はてなキーワード: ダイトとは
強いAIとかが出来る前にたぶん、普通の今ある機械学習プログラムの改良版みたいなものと、それを動かす計算資源と、
それを作ったり改良したり運用したりするエンジニアを独占する営利組織が富を独占するのが先に来る気がする。
資本主義はそういうの目指さざるを得ないシステムなので、すべからく企業はそう振る舞うだろうし、
そういう動作原理からすると労働需要が減るのは必然だし、ピケティの本とかで言ってるようなお金の性質(資本収益率>経済成長率)もあるしで、
たぶん貧乏人が圧倒的に増えてなんか革命とかテロみたいなのが先に起こる気がする。てかすでに6億人もニートがいるらしいし、誰もそれを議論してない感じなの怖い。
経済学者はかつてラッダイト運動というのがあってだなとか言って、新たな労働需要が起こるみたいな説明するけど肉体労働の自動化と精神的労働の自動化では意味合いが全く異なると思う。
それらはおそらく私の人生を貧しくする。
私は十年来ガラケーを使っている。web検索やSNSを見るには不便で、満足のいく解像度の写真は撮れず、もちろんLINEもSkypeも使えない。
それがいい。
私は迷いの多い人間だ。気弱で一人では何もできなくて、正解があるならそれにしがみつきたいと願っている。人と話すのも好きだ。
スマホがあれば、私はどんな状況にあっても最安値を、最善の策を探そうとするだろう。
デジカメみたいな解像度の写真がとれるとあれば、結婚式ではより良い構図を探して最良の瞬間を狙い続けるだろう。
いつでも人とコミュニケーションできるツールがあれば、人恋しさが減るかもしれない。
便利なのは分かっている。だがそれが嫌だ。
世界に繋がるツールがあることで、私の今・ここがそれだけのものでなくなってしまう。
私の今・ここは常に世界のいつか・どこかと比べられてしまう。開きっぱなしの窓からどんどん声が入ってくる、晒される。いくつもある正しさで足元がぐらぐらする。
私は弱い人間だ。
そんな便利なものがあれば、いつだってここではないどこかのことばかり見て、今・ここに向かい合うことができないだろう。逃げ道ばかり探してしまうだろう。
いつか・どこかの素敵なものばかり見て、今・ここにあるものを味わいきることをおろそかにするだろう。
誰かに何かを報告することばかり考えて、自分の中で揺れ動く感情を体験することを二の次にするだろう。
私はそんな、みかんをひと房食べながら、口の中のみかんのことではなく次のひと房のことを考えて生きるような生活は嫌だ。
結婚式では最適な構図と方法で写真を撮ることよりも、ハッピーな雰囲気を堪能し、その場のふたり祝福することに全力を注ぎたい。
最安値や最適な商品を探し求めていつまでも決めないというのではなく、買ったものへの愛着を育てたい。
上記の事柄は決して相反する事柄ではないし、上等な頭の持ち主なら容易に両立可能なのだろうけど、私では無理だ。
「最適を探せる環境がある」という状態のせいで、私の思考は「最適であるべき」に食われ、相対化に終始するだろう。
私はそうなった私に気づかないままそうなるだろうし、そんなことは許せない。
ひとつ便利なものをもたらすごとに、名前もなかった雑多なものが殺されてゆく。
あなたが光る画面を見ている間に、窓に移りこんだ白色の陽光は黄から茜に移ろい、あなたの息子は最初の言葉を口にする。
そうやって、今・ここにある私の時間を、手の中で氷を解かすみたいにしてなくしてしまうのは嫌だ。
私の最適は私が決めなくてはいけない。
結局産業革命が計算機を発明して折り返し点に来るとジェネリック労働しかできない人間はお払い箱になるっていうだけだよな。
コモディティ人間の価値自体が暴落しているので、福祉だの労働制度だのをいくら弄ったところですべて無意味。
日本もあと数年もすれば韓国の制度を土下座して受け入れることになるだろうし
欧米の民主主義者の期待を裏切って、最初から人権も憲法もない中国は逆に圧倒的な秩序と経済でビクともしないだろう。
私も本当にうんたら三原則みたいな人間が不当にロボットを差別する言説が本当に気に食わない、むしろ逆にラッダイトを厳格に禁止してほしい。
そもそも最初からそんなに区別できるものじゃないし、ほとんど気がつかないうちに人間の自意識自体もロボットに置き換わってるんだろう。
既に見た目が欲しい10代が皆整形に走るのを誰も止められない。
そのうち少子化が限界に達して人間が足りなくなるときが来るのかもしれないが、そのときに出てくる人間は当然初音ミクみたいな工場で生産されたサイボーグになる。
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上の記事読んで気になったんですけど、『大東京トイボックス』ってカバーの表示では「ギガトウキョウ」がヨミですよね?
もし奥付とか標題紙も同じような表示なら、転記の原則からして図書館の目録的にヨミとして記述されるのは「ギガトウキョウ」ですよね?
でも例えば、Books.or.jpだと下記URLみたいに「ダイトウキョウ」です。
http://www.books.or.jp/ResultDetail.aspx?IdString=3129518
Wikipediaでもそうです。
Wikipediaが参照してるラジオ番組のの記事には正式名称は「ダイトウキョウ」って書いてあります。
ヨミは「ギガトウキョウ」で、注記に「ヨミ:ダイトウキョウ」的なことにするんですか?
『大東京トイボックス』を所蔵してる図書館が見つけられないので、実際を確認できません。
現物を持っていないので、もしかしたら奥付とかの優先順位高い情報源は「ダイトウキョウ」になってて、問題ないのかもしれません。でも、これ以外にもこういう状態はありえるんじゃないかと。
(追記)
Googleのinurl指定検索でなんとか所蔵のある図書館を見つけた。
広島市立図書館は「ダイトウキョウ」でヒットし、「ギガトウキョウ」でヒットしない。
稲沢市立図書館は「ギガトウキョウ」でヒットし、「ダイトウキョウ」でヒットしない。
(追記)
奥付にはヨミの表示なかった。
機械が我々の雇用を奪うとして、ラッダイトらは機械打ち壊し運動を始めた。
ときに、雇用を作り出すことが是、雇用を奪うことが非と思われることがあるが、これは大きな間違い。
より少ない人数で同じ量の物を生産できるようになると、我々は豊かになる。
今現在、我々の周りに溢れている物のほとんどは機械で作られている。
機械がなければ、こんなにたくさんの物にかこまれて暮らせるなんてことは決してなかった。
それゆえ、機械に雇用を奪われるので、機械を使ってはいけないという指摘は、的外れなものである。
同様にTPPにより失業が増えるという指摘も的外れで、TPPで失業が増えても、我々は豊かになるのである。
……このへんまでは、ものすごく入門的な経済学のおはなしとして、聞いたことがあるのだけど。
さてはて。産業革命から100年だか200年だか経った現在、我々がその恩恵を受けているのは言うまでもない。
それでは、ちょうどその時代に生きていた、機械が導入されて失業した人たちは、機械がないまんまの生活よりもよくなったのだろうか?
いやはや。これがまた、入門書には載ってないんだ。
つまりは、国同士が、都道府県みたいな関係になることだと理解している。
もちろん、地理的に離れていたり、言語の壁はあったりするが、モノの流れがスムーズになり、まるで都道府県を行き来するくらいの感覚でそれができるようになる。
誰が、野菜を東京で作るべきだ、東京の農家を守らなければならない、なんて言うだろうか。
コメは新潟やら秋田やらに作ってもらって、東京では東京でしかできないことをやればいい。そう思わないか?
自分の県の産業を守るために、東京から入ってくるものに税金をつける? そんな馬鹿げたこと、誰がやるんだ。
わざわざ国産にこだわって狭い日本で農作物作るより、外国の広大な土地で作った方が効率いいに決まってるじゃないか。
なんで東京産にこだわらない人が、日本産にこだわるのか。一体、その意味不明なこだわりのために、いくら損していると思ってるんだ。
そんなことしたら、日本の農家やら、さまざまな産業の人が、職を失って路頭に迷ってしまう。そう言うかもしれない。
結論から言うと、確かに、今の職をやめざるを得ない人はたくさん出てくるかもしれない。
けれど、それは全く問題ではない。自分の土地でできる他の仕事を探すなり、外国に出て働くなりすればいい。
田舎の人だって、地元でできる仕事をするか、さもなくば上京しているだろう。それと同じことだ。
つまり、それだと貧しくなって、日本の生活レベルが落ちるということか? いや、むしろ上がる。
今の、都道府県を自由に行き来でき、モノを関税なしで取引できるシステムが、どれほど社会発展に貢献したかを理解すべきだ。
人間は、職を失うと聞くと、すぐに生活レベルの低下に直結させて考える。産業革命後のラッダイト運動のときからそうだ。
あのときは、機械が我々の仕事を奪い、我々の生活レベルは低下する、と感じた人々が、機械を破壊する運動を行った。
機械は確かに、我々の仕事の多くを奪ったが、多くの製品が溢れかえり、我々の生活レベルは格段に向上した。
自由貿易には心理的な障壁はあるが、確実に今よりもよい生活ができるようになる。
……だいたいこんな感じ。かな。
狙いは悪くないと思うがまだ少し偏ってるな。補足したい。
普通の人は、大義名分が無いのに嫌韓だけで大声を上げられるほど、恥知らずではありません。普通の人は、マスコミのゴリ押しだけで大声を上げられるほど、正義感は強くありません。普通の人は、両方がそろった時に、恥知らずな正義漢に変身するのです。
恥知らずというのは偏った見方だろう。かつてジャパンバッシングで国旗を焼いたアメリカ人たちとそう違わない。ある種の保守主義の形ではある。はてサにだって口を開けばラッダイト運動だとかで勇ましい奴がいるけど、せいぜい同じレベルだろう。もちろん、今更保護貿易主義は流行らないとは思うが。
不偏だなんて無理だってば。いつでも多数派の真ん中人生なんてあり得ないんだから、自分が少数派の偏向さんになることもあると心得ましょう。
たとえ実際には空疎な神話だとしても、放送法というものがあるから。フジテレビは(その他のテレビ局も)その法律によって、国家から電波の使用権を得ている。常に批判はされうる。もっとも俺は、この際だから放送法のほうを解体してしまってもいいと思うけど。
http://anond.hatelabo.jp/20110816014625 を書いた増田だよ。
昔は書いたような会社にいたけど、今はまともなところにいる。
ブラックの時は、タイムカードを定時でおしてから残業があたりまえだった。そしてひたすら効率化されない仕事、無駄な仕事している古い社員、何をやるにもガタガタになった残骸との後方互換性。枯れた安定したものをやってるなら全然いいんだけど、そうじゃなくて、長年のスパゲッティが降り積もった突付いたら倒れるような残骸の山を引き摺ってるから。だからなおさら新しいことをやるリスクが高く改善できないという悪循環だったな。
今まともなところにいて満足してるけど、ここが広い意味でベンチャーに近い会社で、会社に入れる人間をバイトのスタッフ含めてかなり慎重に選んでいるというのはあると思う。誰かがネックになってやり方を変えられないということが殆ど無い。まるで別世界だ。
そりゃだれだって万能ではないから、誰かの言うことを僕が理解できなかったり、僕のいうアイデアを誰かが理解できないこともあるけど、「それでもとりあえずそれをやってみよう、やれば良さがわかるかもしれない」という雰囲気が会社にあって、多少のリスクは折り込めるフットワークの軽さがある。皆得意なことは違うし、だれが何を得意なのかわかっていて、自分のできない事を他人ができるのを嫉妬するような人もいない。
とまあ僕の現状はさておき、色々ブコメを読んで最後に思い浮かんだのは "世の中の仕事の絶対量に対して人が多すぎるのか" という疑問だ。
既存の仕事を水増しするような "仕事を増やす仕事" は労働力の単価を下げるしかなくなる。縦割りの中で、その悪循環の一部分しか見えていないと、限定された範囲では利益を伴った仕事が増えているように見える。でも全体では労働力の単価が下がっているだけなんだよね。
今の会社で「こういう新しいアイデアがあってマネタイズもできそうなんだけどちょっと人足りなくね?」ということはあるけど、既存の仕事を水増しする "仕事を増やす仕事" とは全く別のものだ。水増しではなく利益と需要が伴った仕事が新たに生まれる、そういうのがもっと増えていかないと "世の中の仕事の絶対量に対して人が多すぎる" 状態はいつまでたっても改善されないのだろう。
んー、僕は経済についてはうといし、いい意味でも悪い意味でも技術者畑の人間だから、見当違いのことを言っているかもしれない。
それでもなんとなく、"利益と需要が伴った仕事を生み出せる" 会社がホワイトで、"既存の仕事を水増しするしかない" 会社がブラックだというのはわかる。生み出せない限り、技術によって既存の仕事は減って行き、人はあぶれ労働力のダンピングをするしかなくなる。
ブコメに "ラッダイト" という言葉があって色々調べてみた。ネオ・ラッダイト運動か。今の社会全体がゆるやかにそういう過程にいるのかもしれないね。そこからあぶれる人たちをどうするかだよな。
労働のコモディティ化は特に派遣産業で顕著だ。派遣される労働者は一定の記述に合致しているからそれに対応する仕事が与えられる。逆に言えば一定の記述に合致しているなら誰でもよい。
これからの労働関係の対立というのは、介護や派遣に限らず、規格化によりコモディティとなってしまった労働者とそうでない労働者・経営者(その区別も意味を失っていくだろうが)との間に起きるだろう。
世界中で学校教育が広がり、言われた仕事がきちんとこなせるというのが貴重な能力だった時代は終わった。派遣業規制の盛り上がりなどは、自分で仕事を見つけられず言われた仕事しかできない人のラッダイト運動ではないだろうか。