はてなキーワード: 教養とは
「こんな役に立つことがあるから小説を読むといいよ!」と言われると「純粋に楽しみたいから小説を読んでいるのであって、役に立たせるつもりで小説を読むのは純粋な楽しい読書体験を得られなくなる!」とプンスカしてしまう。
自分が読むときはそのスタンスでよかった。しかし妻が懐妊し、いつの日か子どもに本を読んでもらいたいと思った途端に信念がぐらついてしまった。
せっかく本を読むなら教育にいい本を読んでほしい!
しかしこれは邪念だとわかっている。親が子どもの読む本を自由にしようなんておこがましいとは思わんかね……(本間先生はそんなこと言わない)
そもそも子が読書を好むようになるかもわからないのだ。しかし願わくば、いつの日か私の本棚に興味を示してもらいたい。それだけで嬉しくなってしまうだろう。
ちょくちょくツイッターやらなんやらのインターネット空間の場で、日本の学校教育(特に公立小中学校)が個性を認めない!学力が正当に評価されない!みたいな話が流れてくる。
まあ実際、そういう個性認めないというか認められにくいというのは場所によってはけっこうあるだろうし全体的には事実なんだろう。
ここで同時に話としてついてくるのは、「日本の教育は底辺(あえてこういう表現をする)に合わせてるせいだ」とか「頭のいい子をそいつらと別に頭のいい子の都合のいいように指導しろ」とか「底辺は底辺だけ集めて指導して学力がある子は学力はある子だけで指導すればよい!」みたいなのとかである。大体は「個性を伸ばす指導をしろ!」みたいな感じでまとめられている。
自分にとってはこれがクソほど不快で大っ嫌いだ。吐き気がする。何が個性を伸ばせだ。気持ち悪い。
他にも、趣旨はさっきのやつと違うが、「暗記をするような教え方が悪い!」みたいな話もついてくる。これもクソほど大っ嫌いな話だ。
まあ、これらの言ってることは確かに理屈は通ってるし正しいかもしれんが、自分はこれらがクソほどに不快で気持ち悪い話ということは終始述べておきたい。
底辺の妬みって言われたらそれまでだが。
まず第一に、この手の話を言ってる奴らなんて勉強できない底辺の実態なんて一切知らないってこと。
基本的にインターネット空間でこの手の話をしているのって高校がいいとこ(ここでは偏差値55以上の高校)で大学も国公立!みたいな志望を持ってる/持ってたような奴らである。(もちろん、例外もある。だけど、この手の話をしている奴らって基本的にそういう「奴ら」なのだ。大学にいた/いることが前提のような「奴ら」なのである)
そういう奴らは基本的につまずくことはあれど、なんとかできる奴であって、底辺みたいに「なんとかならない」奴とは似ても似つかぬものであること、そして、インターネット空間でそういうことを言えるほどの知識、教養がある。
現実でも、インターネットでも、そのなんとかなる空間で集まっている人間が個性を伸ばす教育しろって言ってるのが実に滑稽で腹立つ。
こんな文章を読んでる奴は九九ができない大学生とか聞いたことあるかと思うが、この話のように本当に底辺は「なんとかならない」というのをわかっていない。
そして、これが大事な話だが、たとえ天才秀才でもこの底辺に「なりえる」こと。
これはつまり、今まで天才秀才でいた子が底辺になったとき、その子を見捨てることと同義なのだ。だって、そいつの周りには残った天才秀才しかいないし、底辺は実質そいつだけなのだから。
こんな馬鹿話、「ありえない」と思うだろう。実際、自分もそうだろうと「思っていた」。だって、自分が「そうなった」のだから。
自分語りになるが、自分は地方の高校の名門進学校に通っていた。成績は悪いか良いかと言われたら悪いと思っているけど、それでもテストで高得点をとることはあったし、とある科目でクラス一位をとることもあった(別にイキっているわけでもなんでもない)。
そこまではよかったのだが、高二の冬ごろから精神疾患を患い、授業にもでれず、勉強もできない底辺に成り下がった。本当の本当に勉強ができないのである、読んでも書いても聞いても理解できない、本当に地獄だった。あいにく、自分は教諭のサポート(注意しておきたいが、このサポートは「卒業」に関してのサポートである、決して授業理解のサポートではない)があって卒業はできたのだが、それがなかったら、高校を退学していただろうし、誇張表現抜きで最悪この世にはいないだろう。このように、底辺へのサポートがなければ、今の自分は存在しない。
「それはお前の話だし、そもそも、その底辺でもサポートできるような進学校行けていいじゃないか、何が悪いんだ」や「名門進学校行っている時点で底辺とは言わないぞ」みたいな反論があると思う。
自分が言いたいのは、「底辺を知らない」のことの問題であって、自分個人の問題ではない。確かに自分は名門進学校に通っていてサポートを受けたが、そこで、実際に勉強が一切できないという「なんとかならない」状態になったのである。底辺は「卒業」はできるが「勉強はできない」「理解はできない」。これが、底辺が「なんとかならない」ということである。それを理解してほしい。九九ができない大学生が典型的な「それ」である。
これを知らないで底辺を別に指導できるかって言われたら無理だろう。自分でもどうすればいい?と思う。経験していてもわからないのである。
そして、底辺に落ちた場合、拾ってくれるような人がいたらいいが、拾ってくれないとどうするんだ?底辺が一人増えたところで変わらんとか言われそうだが、いきなり一人増えると増えないとでは大きな差がある。「勉強はできない」「理解はできない」を治せばいいのかもしれんが、なんで「勉強はできない」「理解はできない」のか、理解したことあるのか?理由は精神疾患だけとは限らないのに。
まあ、こんな自分語りと藁人形論法はこれまでにして、次の話に移るか。
次の話は、田舎(ここでは、周りには田んぼしかなく、交通網もバスが少ししかないような地域のことを指す)に住んでる天才秀才をどのように底辺と分離するかだ。
ここで注意しておきたいのは、自分は田舎を侮辱する気は一切ない。両親、親戚が田舎出身なのもあり、侮辱するようなことは自分としては許せないし看過できない。ここで述べられている事項は田舎で本当にあることなのである。
まず、ご存知の通り田舎では人が少ない。そのため、子どもも少なく学校も本当に少ないし小さい。
で、基本的にそのような学校は「公立」である。都市圏に存在するような「中高一貫」という概念なんて存在しない。正直言って地方でもその概念が存在しない場合もある。
そして、田舎で一番の問題となるのが、周りに「進学校」というものも存在しないのである。
周りに「進学校」がないと、どうなるかわかるだろう。長い道を使って遠方の「進学校」に行く必要があるか近くで下宿する必要がある。
先ほどあった自分語りのように、自分は高校の名門進学校に通っていた。そこでも、田舎から片道一時間かけて通っている人はいた。
けれども、その人の通ってた小中学校はどのくらい「進学校」にいったのか?
もしかしたら、その小中学校は頭いい人が多く「進学校」に行っている人も多いかもしれない。
けれども、田舎は「子どもも少なく学校も本当に少ないし小さい」。
もし、そこで底辺と天才秀才を分けて指導しようとする、するとどうなると思う?
田舎の学校という人が少ない場所で、底辺と天才秀才を分けれるような人数いると思うか?
それに、もし天才秀才がいたとして、そいつを指導するための知識提供者が周りにいないだろう。たとえインターネットや本で情報を得ようとしても、地方や都市圏と比べて情報の取得量は格段に少ない。
底辺と分離しようとしたら、答えとしてたどり着くのは、田舎から「出ること」である。
田舎から「出ること」、それはつまり、田舎では底辺と天才秀才の「分離ができない」ということの意味そのものを指している。
そして、田舎には天才秀才というものは消えていく。人も消えていく。残るのはなんだろうか。廃墟か?
結局のところ、これの最終的に行き着く先は階層の再生産なんだろう。
底辺が残ることで底辺が同じ場所で一生を過ごし、そしてそこで新たな底辺を生み出す。逆に天才秀才は場所を移動して、その場所で新たな天才秀才を産み出す。同じ人間で同じ人権を持っているはずなのにこんな差が生まれる。
かなり暴力的な表現だが、親の文化資本と学力や成功の関係を見ると必然的にそう考えざるを得ない。
個性を伸ばす指導を行うためには田舎を捨てる必要がある。だって、田舎では底辺と天才秀才の「分離ができない」だもん。
自分は地方でも周りに進学校があるような割といいところに住んでたし、言うのもあれなんだが、中流階級(安定した場所に住んでたことと割と安定した収入を持った父親がいたのでそういう分類にした)であったので、本当はこのような田舎問題を語る資格はないかもしれない。
けれども、「個性を伸ばせ!」と言っている奴らは田舎問題のことは無視してスマートフォンやパソコンの画面を光回線が繋がった家や整備されたアスファルトの上または電車の中で見ながらこういうことを言っているのである。腹立たしい。
最後に、「暗記をするような教え方が悪い!」の言及だけして終わりにするか。
これね、一個目で言ったように底辺は「勉強ができない」「理解ができない」。たとえ、方法やその原理を教えたとしてもそれらができないせいでまともにその方法を使えない、いわば、馬の耳に念仏、猫に小判のような状態になっているんですよ。
だから、その底辺に有効な手段としては暗記が一番で、暗記がなければ底辺はまともに覚えることすらもままならない。
もちろん、一個ずつ丁寧に教えれば理解するかもしれんが、それにいくら時間かける必要がある?誰がやるの?そして底辺全員にできるの?これらの問題を全て解決できますかと言われたら無理でしょう。
感情のままにこれを書く。
つい先ほど母と喧嘩をした。発端はツイッターで話題の32歳腐女子の独白を私が母とシェアしようとしたことだった。
同じくオタク兼腐女子の私は母にひたすらその文章を読んで聞かせた。読み終わった後に「やばくない?」と聞こうと思っていた。共感を得ようと思っていた。だが母はファッションのくだりで遮った。こっちは興味ないの、と。なんで延々と読み上げるの、あんたは何が言いたいの。
なんで?そんなのこの内容を聞けばわかると思った。20歳になったばかりのお洒落初心者オタクの私にとってこれがどんなにゾッとすることか、普通ならわかるはずなのだ。
私はすっかり失念していた。母が自分の容姿や自己投資に無頓着なことを。50代の母はメイクをほとんどしない。使うものは免税店で売るようないいものだが、ファンデーションと口紅、それだけだ。育児で忙しいとかそういうことではなく、昔からそうなのだ。服だってユニクロの服を着たりする。私と服をシェアすることだって日常的にある。母はそういう人なのだ。自分のためにお金を使うことはあまりなく、かといって特に趣味があるわけでもない。ただの50代のおばさんだ。しかし、母は、美人なのだ。
自慢ではない。思い込みでもない。母はどうにも、美人なのだ。バランスの良い輪郭、ぱっちりとした二重で上品さをたたえた目、知的な眼差し、天然ものにも関わらず落ち着いた印象を与える整った眉、しっかりと通った鼻筋、大きすぎず、薄めで形のいい唇、笑ったときの頬も大人の成熟さが感じられて素敵だ。私はそんな母の顔が好きで、母に似ていると言われるのを待ち望んできた。しかし、そんな機会は一度もなかった。いや、嘘だ。一度だけある。授業参観で私の母を目にした同級生が、「〇〇ちゃん、お母さんに似てるね!雰囲気が!」と満面の笑みで言ってくれたことはあった。倒置法で期待をへし折られるのはなかなか辛かった。
そう、私はなかなかのブスなのだ。額が狭いくせに見まごうことなき面長顔、ふっっっとい眉、一重で笑うと目が消滅するひきわり納豆並みの小粒目、ほこりを取るという本来の機能すら果たせないレベルの短い睫毛、ヴォルデモートよりはましレベルの低い鼻は団子鼻のおまけ付き、ゴボ、黄歯、タラコの三重苦を備えた口、ろくに対策をしなかったせいで顔中にはびこるしみ・そばかす、手は小さく爪は短く指は太い。加えて大根足。主張の激しい尻。別にブスマウントが取りたいわけでもないし、私よりましですよ!なんて言ってほしいわけでもない。これが、私の顔、しいては体型を構成しているのだ。さらについ昨日自分の頬骨がだいぶ横に出っ張っていると自覚した。死にたい。
私は自他共に認めるブスだ。空港でパスポートを確認する係の職員が私のパスポート写真を見て軽く噴き出した時、私は笑われるレベルの顔面なんだと実感した。それ以来写真には極力写っていない。
話を戻そう。母は問うた。なんであんたがこの話をそんなに気にするの。あんたは周りの人を顔や容姿で判断するの。なんであんたは周りからの印象や意見に過剰に反応するの。大学に入ってから服だの髪だの化粧だのそんな馬鹿馬鹿しいことばかりじゃないの。偏りすぎてると思わないの。お母さんを見なさいよ。私なんて50過ぎてるのにろくに化粧もしないで安い服着て仕事に行くんだよ。
問いかけは次第に説教へと変わっていった。こういうことは今に始まったことではない。今までにもこんな議論は何度もあった。私がダイエットをすると言って食べる量を減らしたとき、私が整形をしたいと言ったとき、私が汚い男爪をなんとかしようとして爪を長く伸ばし始めたとき、私たちは同じことを繰り返した。そして私は決まってこう返すのだ。
「お母さんは綺麗だから」
綺麗であれば装備は少なくてもなんとかなるのだ。元々のスペックが高いのだから。美人な人は他人からの評価なんて気にする必要がないのだ。その顔や容姿でこれまでに不利益を被ったことがないから。美人は皆言う。人間顔じゃないよ、中身だよ。
うるせ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
わかってる。美人でも自分磨きを怠らない人がたくさんいるのも知っているし、逆にブスでもデブでも自分の外見に無頓着な人がたくさんいるのも知っている。ブスだとか美人だとか関係ないのだろう。母が言いたいことの一つはそういうことかもしれない。でも私が気にしてるのはそう言うことじゃないんだ。なんで「ただしイケメンに限る」みたいな言葉があると思ってんだ。幸せはお金で買えないって言うけどそれなりの幸せはお金で買えんだよ。それと同じだ。私は何も小松菜奈とかアンハサウェイみたいになりたいなんて言ってない。それなりの美貌がほしいんだ。あわよくば美人が自分磨きサボってるレベルの美になりたいんだ。写真で撮られても怖くないように、ちゃんと笑顔で笑えるようになりたいんだ。褒め言葉をお世辞じゃないかって疑うんじゃなくて、素直に受け止められるようになりたいんだ。
私みたいなブスがそこに追いつこうとしたらもっと努力を重ねないといけない。だから歯のホワイトニングを始めた。全身脱毛のカウンセリングを予約した。インスタでファッション、美容、いろんなアカウントをフォローした。爪のケアや二重にする練習も頑張っている。朝をオートミールに変えた。初めて万超えの服を買った。メイクの勉強も始めた。イエベブルベ骨格も自分なりに把握したし、ファッション用語の勉強も始めた。コテも買った。ちゃんとした美容院で髪を切ってもらった。シンプルなアクセサリーも買った。毎日顔のマッサージをしているし、前より姿勢に気を使うようになった。
母はそんなのまだ早いと思っているのかもしれない。だがそれらはみんな大学受験が終わったらやりたかったことで、みんな今より綺麗になるためにしたかったことで、それは自分から見た自分のためでもあり、他者から見た自分のためでもあった。他者から見た自分は醜くて嫌いだった。だから自分から見た自分のことも嫌いになった。そこからずっと抜け出せなくて、歳を重ねても自分でかけた呪いから離れられなくて、ずっと苦しかった。私は中身もできた人間じゃない。幼稚だし飽き性だし教養もない。可愛い子には嫉妬するし、僻んだりもする。心の狭さ、浅さもなかなかクズだ。承認欲求もすごい。強欲すぎて我ながら引く。
異性や芸能人は顔で判断したりもするし、正直に言うと現実の友人の中にも私よりもブスだと思っている子がいる。もっと言えばブスだし性格もよくないしで救いようがねえなって思っている人もいる。今の私と同類だ。
今よりもう少し綺麗になれたら、自分と周りの目に怯える必要のない心の余裕が持てるほどの美人になれたら、世の美男美女が言うことの意味もわかるような気がする。そしたら私は母のような素敵な人になれるのだろうか。
見た目が全てではないのは分かっている、が、中身が全てでないことも分かっている。
私は今見た目に、そして自分自身に完全に意識が向いている。母から見て私が足掻いている馬鹿馬鹿しいことは全て、私が中身にも、そして他者にも目をきちんと向けられるようにするためのステップなのだ。私は見た目を諦めてまで中身の段階へ行きたくはない。そこそこの美貌に満足できるその日を現状のゴールとして、私は私のやりたいようにやろうと思う。