるわけで、そのなかでざっくり「もとの定義は家の話だけどぉ、都市に援用すればぁ」っつってるやつは、東京の内側で生まれている格差にはどう説明をつけるんだ?東京にいるだけで文化資本の恩恵を享受できるなら、東京の内側の社会格差はその他の地域と比べて小さくないといけないはずだろう。まずはそれを示してくれ
・いい学校とか文化施設へのアクセスを高めるために東京に住む、はたしかに「その判断能力があったり意思決定をする家庭である」という意味で文化資本があるといえそう。ただ、その意思決定の内実が本当にそうなのか?というのは問いたいところではあるな。なんとなく東京で就職したとか、職場が東京だからそのまま住んでますとか、そっちが主要因なやつも多いんじゃないの?
・いくつかブコメ読んで、格差を批判する文脈でなら都市間に援用してもいい気がしてきたが・・・仮に「都市の文化資本」という概念が成り立つ場合、以下が疑問。詳しい人おしえて
1.文化資本の枠組みだけで考えると、いい学校、いい美術館などは「客体化された形態の文化資本」に分類されるはずだが、そもそもこれらは社会資本ではないか?どう整理するのか?「ハビトゥスを形成しやすい環境が東京の文化資本」と言ってるやつもいるが、わざわざ"援用"せずとも「東京は社会資本が充実してますなー」で済むんじゃないか?
2.もとの定義に照らすかぎり、文化資本=経済的な格差・階層の再生産に結びつくものなので、「他地域よりも東京を経済的・社会的に特権的地位たらしめている、東京に特異的な文化慣習行動」が「東京の文化資本」ということになる。それってなに?そんなんある?
3.ここまで考えて、いわゆる「ユダヤの商法(ほんとにあるのかしらんが)」はユダヤ人の文化資本といえそう、つまり都市という地理的な要素よりは特定の価値観を共有する集団内においてなら、文化資本という概念は家を超えて援用できそうと思ったんだけど、どうなん?