はてなキーワード: 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは
裏返せば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だろうな
ただ、嫌いな人が好んでいるソレは嫌いだから知りたくない、となると無知に陥りかねないので、そいつ以上にソレに詳しくなってから批判バトルを展開すべきだ
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地で行くブクマカのなんと多いことか( ˇωˇ )
たとえ批判のためだとしても宇崎のことに言及すればするほど宇崎を好きになるような人たちに利することになるのだが、それはいいのか。
だってああいう系におけるヘイト層って坊主憎けりゃ袈裟まで憎いみたいな感じで、その作品を好んでる人もまた嫌いって場合多いでしょ。
宇崎の炎上で作品の存在を知った人がamazonや電子書籍サイトのレビュー欄なんかで「炎上がなかったらこの作品を知ることはなかったら感謝しかない」みたいなことを書いてあったりしてるのを見てムキーってふうにならんのだろうか。
まあ接点のない他人を思い通りにさせるなんてまず無理だから、足ることを知ることを覚えていればそんなことで癇癪を起すことはないんだろうが。まずそういうレビューにくやしさと憎悪を覚えても、その気持ちをそういうレビュー書いてる人の一人ひとりそのにぶつけて一矢報いるような手段すらないのだろうし、あったとしても、いつまた湧いてくるか分からない新規宇崎ファン全てが対象なわけだからきりがないだろうし。
そういう発想になりやすいってことだ。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはちょっと違うけど、嫌いな人間とそうでない人間がいるのに属性が同じだと同類として一括りにされる。
オリンピックがはじまって、楽しんでいる人が日に日に増えていく。
逆にオリンピックに批判的な層は、楽しむ人が増えていく流れに対抗しようとオリンピック批判の口調をどんどん強めている。
そんな中、両者の中間となる立場として、「今目の前で行われている五輪を楽しむことと、五輪の経緯を批判することは別軸だから、両立してよい」という話が語られ、穏健中間な人たちの支持を得ている。
だが、オリンピックの楽しさと運営への批判を分割する理性を持つのは、現実には不可能だ。
私たち人間は、感情や評価を各論点について分離できるほど理性的ではない。
オリンピックを楽しみながら、開催前と同様の批判意識や不満を持ち続けることはできない。私たちは絶対にほだされる。
そのことはちゃんとわかっておいた方がいい。
もしあなた個人はほだされなくても、人間の大多数はそうできていない。
オリンピックに怒りや不満を持っていた人も、大会観戦を楽しんでいれば、次第に、なんとなくまあそこまで怒らなくてもよかったかな、となってしまう。
不満を完全に忘れることはないし、誰かに聞かれれば「開催のゴタゴタひどかったね」とは言うだろうけど、別に追求しなくてもいいんじゃないという態度になってしまうだろう。
確かに、オリンピック運営や政府に怒りがあるからと言って大会の楽しさを拒絶するのは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの典型である。愚かで頑なな考え方だ。
だが、袈裟を好きになると憎んでいた坊主も許してしまうのもまた、人間心理だ。
それ踏まえれば、ミクロ的には愚かで頑な考えこそが、マクロ的にはベターだということになる。
理想的に実行できるなら最高の選択肢だが、中途半端にしか実行できない現実では最悪の選択肢になる、という逆転が起きるのだ。
そして、理屈ではかなり愚かな選択だが、現実では一番マシな行動になる。
ちょっと図解してみよう。
まず、最大目的を、五輪運営の問題点をちゃんと改善するために今後も批判意識を持ち続けること、と設定する。(批判したくてたまらないわけではなく、問題が曖昧に流されるのがよくないため)
五輪を楽しむか否か、運営を批判するか大目に見るか、2×2で四つの立場がある。
このうち「D:五輪は楽しまないが、運営は大目に見る。」は立場は議論に関わってこないので、除外する。
残り3つを評価しよう。
Aが一番望ましい。Bが最悪。Cはギリ及第点。
「大会を楽しむことと、運営を批判することは別の問題だし両立するから、大会自体は楽しもう」という意見は、Aの最高の選択肢を取ろう、というもっともらしい主張だ。
だが、実際の私たちはそこまで理性的に物事を分割できず、大会を楽しんでいれば次第に批判意識が薄れてしまう。
最高のAルートを目指そうとすれば最悪のBルートになってしまうのが現実、というわけだ。
だからこそ、一見愚かではあっても、Cルートを選ぶために大会観戦の楽しさを拒絶する方がまだマシなのだ。
これはかなりシンプルにした話なので、他の考え方もできるとは思う。
だが、大会を楽しみながらも圧力のある批判意識を持ち続けるのはまず無理だ、というのはわかった上で考えてくれ。
この文章では、愚かな頑なさを保つことのほうが結果的にはマシになることもある、という話をした。
だが一般論としては、頑固な態度は、妥協しないし譲らないという考え方になり、議論や交渉のことに繋がる。
楽しさと問題批判を分割するのが人間に無理なように、自分の頑なさをコントロールするのも無理だろということについては……まあ……なんかうまいことやろう。
複合してる人がほとんどだと思うわ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
先日、初めて同人誌を捨てた。
内容は推しCPで好みなシチュエーションのとても素敵なものだった。
このクソキモヲタ腐女子によるクソみたいなお気持ち増田を見つけてくれた物好きなインターネットの住民は「なんだ、未練タラタラのいつものお気持ち表明文かよw」という感じで適当に読み流すなり見なかったことにするなりTwitter等で煮るなり焼くなりして頂けたら幸いです。
その同人誌と出会ったのは去年初めて参加した推しジャンルのwebオンリーだった。
コロナのせいで行く予定だったリアイベや友人と旅行に行く予定が潰れてしまった私にとってはとても素敵な出来事で、アバターを使って会場を散策した時間も、性癖が合うヲタク達と交流する時間も、どんどん金を同人誌達に落としていく瞬間も、購入した同人誌達を待つ時間も、その同人誌を読む時間もどれもみんな楽しかった。
「じゃあなんでその素敵な同人誌を捨てたの?」と言われると、その同人誌を作ったヲタクの人格の嫌な部分をお腹いっぱいで破裂しそうな程見てしまったからだ。
私のいるジャンルは基本子どもがターゲットのシリーズが長く続いているもので、年齢層も広く人も多い常に旬とも言えるジャンルだ。それ故に世間的には良かった作品でも、他作品を貶して自分の推し作品を褒め称えるヲタクや、自分に合わなかった作品=悪とみなし口汚く罵る評論家ごっこヲタクや、〇〇は駄作!!!全員そう言ってるだろ!!!と一部の声だけを膨張しクソデカい声で貶すヲタクが結構いる所謂民度が低いジャンルだ。
そして、その素敵な同人誌作ったヲタクも気に食わない作品を貶す嫌なヲタクだった。
最初Twitterをフォローしに行った時にフォロバされた時は飛び跳ねる程に嬉しかった、勢いで普段チキンで感想を送らない私が少ない語彙力を私なりに引き伸ばして同人誌の感想を送る程に嬉しかった。
同人誌作者とその腰巾着がリバ民ヲタクと作品をほぼ名指しで貶し始めたのだ。
最初は「同人誌作者さん左右固定過激派でこわ…リバ民さんのこと好きだから胸糞悪いけど、同人誌作者さんの普段のツイートと作品好きだしな…」と気持ち悪い悩みを抱える優柔不断な姿勢でいた。
そして、推しCPの作品が物語終盤になるにつれ同人誌作者がCP的に解釈違いな展開になってしまい腰巾着と一緒にヒスり始めた際には「なんでこの人こんなに怒ってんだろ…?」と困惑しながら最終回を迎えるまでしばらくミュートしていた。
その間に同人誌作者の腰巾着が推しCPのwebオンリーの主催をした時は「これが地獄ってヤツか?!」と憤慨した事もあった。
そして現行の新シリーズが始まりミュートも解除し、しばらく経って何も嫌なこと起きない平和な時間を過ごしていたら私が同人誌を捨てる原因となった出来事が起きた。
同人誌作者が急に現行作品を貶し始めたのだ。最初は視聴してたらしいがほぼ毎週放送されたものをあらすじと周辺のアンチの偏った情報だけを見てネガキャンし、終いには「前作の〇〇の方が面白かった。あの作品は最高だった」と散々終盤でネガキャンしまくった推しCPのいる前作を持ち上げ更に現行作品をネチネチとネガキャンし始めたのだ。
確かに現行作品はクセが強く人を選ぶ作品だけど、私がずっぷりハマってる作品が故に遂に我慢の限界が来てしまいブロックしてしまった。
ていうかなんで今までブロックしてこなかった!?バカじゃん???今までずっと1人我慢大会でもしてたの???
「坊主憎いけどその袈裟はいいね!」や「作者と作品は切り離して考えるべき」という正論でありとても素敵な思考を持つ人間になりたかったけど私には無理だった。
好きなドラマやミュージカルで推しを演じた役者が犯罪を犯して逮捕された時も役者とキャラは別物として切り離して考えれたけど、作者と作品は切り離して考えることは出来なかった。
同人誌作者は嫌な奴だけど同人誌は素敵なものだから…と思いながらその同人誌を再び読んでみたが作者のクソみたいな言動がチラついてしまい不快な気持ちになってしまった。
キン〇ン西野のことは嫌いだけどSTUDIO 〇℃。と芦田〇菜ちゃん藤〇慎吾氏が好きなのでプペルを観に行った時と同じ感覚だった。
とても素晴らしい作品な筈なのに嫌いな作者の顔がチラついて不快になる。
私の中で今まで好きだった同人誌作者が嫌いなキン〇ン西野と同等な存在になってしまったのだ。
そして、わたしは今まで購入してきた同人誌作者が頒布した3冊の同人誌をシュレッダーにかけて捨てた。やっぱりちょっと悲しい気持ちになってきまった。
よくTwitterで「絵師や文字書きがどんな発言しても良いだろ!!!」「影響力あるとか関係ないだろ発言は自由!!!」と話題になることがちょくちょくあるし正論だけど、このようなものを目にしてしまった今は「人が好きなものを貶さない」や「何の罪もない人を晒し上げて叩かない」とか最低限なものは守るべきだと思いした。
あと、どんなに治安が良かろうが悪かろうがクソみたいなヲタクは必ず湧いてくるのでつらいわ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
そして、こんなクソみたいな愚痴しかないお気持ち増田を最後まで読んでくれたインターネットの民に幸あれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
なんでお前達インターネットのウジ虫達は他人を口汚く批判できるのか、考えてた。
冷静になると、見知らぬ人が多少ムカつくことを言っただとか、倫理にそぐわぬことをしたとか、矛盾したことを言ったくらいで叩けるのはおかしいんだよな。頭沸いてんじゃねえか?
原因は育てた親がアホだったか、知能が足りないか、生きるの下手すぎてストレス溜め込んでるせい、
みたいに雑に目測してたけど、実は違うことに気づいた。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんて言うが、その逆だ。
批判対象に似た属性の人間が友達じゃないから、口汚くなれんだな。
「こういうこと書くとあの人は嫌がるかな?」
なんて最低限の思いやりの心が発生しないから残酷になれてしまう。
俺も、ゲイ野郎はキモいから全員消えてくれって内心思ってるけど、やっぱゲイの友人出来たらそういうこと表立って書くのやめよってなったしな。
政治家に友達がいれば、あの人も大変なんやなあってどうしてもなる。
フェミニストやヴィーガンやミソジニーやら鉄オタが叩かれるのもそう。
つまり、人間が色んな属性の人間と仲良くなることで、口汚い、思いやりのない批判とかは自然と消えていくってことだ。
クソくらえだな。
そうやってお友達感覚でなあなあでやってるのが良くねえんだよ。
国会なんて毎日顔付き合わせてんだからほぼ友達感覚になるに決まってらあな。
一般人も、ロビー活動が上手いやつが得するようになってるの、そういう感情のせいだろ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、袈裟どころか経典も木魚もハゲも憎い
何かの界隈で悪いことしたやつがいたら、外から見たら全員キチガイに見える
それが当たり前の感情だろうがよ
だから俺からしたらゲーセンのガンダムゲー好きも鉄オタも型月好きも東方好きもラ!好きもアイマス好きもバンドリ好きもウマ好きも右翼も左翼もヴィーガンもフェミニストも弱者男性も全員キチガイであり、それが好きな時点でキチガイのお仲間
どれだけマトモなのがマトモアピールしようが、そこに属してる時点でキチガイ、自浄しない時点でみんなキチガイ
マトモであること示すならマトモなやつがキチガイなやつ全員殺すか界隈から消すかしろよ、それでも俺は見方を改めねえがな
もっかい言う、嫌いなやつからしたらそれ好きなだけでキチガイです
攻撃対象です
そのつもりで
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのはまあ生物としては正常な反応。
ちょっと年の離れた三人兄弟で、兄二人は私立大学の学費全部出してもらって一人暮らしも仕送りたっぷりで満喫してたのに、運悪くリーマンショックと重なって受験期にカネがないカネがない今は我慢のとき我慢するべきと呪いをかけまくる親のもと、俺だけ国立実家通いバイト漬け苦学生やる羽目になった。兄二人は実家に金を入れるほど稼いでないし、そもそも親が息子に迷惑かけられないっていう精神性だった。俺は息子じゃねーんかよクソがって言いたくなったが、まあバイト代や奨学金を取り上げるようなことはしてないので諦めた。
兄二人はさんざん遊ぶ余裕があった大学時代に知り合った人とさっさと結婚して、俺だけ未だに独身。そりゃあ出会いも遊ぶ時間も無いならしゃーないよな。クソが。
で、今でこそ全く金に困らない、十分な収入がある状態で、「学費分お前の口座に振り込んだ、これでお前だけ不幸じゃないな」って親から連絡が来た。
この金すら憎い。