はてなキーワード: タトゥーとは
タトゥーのことが話題になっているので、いつもの京都増田の容姿云々の考え方を取り入れて考察してみる。
タトゥーにしろネックレスにしろ、ヤンキー達が周囲を怖がらせようとするのは、彼らの容姿が不細工だからなんだよね。
素の状態の不細工がいると、周囲の人間からクスクスと笑われてしまう。つまりはナメられてしまう。
それが嫌だから、不細工な人間はタトゥーなどを掘って周囲を威嚇して笑われないように「武装」しているわけである。
逆に美男美女の場合は、何もしない状態でも周囲の人間の尊敬と注目を集めることが出来る。
不細工な人間は「武装」して周囲から注目されることによって、美男美女と同じ経験を得ようとしている。
その注目の内容が、美男美女とヤンキーとではまったく質が違うんだけどね。
どれだけ奇抜な髪形をしてゴツイアクセをつけて眉をそり上げていても
少しの時間があればまったく痕跡を残さず別のファッションに移行できる
現時点でそれができないタトゥーは行為に対する信奉力が桁違いなのでまったく次元が違うという認識
例えても意味がないと思う
それをギリやっちゃいけないことだって取沙汰してるけど、それぐらいの自由は営業者に認めてあげてもいいのでは?
店に客を選ぶ権利などない、ドレスコードなんてもってのほかっていうんならしょうがないけど。
俺はキモくて金のないオッサン禁止の店ってのもいいと思う。ただ、タトゥーみたいに明確な基準は欲しい。年収いくら以上、服装の指定みたいな。
自分に何も無いのに「俺は強いんだぞ!やんちゃだぞ!」ってアピールしたいんでしょう。
ほんと、「虎の威を借る狐」
自分には何も無いけど、威張り散らしたくて仕方ないのねぇ。
面白いわぁ。
みんな画一的じゃつまんなじゃん
タトゥーシールだってあるのに、好んで自分の体を傷つけようってのは
ただのドMの目立ちたがり屋。いいじゃん。
”英国にいると警察官だろうが駅員だろうが皆好き勝手タトゥー入ってるので、逆にタトゥー=ヤクザでもない”
皆??みんなのわけないでしょ
変な人って言い方悪いけど、耳に大きい穴開けたり、ピアスの数がやたら多かったり、で、なんか黒い服着てクラブでクスリやってるような人たち
『海外でタトゥーに偏見は無い』という説自体がウソだよ。そもそも日本人が触れる外国人って、ミュージシャン、役者、スポーツ選手、アーティスト、はねっ返り比較的自由なサラリーマン等の浮ついた職業で見る人が多いから、そう思えるだけ。あと、そういう意識高い運動の人がそう誤解させようとしているだけ。
イギリス人「タトゥー入れたら人生終わった。 どこも雇ってくれない!」 海外の反応。
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51954737.html
普通に目立つ所に刺青を入れれば、普通に就職しづらくなるし、温かく受け入れてなんかくれない。海外でも、(民族の風習とか以外の)刺青はある種の柄の悪さを表しているんだよ。そこをごまかすのよくない。大体、刺青は柄が悪いというと、そういう民族の風習刺青とか持ち出すのは完全にごまかし。誰もそんな話してない。なんの文化的背景も無く、ただ『ポリシー』とかで入れる刺青の話しているんだから。
ただ、「受け入れてくれ!」はちょっと違う。
私には「自分の体をオシャレの為に傷つけることはいけないこと」という価値観があり
それが違うために意見があうことはないだろうとちょっと退避しているだけなのだ。
要らないケンカもしたくないし、そんなことに時間だってとられたくない。
私と貴方は「世界が違う」と判断したから離れて行っているのに、
何故「逃げるな!」って追いかけてくるんだろうか。
はたから見ていて「良い人そうだな」って思えれば近づいていくのに。
かまってほしいなら、同じ価値観持ってる人の所に行けばいいのに。
ほんと、我侭だな。
なんでタトゥー入れたの?
「タトゥーへの偏見をなくそう」、「タトゥーはファッションのひとつ」とかって結局タトゥー入れてる側の人間の論理であって入れてない側からするとはぁ?って感じなんだよね。
じゃあ入らなきゃ問題無いとかそういうことじゃない。
肌を晒してタトゥーが見えると周りが怖がったり不快に感じると一般的に思われてるからこそ禁止なわけで。
それを風呂やプール入んなきゃいいだろと見せつけててはそこは違うだろと。
タトゥー入れることによって家族を体に刻みたいって考え自体は理解するけど、それを他人に見せつけるってのが結局周りに自分を誇示したい不良と同じなんだよ。
温泉やプールでタトゥー禁止。差別だっていう意見も結構あって驚いてる。
日本の事情を知らない外国人ならまだしも、日本に住んでて子供の頃に温泉やプール行ったことない
わけじゃないだろ? その時看板に「入れ墨お断りです」みたいなの見なかったのか?
で大きくなってそれを承知の上で「それでも」って覚悟でタトゥーを入れたんじゃないの?
そういう日常のデメリットを承知した上で俺はこのファッションを貫くという生き様だとして
入れてるもんだとばかり思ってたよ。そもそも入れ墨お断りが差別だって話もあるけど、
しょうがねぇだろ差別するなって言ったって入れ墨=ヤクザの印象が古来から根強いんだから。無理だよ。
緊張するじゃん。なんで温泉でリラックスしたいのに緊張しなきゃなんないんだ?
お断りにしなくしても差別撤廃論者のお前らが満足するだけで店の客足が遠のいても
誰も責任取らないだろ? 差別云々が盛んになってるからみんな文句は言わんかもしれんけど、
普通に考えてそっと違う店行くわな。仮にクレームが入った時、対応するのは誰だ?店員だろ。
店員はアルバイトとか多いよな。お前らコンビニ店員とか飲食店の店員が過剰なサービスを求められる
事には憤るのに、温泉やプールの従業員に無駄な負担が行くのには目を背けるのか?
それなりの代償が伴うと承知して自分の意思で入れたんだから、それに伴う不利益は
ちゃんと受け入れろよ。他社に理解しろとか対応しろって言うのはただの我儘だよ。
差別っていうのは自分じゃ変えられないどうしようもないものに対してだけ言いなよ。
冒頭に脱線するがヤクザの様式についてマインドセットを準備したい。
金持ちが服装に金をかけないという話は自己啓発本やセミナー系の情報で見かける。
実際金のかかった服はあるだろうし平均以上であるかもしれない。
しかしよくわからない模様の布地で金のチェーンをして黒塗りの高級外車を乗り回さない。
金持ちであることをわざわざ毎回広告する必要がないし、外見と存在で金を稼いでいるわけではないためだ。
ではななぜヤクザは見た目で高級感を出すのか。それは高級感が目的ではなく「1番」であることを主張したいがためである。
実際の統計で数値的に1番というものではない。庶民や噂などを流布する層の一般が想像しうる「一番のもの」を選択する。
ここにタトゥー、入れ墨の問題もつながってくる。一旦派手の話はここまで。
二番目に、ヤクザというのは実際金があるからそういうものを買っているだけ、ではない。
商売の種類として見た目でするものであるから、広告業者が広告を出しているのとおなじ。
ラーメン屋の賄いがラーメンなのと同じ。一番をコレクションしている人間である必要のために持ち物が一番なだけなのである。
商売としては不人気商売、被差別商売、問題解決(非合法)、貸金業(非合法)などを行ったりするにあたり、問題解決に使うのが「1番」である。
1番高級な服を着て、1番高級純金アクセサリをして、1番高級外車に乗っている1番のおやっさんの言うことが、なぜ聞けないという交渉方法。
1番がものを言っているのだから黙れよ、1番の下には2番以降が控えているんですがそれらが何番かわからないあなたの上にのしかかってきますよ、困りませんか?という方法だ。
それはもちろん困らせに来るのだから困るだろう。
しかも1番と言われて実質なにかしら1番(実質の1位ではなく想像できる最上位の類のもの)を身についけている人間、ほぼ人物として1番であるという人間との交渉だ。
貸付金の取り立てや問題の和解、商売の風説などは実際に商品価値が高ければとか確実であれば法に則って正規の解決ができる、というものではない。
関係者の譲歩を引き出したりした結果、合意を得られた時点でのもので、合意の後の責任も果たせる範囲で強要されることはない。
強引に法的に取り立てたりすることはできるが法的回避方法がないわけでもない。
それを逃がさず大きな取り立てで強制的に回避できない方法で介入してくるとなると、それは太刀打ちできると判断される相手では物足りない。
「1番」がそれを執り行ってくるのだから、勝てないという精神的な屈服感を与える必要がある。
ここまでの「1番」や「高級」はイメージの問題で、その価値基準が一般市場に支えられているものだから庶民からの目線でそうみえるようにということである。
この話を私がしたところで、「私に」それがどうしたんだ、意味のない、という意見は寄せられるだろう。私もおなじ庶民なのでそう言われても仕方がない。
では実際にそういう格好をしている人に言えばいいじゃないか、と私が同じ庶民として進言すると、できるだろうか?
「アルマーニのスーツきて純金の喜平ぐるぐる巻いてでかいベンツ乗ってるけどなんなん?借金の取り立てを明らかに回りに迷惑がかかる方法でしてくるのは違法ってわかってんの?水商売とかくだらん仕事しやがって」
といえるかどうかである。言えないような仕組みのために、その仕事で幅をきかせるためにそのような恰好をしているのである。
ここで服は借りて着まわせばだれでもそのポストにつくことはできる。それよりも上の人としての価値(前述までの高級感)を上げるにはどうするか。
入れ墨である。体に特徴を持たせるのである。顔面の傷などもそうである。指がないといったものもそうである。
ここでまた話は脱線するが、僧侶は坊主である。なぜか。特徴をなくすためである。個人ではなく組織としての一部であるためである。
また、僧侶は結婚しない。社会的に生産をしない、継続をしない。するために自分の資産、持ち物を必要とする社会生活をしない。そのために自分の行動や行為は独善的なものをできるだけ排除してある。
僧侶が親切をしてくる、教えを説くのは独善的なものはできるだけ含まれていないという証明のためである。
何々をしなさい、という教えは僧侶が収益をあげ資産を築くためではない。個人として利益を得るためでもない。宗教は収益を与えるためではなく歴史の蓄積と人としての最善な選択への補助であることのためである。
この意味がもはや失われ自由化されているが、人がわざわざそのような立場に置かれる必要性もなくなっているためこの習慣が失われるとともに、人がそこに位置する意味と理解も失われている。
これとまったく逆が、超個性化である。ファッションで一番めだつ、はだかになってもだれかわかる特徴をもつ、莫大な財産を築くことである。
ただのマークではなくそこにメッセージを込めるというタトゥー、入れ墨がその立場を示すというだけであればファッションとなりえる。
海外でファッションになっているのは、人がどんな命を込めたメッセージでも、簡単に否定もできるし批判される側もその程度だと理解している。
個人がどれだけ大切に思って居ようが他人からしてみればゴミ同然なことが相互理解されているのだ。
なので大事だというものは相手にとっては大事なのだろうという理解もある。
主義主張を否定されると、日本では囲まれてボコられるという最終結果についてその順位と内容を吟味する必要がある。
外国人が入れ墨や個性の主張がなぜ自由なのかというと、最終的に銃撃戦で決着をつけることができるからだ。
入れ墨に問題があるか、入れている名前をバカにされたり、すてきだと言われたりする。その個人に踏み込んで問題がおきたとき最大の解決方法は殺し合いである。
最終的に相手を殺すことで決着するというのは対人の交渉でほぼ最大にして最終的に近い。これを緊急的にとはいえ選択できる状態、銃の携行があるということは、各個人の自由はかなりの広さで主張できて、相手もそれをまず認める方向になりえるし、ならざるを得ない。
その二番手である「かこんでボコる」ができるというのは組織力、どこに組織しているか、組織を指摘してくるかということである。
タトゥー、入れ墨を入れることができる、入れている、そういう側というなんとなくの組織感と、個人が特別な主張をしているという表現、これに銃を持たない入れ墨をしていない服装もふつうの人間が並んで立つと、どうなるだろうか。
どうもならなければ問題がないが、一旦会話が始まってしまったり交流したり、交渉が発生したときにどうなるかは考えないだろうか。
隣に立っている人間だとしても、一生なにも関係性は発生しないという安心感を持てるだろうか。
いま現時点でとなりにいる時点で因縁を感じざるを得ないしなんらかの問題が発生することを危惧されないだろうか。
そうなったとき、見た目やファッション、そしてタトゥー、入れ墨が個人の発言などに影響を及ぼしてくると想像される。
「おまえの一番愛するものに名前をきざんでもいないやつがそれ本当に大事といえるの?ちょっと貸してくれや」と交渉をされたとき
「命を賭してまもると決めてますんで」といえるだろうか。そしてまもるための最終手段を持っているだろうか。
持っていないという不安につけこんで、最大限安全な退路の選択をさせられ不利益を与えられる可能性が危惧されないだろうか。
「されない、どんな暴力にも屈さないし9条が守ってくれる」というならそれで守れるだろう。
しかし、実際ここで殴られた、引きはがされた、もっていかれたを解決できないかもしれないという不安が一瞬よぎったら、そこにあらゆる1番が押し掛けてくる。
たたみこんでくるように準備されているものと、突発的に不安な事象と遭遇する一般人、これで平等な交渉がなされるだろうかといえば不安ではないか。
だからタトゥー、入れ墨はダメなんだ、という現状はある。しかし私も完全否定はではないし、好みで選択すればとは思う。
それについてはその不平等な交渉の発生のために自分を飾るということが無ければという前提のもとにだ。
メメント、などである。忘れてしまうから体に刻んだなどである。
先般のりゅうちぇるについても、親が龍を背負っていたから自分はどうなった、というわけでもなく、龍をせおった父親はほかの父親の息子に対する愛よりふかかったのか、といえるわけではないはずである。
入れ墨をいれていない父親はよわいのでくじけておれるだろうが、芸能人になれた僕の父親はドラゴンの入れ墨をしていた、と言えるのか。
どうしてパパは僕を応援するために入れ墨をしてくれないの?などと子供が言い出したりするような言い回しでなければ、だ。
パパは弱くて忘れっぽいので、みんなとずっと一緒であることを忘れないために刻んだんだ、といえば、私も同情の念を抱かざるを得ない。
https://twitter.com/Miyki_Ono/status/1032259138384887813
まさにこれ、強くてパワーがあるのを嫉妬してるんでしょ、一番が怖いんでしょ、うらやましいんでしょ、という輩がでてくる。
こういった威力を感じて有用性を感じる人間が、ただ自分が満足するために体にほった名前ではない、人にみせて何かに使うため、少なくとも羨望や嫉妬を招くためにしているという前提を持つことが問題である。
それを交渉につかう、少なくとも現在SNSで自己の優位性主張のために利用しているという、この利用のために使われるべきものではないという事である。
それを使うから否定され敬遠さえるという事自体に気が付くべきだ。
個人の思いれだけの話である、という相互理解で入れ墨を見て、ほんとに守るべきと感じたならだれでも最終手段を持ち出せる、それが自由と平等の立場である、という環境だからこそ広くタトゥー、入れ墨が公に一般化している社会もある。
いまの日本では、より強い主張というものがあり、より多くの人間が威力としてあるぞという主張のために使われたり、それを手段として準備をするという優位性を感じて満足しようとする部分がある。
その差別性についての精神に、差別を指摘され差別されるべきところではある。結果として人には差があるという主張にブーメランで差別をされるべきという平等性がある。
なぜなら個人が暴力によって解決をするという手段がもとより否定されはく奪されているからである。銃や武器の携行の否定、復讐や実被害未然の防衛のための無力化攻撃の否定などである。
日本でタトゥー、入れ墨するなら、自分が弱いからという主張か、絶対に見せないという前提がなければむつかしいという現状くらいはわかったうえで
それでもなお入れざるを得ないという状況に自分が差し迫っているということでもなければ主張はできないだろう。
タトゥー、入れ墨をしているほかの人間もみな平等に自分の思いを主張しているわけではない。
隠していたり弱さゆえだったり、知らないところに入れている人間はいるだろう。それらを全員掘り起こして否定したいわけでもない。
主張をするなら、日本では反発をうける、その理由は前述のとおりで、それを超えて受け入れられ主張をしたいのではれば、方法としてなくはない、ということである。
子供になぜパパは一番じゃないの?最高はあらゆる高級品と体に印があって家族を愛してくれてるけど、うちにはなにがあるの?と聞かれて、答えるすべを庶民に残しているかということである。