はてなキーワード: 神坂一とは
1巻だけでいいかなとオモタ
アニメの脚本かと思うくらいスカスカな中盤まで、と一気に設定垂れ流してくる後半のバランス悪い
まあ後半の帳尻合わせがなければ、中盤あたりまでの出来なら賞とるのはむずかしかっただろうなと思う感じ
90-00年代の電撃文庫の文字の小ささと説明過多をラノベだと思ってると、まじでライトもライトでびっくりする
ランスっぽさを感じた
とりあえず読んでみる経験はできたのでよかったと思うけど、
読んで良かったとおもえるほど面白くはなかった すまん
今年と来年の冬アニメ。共に前世紀スタートの長期シリーズであるライトノベル二作が再アニメ化される。
原作開始と初アニメ化にそれぞれ数年の開きがあるし、ジャンルは異世界ファンタジーと現代SF風味異能、オーフェンが出版社(レーベル)を富士見ファンタジア(KADOKAWA)からTOブックスに移籍した一方、ブギーポップは一貫して電撃(KADOKAWA)から刊行し続けている……
といった細々した違いは存在するものの、テン年代および令和の視点から言えば、大雑把に「かつてアニメ化された昔の人気ラノベ」と括ってしまってもいいだろう。ブギーポップの新作アニメは今年の1月から3月まで1クール18話が放送され、ちょうど一年をおいて来年の1月にオーフェンが放送開始予定となっている。
さて、上に掲げたタイトルについて。ここでの「差」というのは作品自体の評価ではなく、あくまで今のアニメおよびその関連企画の成功度合いについての話だが、果たしてどちらが格上なのか。
はっきり言ってしまうと、オーフェンが上、ブギーポップが下だ。現時点で既にオーフェンの新アニメ化企画は、原作読者の盛り上がりの点でブギーポップを大きくリードしているように見える。
オーフェンは肝心のアニメがまだ始まってすらいないというのに、なぜそんなことが言えるのか。アニメとその周辺における、両作品の「差」を見ていこう。
今回のアニメに合わせたブギーポップのコミカライズは、アニメ化発表のほぼ直後から開始。アニメ化の範囲である「VSイマジネーター」「夜明けのブギーポップ」の2エピソードが、それぞれ異なる作家により漫画化された。「イマジネーター」の方は、上下巻構成である原作の、上巻にあたる部分までをベースにした内容になっている(打ち切りなのか当初の予定通りなのかは不明)
作品としての出来自体は、いずれも適度に省略・再構成しつつ原作をなぞり、ビジュアル面ではアニメとも異なる独自の解釈が随所に見られるという、手堅い造りになってはいる。のだが、どうせならアニメ化しない人気エピソード、特に「パンドラ」「ペパーミントの魔術師」あたりをやって補完しても良かったのに、という気持ちもある。アニメ2期にでも回すつもりだったのかなあ……取らぬ狸の……
片やオーフェンの新規コミカライズは3本。本編と言える長編シリーズの「はぐれ旅」、短編コメディの「無謀編」、そして旧版では無謀編の一部だった「プレ編」が、やはりそれぞれ別の作家の手で描かれた。
作品数がブギーポップを上回っていること自体は、それほど大きなアドバンテージでもないだろう。特筆すべきは、「無謀編」の担当作家が、あのファンタジーコメディ「エルフを狩るモノたち」の矢上裕だということだ。
いや、実のところ自分はちゃんと読んだことはないけれど、それでも名前は知っているぐらいには有名な作品であり作家である。アニメ化もされたし。
もちろん、何でもかんでも有名ベテラン作家を連れてくればいいというものではないが、これに関しては、代表作の連載時期が富士見時代のオーフェンと重なっている同時代性や、コメディである無謀編との相性の良さからか、原作読者の反応も上々な人選だったようだ。
ベストマッチなビッグネームの起用でオーフェンがやや有利といったところだが、ここはまだ比較的、両作の差が小さい分野と言える。
ブギーポップはアニメ化に合わせる形で、アニメ化範囲の原作5巻を新装版(単行本)で刊行している。表紙を含むイラストはオリジナルのイラストレーターによる新規描きおろし。また、分量はごく短いあとがき程度のものだが、本文にも書き下ろしがある。
旧アニメと同時期に原作イラストレーター自ら手がけた、原作1巻「笑わない」のコミカライズもやはり新装版で再刊。最初の予定ではアニメ放送中に合わせるはずだった?のが、たび重なる延期で結局放送終了後になったものの、原作本編の新刊も一応出ている。
アニメ化作品の出版社側の動きとして、ノルマは十分以上に果たしているとは言えるだろう。が、優等生的な物足りなさを少々覚えてしまうのは自分だけだろうか。
それに対しオーフェンは、旧シリーズの新装版は数年前すでに刊行済み。TOブックス移籍後の新シリーズも本編はほぼ文庫化完了していたが、新シリーズの「番外編」と旧作「プレ編」が、それぞれ2巻ずつアニメ化発表後に文庫化されている。
また、アニメ開始目前の来月末には新作長編が出る予定も……と、この辺まではブギーポップとそんなに変わらない順当なラインナップとなっている。だがオーフェンにはもう一つ、目玉と言える一冊がある。
その名の通り、オーフェンに縁のある有名作家たちによる、公式二次創作?短編集。歴史のあるシリーズだけあって執筆陣もそうそうたるメンバーがそろっている。
「スレイヤーズ」の神坂一!(旧シリーズ時代には富士見の二枚看板。オーフェン作者と合作の経験もあり )
アニメ絶賛放送中!「本好きの下剋上」の香月美夜!(TOブックス仲間)
「デート・ア・ライブ」の橘公司!(ドラゴンマガジンにオーフェン短編を掲載したことも)
「僕は友達が少ない」「妹さえいればいい。」 の平坂読!(よく知らないがオーフェン好きなの?)
と、いっそ胸焼けを起こしそうなほどの豪華さだ。参った参った。
実のところ、ラノベがアニメ化する際などに他の有名作家を集めてこのような公式アンソロジーを出すことは、そこまで珍しいわけでもない。刊行期間の長い古参シリーズの場合はなおさらだ。それこそオーフェンの作者自身『スレイヤーズ 25周年あんそろじー』に寄稿しているし、最近の例では他に『されど罪人は竜と踊る: オルケストラ 』などもあった。
だからこそ、アンソロジーはもはや、出せる時にはとりあえず出しておくべき記念品みたいなものだと思うのだが……何でブギーポップは出さなかったんだろうか?あれだけ業界への大きな影響が(「〜以前・〜以降」だのと実態よりも過剰なほどに)強調して語られ、読者だったことを公言している現役人気作家もそれなりの数が存在しているシリーズだというのに。もったいないとしか言いようがない。
一応ブギーポップ側には、原作の出版社であるKADOKAWA以外なので厳密に言えばアニメ連動の出版ではないが(敢えて言うなら便乗)、批評誌「ユリイカ」での作者特集というものもあった。これも最初に企画を知った時には、公式アンソロジーと同じぐらいのインパクトを感じたし、実際インタビューや対談、書き下ろしの「竹泡対談」(読者にはお馴染みの会話形式SS)など、ファンにとって素直に価値のある部分も存在した。
ただ正直、作者本人以外の執筆陣がちょっと……それぞれの知名度や実績自体に問題があるわけではないんだけど、ブギーポップやその作者を語ってもらう時になぜ敢えてこれ?と疑問が残る人選で……言葉を選ばずに言うと、なんで西尾維新呼ばねぇの?ってこと。他のメフィスト賞作家は3人もいるのに!
どうも全体的に、ユリイカに呼びやすい人材の中で、ブギーポップというかラノベについてまあ知っていないこともないぐらいの人々(&新アニメ関係者)をなんとな〜く集めたような、芯の定まらない生ぬるい印象を受ける特集になっていた。これではとても、夢の公式アンソロジーの代替にはなり得ない。
(ちなみに本拠地である電撃文庫のライトノベル誌「電撃文庫MAGAZINE」でもアニメ放送中にブギーポップ特集が掲載されたが、これはユリイカなど及びもつかない完全にスッカスカで虚夢of虚夢な内容だったらしい(自分は他人の評判を聞いて回避した))
オーフェンはアニメに先駆けて、今年の8月と11月に「舞台版」の公演を二度行っている。いわゆる2.5次元だ。
異世界ファンタジーというジャンル、そしてラノベの中でもセリフや行動には直接表れない微妙な感情や設定が特に多い原作という、2.5次元素人の感覚からするとかなり難しそうな題材ながら、ツイッター等での反応を見るに原作ファンには大好評だったようだ。客の入りなどの数字的なことは不明だが、生身の人間がラノベキャラを演じ、実際に観た読者をあれだけ満足させられたのなら、それだけで大成功と言っていいだろう。
また、スレイヤーズやフルメタルパニックと共に「富士見ファンタジア文庫レジェンド」の一つという扱いではあるものの、オーフェンはあの「パズル&ドラゴンズ」でのコラボ参戦も果たしている。今や、オタクカルチャーにおいてアニメに匹敵するほどの存在感を持つスマホゲーム。その中でもいまだトップクラスの人気&売上を誇るパズドラとのコラボなのだから、これはもう勝ち組と言わざるを得ない。
さて、そういったイベントめいた展開がブギーポップの方にも何かあっただろうか。
KADOKAWAラノベ原作アニメは、放送中のコラボ率がわりと高いので期待していたのだが……。後述するキャラデザイン変更の問題により、原作版とアニメ版どちらでの参戦になっても角が立つからという理由でどこも二の足を踏んだ、のかもしれない(あくまで憶測)
それ以外では……そう、「“不気味な色”グミ」の配布会があった!
TVアニメ「ブギーポップは笑わない」で、「夜明けのブギーポップ」編全4話を一挙放送する2時間特番が決定!それを記念して、アニメイト秋葉原店頭にて「“不気味な色”グミ」&「特製ポストカード」セットの配布会を開催致します
いや〜行きたかったな〜、「“不気味な色”グミ」配布会!首都圏に住んでたらな〜!どんな味がしたんだろう「“不気味な色”グミ」!
ところで……「“不気味な色”グミ」って、何?(不気味=ブギーというキーワード以外特に原作とは関係がない)
それから、「“不気味な色”入浴剤」の配布会も忘れてはいけない。
アニメイト秋葉原本館でTVアニメ「ブギーポップは笑わない」のオンリーショップが開催決定!それを記念して、アニメイト秋葉原本館店頭にて「“不気味な色”入浴剤」&「特製ミニキャラカード」セットの配布会を開催致します
いや〜行きたかったな〜、「“不気味な色”入浴剤」配布会!首都圏に住んでたらな〜!どんな効能があったんだろう「“不気味な色”入浴剤」!
…………「“不気味な色”入浴剤」って、何???(原作無関係だが合成促進剤の風呂だと思って入ると楽しそう)
別に、「“不気味な色”グミ」や「“不気味な色”入浴剤」が必ずしも悪いということではない。いっそ「“不気味な色”まんじゅう」通称「ぶきまん」も作り、調子に乗って事業を拡大させ経営破綻に陥ったっていい。
ただ、そういう飛び道具的なネタは、「ファンが普通に喜ぶこと」を一通りやった上で、ダメ押しとして追加するのが筋ではないだろうか。
2.5次元やスマホゲーコラボだけがファンへのサービスとして正解ではないのはもちろんだ(ブギーポップは意外に2.5次元素材としては向いてるんじゃないかとは思うが)。それでも、グミや入浴剤の前にはやれること、やるべきことが他にいくらでもあったのでは、とつい思ってしまう。
公開済みのPVやキービジュアルなどを見る限り、今回のオーフェンアニメ化においては、単に基本的なデザインを踏襲するのみならず、原作イラストのテイストをかなり強く意識した画作りがされているようだ。これは周辺のメディア展開も同様で、前述のパズドラコラボにおいても原作イラストレーター自身がオーフェンのキャラ絵を一枚描きおろしている。
一方ブギーポップはアニメ化にあたって、「ブギーポップ」のコスチューム以外のほとんどのキャラクターデザインを、原作イラストとは別に本編での描写から新規に設定し直している。分かりやすいところでは、原作ではセーラー服だったメインキャラの制服がブレザーになったりしている。
このデザイン変更をめぐって、原作イラストレーターとアニメ制作会社との間でトラブルがあったことは周知の事実だろうから、今さらここで改めて説明はしない。
自分はこのデザイン変更自体は、他の多くの人々が考えるほどには、作品の致命的な傷だとは思っていない。たしかに原作ラノベの魅力にあのイラストが大きく関わっているのは事実だが、一つのアニメ作品として考えた時に、絶対に何があろうと譲れないポイントである、とまでは言い切れない。ラノベといえども小説であり本体はあくまで文章なので、ストーリー等の変更の方が重大な問題だ。
ただ、オリジナルストーリーだった前アニメに対し今回は原作をなぞるという基本方針のアニメ化において、わざわざ「原作通り」から外れる要素を持ち込むのであれば、それなりの根拠が必要にはなるだろう。変えるなら変えるで、原作イラストよりも明確に“カッコイイ”とか“カワイイ”といった、意図や売りが伝わるデザインであってほしい。
殘念ながら実際のアニメ版デザインからは、「なぜコレなのか」が感じ取れることは少なかった。敢えて言うなら、ややリアルに寄せたということにはなるのだろうが……「歪曲王」の耳が異常にデカい母子とか何がしたかったんだろう……
今回のブギーポップのアニメを原作エピソード単位で見た時に、世間一般での評価が最も厳しかったのは、やはり最初の「ブギーポップは笑わない」編だろう。
ただでさえ原作小説1巻を3話で消化する尺に余裕のない状況なのに、よりによって「間」を大事にする演出を選択してしまったせいで原作のセリフが大幅にカット。また、一つの出来事がそれぞれ別の人物の視点から語られる各章からなる原作を、なぜか更に視点が細かく移動し時系列が前後する構成に変更してしまったため、複雑さが無駄に加速することに。
これらはむしろ、原作読者よりも初見の視聴者の方に影響が大きく、キャラクターの感情について行けないとか、今のシーンがいつの出来事なのか分からなくて混乱するといった声が多く見られた。
そして何より、クライマックスのシーンでブギーポップがトレードマークである「口笛」を吹かないという、信じがたい改変。これには原作読者が大いに驚愕することになった。悪い意味で。
出合い頭で深い不信感を植え付けられたせいか、あるいは単にそのまま視聴者が大量に離れたのか。後半に、特番枠で4話一挙放送された「夜明けのブギーポップ」のような名エピソードが存在しても、作品全体の低評化は結局最後まで覆すことができないまま終わってしまった。
繰り返しになるが、オーフェンの方はまだアニメが放送開始していない上に、どういった構成になるのかも正式には判明していない。だがもしも大方の予想通り、順当に原作長編の一作目『我が呼び声に応えよ獣』を最初に持ってくるのであれば、やはりこのファーストエピソードの出来がアニメ化の成否を大きく左右することになるだろう。
原作ファンは、普通にやれば普通によく出来てるはずのこの話に、「口笛を吹かない」に匹敵するレベルの大大大チョンボ改変が混入しないことを祈っておくといい。でも、『獣』でそのぐらいクリティカルなポイントって何があるかな。「ブラックタイガー」のカットとか?
(続き)
●追記 2018/08/22 二回目
沢山集まって感謝!古めの作品も集まってて、厚みのあるラインナップになってると思う。
とりあえず、あらすじで気になった本の1巻をkindleで買ってみる。
けど、全く見やすくなってないなw
暇をみてジャンル別、作者別、巻数別あたりに分けたい。
不戦無敵の影殺師
この恋と、その未来
七日の喰い神
偽る神のスナイパー
すずみんは肉食系火竜
Tとパンツとイイ話
変幻の地のディルヴィシュ
モノケロスの魔杖は穿つ
さよならピアノソナタ
サイコメ
ジョン平とぼくと
晴れた空にくじら
約束の方舟
森の魔獣に花束を
平浦ファミリズム
貴子潤一郎の「眠り姫」
扉の外
雨の日のアイリス
シャンク!!シリーズ
巡ル結魂者
リーンの翼
ドラゴンランス戦記
書きかけのラブレター
海が聞こえる
空ノ鐘が響く惑星で
鳥籠荘の今日も眠たい住人たち
ぼぎわんが、来る
平井骸惚此中ニ有リ
〈本の姫〉は謳う
90年代末。
アニメのドラゴンボールが終了。セーラームーンも終了。ガンダムはXで休止。勇者シリーズも終了した。
エヴァのあと、次なる大ヒットを出せないまま、平日夕方のアニメ枠は縮小していく。
ビバップ、ウテナ、lainなどは現在でもカルト的な人気を誇るが、決してエヴァに並ぶヒットとは言えないだろう。
またアニメの原作供給源たる漫画業界でも、週刊少年ジャンプが暗黒期を迎えていたのがこの時期だった。
2000年代前半。
夕方から深夜への移行期ということが大きいのだろう、オタクのあいだで話題になった作品が圧倒的に少ない。
ONE PIECE、NARUTO、BLEACHの新ジャンプ御三家を除けば、あとはガンダムSEEDと攻殻機動隊SACくらいではないか。
ハルヒ、らきすた、けいおん、ギアス、マクロスF、禁書目録、化物語……
2000年代のアニメと言われて思い出すような作品はほとんどが後半のものである。
この1990年代末から2000年代前半という時期は、まさにエロゲ全盛期に当てはまる。
雫が96年、ToHeartが97年、 ONEが98年、Kanonが99年。
そしてデータによれば、2004年ごろからエロゲ市場は縮小の一途だという。
このエロゲの衰退はラノベに取って代わられたからだという意見も聞くが、
ラノベの本格的な流行は2006年の涼宮ハルヒの憂鬱のヒットまで待たねばならない。
一方で、深夜アニメの放映本数が急激に伸びはじめたのは、まさに2004年ごろなのである。
http://www.videor.co.jp/casestudies/research/tv/2013/images/04_2_2.png
エヴァによって目覚めたオタクたちが、アニメの停滞から一時的にエロゲに雪崩れ込んだが、
やがてアニメは復活し、それに伴ってオタクたちもアニメに帰還した――
という仮説を立てたので誰か検証してください。
本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。
著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割を果たしている。
我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。
著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能を果たしてきた。
しかし、ライトノベルの著者近影は現在、近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。
その変遷には作品と作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。
収集したサンプルは以下の通りに分類した。
1、顔が鮮明に映っている。
4、イラストを使用している。
これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。
一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。
けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。
その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。
現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。
メディア論の重要な批評家であるヴァルター・ベンヤミンは肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。
近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。
しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。
1サンプルとして。
一応、はじめに俺の読書傾向を書いとく。質問の答だけ知りたいなら読み飛ばして欲しい。
俺はラノベ読み始めた時点でスレイヤーズの本編は完結していたしていたくらいの世代。
はじめは主に富士見ファンタジアで神坂一とか榊一郎とか賀東招二とか鏡貴也とか読んでたけど、
ドラゴンマガジンの判型が変わった頃から電撃に重心が移動した感じ。
この頃から、ラノベ以外の小説もよく読むようになった。並行してメフィスト系とファウスト系も読んでた。
最近の作家はあんまり読んでなくて、アクセル・ワールドあたりがたぶん俺が知ってる一番デビューが最近の作家。
読むけど、基本的にエンタメ小説しか読まない。ジャンル的にはミステリィやSFが多い。
ただ、ラノベ以外と言ってもハヤカワSFや角川文庫、MW文庫の、比較的ラノベに近いところが多い。
野尻抱介や森博嗣や田中芳樹をラノベと主張されると、ほぼラノベしか読んでないかも。
なんというか、「ラノベっぽさ」みたいなあいまいな尺度があって、
「誰がどう見てもラノベ」から「誰がどう見てもラノベじゃない」を両端として、間にグラデーションがある感じ。
そういうのが別にあっても良いと思う。
全部がそういうのになるとジャンルは廃れるんじゃないかなーと余計な心配をしてしまう。
あと、パロディだと気づかずに読んでることもある。読んでおもしろければなんでも良い。
「ミステリィ」「SF」「時代小説」……みたいなジャンルの1つとして「ラノベ」があるわけではないと思う。
ラノベ/ラノベじゃないという分類と、ミステリィ/SF/時代小説/……みたいな分類が別にある。
そんな私が昔ネットで印象に残ったサイトにオカノ通信というwebサイトがあった。まぁ今もあるけど。
ネットで・リアルで(コミケで知り合った人など)自分より上の世代から聞かされた話として、やはり『宮崎勤事件は大きな転機だった』と言われる。その過程で、都市伝説なのか事実なのか知らないが「TV局がコミケに取材に来て、『ここに数万人の宮崎勤がいます』と言った」という話も聞いた。
オカノ通信の人はその辺の経験談を回想している。
「89年8月」に起きた宮崎事件を契機に、現在オタクとされている人たちと“場”は、社会の中で致命的に追いやられていったからに他なりません。
80年代に一度「アニメが好きだ」とかそういうことがオープンになりつつあったにもかかわらず、それらは潰され、再び人前でカミングアウトすることが難しい趣味になってしまった。
それくらいあの事件の中で繰り広げられたマスコミの、「魔女狩り」としか例えようがない報道や論旨の展開は大きな影響を残してしまった。
そういう中で90年代中盤には『エヴァブーム』が起こり、再び今度は別の意味で僕らが注目された。
けど、やっぱり外の人たちにしてみれば、なんであんなブームが起こって、どういう人たちがそれを喜んでいるのかがよくわからない。
(一方僕らはパソコン通信時代の中で、新たな独自のコミュニティと繋がりを持ちはじめていたわけですが、これはまた話がズレていくので割愛します。そもそもパソ通時代のコミュニティについては他にいくらでももっと詳しく書かれておられる方がいますし。)
そういった(今なんかとは比べ物にならないくらい酷い)蔑みと偏見。同時に湧いて出た注目というアンビバレンツで微妙な状況下で、「オタクという場の中にいるオタク自身が、外の人に“オタク”を説明したメディア」ってのは『オタク学入門』が世界初だった。
「あの本はオタクを過大に評価している」って批判も読んだことあるけど、当たり前です。
そういう時代背景の中で「後ろめたい趣味であることを前提にそれを肯定する」なら、「徹底的に過剰評価した理論武装と、プレゼンテーション。そしてプロパガンダ的な要素」は必要だった。
私自身はそこまでオタク=犯罪者予備軍的扱いはされたことがなかったけど、『男で恋愛物・少女マンガ好き=男として格下』という偏見くらいには遭ったことがある。そういう空気が、2chが出来て、ニコニコ動画が出来て、海外でもオタクが認知されるようになって、どんどん変わっていったようには思う。それこそ、ローソンが人気アニメとコラボするなんて10年前じゃ考えられなかった。長者番付の作家部門に神坂一が顔を出し、読み上げたアナウンサーが『この人誰?』と言っていたような、そんな時代だった。
ガンダム・マクロスからの流れでやってる人と、セーラームーンやエヴァンゲリオンで入ってきたひとには確実に意識のギャップがあるし、それはおそらく宮崎事件のせい。ハルヒ・らきすた世代とはやはりギャップを感じることがあるけど、そっちはたぶんネットの普及のせいだと思う(つかこの世代のコミュニケーションに於いて2chの影響は確実にある)
でもさ、今みたいに、深夜にしかアニメがやって無くたってどうせ地上波TV自体がオワコンとなりつつあるわけだし、けいおんで誰萌えかという話を堂々としたって確実に昔ほどは変な目で見られない。そういう時代って、70年代・80年代にオタクだった世代がまさに望んだ世界だったんじゃないかと思う。
以下、チラ裏。
結局は金。例えば桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」。富士見ミステリー文庫版では500円。3年後に再版されたハードカバー版では1400円。さらにラノベはイラストレータと印税が折半になるので1冊当り25円の印税。ハードカバーなら10%で140円の印税。ライトノベルレーベルから出た文庫だと、6冊売れてようやくハードカバー1冊分の印税になる。
「中高生が対象なんだから単価の低い文庫で出すのは当たり前」って言う人もいるだろうけど、でもラノベ界で一番売れている(という言われている)西尾維新の主戦場は、単価がやや高い講談社ノベルスやハードカバー並みの単価の講談社BOX。これを考えると、文庫が主戦場だったのに長者番付の常連だった神坂一て、ものすごい売れてたんだなって思う。「文学少女」の野村美月ですら未だにバイトしているっていうし。
さらに一般文芸作家には文学賞がある。直木賞・吉川英治文学新人賞・山本周五郎賞・推理作家協会賞、あと純文学では三島由紀夫賞(芥川賞はラノベ作家には本当に関係に無い文学賞なので除外)。これらは賞金が出る上に、受賞すると普段本を買わないような人まで買ってくれる効果がある。ラノベもアニメ化すれば同じような効果があるだろうけど、深夜アニメと直木賞、どっちが効果があるかは自明だろう。
さらにこれらの文学賞を受賞すると、地方から講演の仕事が舞い込む。これが1時間ぐらい話すだけで100万円ぐらいもらえるというからバカに出来ない。また、ある程度キャリアを積めば新人賞や各文学賞の選考委員になれて、それも収入源となる。純文学系の老作家の主な収入源はそれ(メッタ斬りコンビや福田和也が批判している、大作家の福利厚生)。残念ながらラノベには、まだそこまでのシステムはない。
角川スニーカー文庫が創刊してもう20年以上経つけど、創刊からずっと書き続けている作家ってどのぐらいいいる?50代で現役のラノベ作家は?しいて言えば、田中芳樹が現役といえなくもないけど、彼は遅筆というよりも才能が枯渇しているせいでまともに小説を完結できなくなっているように見える。
資料をあたる能力と知識が必要なファンタジーやSFならば、ある程度年をとってもかけるだろうけど、今日日流行の学園モノって40過ぎたおっさんおばさんが、主要な読者層である10代の若者が納得するように書けるんだろうか。ここ数年で一般文芸に転向した作家たちは、皆1970年代生まれ、いよいよ「若い感性」というライトノベルにとって必要なものが喪失し始め、小説的技術を身につけた作家が転向しているんだと思う。そういえば、2年以上発売延期している谷川流も70年代生まれだった。多分彼もラノベ界を去るつもりなんだろう。
以上、思いつく限り。
かれは当時26歳、高校中退だそうだ。
ふたつ趣味があるらしい。
暗い非モテかと思うかもしれないが、かなりのカワイイ系イケメンだった。
身長は180ぐらいあった。ファッションもおしゃれで、ブーツを履いていた。
背が低い男が、無理にブーツを履いているのとは違い、とても似合っていた。
だが声が小さかった。というか、全体的に控えめな印象だった。
体の大きさのわりに、存在感が薄かった。
今まで女性と付き合ったことはないらしい。
甘やかされて育ったのかと思っていたが、そうではない。
「作業は単純だったけど、仕事が終わると妙な疲れがあった」と言っていた。いまは無職。
兄が一人いるらしいが、とび職だと言っていた。パチンコ狂いで、貯金はないらしい。
そんなDQNな家庭の子なんて、どんなDQNかと思うかもしれない。
バイトで事務作業を手伝ってもらったが、エクセルなどの使い方もすぐに覚えていた。
家にパソコンはないらしい。しかし、速度は遅いながら、タッチタイピングもできたいた。
公共の施設などに通って、練習したそうだ。
今までやった仕事は、ほとんど工場の単純作業か清掃だったらしい。
年をとってきたので、事務の仕事をしたいと言っていた。
だが高校中退なので、なかなか厳しいのだそうだ。
「けど、しょうがないですね」と、彼は淡々と言った。
それから私は森博嗣を読み始めるようになった。私は色んなものの子供で、それもわかり良すぎるほどの素直さで受け売りを自分の意見とするような感じ。素朴なのかもしれなかった。
北村薫と宮部みゆきの子供は元は、神坂一の子供で、秋田禎信の弟であった。大森望は私のおじさんであって、そこからミステリ、新本格に入っていったところ、その作品たちのミステリという枠組みの捉え方がクラシック音楽のそれと似ていて、行き詰まりかどうかは別としても、受け手にもいろいろと勉強が求められるようになっている、その共通が面白かった。
私は今、アメリカ風の直截にコンサイスに喋り、書くことを求められていて、またその指導さえしているけれどこのようなつらつらと書くことを忘れられないのは、日本文化の下の日本人だからでしょうか。そうではなく、忘れる日が来るのでしょうか。
゛
話がそれたけれど、創作の文章があって、そして日記の言葉があって、同じことの繰り返しであっても毎日を知りたいと思う。
なぜだろうか現実世間への言及はほとんどない人だけれど、なぜだろうか寂しさかどうかももうわからない。
+
追憶とノスタルジーの中で生きることを私はきっと、小学生のころに知っていた。ランドセルの中に入るのか入らないのか。いずれにせよ今はもう入らない。
元増田のエントリを読んだら甘酸っぱい気持ちがこみあげてきた。
中学から大学までは本当に本が好きだった。当時は毎日本屋に行ってて、ラノベばっかりだけどたくさん本を買っていた。今でも当時買ってた本の記録がテキストファイルで残っている。
SFなら野尻抱介、森岡浩之、秋山瑞人、秋山完、笹本祐一あたりが好きだった。田中哲弥もSFだっけ? 大久保町は面白かった。野尻抱介のクレギオンシリーズ最高。最近アニメになった時をかける少女は高畑京一郎のタイム・リープを思い出しながら見てた。あ、あと比較的最近読んだのだとマルドゥック・スクランブルも面白かったな。
ファンタジーは小野不由美、久美沙織、三浦真奈美、荻原規子、水野良、茅田砂胡、ひかわ玲子。三浦真奈美の風のケアルの主人公が空飛んでるところの描写が好き。久美沙織のドラゴンファームシリーズまた読みたくなってきた……。
ミステリは綾辻行人、西澤保彦、東野圭吾、森博嗣、北村薫、米澤穂信あたり。東野圭吾は映画化やらドラマ化やら今でも大人気だね。京極夏彦は姑獲鳥の夏しか読んでない。とみなが貴和のEDGEシリーズ今でも続いてるのかな? メタミステリっぽいのは苦手だった。
ホラーは貴志祐介や鈴木光司とか。SFとの区別がつきにくい作品も多かった気がする。
その他のラノベの読書暦を遡っていくと、上遠野浩平、麻生俊平、秋田禎信、神坂一、深沢美潮とか。ブギーポップはサイト作るくらい好きだったよ。パンドラは読んでてゾクゾクきた。滝川羊の風の白猿神はどうなった?
ほかには田中芳樹、乙一、恩田陸、五條瑛、氷室冴子、谷山由紀。マイナーだと思うけど藤原京の邪眼シリーズが今でも妙に印象に残ってる。ゲームのメガテンシリーズが好きならおすすめ。手に入らないだろうけど。