はてなキーワード: ブッダとは
友人と語らい、カラオケにでも行き、趣味にかまけ、結婚でもする。
ニーチェやブッダやハイデガーみたいに強くなれる自信なんてないし、もう心はかなり限界になってる。
実存的な苦しみから逃れるには目先の生活にまるっきり埋没して忘却するのが一番。
そんな事は分かっているのだけど、根源的な不安と向き合う事が誠実な生き方に思えてならないし、手放したら「私」が終わってしまう気がする。
一切の妥協なき自己実現を諦めたり、初めから関心がない人から何を言われても全く心に響かない。
命そのものには何の価値もなくて、命を使って意志を持ち自分の信念を追求する事をやめたらそれは石ころと変わらない。
早起きして奴隷船に乗ってしたくもない賃金労働をして、残り少ない余暇も気力を充足させる気晴らしに充てるばかり。
より多くの余暇を得るために少ない余暇を使って金稼ぎのスキルを身につけるなんて、そんな回りくどい真似をするのももう面倒臭い。
世捨人になりたいと思っても、半端に内面化された社会性が邪魔をしてくる。
元増田さんはこの歌詞が歌われている曲を知りたいのだろうけれど、それは生憎存じ上げないのだが。
ただ、宗教というものを考えると、開祖がいる宗教は、その開祖が作ったわけで、それは「手作りの宗教」と言えるのかも知れない。そう思うと原始宗教のような自然発生的に生まれた信仰以外は全て手作りなのかも知れない。
はたして自分が神様を作ってそれを信仰することができるのだろうかということも考えてしまう。
俺は自己評価が低いタイプの人間なので、自分が作ったものには一定の不信感というか、どこか間違っているんじゃないかという疑念を完全に払拭することができない。仕事で客先に製品を納品した後も「何かチェック漏れがあるのではないか」と思っていて、客先から電話があったりするとドキッとしてしまう。しかし仕事であればそのくらいの用心深さがある方が良いとも思っている。
だから自分で神様を作ることができたとしても「この神様どこか間違ってるんじゃないだろうか」と思ってしまうだろうからうまくいかないだろう。信仰は盲信することが必要なのに。
しかし世の中には、自分の考えていることや自分のやっていることは完全に正しいと信じて疑わない人もいる。自己評価の高い人。彼らは、自分の行いや考え方の正しさを信じて疑わない。己を盲信しているとも言える。
そういう人が神様を作れば「これは完璧な神様だ」と何の疑いもなく思えるんじゃないだろうか。
しかし自分が作ったものというのは自分という創造主よりも下位にいるわけで、そうなると信仰のような気持ちを持てるだろうかという気もする。やはり神様は絶対的な上位にいてそれを崇めることで信仰は生まれるだろうから。ブッダもキリストもムハンマドも神を作ったわけではなく、神という存在は既にあって、その解釈や神様に近付くための教義を作ったといえるのかも知れない。
それでも敢えて神様を作るとすれば、どういうのがいいだろうか。世界中にある宗教の良いところを抽出して採用して、受け入れられない禁忌は除外していく、そういう方法が良さそうだ。
豚肉は好物なので食べてもいいことにしよう。
日曜日は遊びに行くか休みたいので、教会にいかなければならないみたいなのもなしで。
婚前交渉はあってもいいでしょう。ありで。
あまり自堕落にしていると軽い天罰みたいなお叱りはあった方が良いかもしれない。
こんな風に考えていくと、基本的に自由でいさせてくれて、堕落しそうな時は叱ってくれる。そしていつも暖かく見守ってくれる。そういう神様が良さそうだと思ったけれど、それってオカンやん。
簡単にみんな騙されとるやん。
もう人間もそれでええやん。
都市鉱山とは鉱山の周りに巨大な都市が築き上げられたもので代表的なものはハリウッドです。
はてなブックマークは疑問に思ったものを紹介しあうサイトでありインターネット集合知ランキングにて1976年に一位を受賞しており人力検索とも言われています。
パンティーは人を狂わせるとされるパン神と巨人を意味するティターンから作られた言葉でクソデカキチガイ発生装置です。
うおおおおお何を聞かれても真実を知る俺こそが全知全能オーディーンの眼ブッダの自意識アカシックをレコードする巨大な自動手記にしてこの宇宙の絶対的観測者だあばばばばぱ
宗教と神とは別のものだ この2つを混同している人は多く、さらにややこしいことには、宗教に無関心な人も混同しているが、信仰のある人も別の意味で混同しているということだ 宗教とは「神についての説明のいろんなバリエーション」程度のもので、本物の神には特定の宗教のカラーはなく、それぞれの宗教や神話などが成り立つよりずっと前から原理的に存在している 神は本来キリストともムハンマドともブッダともぜ~んぜん関係がなく、彼らよりずっと前にいて、彼らが去ったあとも、今も変わらずすぐ近くにいるのだ
だから無宗教や無信仰は簡単に成立するがその一方で神の存在そのものを否定することは難しい 人類は神(っぽいもの)の存在を認識する(したっぽい気になる)機能を持って生まれ、その機能は自分の意思で好きにオンにしたりオフにしたりできないのだ あなたが「神なんていない!」と主張しても、そもそもその主張に至るまでの思考そのものが、神の存在を認識する機能による神の存在への認識が可能にした発想なのだ この機能による神の存在の認識が無ければ、実はあなたは「神はいない」と主張することすらできないのだ 「神はいない」と考え主張するためには神の存在を認識する機能が必要不可欠であり、この時点で神の存在を認めているも同然なのだ いったい何を言っているのかって?
神はKFCのカーネルおじさんのようにどこかに誰かの姿をして突っ立っているわけではない どこにもいないからだ どこにもいないのだったらいないんじゃないかと思うかもしれないが、残念ながら存在してしまうのだ どこにもいないが、いるかいないかでいったらいつでもどこにでもいるのだ 意味がわからないと思うだろうか
誰も世界中隅から隅まで神を探したことはない 神はいるという人も神はいないという人も、誰も神の姿は見たことがないし、そもそも探してすらいないのだ ではなぜ神がいるとかいないとか言うことができるのだろうか?探してもいないのに。 わかりやすく言えば、神に対するすべての人々の主張の論拠というのは、各々の「世界観」に根ざしているのだ この世界には神がいる、この世界は神が作ったと考える「世界観」が彼らに「神はいる」と主張させ、また一方で、この世界に神はいないと考える「世界観」が彼らに「神はいない」と主張させているのだ おわかりだろうか 実はどちらも同じ概念を元に同じことを言っているだけなのだ
我々は世界の隅々を確認する前から世界全体について語ることができるのだ これはよく考えたらとんでもないことなのだ 現実社会ではどうでもいい日常の些細なことでも事実をきちんと確認してから語れみたいなことを言われるのが当たり前になっているのに、世界とか神とかいうもっと遥かに大事な(切実という意味ではない)ことについては、全然何も確認しないで平然と語っているのだ これは我々が持つ「世界観」という概念、感覚から生まれるものなのだ 我々は世界観という、全く何の根拠もなくて全然人それぞれバラバラないい加減極まりないものを持つことができるのだ 世界は一つしかなくてみんな同じところにいるんだから、現実には統一されているべくあっても良さそうなものなのに、みんな好き勝手に都合よく人それぞれ確認もしないで勝手に持てるもの、それが世界観なのだ 人間とはなんとテキトーな生き物だろうか、だがこれほど高度ですばらしい機能もないのだ
世界観を持つこととは神の存在を無意識に認めることが前提になっている どういうことか? 人間の身体は地球全体や宇宙全体、つまり世界と比べて極めて小さいので、本来は物理的には一つの狭い視野、視点しか持つことができないはずなのだ しかし人間は高度な脳の機能により世界観というものを持つことができる あくまで想像とはいえ本来見渡せないはずの世界全体を見渡すような視点を持ち、その景観をイメージとして自分の手の中に持つことができる これはいわゆる「神視点」というやつだ 本来全知全能の神にしかできないはずの芸当なのだ 「世界観を持つ」とはすなわち「神視点を持つ」ということであり、世界観という感覚が自分の中に存在した時点で、「神が行うような行い」の存在を認めていることになる 世界観という感覚そのものが神の存在の感覚そのものなのだ
そろそろ僕が何を言いたいかわかってきてくれただろうか 我々は世界観という感覚を自分たちの中に持つことができ、その感覚こそが神の存在の感覚だと言っているのだ 神の存在の感覚とはすなわち神の存在のことなのだ はて?
神は西郷隆盛像のようにどこかに誰かの姿をして突っ立っているわけではない どこにもいないのだ どこにもいないけど神の存在を認識する機能をオフにできない以上、脳はもうどこかに無理やり神を仮定するしかなくなってしまうのだ 数学で「~をxと置く」みたいな言い回しをしていたのを思い出してほしい 神も「どこかに存在を仮定する」という意味で、「置く」ものなのだ 数学で置くときはなんでも好きに置いてよかったのを思い出してほしい もう神なんてどこに置いてもいいのだ みんな好きに置いているのだ メッカ エルサレム よくわかんない祭壇 さとしの板 サトシの家 空 宇宙 星 山 神社 神棚 大仏 どこでもなんでも大差ない そしてどこでもない場所、「いない」という仮定もこれらと同じ並びに含まれる 仮定する、置くという行為が神を存在させる どこにもいないけどオフにできない神の存在を認識する機能の落とし所として「いない」という仮定が選ばれたところで、神の存在を認識する機能はその機能を完遂したことになり、正しく神の存在を認識するだけなのだ 神はいないという「仮定」こそカミ的な存在の肯定なしにはできないことなのだ わかんないものを仮定すること自体が「神がするようなこと」なのだ 「神がするようなこと」を平然とできるのは神の存在を無意識に認めているからなのだ くどいですか?
人間は神の機能を持っていると言っているのだ 人間が神だとは言っていない
世界観を持つということは世界を持つということであり、神の存在の感覚を持つとは、すなわち神を持つということなのだ
神は世界そのものであり、世界観の中にいるとも言え、それは我々の中にあり、あげくの果てにはどこにもおらず、神のいない世界こそ神が作った世界なのだ
DMM版ウマ娘プリティーダービーを遊ぼうとしても、エラーダイアログを出さずに起動しなくなる現象に遭遇した。
Windowsのイベントビューアーを除くと、こんなログが吐かれていた(各IDは削除)。
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日付:
ユーザー:
説明:
障害が発生しているアプリケーション名: umamusume.exe、バージョン: 2020.3.24.51085、タイム スタンプ: 0x
障害が発生しているモジュール名: apphelp.dll、バージョン: 10.0.22621.963、タイム スタンプ: 0x
障害が発生しているアプリケーション パス: D:\DMMGames\Umamusume\umamusume.exe
障害が発生しているモジュール パス: C:\WINDOWS\SYSTEM32\apphelp.dll
結論から言うと、Windows本体のapphelp.dllが原因でウマ娘が起動できなくなっているという。
アプリケーションに罪は無いため、DMM Game Playerやウマ娘を何度再インストールしても直らない厄介な現象だ。
Windowsは数十万のファイルが存在するため、今回のようにWindows Updateやアプリケーションのインストール・アンインストールを繰り返すだけでシステムファイルが壊れる事がある。
Windowsでは、これを直すためのコマンドがコンソールUIのみに用意されている。
Windowsのスタートメニューを右クリックして、コマンドプロンプトまたはターミナルを管理者権限で起動する。
を実行する。これは、オンライン上にある正しいWindowsのシステムイメージを元に、壊れたファイルを修復する操作となる。
実行するとこう表示される。
[==========================100.0%==========================] 復元操作は正常に完了しました。
DISM.exeを実行すると、正しいWindowsのシステムイメージがPC内に保存された状態になる。
この状態で、
sfc /scannow
を実行すると、次のように表示される。
システム スキャンを開始しています。これにはしばらく時間がかかります。
Windows リソース保護により、破損したファイルが見つかりましたが、それらは正常に修復されました。
オンライン修復の場合、詳細は次の場所にある CBS ログ ファイルに含まれています
windir\ Logs\CBS\CBS.log (たとえば C:\Windows\Logs\CBS\CBS.log)。オフライン修復の場合、
これで、とりあえずWindows自体の修復コマンドによってシステムファイルが正しい状態に復元された状態となる。
実行してもまだメモリ上には古いシステムファイルが読み込まれて実行されている状態なので、終わったらPCを再起動する。
さて、準備は完了だ。ここまでの操作でWindowsを回復しDMM Game Playerで「ダウンロード版をプレイ」を押す事でウマ娘が起動し…ない!
イベントビューアーには今もウマ娘を起動しようとする度にアプリケーションクラッシュイベントが追加されている。救いは無いのですか?
結局、今回のケースではPCで常駐していたリモートデスクトップ用のSplashtop StreamerとVirtual Desktop Streamerをタスクキルする事でウマ娘が起動できるようになり、DMMブラックフライデーで得た有償石でおはガチャを回すことに23時成功した。