はてなキーワード: ナンバーガールとは
カラオケでリライトしまくった世代にとってナンバーガールの名前は「あの伝説のバンドね」という印象だろう。
この世代で楽器を持ったことがある奴なら、聴いたことはなくても名前は知っているはずという存在だ。
当時は飾り気のない、そこらへんのお兄さんが楽器を構えているようなバンドが人気を集めていた。
今考えるとそれはAIR JAM世代やモンパチ、HYといった沖縄出身バンドの躍進でインディーズレーベルの存在感が増したことや、
ヴィジュアル系ブームに代表されるオーバープロデュース気味だった90年代からの反動があったんだろうと思う。
ELLEGARDENやバンプ、ベボベはまだしも、アジカンやフジファブリックの志村は飾り気のないというラインを超えて、モッサい予備校生にしか見えない出で立ちだった。
思えば一世を風靡したオレンジレンジも全身スウェットでMステに出たりしていたな。
というのが中高生にとってのカウンターカルチャーになっていた。
アジカンやくるりはメガネロックという雑な括りでメディアに取り上げられることもあった。
当時はバンドのフロントマンが公務員のような銀縁眼鏡をかけているというだけでも斬新に映ったのだ。
そのメガネロックのはしりとして紹介されていたのが、僕がナンバーガール、通称ナンバガを知るきっかけなのである。
当時既にYouTubeやWikiが浸透していたので、聞きなれないバンド名を見聞きしたら僕はすぐにググっていた。
ヒットしたサイトからアーティスト写真と簡単なプロフィールを見るところでは、
華奢な女性がギター、アンガールズ風のきのこ頭がドラムらしい。かっこいいと思った。
僕が思い出す限りではWikiを見ると
「eastern youthやbloodthirsty buchersらと並び、ピクシーズなどに代表されるオルタナティブロックを日本でいち早く取り入れた」とか
「向井のシャウトは『喉を切り裂いたようだ』と評された」とか、
「くるり、スーパーカー、中村一義と共に97年世代と呼ばれた」など、
よく知らないアーティスト名ばかりでいまいちピンとこなかったが伝説ぽいフレーズのオンパレードで胸が高まった。
そしてつべで「透明少女」「Omoide in my head」の動画を見てみたのだがその時はあまり良いと思えなかった。
理由は単純で「School Girl Bye Bye」「School Girl Distotional addict」収録の曲はどれも構造が複雑なのである。
AメロBメロサビというポップスに慣れきった中学生にとって「透明少女」はアブノーマル過ぎた。
ボーカルにまで楽器用マイクを使い、福岡にある馴染みの貸しスタジオで録ったローファイな音もとっつきづらかったのかもしれない。
終始キメキメな「U-REI」
無闇矢鱈にソリッドな「鉄風、鋭くなって」
アルバム「SAPPUKEI」は特に何回も何回も聴いたお気に入りである。
無論他のアルバムもZAZENもToddleもVolaもよく聴いたが。
イントロがいい。
すごくいい。ギターの響き?専門的なことはわからないけど、そこはかとないエモを感じる。演奏から滲み出る哀愁というか、明るさというよりはがむしゃらさ。
それは向井の「俺押さえ」と、ジャムセッションをする上での向井とギターのひさ子のコンビネーションによるところだ。
ナンバガにおいて向井はローポジでコードをカッティングしていることが多いが、
理論上ではジャズで用いられるセブンスコードと似た響きを持つこれらのフォームは「俺押さえ」と呼ばれている。
その「俺押さえ」にジャムセッションを重ねていく過程で、ひさ子がギターの音を補完すべくハイポジで弾きまくるわけだが、
何せ向井オリジナルのコードに絶対音感があるわけでもないひさ子が勘で合わせていくので結果的に分数コードになっているときもある。
複雑でごちゃつきながらも何故かスムーズに聞こえる、そんな奥行きのある響きを作り出せる。
つまりナンバガはバッキング主体で深いディストーショントーンという疾走感あるオルタナのスタイルにのっとりながら、
なんとなくわかる。
BLUE ENCOUNTや04 Limited Sazabysとか
Mrs. Green Appleとか何かみてくれいいもんな。
確かにかっこいいんだけど。
すごい。すごいぞナンバーガール。
この時代に改めてナンバガを褒めちぎられているの、すごくテンション上がった。
現役高校生だとするならば、一昔前の、
ボーカル遠っ!
第一印象はそんな感じだった。バンド名は有名だからかなり前から知っていたけど、ついこの間名前を目にする機会があって、それで聴いてみようという気になった。
私が普段聴く音楽といえば、最近で言えばRADとかストレイテナーとかアジカンとかで、90年代後半の音楽はほとんど知らない。何せ自分が生まれた年代辺りの曲なんて、よっぽど機会がない限りは耳にしないからだ。
最近の音楽はレコーディングの質が上がったのと、オーディオ機器の性能の向上でめちゃくちゃ鮮明に音が聞こえる。細部まで気をつけて聴いたりすると息遣いまで聴こえたりする。ていうかそれが当たり前の時代に育ってきた。
そこにやってきたナンバーガール。
なんだこれ!!!?音質以前に声遠くない?!!仕様なのかこれは……でもこれこそが現代のあらゆるロックバンドに影響与えたナンバーガール……
最初はそんな感じで、このバンドの良さが正直わからなかった。確かに今のバンドの土台のようなものは感じるけど、ワンオクみたいな衝動とか、スピッツみたいな軽やかさとか、万人が掴みやすい個性はなくない?
そんなこと考えながら適当に流してて、何曲か聴いた辺りでハッとした。
イントロがいい。
すごくいい。ギターの響き?専門的なことはわからないけど、そこはかとないエモを感じる。演奏から滲み出る哀愁というか、明るさというよりはがむしゃらさ。
この、何とも言えないクセになる感覚の正体が知りたくて、何回も何回もリピートする。歌詞は相変わらずわからない。でもなんでだろう、すごく、ノれる。そしてがむしゃらなだけじゃない。基本的にはすごくクールだ。演奏のクールさが、ボーカルのシャウトといい感じに調和してる。声質がそんなに重くないから、曲の雰囲気自体も暗くなりすぎなくて丁度いい。
すごい。すごいぞナンバーガール。
実はここまで書くのに、すでに5周ぐらいは軽く聴いている。聴いても聴いても、どこか正体の掴めない音をしているからだ。それが知りたくて、また何度も聴く。耳に残る演奏のかっこよさは、どれだけ聴いても色褪せない。
最近流行りのバンドは、何となくやっぱりルックスで売る傾向が強くて、その上音も薄っぺらくて心に響かない。別にルックスだけで売ってる訳じゃないけど、どの音も同じように聴こえるのだ。青春の眩しさを歌った、あの純粋なロックの衝撃を求めていた私にとって、ナンバーガールは、革命家だった。
高校3年の今、若くて凡庸で純粋な青春の賞味期限は近い。受験勉強に必死な人や、はたまたそんなの関係ない人もいる。それぞれの高校最後の一年を過ごしている。苦くても、幸せでも、楽しくても、それでも年が明けたら、みんな揃って卒業なのだ。だからこそ、あと4ヶ月の間に、少しでも多くの高校生が、高校生である間に、どうかナンバーガールを聴いてほしい。そして、青春の結び目として、ナンバーガールを思い出の曲に加えてほしい。そのくらい色褪せないバンドだと思っている。ぼんやりしたセンチメンタルに訴えかける、思わず走り出したくなる、そんな力がナンバーガールの曲にはある。大人になってから思い出してほしいバンドだと思っている。だってナンバーガールはかっこいいからだ。
だから青春真っ只中の、若い君たち私たちよ、ナンバガ聴いて熱くなれ!胸の奥まで!
追記
RADの知名度は某映画でかなり上がったので大抵の高校生はわかる。テナーとかアジカンとか、最近好きになったバンドばかりを挙げてしまったことは申し訳ない。確かにミスチョイスでした。ワンオクとかドロスが入り口で、そのまま好きな方面を探してたらアジカンに行き着いた、が正しい。
該当するバンドが好きな方にとっては悪口になると思うのでご了承ください。
僕は音楽を聴き始めてこの方、基本的にロックバンドを好んで聴いていた。
中学生の通過点ともいえるアジカンから始まり、やはりバンプは高校で一度離れたり、
洋楽はやっぱりグリーンデイがスタートだったり、ロキノン系聴いてる自分カッケーになったり。
至って典型的な「一歩外れていると思いきや何だかんだ王道系」な人間だった。
基本的に大体のロックバンドは好きで、わざわざお金を払ってウォークマンに入れるほど好きでないバンドもあるけど、
大体は好意的に捉えていた。
僕は今年で23歳だけど、早くも最近のバンドに着いていけなくなってしまった。
ここでタイトルに戻る。
僕がハマれないバンドは何個かに分類されるので、書いていきたい。
援助交際とか、銀亜鉄道の夜とか、透明少女とか、売れた曲はやっぱり売れるだけの理由があって、
僕も評判通りその辺の曲は好きだけど、そうでもない曲に関してはとことん合わない。
2.甘い声のバンド
ここ最近はとにかく多い。
甘い声というと語弊があるかもしれない。
そうでないとわざわざ聞きたいって気持ちにならない。
そもそも、この辺のバンドに共通して言えるのは「女性人気が高い」という事。
やっぱり、ハマる周波数というか、その辺がやっぱり違っているんだろうか。
3.明るすぎるバンド
ここ最近で言えばWANIMAだろう。
僕はパンクバンドも好きだ。それこそ、WANIMAの師匠ともいえるハイスタだって好きだし、
その辺と何が違うのかというと、とにかく明るいのだ。
歌詞を聞いてもらえば分かる。
CMでタイアップしてるから余計に、というのもあるかもしれない。
「曲調は激しいけど歌詞は案外ウジウジしてる」要素が薄くて
受け入れるまでに時間がかかっているだけかもしれないけど。
4.ヤバTとかキュウソとか
なんでここだけ名指し?となるかもしれないが、
ヤバTあたりはちょこちょこ対象をおちょくったような曲を出す。
でもそれは内輪でのイジリ合いみたいなもんで、
許さん、絶対に許さんからなみたいなリアルガチな代物ではない。
僕が人生がうまくいってなくて、音楽にある意味救いを求めている面があるから
こんな感想になるのかもしれない。
僕としてはそんなすかしっぺみたいな軽いディスじゃなく、
勢いよく出るウンコみたいな痛快なディスを含んだ曲が好きだ。
だから「ウケる~w」みたいなリアクションを人前で取れるような曲は
イマイチ好きになれないのかもしれない。
ここまで読んでもらえれば分かるが、これは単に僕が偏屈なだけだろう。
バンドについてだからこの程度だけど、EXILE系についてとかだったら
エライ有様になってると思う。
人前では寛容でいることが重要だ。
「俺がそこにいた!」
初期ナンバガの歌詞を振り返るとこういう文体が多い
『omoide in my head』の「17歳の俺がいた」もそうだ
これは一人称の文に見えるが、実は三人称だ
俺“は”ではなく俺“が”と書くためには
「俺」という登場人物を第三者視点から見る必要がある
つまり三人称視点で登場人物としての「俺」を描写していることになる
だが、この三人称の語り手は客観的ではない
いた、ではなくいた“!”と主観をむき出しにする
語り手もまた“俺”であることを忘れてはいない
まとめると語り手「俺」が登場人物「俺」を主観的に記述した三人称、となる
自分自身を物語内の登場人物として捉え直すのは、メタ的だ
向井は映画監督を目指していたそうだが、
カメラのファインダーという隔たり越しに登場人物を描写する手法もうなづける
だが、メタ視点から正確に写そうとすればするほど、対象からは離れてしまう
その対象が持っていた熱や存在感、当事者性はどんどん薄まるだろう
そのメタ的な隔たりによる当事者性の薄まりを向井は冷たいと感じた
そういった客観性の集合体こそが「冷凍都市」であり
それを攻撃するための当事者性の象徴こそが「性的衝動」となる
語り手の俺が登場人物としての俺や少女を描写する、という二重性
正確に描写しようとカメラの精度を上げるほど当事者性が薄れるジレンマ
こうした二重性を自覚した上で破る矛として性的衝動を用いたのが
初期ナンバーガールの詩の原理なのではないか
ではザゼンだとどうなのか
カメラの技術が進化すれば、もはや人の目で見ているのと変わらなくなる
そうした現在において「メタフィクション批判」はもう古い、リアリティもない
向井秀徳のカメラ技術もこなれてしまった
だが、世間の当事者性は弱まるばかり、性的衝動を用いて復権させなければいけない
(よみがえる性的衝動)
性的衝動は二重性を攻撃することでこそ、その強さを示せるのだ
だから語り手/登場人物という入れ子構造を使わずに二重性を作らなければいけない
そこで向井はリフレインに注目する
同じ場所で言葉を何度もダブらせることで、反復が差異を生む
フィルムの一コマ一コマを切り分けるのと同じだ
(繰り返される諸行無常)
こうして場所を移すことなく二重性を生み出すことに成功した
ナンバガ時代の二重性が
登場人物としての俺を乖離させることで生み出す客観的二重性だとすれば、
ザゼン以降の二重性は、単独で生み出せる主観的二重性といえるだろう
向井はカメラのシャッターを切らず、
ただ自分の目のまばたきでフィルムを切り分ける方法を見つけたのだ
とはいえこの主観的二重性は『omoide in my head』の時点で芽生えている
思うに、福岡時代は当事者性=性的衝動の強さを無根拠に信じていられたのではないか
カメラを手にしたばかりの少年にとってはどんな景色も自分のものに思えるように
だが東京に来て、描写の対象性という問題に直面して当事者性を鍛え直す必要が生じる
そうして鍛え上げた結果、福岡時代のような信頼を取り戻しつつあるのが
現在のザゼンボーイズでの素朴な描写に至るのではないか
ブログもツイッターもやってなくて書く場所も聞いてくれる相手もいないのでここに
誰かツッコミ入れてくれ
谷川ニコといえばわたモテの方が有名だけど個人的にはナンバーガールの方が好きなのよね
わたモテはリアルに顔そむけたくなっちゃうっつーか心がえぐられるから、面白いとは思うけどあんまりすすんで読みたくなる感じではないんだよな・・・
アニメで恥をかくシーンが苦手ってのがたまにバズるけどまさにアレだわ
見てるこっちの心まで痛くなる
増田の流儀は分からないから、無粋な返ししか出来ないけどごめんな。
大元の記事はこのおれ(元増田)が書いたんだ。おれが青春を送ってた時期の作品が「名盤」になったからな。
それで歳を取ったなと思って、ふとフィッシュマンズ『空中キャンプ』がどんだけ聴かれてるか調べたんよ。
で、今の若い子が「これはロック史に残る名盤だから聴けないのは音楽が分かってない証拠」とかね?
そんな風に言われてプレッシャーを抱えているとしたら気の毒だなと思ったの。
おれは映画も観るけれど、散々他の「映画通」とされる人に言われたよ。「キューブリックも観てないのか!」とかね。
でも、その「映画通」と絶交してから他の通の人と仲良くなって、そういう人たちはそんなこと言わないのよ。
むしろ今のおれみたいに「観た方が良いよ」と薦めるけれど「必ず観ろ」なんてことは言わないの。
ああ、本当の通っていうのはこんなものなんだなと思ったよ。
だから、これは本当に「要らんお節介」かもと思ったけれど音楽は映画より馴染みが深いジャンルなんで。
映画におけるおれ(キューブリックを理解出来なくて苦悩していたおれ)みたいなヤツがひとりでも減れば良いかなって。
そんな気持ちで書いたの。
それはそれとして、真面目に調べると「邦楽は凋落した」って意見も見掛けるけれどワケ分からんね。
九十年代はフィッシュマンズやスピッツやミスチルが居た。もっと沢山名を挙げることも出来るだろう。
ゼロ年代はおれはくるりやナンバーガールやスーパーカーや椎名林檎を聴いた。
テン年代は最近の邦楽は追い掛けられていないけれど、さっき書いたアジカンとか、そういうミュージシャンがいる。
どの時代にもそれらの時代を代表するミュージシャンは颯爽と現れたわけ。
それは過去の音楽の焼き直しなのかもしれん。ナンバーガールがフリクションを焼き直したように。
でもおれにとって唯一無二の経験だったことは確かに言い切れるし、若い世代もそんな上の世代の「陳腐」とかいう言葉は気にせずに聴けば良いんじゃない?
2000年、俺は東京にいた。
新たな生活。
そんな期待を抱いて俺は東京にやってきた。
淡い幻想は一瞬にして打ち砕かれ、
期待とは真逆の最低な日常を、一日、一日と俺はなんとか懸命に生き抜いていた。
5限の講義を受け終わった後、
ただあてもなく街の中を歩きまわり、
気づくと俺はタワーレコードの中にいた。
ひとつのポップが視界に入った。
ポップの内容は確かそんなものだったと思う。
地元が一緒でなんとなく惹かれたのか、
再生。
煩わしいサウンド。
下手くそな歌。
しかし、何かの気の迷いなのか、俺はそのCDを買ってみることにした。
あるいはバイト代が入ったばかりで、気が大きくなっていたからかもしれない。
正確な動機を思い出すことはできないが、
おれはそのCDをレジに持って行き、幾ばくかの金を支払いそのCDを手に入れた。
本当に暇さえあればずっと聴いていたと思う。
偶然にも気の合う友人ができ、
そして、あんなにも嫌っていた日常が楽しいものになっていった。
そして、日常生活が充実していくにつれ、
あの日々から15年。
仕事もそれなりに順調だ。
ナンバーガールのSAPPUKEI。
懐かしくなって久々にそのCDを聞いてみることにした。
轟音のギター。
やかましいドラム。
音痴な歌。
瞬時にあの日常が蘇ってきた。
気だるさ。惨めさ。
その瞬間、当時の感覚が生々しく蘇ってきた。
はっきり言って全く良い思い出ではない。
大きすぎる自我をかかえてのた打ち回り、なんとか毎日を必死に生き抜いていた。
常に周りと比較し劣等感に苛まれ、優越感を抱ける相手を必死に探し、
何とか自分を維持していた。
正直、思い出したくもない日々だ。
私は1985年生まれだが、この映画がプーさんとの初めての出会いだった。
このアメリカ製の映画には、日本語に吹き替えする際に配給会社が何社かあった。
そのため異なるパターンの吹き替え、翻訳が行なわれていたのだ。
やや込み入った話になるが、吹き替えには大まかに二つのパターンがある。
①BVHE版
こちらが現在に連なるプーさんの系譜だ。日本人の多くがこの吹き替えに馴染んでいることだろう。プーさんの声は鷹揚とした例のあれだ。
プーさんの闇の歴史ともいえるのがこちらだ。プーさんは①と比較するとやや衒学的な雰囲気でしゃべる。
この文章を書いていることから明らかなように、私は②で育った。
幼いころ、何度もこの映画を見返した。
大きく異なる部分は以下の通りだ
①ピグレット⇔②こぶた
①オウル⇔②ふくろう
①のほうは御存じおっさんみたいなかんじの声優があてられている。
(私は声優とか詳しくないしほとんどこだわりもないが、ここだけは②のほうが優れているのではないかと今でも思う。)
私はマイナーな方の吹き替えで育ったせいで、小学校の時に疎外感を味わったことがある。
しかし、ピグレットが何なのか解らなかったし、ラビットは何となくわかったがオウルも最初どのキャラのことか全然わからなかった。
私はみんながマガジンで『ゲットバッカーズ』や『GTO』を見ていた時、
私は週刊少年チャンピオンで『オヤマ!菊乃助』や『おまかせ!ピース電気店』を見る少年になってしまった。
ジャンプで言うと『ワンピース』は流し見て『封神演義』ばかり何度も見返した。
音楽もみんなが『175ライダー』や『ケツメイシ』を聴いていた時、『ナンバーガール』や『真空メロウ』を聴いていた。
他の分野についてもだいたいこんな感じだ。
見てわかる通り、ヴィレバンで個性を発揮する程度の大したことのない「こじらせ」なんだけど、
私のプーさん(というかこぶた)は、確実に、私の物の見方を変えたんだ。
毎日新聞が出してる小学生向けの新聞。ちなみに毎日中学生新聞っていうのもあって、そこに掲載されたナンバーガールのライブレポが『シブヤROCKトランスフォームド状態』のジャケットに流用されたりしていた。以上、余談。
小学生の時は昼休みのたびに図書室に駆け込むようなライフスタイルだったんだけど、そんなライフスタイルで6年もやってるともう読みたい本も無くなってきて、で、仕方無く毎日小学生新聞の日々の誌面を隅から隅まで読んでいたんだけど、その中にこんな記事。以下、要約。
私は子供のためのカウンセラーです。日々、日本各地の苦しんでいる子供達の家に通っています。昨日はある引きこもりの男の子と話をしてきました。その子は言いました。「先生。コピーってあるでしょ。コピーって、何度も何度も繰り返しているとだんだん文字がかすれて汚くなっちゃうでしょ。で、人間もさ、先生。生まれ変わるって言うじゃない。何度も生まれ変わって生まれ変わって、それで魂がかすれて汚れちゃうんだ。だから今の世界はこんな風に戦争とか貧困とか、みんなが憎しみあって、争いあって生きるようになっちゃったんじゃないかな。昔と比べて醜くなっちゃったんじゃないかな」。私はこの子の繊細な感受性に感動して涙が止まりませんでした。
的なことが書かれていて、それを読んだ俺はその場で毎日小学生新聞を破り捨てたい程の苛立ちを覚えたけれど、さすがにもう小学6年生だったから、そんな事はしない程度の常識は持ち合わせていたけれど、それでも20年近くを経た今になっても「何だったんだ、あの話は」と釈然としない気持ちを抱いている。まだ子供なのに、「現代の人間は醜い」と絶望する感受性。その感受性をあたかも美談のように語ること。強い違和感を抱いた。生まれて初めてかも知れない。あそこまではっきりと「大人も、物事を間違った捉え方をする事があるんだ」と意識したのは。
今の話をします。生まれ変わりを重ねるまでもなく、色々あって、結構な頃合でかすれて汚れた感が出てきた俺に子供が生まれたみたいで、まあ、何ていうか、善き事?幸せ?いや、どうなんだろう。歯切れが悪くなってしまうのは、俺が既に離婚しているからで、しかもおれ達の子供を産んだ元妻は既に別の男性と結婚していて、それでいて、元妻も、元妻の現夫も、すべてを納得した上で出産したんですって。
こんな風に他人事みたく言ったら駄目か。こういう時って喜んだら良いのかな、怒ったら良いのかな、悲しんだら良いのかな。喜怒哀楽がグシャグシャになる。このややこしい事態の背景には、元妻サイドにそれなりに事情があって、その事情(さすがにここでは書かないけど)を聞いた俺としては「頼むから産まないでくれ」とも言えず、かと言って「その子の親権を譲ってくれ」と言って良いのかどうかもわからないし、こういうケースで親権が貰えるのかもわからないし、って言うか多分無理だし、そもそも俺自身その子の親になりたいのかもわからない。まったく関心が無いわけではない。でも、もう元妻周辺のややこしさにも関わりたくない。子供の顔が見たい気持ちはある。でも、この気持ちは「こういう時、親は子供の顔を一目見たいと思うものだ」という決まり事ありきで生じている偽物の気持ちじゃないかという感覚もある。あと、元妻には会いたくない。100%俺が悪くて離婚に至ったので合わせる顔がない。
悲しさ。率直に言って、俺は結婚生活において色々な事を間違えてきた。結婚する前から色々と間違えてきたし、離婚した後も、今も、多分、色々と間違え続けている。間違え続けて、かすれて、汚れて、その結果、血を分けた子供に会えていないし、今後も真正面からは会えないだろう。この、どこにもやりようのない気持ちは悲しい。こんな文章を書く事も間違ってるんだろう。当事者が読んだら絶対おれが書いたってばれる。悲しい。恥ずかしい。子供に会いたいとまでは言わない。正直、会いたいという気持ちを実感を伴って抱くには至っていない。ただ、せめて、「人間は生まれ変わりを繰り返して魂がかすれて汚れた」なんて事を言い出してほしくないとは思う。
俺はかすれて汚れている。でも、それはおれ個人の罪に帰する汚れであり、俺の前世や、人類の罪に責任はない。だから、俺の子供はまだ汚れていない。すべての子供は汚れていない。生まれてきておめでとう。おめでとう。
ああ、君らは一様に面白くない。本当に、つまらない。ロクに酒も飲めず、リアルで他人を魅了する技能も持たず、普段キーボードを前にして語る勢いも、他人の目を見ればたちどころに失われる。服装も髪型もメイクもイケてなければ、ライブで踊り狂うこともない。そのくせ一丁前に音楽を語り、恋愛を語り、社会を語る。時に開き直り、自虐に酔う。(誰かに同情でも求めているのだろうか?)そして殴り合いの喧嘩もせず、無鉄砲なセックスに学ぶこともない。いつも鼻声でひそひそ話し、机上の理論を重んじ、実(じつ)を批評せずクソ下らない批評を二次批評し、バーチャル世界に安息を求め、それを「生」だと勘違いする。ついでにナンバーガールが好きだ。はっきり言おう。君らはキショい。
ごく稀に例外はいるが、普通、そんな奴に面白い文章が書けるわけがない。そしてマトモな文章を書けない代わり、安易な散文詩モドキか下らない雑記か「メタ批評」だか、何だか知らないが、分かりきった、まるで喜怒哀楽や生活や人生に関係のない文章を書く。世界を揺り動かすことなんて簡単なのに、それすら考えず、やろうとしない。ただひたすら小さなコミュニティでの同意を要求し、鬱をぶちまけ、インターネットで身に付けた(アホか)小さな小さな自信を拡大させて生きている。ねえ、ここには何もないよ。ネットなんて、唯のツールだ。
僕は金輪際「オフ会」なるものに出ることはないし、「メッセンジャー」なるもので見知らぬ人と話すこともない。時間の無駄だ。そしてこれは個人的な決別宣言であり、恐れ多くも「真理を突くようなもの」とは無縁のものだ。君らはこんなバカの言うことに何ら惑わされることなく、君らの創り上げた世界で安心して楽しんでいればいい。本当に楽しんでくれ。おそらく、それが真実だ。
ナンバーガールというバンドは、向井が中心にこそいたものの、各メンバーが確実に「自分のプレイ」をしていた。演奏技術などもまあまあにあったと思うが、ザゼンボーイズの面々には及ばないだろう。だけどその分、いいようの無いスリリングがあった。たった4人の普通の男女のどこにあれほどのエネルギーがあるというのか。
一方のザゼンボーイズも、演奏技術も高く、スリリングさ、テクニック、独創性、どれをとっても一見ナンバーガールより高いところにいるかのようにみえる。確かにそうに違いない。確かに違いないのだが、ライブを見ていてもナンバーガールに見た「どこまでも突き進めそうなカンジ」がない。非常に頭の悪そうな言葉だが、ナンバーガールのライブはこの形容が一番しっくり来ていたと私は思う。ザゼンボーイズのほうが演奏においてはフリーキーではある。それでも、そのフリーキーささえ、向井が決めたことになんだろうと思うと、フリーキーではなくても個性があふれ出ているナンバーガールの演奏に身を委ねたくなる。
この四人なら、どこにでも行ける-。そう思わずにはいられないOMOIDE IN MY HEADは、ザゼンボーイズには奏でることはできないのだろう。
http://akz.g.hatena.ne.jp/akz/20070104/1167841878
そこに載るモデルたちがオシャレに関心のある若者に影響を与えていた。
まだネットが普及してなかったのも大きいと思う。
詳しくはこの辺を参照してよ。
http://blog.livedoor.jp/hardcace/archives/50527382.html
彼らをこぞって持ち上げたことで、多感な少年少女の選ぶ
刷り込みのようにカリスマ性を得て
人気が根強いものになったんじゃないかと思う。