はてなキーワード: ランドセルとは
季節の変わり目なのか、何だかここのところ鼻をかむことが多くなり
耳に違和感を覚えた。
トンネルに入ったときに「ツーン」となるあの感覚が2~3日続き、
若干聞こえずらいし、自分の声が響いて気持ち悪いし、平衡感覚もちょっとおかしくなり……。
もともとアレルギー性鼻炎持ちではあるのだけど、なかなか治らないし、
「何か炎症起こしてたりしたら嫌だなぁ……」と思って、
ベビーカーで受診しに来た子や、ランドセルをしょった子、待ち時間に本を読んでもらってる子などなど。
自分の番になり、額帯鏡を付けた医者に、診察され鼻に管を通されて、
「そう言えば昔、母にああやって連れられてきたなぁ、耳鼻科嫌いだったなぁ……」と思いだす。
「息がしづらいでしょ」と言われても、それが普通だったのだから気にもとめず。
今から考えると、常に鼻をたらしていたから随分汚いガキだったんだろう。
耳鼻科に来ると、何より鼻の穴を広げられて痛いし、管を入れられても痛い。
鼻の奥の粘膜にチクチクする感じが嫌だったのだ。
それでも、診察の後のごほうびは好きだった。
「虫歯になるから」と普段買ってもらえなかった飴を1つだけ食べてもよかったし、
そうやって母は僕の鼻炎を治そうとしてくれたのだ。
乳児の頃はもっとひどかったそうだ。
自分で鼻をかめないから手動の吸引機で吸い出すのだけど、限界がある。
最後は母が口をつけて鼻水を吸ってくれていたらしい。
診察が終わった後、20年前にも見た気がする洗浄器具を鼻に当てながら
様々な幼稚園時代の思い出がフラッシュバックしてきて、何だか泣きそうになった。
今から考えると、相当な愛情を受けて育ったんだなぁとしみじみ思う。
待合室にいた子たちも同様に愛情を受けて育っているのだ。
近頃、ゲームを全くしなくなった事をよく実感する。学生の頃にはまっていたMMORPGをはじめとするネットゲームは勿論、Xbox360やPS3にも滅多にゲームディスクを挿入することなく、もっぱらDVDやブルーレイの鑑賞機器として稼働している。PSPやDSに至っては一年以上電源を入れていない。
と言っても、ゲーム自体が嫌いになったわけではない。今でもレースゲームやRPGにはわりと興味があるし、最近読み始めたライトノベルの影響か、ネットゲームに対する興味もやや増してきた。多分、これから先もゲームから完全に意識が遠ざかる事は難しいだろう。また、ネット上ではよく「体力が続かなくなった」という声を聞くけども、それも何か違う。確かに昔の様に丸一日をテレビやモニタの前で過ごせるほどの体力は無いとしても、半日くらいなら問題なく向かえるはずだ。
要するに、モチベーションの問題なのだと思う。ゲームなんてただのお遊び。そういう考えが板に付いてしまった。こんな事を言うと「仮想と現実の区別がついてない」という類いの批判を受けるかもしれないが、それに乗っかって言うなら、ゲームというものは仮想をもう一つの現実として扱うからこそ楽しかったんじゃないだろうか。少なくとも、子供の頃はそうだったと思う。勝った負けたに真剣に一喜一憂し、難題が持ち上がると全力で解こうとしていた。今の様に「暇だな。ゲームでもしようかな」ではなく、学校から帰るやいなや、ランドセルをほっぽり出して友人の家に駆けつけてはコントローラーを取り合っていた。
あの頃の俺にとってゲームは特別な存在だった。当時を思い出す度にその一端は感じられるだろう。しかし、今はもう違うらしい。では「今の自分にとって特別なもの」とは何なのか。ゲームに限らず、同じ様な事を感じた時は特にこの点を思い出して欲しいと思う。
私の実家は千葉の片田舎にある。もっと言ってしまうと、田舎をイメージしたCMによく出てくる小湊鉄道沿線だ。その沿線(と呼ぶのも躊躇われるような僻地だが)にバブル最末期に出来た新興住宅地に私の実家は建っている。
駅に着きバスを待つこと20分。やっとやって来たバスに乗り込むと、乗客は私を入れて3人。本当に素敵な田舎だ。
実はこれでも便利になった方だ。去年まではバスも通らず、駅から家までは歩くかタクシーぐらいしか交通手段がなかった。歩けば相当速く歩いてやっと家まで一時間、タクシーだと1500円はとられる距離。まあこれがうすのろのろとしたバスに乗って200円になったのだから、桁違いに便利になったと言ってもバチは当たんないと思う。
さて、そんな素敵なバスに乗ってしばらくすると他の二人の乗客は降りてしまって、バスは私の貸し切りになった。この調子だとバスは長続きしないだろうと思っていると、急に10人くらい客が乗ってきた。みんな小柄でランドセルを背負っている。小学生たちだ。そこは、小学校にほど近いバス停だった。
この小学校も私の実家のある新興住宅地から遠かった。距離にして3.5キロ。子供の足で歩いて45分から50分くらいの距離だ。今さっき乗ってきた子供たちも、大方は私の実家のある住宅地の子供たちだろう。あの距離を歩かないですむようになったのだから、この子たちも嬉しがっているだろう。
さて、子供たちとバスに揺られて10分弱。目的地である住宅地が次のバス停になった頃だ。子供たちは誰が降車ボタンを押すか、みんなで相談し始めた。そんな子供たちを後目に、私は降車ボタンを押す。え、今の誰が押したよ?!と子供たちが騒ぎ始めるなか、私は黙って手を挙げた。
最初は私が何故手を挙げているのかわからない様子だった子供たちも、ちょっとするとなぁんだというような顔をした。けれども、あなたが押したのか、という意味合いのことは一言も言わなかった。きっと私のことをオバサンと呼んだらいいのかお姉さんと呼んだらいいのか分からなかったからだろう。賢い子供たちだ。
そしてそれをきっかけに、バス停までの短い間子供たちと話した。バスが出来てから通学が便利になったと子供たちは口を揃えて言っていた。けれども朝はバスの時間が上手く合わなくて、バスに乗っていると遅刻するとも。
一生懸命体全体を使ってコミュニケーションしてくる子供たちと話すことは楽しかった。しかしそろそろバス停に着いてしまう。私は簡単に降りる準備をした。夕日が眩しくて外していた眼鏡をかけ直しただけだが。そうしたら、子供たちは口々にこう言ってくれた。その眼鏡、カッコいい!と。大切な方から贈ってもらった思い入れのある眼鏡だったので、その子供たちの感想が余計に嬉しかった。
そして、田舎道に沿って突如現れる、総計200戸ほどの住宅地の中心にバスは着き、みんなで揃ってバスを降りた。そこからは散り散りで、みんな手を振って別れた。
私は心地よい余韻に浸りながら実家までの短い道のりを歩いた。10人くらいの子供たち。みんな仲良そうにしていた。
私はようやく気づいた。この住宅地にはもう10人ほどしか子供が居ないのかと。
この住宅地はバブルの最末期ほどに売り出されたものだ。その時三十代の戸主を持った核家族が移り住んできて二十年。彼らは五十代になり、その子供たちは二十代で自立のときだ。ここに建っている家々は皆核家族用のもので、複数世代が住めるものじゃない。私だってちょうどその世代だ。私が子供の頃はこの住宅地はもっと賑やかで、小学生だけでも百人近くはいたではないか。それこそ、あんな小さなバスでは乗り切れないくらいに。
この住宅地は、確実に斜陽の中にある。分かっていたはずだ。考えればすぐに分かることだ。そんなことだが、実際に子供たちの姿を見なければ、何も分からなかった。
この住宅地はこれから、ゆっくりと老いてゆくのだ。その事実に愕然としながら、私は実家の扉を開けた。そこには、もう随分と白髪の混じった母が、小学生だった私を迎えてくれるのと同じようにして待っていてくれていた。
いるなら連れてこいよ。
ひ孫にランドセル買ってあげたのに、背負ってるの見る事もなく3月に亡くなったじいちゃん。
姪っ子は、同じく祖父ちゃんが買った電子ピアノでいっぱい練習して、ちゃんと発表会やったよ。
間違えなかったよ。
植木鉢の奴枯らせてごめんな。
いつも桃売りに来るおばちゃんも来てるよ。
夏用のパジャマ捨てるよ?
いっしょに買いにいった靴は捨てられん。
金魚はまだ元気やよ。
じいちゃんが建てた家、ちょっと床が心配になってる。
遺産でなんとかするけど、遺産の処理やりたくない気持ち分かるやろ?
じいちゃん。
蕎麦が大好きで、でもこの時期はいつも冷やし中華にトマトのっけて食べてたじいちゃん。
本当にいないの?
去年の春までばあちゃんがいた病院行ったら、もしかしたら二人ともいるんじゃないの?
いつもジュース飲んでたじいちゃん。
じいちゃんが水を含んだスポンジを口に当てると嬉しそうに吸ってたばあちゃん。
二人とも本当にいないの?
さみしいよ。
一人でご飯作ってもおいしくない。
酒屋に勧められた酒もだめだ。
サザエのシーズン来てるよ。
やっぱりじいちゃんとばあちゃんあって俺だったんだよ。
それから母代りに見てくれたばあちゃん、
ほんとに俺があかん事した時以外は全然怒らなかったじいちゃん。
十数年支え続けて、もうどうしようもない所まで自宅で看病したじいちゃん。
それを受け入れたばあちゃん。
今、俺は全然だめだよ。
ばあちゃんが亡くなって、ちょっとして仕事辞めた事知ってるやろ?
でもじいちゃんが亡くなってから、もう何のやる気も出ない。
彼女も作ろうとしてみたけど、
どうしても結婚しようって気にならん。。。
聞きたい事、報告したい事、いっぱいあるよ。
じいちゃん、ばあちゃん。
本当にいないの?
後ろから肩たたいて欲しい。
おい、〇〇~って声かけて欲しい。
俺も、の~、じいちゃんって言いたい。
うら、この問題分かるわ~って自慢したい。
幽霊がいるとか言う奴は全員市ね。
いるんなら俺のじいちゃんとばあちゃんとお母さん出してこいや。
生前の想いがーって言うやつは、8代呪われろ。
31歳で7歳と5歳の子供を残して亡くなった母。
祖母を送ったけど、姪っ子の入学式も甥っ子のアレルギー克服も見ずに逝った祖父。
しょーもない恨み抱いて死んだカスよりよっぽどうちの家族の方が気持ち深いわ。
じいちゃん、ばあちゃん、お母さん、
会いたいよ。
じいちゃん、頼むわ。。。
えっ?
えっ???
「男だから」って理由で女より金かかることにより女性が不快感を感じるところが全然無い、の間違いですね。
結局ね、自分が不利な時は許せない差別問題として骨髄に徹するまで深く恨みを刻み込むのね。
対して、逆に自分が有利だったら当たり前ですぐに忘却して思い出さないから、存在しないと結論づけるのね。
男女問題で女がそう、って言ってんじゃなくて、全ての問題で全ての立場の人間がそう。
これが「○○(自分の属性)は不当に差別されている!」と言い出す奴が多い理由。
ま、実際女性の方が抑圧される場面は多い。しかし全ての場面に置いて男が虐げられる場面は全く存在しない、という主張には肯けないわけでね。
「メガネ女子萌え!」「ランドセル小学生女子可愛い!」と言えばそれは性的抑圧で、極めて悪質で許されない女性への抑圧だよね?
「メガネ男子萌え!」「ランドセル小学生男子可愛い!」と言えばそれは性的抑圧ではないんだよね?
こんな恣意的な決め方してたら、そりゃあ男性への性的抑圧はないことになりませんわなあ。
性的抑圧がないことにされている方がよっぽどひどい性的抑圧だよな?
そのぶん昔の男はオカズ代としてAVレンタルなんかに金かかってたかもしれないけど、
今はネットでタダで落としてんでしょ?
なんで「女性差別をやめろ」という趣旨のはずなのに徹底した男性蔑視に走るんだろう。
規制するまでもなく、この前終わってたけどな。
と、ふと思ったんだけど「地獄先生ぬーべー」の作者が今スーパージャンプで書いてる『霊媒師いずな』なんて、セーラー服の(たぶん年齢も18未満)巨乳霊媒師いずなが毎回なんだかんだでレイプ未遂状態になってたりするわけで、あれを想定して「危険である」とみなすのはまあ分かるような気がする。
直截的にランドセル背負った女の子をレイプするような作品は無いが、なんだかんだ言ってゾンビだったり触手だったりに代替させちまうのが我々であったりもするからなあ。
石原慎太郎が漫画の表現の自由をつぶそうとしてる!ってさわいでる件の事。
俺も漫画好きだし、漫画家の人のコメントとか見て「けしからん」って思ってたし
今もそう思ってる。
たぶん俺以外にも、こういう人がたくさんいると思うので。
今回の規制って、つまるところ子供の裸とかを禁止するって話だと考えてて
つまり、しずかちゃんの入浴シーンとか、おじゃまユーレイくんとか(例えが古くてゴメン)
ああいうのを取り締まろうとしてるんだと思ってた。
子供の時はこれで興奮したりしたけど、こんなので人格が歪むやつもいないだろうし
まったく馬鹿げた話だと・・・。
でも、この前友人の家で見た漫画がとんでもなかったんだよ!
こんなのばかり収録した単行本が、商業ルートで売ってるんだよ!
同人誌じゃなくてだよ。
ありえなくないですか・・・?
追記:
ブルマというのはオナニー業界において一大ジャンルを形成してます。
でも、平成生まれからいって、その未来が明るいとはとても思えません。思えないんです。
はっきりいうと、ゆとり世代とか現在若者であるところの人々は、ブルマに対してそこまでの魅力を感じていないと思う。
皆さんご存知で、多くのブルマニアが憤慨しているように、いまや三次元学校におけるブルマーとゆうのは絶滅危惧種というかもはや天然記念物レベルです。
ぼくが小学校に入ったとき、たしかうちの姉とか上級生の一部はブルマをはいていたような気がするんですが、まあぼくにとってのブルマの記憶なんて言うのはその程度です。
つまるところ、ぼくらの世代には生のブルマという経験がありません。
ブルマと聞いて思い浮かべられるのが姉のはいてる風景だなんて、こんなに夢のないことはありません。
生でブルマを見た知った経験がほとんどないということがどのようなことを意味するかというと、それはすなわち「実感のなさ」、あるいは「背景のなさ」につながります。
たとえば、すく水のことを考えてみてほしいんですけど、すく水っていうとどうですか。
やっぱりまずイメージするものとしては、カルキの匂いとか、女の子が教室の隅っこでこそこそ着替えてる姿だとか、頬を赤らめてトイレに行く女の子だとか、まあこれはぼくがおしっこ大好きだからなんですけど、そんなところじゃないですか。
二次元ですく水という時も、これらの甘酸っぱいイメージを念頭に置いて女の子を見ることになります。
たとえばイラストですく水といっしょにタップタオルが描かれていたとする。
それを見たぼくたちは、下地、背景として(あるいは無意識のうちに)女の子がいっしょうけんめいお着替えしてるとことかをイメージするわけです。すごいドキドキしますよね。
もちろんすく水の魅力がそういう背景に留まらず、紺色からはみ出たまっしろなお尻であるとか太股にもあることは百も承知です。
だけど、そういうものをエロいと感じる根底には、先ほどあげたようなイメージが下地として深くかかわっていると思います。
そうじゃなきゃラップタオルなんてただ中国製タオルと大差ないわけです。
逆の例を挙げるなら、チャイナ服があるでしょう。
あれも太股が強調されて大変えっちなんですけど、一般的に言ってお世辞にも絶大な人気があるとは言えないですよね。
せいぜいコスプレ要素として一瞬出てきてふーんそうかーと思うくらいです。
で、なんで人気ないかというと、チャイナ服には下地というものが無くて、完全にセックスのための服でしかないからじゃないでしょうか。
もちろんチャイナ服が登場するようなリアルもあると思うんですけど、横浜中華街に住んでいるのでもない限りたいていのひとはそういうリアルを持ってないわけで、というかそもそも横浜中華街でもああいう服が使われているのか分からないんですけど、まあやっぱり「ハレ」の服であることには違いないと思います。
ちなみに、バニーガールにもそういうきらいがある。
あれもうさぎさんぴょんぴょんしてて大変えっちなんですけど、そこからぼくらがイメージするものというとせいぜいドラクエのカジノくらいであって、ふつうはこれが出てきた瞬間「セックス! セックス・アッピール!」みたいなムードになりますよね。
まあうさぎさんというのはヒトと同じく哺乳類の中では珍しく「発情期」というものを持たず、常に生殖可能であるそうで、それを考えると、ハルヒに代表されるように恥ずかしがり屋さんに着せちゃうのもまた一興だなーと思います。
関係ない話をしましたが、ぼくらの世代、少なくともぼくにとってはブルマーはチャイナ服と同じレベルに非日常のものです。
小学生くらいのころにブルセラブームに遭遇したため、その印象が強いというのもあるかもしれません。
で、こういう言い方をすると、リアルでの経験なんていらないぜ二次元ブルマーは全く別物だぜ!と主張したい人が出てくると思う。
そういう人は、ロリコンの赤以外のランドセルバッシングのことを考えてみてほしい。
あの今はやりの24色ランドセルだか何だかいうのは、いまや防犯ベルとならんで現代小学生の必須アイテムだとおもうんですけど、ぼくが小学校高学年くらいのころがちょうど出はじめでした。クラスに一人二人持ってる人がいて、それがその人のチャームポイントになりうる、というような。
たぶん今ロリコンやってるような世代には、本当に縁のないアイテムだと思います。
ロリコンのカラフルランドセルバッシングも、こういうところに起因するのではないでしょうか。
まあぼくもカラフルランドセルは幼さを不必要なまでに強調しているような感じがして嫌いなんですけど、たぶんぼくより下の世代になると、あれに興奮する人も出てくるんじゃないかな。
ブルマの代用品として登場したハーパンってわりと評判悪いですけど、ぼくはそこそこエロいと思います。
そんなわけで何が言いたいかというと、下地を失ったブルマは今後ゆとり世代(あるいはそれより下の世代)のオナニー業界参入によって市場を大幅に縮めていくだろうということです。
ブルマ大好きの人は早いとこブルマ関連商品を一生分集めた方が良いと思います。たぶん。
あと、こんなことを言ってますが、ぼくはブルマがそこまで嫌いというわけではないです。そこまで好きでもないですが。
ぼくの時代のブルマというと下履き的な要素が大きいわけなんですけど、そのためか下履きのブルマというテーマには大きな魅力を感じます。邪道だったらごめんなさい。
下履きブルマってけっこう未開拓ジャンルだと思うんですけどどうですか。だれかやりませんか。
最後に、ブルマゲーでおすすめあったら教えてください。今調べた感じ「マーブル★ブルマ」って抜けそうな感じするんですけど、どうですか?
また保護者の皆様、本日はお子さまのご卒業 本当におめでとうございます。
保護者の皆様の陰に陽にご協力をくださったおかげでPTAを無事に活動することが出来ました。
本日、皆さんは6年間の小学校生活を終え卒業します。6年前背負っていた大きなランドセルは今は小さく感じることでしょう。この陰には、先生、お父さん、お母さんの多大なる愛情がありました。今日、家に帰ったら「今まで育ててくれてありがとう」とお父さん お母さんに言ってみてください。感謝を忘れた人に立派な人はいません。今恥ずかしいかもしれませんが 区切りの今日だからこそ お願いします。次に反省です。反省と似た言葉に 後悔があります。後悔とは「何であんな事をしてしまったのだろう」と悔いることです。それでは成長はありません。間違ってしまったとしても、「もう同じ失敗をしないようにしよう」と反省することで、また一歩成長、自分を大きくすることが出来ます。
これから皆さんが向かっていく未来は あかるく希望に満ちあふれています。
そこには 皆さんしかできない「使命」が必ずあります。今はやりたいことが見つからないかもしれない。わからないかもしれない。だからこそ自分の可能性を広げるために勉強をするのです。勉強をし知識を広げることで、自分のやりたいことも使命も見つかります。そのために「努力」するのです。勉強をしたくない日も、学校に行きたくない日もあるかもしれません。しかし、自分の弱い心に負けず、一歩ずつでも努力することで、将来 必ず成長した自分を自覚することになります。自分に負けない勇気、一歩ずつの努力がこれからの人生を 希望にあふれたものにしてくれます。
新しい生活は不安でいっぱいかもしれません。その不安に負けて元気をなくしてしまうのか、それとも不安だからこそもっと頑張ろうと自分を励まして進むのか、それだけの違いです。
最後まであきらめてはいけない。あせったり投げやりになってもいけない。やるべきことを決めてきちっと挑戦していけば成長できるのです。生きている限り「もうだめだ」なんてことはひとつもありません。大事なのは「なにが変わるのだろう」ではなくて、新生活をきっかけにして「なにを変えるか」です。「中学生活はどうなるのか」ではなく、「中学生活をどうしたいのか」です。自分の意志が大切なんです。人間自身が「どうしたいか」で全部決まるんです。だから「希望こそ力」なんです
いよいよ君達の時代です。大きな 大きな もっと大きな夢を持って立ち上がってください。
人間は絶対にこれだけはやりとげるんだ と固く決意したら大抵のことはできるものです。
君たちの活躍、成長を先生、お父さんお母さん みんなが期待しています。頑張って下さい
なお 最後になりましたが、児童たちを教育してくださった、先生方及び来賓の皆様に、これまでの努力を感謝いたしまして、私からのお祝いの挨拶とさせていただきます。
よしなしごとだが、今日18日午後、twitterで唐突に東浩紀氏が曰く、一昨日の晩から原発関連の報道が少なくなったかの印象があるとのこと。
もちろん、事実報道は絶えずなされている。ご本人も「放水してることぐらいは知ってます」と書いている。
事実そのものの緊迫度合いは変わっていない。事態の進行状況や対策対応を見れば情報を量的に計算しようともそれは変わるまい。いや、合衆国政府からの協力への強い要請(の露呈)や、IAEAからの情報開示要求というニュースを見れば、事態は以前を凌ぐものだろう。
東氏ご自身は政府が情報統制を始めたんじゃないかと書いていたので、ここに書くのは東氏の意図とは違う。もっと曖昧な「印象」についての話である。印象とは根拠のないものであり、帰納的にしか語ることができず、つまり「論」ではない。まさによしなしごと。
その印象が何を指しているか。
事実の質と量は充分であるのに、事実以上の報道はされていない?番組が少なくなった?という印象?
似たような話がある。
国内メディアの報道のトーンについては当初から、悲惨さに寄り過ぎる、自衛隊ほかによる救済など「いいニュース」が海外メディアにばかり流れている、避難所はもっと前を向いているのに伝えられない、等の批判が出ていた。twitterなどでも同様だったが、ロケ先で被災したコメディアンであるところのサンドウィッチマンによるコメントは、その国内メディアでも報じられたのでかなり広く知られるに至った。これらを受けてNHKでは編成方針を変更したようだ。
「ようだ」というのは、上記のようなことは定量的には前後比較できない、当事者の公表なしには視聴者の感想(の露出)によってしか測ることができないことだから。逆もまた真なり、敢えて書くことはしない。
それから、これも今回の震災に絡めてTwitterで見かけたエピソード。
阪神淡路大震災の折、被災地を放送エリアに持つ読売テレビが、番組編成を報道偏重からアニメやバラエティなど日常的なコンテンツを採り入れたものに切り替えたところ、賛否が多く寄せられたそうだ。不謹慎だというクレームはもっぱら被災地外からのもので、被災者からは「ひさしぶりに笑った」という感謝のメッセージが届いたという。
tweetの主旨は、悲惨な状況にこそ深刻さばかりでなく笑顔を生みだすようなものが必要だ、それを実現した読売テレビさんは素晴らしい、在京各局も続くべしということ。
それにしても、こうまで深刻である必要はどこらへんにあるのか。といっても「こうまで」の「こう」が曖昧至極であるが。
下位に対する憐憫という「善意」の発揮によって穏当裡に、普段は緩やかに規定される上下関係こそ、ここ最近のこの共同体を支える文化的精神的基盤だ。
もちろん、階級のないこの社会を円滑に運営するうえで有用だからこそ基盤たりえる。が、善意の発揮は多くを包み隠しもする。
女性差別を訴えられた男性は少なからず心外に感じるだろう。だって自分は女性を「弱き者」だと理解し、その通りに行動しているのだから。その振る舞いに、端から自立を放棄せよとのメッセージが含まれているとしても。
現在中年以上の大人であれば、街ですれ違う病者や障害者を「じろじろ見ちゃだめよ、可哀相でしょ」とたしなめられた記憶のひとつやふたつあるのではないか。乙武洋匡氏を引き合いに出すのは失礼と承知しているが、氏のような快活さをいまだに受け入れられない大人はいる。
それと同じように、被災地に救援物資と称してぼろが届く。「伊達直人」氏によって児童養護施設にランドセルが届いたのをきっかけに始まった伊達直人ブームも、しばらくすると最初の伊達氏の志とは随分違ったものになってしまったような印象だ。
しかしそれを差別だと大っぴらに言うことは憚られる。なんといっても善意だから、悪気はないのに、それを責めるのか、ひどい。
翻って、在日朝鮮民族・韓民族に対する差別があからさまに起き続けるのは、彼等がこの不文律を共有しない、憐れみに対して首を垂れないからではないのか。いうまでもなく不文律とは心の中にしか存在しない。印象と同じようなものだ。
そのような一連の意識を反映するものとして、原発関連の報道が、少なくなった、印象だ。
憐れまれる側にまわった者に供給されるべき「深刻さ」の座興などないということだろう。
最後に、東氏が18日未明に書いたもうひとつのtweetを引用しておく。
このような表現を使うと不謹慎と怒る人もいるかもしれない。しかし、ぼくたちはこの未曾有の災害を「好機」として捉えなければならない。バブル以降の20 年間の停滞に終止符を打ち、麻痺から脱し、日本をまともな国に戻すための最後の好機として。この好機を生かせなければ日本は本当に終わる。
18禁のいわゆるエロマンガに関して、まぁ、法律で規制するのは基本どうかと思うのだが、
ゾーニングで不快に思う人に可能な限り手の届かない状況にするために自主的な活動はした方がいい気がする。
18禁マンガに内容に関する表示を行うためのガイドラインを自主的に作るとか。
提案としては、一般的な18禁マンガ愛好家でも、「これはちょっとアブノーマルだよね」と思えるものに関して
注意を喚起する表記をつける。たとえば、
「設定上12歳以下、もしくは小学生以下を連想させる学校指定の服装や帽子、鞄・ランドセル類の
(この項目に関しては特に議論があるところだと思うが、大体合意が得られそうなラインとして今回は設定している)」
あたりに対して、それぞれが含まれていることをすぐにわかるように18禁マークの近くに
それとわかるピクトグラムを追加する。が、別に販売に対しては今までの18禁マンガと同様に扱って良いとする。
言っててナンだが、3つ目の奴は直接的すぎて同様に扱ってくれるのか不安なところもあるが…。
これにより、一般の18禁マンガ愛好家やあまりトラブルを抱えたくない書店は注意して本を選ぶことが
(逆にそういうのが好きな人はそれだけをチョイスできる)できる。とか言う枠組みはどうか。
何かあった時にこの枠組みを調節して対応できれば大きな問題にしなくて済むのではないか?
虎仮面の模倣者たちより、プロボノを行う人たちをもっと評価して欲しい。
なにやらランドセルとかを不法に投棄するのが流行っているようなのでこのチャンスに乗じてプロボノを紹介しようと思う。
そしてこの増田エントリがプロボノを知る機会になってくれたらと思って書く。きっと最も良い奉仕の行動であるから。
ボランティアというと奉仕活動で困っている人や相対的に苦しい立場の人のために無償で行動すること。ってみんな理解していると思う。
・奉仕している人の受益
1.自分が良いことをしている事を実感する。
2.人に喜んでもらう充実感
・奉仕される側の受益
1.しにくいこと、出来ないことを助けてもらう。
2.直接的に利益を得る。
この側面が合致することが条件でボランティアは成り立っている。
プロボノとは、自分の職能を使って「直接被支援者を助けること」を言います。(語弊があったら指摘下さい)
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普通ボランティアと聞くと、困っている人のために行う雑用みたいなもの。というイメージはありませんか。
・ドブさらい
・ゴミひろい
・草刈り
・清掃
・要介護者への支援
など、など。
本来「困っている人を助ける。」というボランティアの大義名分を合理的に果たす方法を考えてみてください。
最も自分が相対的に高いスキルを持つ「仕事」をこなし、得た給与を配分することにほかなりません。
価値の最大化の例
・大手商社に勤めるAさんは1時間あたり5000円の給与をもらっています。
・町の美化活動委員会は、先日の大雨で詰まった自然公園の排水溝を掃除するボランティアを募集しています。
Aさんが半日かけて慣れない手つきで掃除を手伝うことはとても素晴らしいことです。まさにボランティアです。
「1.自分が良いことをしている事を実感」し「2.人に喜んでもらう充実感」を得て、「3.体を動かしたり仕事をすることそのものの満足感」もあります。
しかし合理的に考えたらAさんは半日休日出勤して仕事をこなし、そのお金で清掃専門業者を5倍ぐらい雇うことができます。((※大手商社の給与が高く、清掃業者への報酬が安いという偏見!という批判は命題ではありませんので割愛させて下さい。))
清掃専門業者に支払う代金を1時間あたり1000円だとしましょう。
5,000円*半日(4時間)=20,000円 == 1,000円*5人*半日(4時間)
さらに、普段運動不足のAさんとそれを生業にしている清掃専門の作業者では効率も倍近く違うかもしれません。
大抵の社会人は自分が相対的に最も秀でている技術や能力を使って生活費(現金)を得ています。それが最も『効率が良い』からです。
つまり、Aさんはボランティアなんかに参加せず、休日も仕事がある!と言って金だけ出したほうが町の美化委員会にとって何倍も助かる。という事になります。
でも、なにか違うと思いませんか。
それどころか、なにか良いことをしたかったはずなのに休日出勤までして金をむしり取られた気持ちです。
あるいは、煩わしいからと金だけだして知らんぷりの「嫌味な金持ち」という感じさえします。
つまり、「純粋に奉仕される側の事」を考えたら、本来最も良い方法はお金を提供する事。なんですね。
ところが、実はもっと良い方法があります。それがプロボノです。
プロボノというのは「自らの職能をもって相手を直接支援する事」です。
・弁護士が無償で弁護すること。((※士のつく職業は実は法律的にややこしい制限もあったりします。))
・大工さんが棚や机を作ってあげる
何か違う。とお考えの人もいるでしょうか。
仕事は仕事であって、ボランティアではない。とか。私も初見ではそう感じました。
・奉仕している人の受益
1.自分が良いことをしている事を実感する。
2.人に喜んでもらう充実感
・奉仕される側の受益
1.しにくいこと、出来ないことを助けてもらう。
2.直接的に利益を得る。
職能が直接的に相手に供される。というのは仕事で稼いで現金を提供するよりももっと効率的なのです。
会社で業務として行う仕事とは違い「会社の利益」や管理工数等として搾取される手数料のようなものも発生しません。
ということは、それだけ相手にも「より喜んでもらえる」のです。
プロボノという働き方
http://www.shibuya-univ.net/class/detail.php?id=608
http://gkmyhn.blog106.fc2.com/blog-entry-28.html
プロボノは自分の仕事のスキルをフルに活かしたり、普段仕事にはあまり直接結びついてない自分の得意分野を存分に発揮して生き生きと成果を出せることにあります。
普段商社でデスクワークをこなすAさんにとって「排水溝の掃除」は得意分野ではありません。不慣れな場所に足を運び、持ち慣れないスコップで泥をさらう作業をすることは心細いものです。
まして、気心の知れた人ばかりがまわりにいるとは限りません。
でもプロボノは日ごろ仕事で培った技術や知識をフルに披露することがそのまま社会貢献につながる、という魅力があります。
そして、そこで得た経験がさらに自分の仕事の幅や経験や知識になっていきます。
仕事を続け、両立しながら空いた時間を使って自分の経験や満足感を得ることができる社会的な活動なのです。
Aさんがすべきプロボノは例えば「商社で培った人脈を生かし、公園や自然の保護活動に積極的な近隣の団体に声かけをする」だとか「企業の広報活動の一環として組織的に手伝ってくれそうな法人や団体を探す」等だと思います。
その上で自分も手があいていたらスコップを持てばよいのです。疲れていたら寝ててもいいと思います。十分貢献したのですから。
増田も寄付は大好きだよ! 施すほうじゃなくて、受け取る方としてならね!
なんだか一億総ポトラッチ化が進んできました昨今、増田が由緒正しきネトウヨであったら「ゲヒヒ、次は国を隣国に寄付ですか?」と揶揄の一つも売ってやるところだけどはてサは恐いし、増田はそもそも右翼じゃない。ただの逆張りが好きな女子中学生だ。そう考えて読むと気分いいよ?
流行ものをとりあえずdisとくのはウェブに生きる天邪鬼としてのたしなみだよ! みんなも若いうちは、無闇やたらに反発するといいんじゃないかな?
でも実際twitterとかでこの手の逆張りやってんのは三十代のピザデブハゲ女子中学生たちなので、きみたちの健康と精神に大ダメージを与えるよ! 貧弱な想像力は時にみずからの命を助けるね!
ところでなんでぼくらはタイガーマスクきどりどもが嫌いなのかな?
不思議? ふしぎだよね!? だって、寄付ってすごいいいことなんだよ? ただの偽善じゃない。誰も傷ついてない。与えるほうも貰うほうも、みんな得してる。死んだビジネス用語でいうところのwin-winってやつだね。そうそう、未だに会議でwin-winなんていう単語出してくる上司をみかけたら、さっさとその会社の四階から飛び降りたほうがいい。
なぜか。
まあそんなことは上でさんざん申し述べてきたように、ぼくらが「どうしようもない天邪鬼だから」で済むんだけど、世間はそれじゃあ納得しない。反対するなら説明すべし。感情論は排してな。
と、ぶっちゃけバカに理論的な説明求めるなんてバカなんじゃねえのと思うむねがあるかもしれない。けれど、ココは天下の往来はてな匿名ダイアリー。またの名を皆殺しの増田。
説明責任逃れは問屋がおろさない。せめて嫌悪感の根源くらいはつきとめないといけない。
とはいうものの、「なぜ私は寄付ブームが嫌いなのか」を論理的に説明するのは、おそらくアジを三枚におろすより難しい。
この手の喧嘩でよく使われる殺法は「だって被寄付者が迷惑がってるじゃないかやめてあげなよ白豚野郎」と「親切の押し売り、大きなお世話」を強調するやりかただ。
ここでぼくら天邪鬼は施す物-施される物、という図式を瞬時にして加害者-被害者という関係に塗り替えることでスペクタクルとカタルシスをおぼえるんだけど、それで非難される無辜の大学生ボランティアとかはいい迷惑だよね! いい気味ですね!
そう、善意の悪人は悪意を自覚している悪人よりも罪が重い。なんだかよくわからないけど、ぼくらはそう信じちゃってる。漫画か何かの影響ですよね。あるいはお母さんについて、何かトラウマがあるのか。
まあ、ともかくしかし、タイガーマスクについてはなかなか「迷惑してる」という話は聞かない。少なくともビル・ゲイツより広くておーつねさんより狭い増田の観測範囲では、見当たらない。被害者は存在しない。まあ「あの手の寄附行為ばっかり報道されて恒常的に寄付を行なっている人たちが無視されてる」って声もあるけど、そんなもん、もともと無視されてたわ。
「みんなが得した」ここが、今回の件でやっかいなところだ。火のない所に煙は立たないし、煙が高いところにのぼらなければバカもまた踊れない。
さて、実はここに今回のぼくらが抱えるフラストレーションの一端が隠されている。
つまり、「いつもとおなじように偽善者を叩けると思ったら、おあずけくらってしまった」ってわけ。これってとってもストレスフルな状況じゃない? 犬みたい? 哺乳類と比べられるだけマシさ。
偽善ってなんだろうね? 寄附行為に限定して考えてみよう。広辞苑の定義を持ってくるのは、頭の悪い学生にやらせておけばいい。ぼくらには集合知の究極体、wikipediaさんがいるのだから。
「寄付(きふ、本来の用字は寄附。寄付は代用字)とは、金銭や財産などを公共事業、公益・福祉・宗教施設などへ無償で提供すること」
「無償」とはつまり、見返りをもとめないということだ。税金控除される時点で見返りもクソもないだって? まあ、それはここでは関係ないから頭から弾いてくれ。
この議論は彼らが「見返りを得ているか」の一点に集約される。
もちろん、違うよね? 物質的な恩恵はもちろん、名誉すら得られない。だって、匿名だもの。キャラクターだもの。「タイガーマスクはえらいですね」っていくら古舘さんがつばはいてコメントしても、それは神奈川県在住の庭師・津田大介さん(48)を褒めたことにはならない。まあ、2chでアンカもらえたときみたいに「存在すること」の承認を貰える快感はあるかもしれないけど、自己承認欲求そのものが満たされることはない。ランドセルは一個9000円。六つで54000円。あなたは2chでアンカもらうためだけにこれだけの金額を払おうと思う?
でも、実際金髪……津田さん(仮名)は「いいこと」やったじゃん。子どもたちの反応はともかく、施設は受け入れてるじゃん。全然ひとりよがりな自己満足ちゃうやん。
自己満足っていうのは充足してるってことです。いわゆるリア充。
はいみんな思い出してー。
っていうか、今回に限らず「ボランティアフォビア」だの「NGO死ね」だの「人権団体とか環境団体とかバカヤロウ」だのを表層だけで叩いてるとか、
っていうか、ぼくらが何者かを叩くときの原動力は、たぶんだいたい、コレ。
だって妬ましいじゃないですか。嫉ましいじゃないですか? 死ねばいいじゃないですか?
自分が善人だって自覚するのはなにより強烈なうぬぼれですよ? ましてや、ヒーローに自分をかさねて? 「悪ふざけだもん」ってみんなにバレバレな形で照れ隠ししてたりして?
ハンッ!
そんな綺麗事、罪じゃないわけないじゃないですか。
彼らはまごう事無き「善人」であるからこそ、叩かれるに値するのです。
それがイヤならアラを探すんだ。マスクどものアラを。徹底的にひとりひとりの素性を洗いだして、瑕疵を探しだせ。これだけいるんだ、ひとりふたり後ろめたいのやら奇抜なのやらは混じってるだろう?
特殊な例を普遍化しろ。延焼させろ。大火がみたい。燃やし尽くせ。
でも今回はそれが通じるかしら? しょせんは匿名が個人を葬るための技術。
匿名が匿名を殺す、新しい時代の戦争に対して、ぼくらはあまりに無知でありすぎる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.j-cast.com/2010/01/27058874.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/100125/tky1001251835010-n1.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/alfalfalfa.com/archives/383704.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1391165.html
↓
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/shi3z/20110112/1294801712
http://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110112-00000021-kana-l14
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1586454.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110112-OYT1T00537.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20110111-723311.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/wadai/news/20110112k0000e040054000c.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.itmedia.co.jp/news/articles/1101/11/news070.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/alfalfalfa.com/archives/1944851.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/national/update/0112/TKY201101110555.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/45638
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.milkstand.net/fsgarage/archives/001352.html(非表示)
http://b.hatena.ne.jp/entry/news020.blog13.fc2.com/blog-entry-813.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/news4vip.livedoor.biz/archives/51605729.html
(^^;
kashmir108 ハイチに千羽鶴送るのと、児童養護施設にPCやランドセル送るのじゃだいぶ違うように思うけど。 2011/01/1310 clicks
思うだけですね。広く寄付行為であり、実用的であるかどうかというのは程度問題でしかありません。今後寄付文化が発展してまあまともなカタチになればいいですがね。
akihiro-matsui 今回の寄付の面白さは多数の一人でなく、名前を自由に決められて一種のスポンサーシップになっている所だと思う。 2011/01/13
それは同感。
PCも倉庫の肥やしになる程度しか使い道にならないかもしれませんがね。事前に問い合わせるべきだと冷静になってる方々もいますが、それ以上に手放しで賛成するノータリンがあまりに多いので。こういうのも昨日話題になったはてブ衆愚化の顕れかもしれませんね。
まあ、ボクシングだの誰と戦ってるんだのしか言うことがない足りない感じがする人(fukkenさんじゃありませんよ)が、今回の事例をまともに考えているとはとても思えませんし、今のところはただの流行で終わりそうですね。
ほんと、お前のような一日遅れの記事しか書かないアフォがいるよな。
今、タイガーマスクの間で流行してるのは「児童養護施設の人に聴取」これ。これをやれば、大体需要と供給にマッチできる。
しかも、金銭を渡す訳じゃないから園側に贈与税の支払いなどの負担が掛かることもない。渡すものはあくまで換金は不能なもの(商品券とかかなり怪しいと思うけどな)から法律的な問題もなし。タイガーらはそこらへんちゃんと考えてる。角度とか。
ただし、ランドセルはタイガーマスクのシンボル的な意味合いで少量搬入しているケースも多い。(まあ、商品券だけってのも見た目寂しいしな)
お前はみてるだけの人間だからそれくらいしか考えてないのかもしれないけどな、実行しようと思い立つ人間は行動力と思索力と社会性が備わってたりするんだよ。
善意に対して「コレジャナイ」というのは自由だが、それは後々自身の疵となることは、おばあちゃんを悲しませた経験のある増田なら、一番知っていることだろう?
現金を渡したとする。さて、その園の経理はどう処理すればいいだろう?
ということを考えたらば、単純に金を渡すよりも「御用を聞き」「物資を調達する」初代(いちばん最初にランドセルを寄付した)タイガーマスクがあるべき姿だとは思うね。
これを機に、児童養護施設専用のSNSみたいなのができて、そこで全国のタイガーマスクらに「○○が欲しい!」とかねだるようになってくれるとすごくありがたいのだが。
匿名でランドセルや文具やおもちゃを児童養護施設に寄付する行為が、「いま流行っている」。
物を施す満足感と流行りに乗っかる楽しさで、二度おいしい行為であるらしい。
一方、貰った人達は、本当に喜んでいるんだろうか。
うちにも今度1年生になる子がいて、先日一緒にランドセルを買いに行った。
これから6年間背負うランドセル、何色にしよう、どのメーカーが背負いやすいかな、って嬉々として吟味してた。選んでることが誇らしげでもあった。
伊達直人のランドセルが届いた児童養護施設の子供達は、その楽しみを奪われちゃったんじゃないの?
そもそもその子達のランドセルは「親族が準備できない場合は措置費の中の入学準備金(3万円余)で賄っている」とのこと。
おばあちゃんとデパート行ってピンクのランドセル買ってもらおうって楽しみにしてたのに、強制ダサ赤ランドセルを6年間背負わされたとしたら…。
文具やおもちゃに至っては、たぶんいらないと思う。このデフレの世の中で、いくら施設にいるからって、いまさらそんな日用品欲しいわけがないだろう。
物をあげるのが好きな人は、それが自己満足だという自覚がない。自覚がないからこそ物をあげて満足できるんだろうけど。
そんなに買いたい欲求が強いなら自分のものをいくらでもかえばいいじゃない。
今時、物は、買う時の満足感だけが重要で、そこを他人に奪われた物なんて半分ゴミだよ。物をもらうことは、気に入らない新品を捨てて買い直す罪悪感もらうってことなんだよ。
頼むから、誰が何を必要としてるのかちゃんと確かめてから自己満足して下さい。
あと児童養護施設の人はこの機会に、施設が本当に必要とする継続的な支援の方法を世間に知らせてほしい。
ほかの施設も、児童養護施設だけじゃなくこっちにも助けが必要な人いますよって、アピールしてほしい。
また伊達直人、とニュースが伝えるたび、親と暮らせないうえランドセルまで選べないのか…って傷つく子が一人もいないことを切に切に祈っている。
テレビで見たどっかのタイガーの手紙に「これは遺失物ではなく寄付です」と書いてあったのがあったけど、
その人はそこまで配慮して書いたのか。
そう書けば寄付扱いになるのかな?
つーかランドセルじゃなくて現金なら遺失物扱いになっても3ヶ月とっておけるよなあ。使い道も広いし。
どうせなら現金にすればいいのに
「タイガーマスク」善意続々、贈り物全国で : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110110-OYT1T00831.htm
匿名で児童養護施設などに寄付をしている人がいるらしい。記事だけを見ると単純に「良い話だなぁ」と思うのだが、ネット上の意見を見るとその行為自体には否定的な人が多い。何しろ自分も「良い話だ」と思う反面、言葉に出来ない鳥肌が立ってしまったことをここに告白する。何故素直に肯定できないのか。
色々考えたが、一番の理由はその行動自体が不審者的で変質者的だからだろう。
現代では、見返りを望まない善意は、奇異に捉えられてしまうのかもしれない。個人で渡すことにより、逆に妙な噂話を立てられることもある。『何が目的なんだ?』という目を向けられてしまう。何も求めてなんていないのに。ただ、誰かに優しくしたいだけなのに。
匿名で送る一番の理由はたぶんそれだろうが、匿名で送ることにより、その行為自体の不審者性、変質者性はいっそう高まってしまう。
例えばもし家庭にランドセルが匿名で送られてきたら、両親は『ランドセルに精子が塗られているんじゃないだろうか』とか心配してしまうだろう。実際に養護施設に送られてきたランドセルにはそういう痕跡なんてないだろうが。
だからこのタイガーマスク運動というものは、無償で寄付をする代わりに、世間に対して『不審者的、変質者的な『善意』を受け入れることが出来るかどうか』を間接的に問うているのだと思う。タイガーマスク本人にその意識は無かったにしろ、結果的には世間に対してそれを問うている。そして世の中には『受け入れて欲しい』という思いに対して強い拒否感、拒絶感を感じる人がいて、そういう人が否定的になっているんじゃないだろうか。
相談所の担当者は「子どもたちがすぐ使えるものでもないし、『OSK32』が差出人を意味するかも分からず、寄付として扱うべきか判断ができない」。拾得物として署に届け出た。
asahi.com(朝日新聞社):まだまだ続く児童への贈り物 今度は「OSK32」から - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0111/TKY201101110122.html
うむ。
赤穂署によると、ランドセルは遺失物扱いになるためすぐに子供たちの手に渡ることはなく、持ち主が判明しない場合は3カ月間、同署で保管された後、県の所有物になるという。
赤穂署はランドセルを置いた人を探す一方、今後の扱いについて協議。松尾俊広副署長は「善意の行為と思うので、子供たちに渡すためにも名乗り出てほしい」と呼びかけている。
兵庫にもタイガーマスク、警察署にランドセル - 社会 - SANSPO.COM
http://www.sanspo.com/shakai/news/110110/sha1101101611011-n1.htm
※時事http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011011000147ではこの記述が削除されたみたい。
うん。
遺失物(いしつぶつ)とは、所有者が意図的にではなくうっかり落としたり、置き忘れたものをいう。
遺失物 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%25E9%2581%25BA%25E5%25A4%25B1%25E7%2589%25A9
第六条 警察署長は、提出を受けた物件を遺失者に返還するものとする。
第七条 警察署長は、提出を受けた物件の遺失者を知ることができず、又はその所在を知ることができないときは、次に掲げる事項を公告しなければならない。
一 物件の種類及び特徴
2 前項の規定による公告(以下この節において単に「公告」という。)は、同項各号に掲げる事項を当該警察署の掲示場に掲示してする。
3 警察署長は、第一項各号に掲げる事項を記載した書面を当該警察署に備え付け、かつ、これをいつでも関係者に自由に閲覧させることにより、前項の規定による掲示に代えることができる。
4 警察署長は、公告をした後においても、物件の遺失者が判明した場合を除き、公告の日から三箇月間(埋蔵物にあっては、六箇月間)は、前二項に定める措置を継続しなければならない。
遺失物法
第二百四十条 遺失物は、遺失物法(平成十八年法律第七十三号)の定めるところに従い公告をした後三箇月以内にその所有者が判明しないときは、これを拾得した者がその所有権を取得する。
第二百五十四条 遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は、一年以下の懲役又は十万円以下の罰金若しくは科料に処する。
いろいろめんどくさそう。
ぼくは学校がすきです。ともだちがいるし給食もおいしいのでたのしいです。でもひとつだけいやなことがあります。それはいじめです。
ぼくはいじめられたことはありませんが、3年生のとき、ともだちのたかはしくんがいじめられました。たかはしくんは学校に来なくなりました。ぼくはいまでも遊ぶけど、たかはしくんはがっこうの話をするとかなしそうな顔をします。だからぼくはいじめがきらいです。
4年生のとき、クラスメイトのおかだくんがいじめられていました。ぼくはいじめをやめさせようとしました。でもどうすることもできませんでした。いじめっ子のいわたくんに話しかけても話を聞いてもらえません。おまえもいじめてやるぞと言われるだけです。いじめを知っているクラスメイトに話しかけても同じでした。自分もいじめは好きじゃないんだけど、つぎに自分がいじめられるのが怖いから知らんぷりしなきゃいけないんだと言われました。
おかだくんも学校にこなくなりました。いじめがはじまってから止めるのはむずかしいとぼくはわかったので、つぎのいじめられっ子が決まるまえになんとかしなくちゃと思いました。そんなとき社会の授業で国連のことを習いました。これだ!と思ったぼくはさっそくクラスメイトを説得しにまわりました。
クラスメイトを説得してまわってから1ヶ月後。いじめっ子のいわたくんはまた誰かをいじめようとして、ターゲットをさがしはじめました。そしていわたくんは、ながたくんをいじめはじめました。でも今度はいままでとちがっていました。いわたくんがながたくんをいじめると、いわたくんの教科書やランドセルがかくされたり、いわたくんのつくえに落書きされるようになりました。やったやつだれだよ。おまえか。おまえか。いわたくんはまわりのクラスメイトにどなりました。でもみんな知らんぷりです。みんなもだれがやったのかなんて知らないんですから。
ぼくがみんなに説得したのはこういう内容です。みんなもいじめがきらいなら誰かがいじめられたらいじめっ子に仕返しをしようよ。それにこれに入れば自分がいじめられたとき、みんながきみを助けてくれるんだよ。やることはかんたん。ぼくが今度、いじめ同盟に入ってるクラスメイトのリストを持ってくるから、その子がいじめられたらいじめっ子に仕返しをするだけ。仕返しといっても本人にちょくせつやるわけじゃないから大丈夫だよ。本人がいないときにこっそりひとりでやるんだ。あとぼくに何か相談があるときもひとりっきりできてね。
みんな半信半ぎだったし、なかには同盟に入らないでようすを見るだけのクラスメイトもいたけど、いじめっ子のいわたくんがいじめられるようすを見てからは、じぶんも同盟にいれてもらおうといそいでやってきました。同盟に入っていればみんながまもってくれるけど、同盟に入ってなければだれもまもってくれないのが、よくわかってたからです。
いわたくんは学校にこなくなりました。まずはじめに教科書をかくしたのはぼくだけど、それ以外のことは知りません。半信半ぎだった同盟が本当に実行されているのをみて、みんなすすんでいじめるようになりました。ランドセルをカッターでぼろぼろにしたり、机にマジックでわるぐち書いたり、体操服をトイレのべんきにつけこんだり。あのつよいいじめっ子を自分の手でいじめることができるのがみんな楽しいようでした。
それからはいじめはありません。いじめっ子もいなくなりました。いたのは、こんなすばらしい同盟のわるぐちをいったわるいクラスメイトだけです。いじめかどうかを決めるのは同盟をつくったぼくです。みんなぼくにいじめかどうかを聞いてきます。最初にきめたように相談するときもみんなひとりです。だから他のクラスメイトと一緒にぼくのわるぐちをいってたわるいクラスメイトもすぐにわかりました。そしてわるいクラスメイトは学校にこなくなりました。いじめっ子も、わるいクラスメイトもいなくなって、クラスは平和になりました。これがぼくの小学校の思い出です。