2021-07-26

オリピック運営に不満があるが大会楽しい、という感情に板挟みになっている人たちよ

オリンピックがはじまって、楽しんでいる人が日に日に増えていく。

逆にオリンピック批判的な層は、楽しむ人が増えていく流れに対抗しようとオリンピック批判の口調をどんどん強めている。

そんな中、両者の中間となる立場として、「今目の前で行われている五輪を楽しむことと、五輪の経緯を批判することは別軸だから、両立してよい」という話が語られ、穏健中間な人たちの支持を得ている。

これはとても理性的意見に見える。

だが、オリンピックの楽しさと運営への批判を分割する理性を持つのは、現実には不可能だ。

私たち人間は、感情評価各論点について分離できるほど理性的ではない。



オリンピックを楽しみながら、開催前と同様の批判意識や不満を持ち続けることはできない。私たち絶対にほだされる。

そのことはちゃんとわかっておいた方がいい。

もしあなた個人はほだされなくても、人間の大多数はそうできていない。

オリンピックに怒りや不満を持っていた人も、大会観戦を楽しんでいれば、次第に、なんとなくまあそこまで怒らなくてもよかったかな、となってしまう。

不満を完全に忘れることはないし、誰かに聞かれれば「開催のゴタゴタひどかったね」とは言うだろうけど、別に追求しなくてもいいんじゃないという態度になってしまうだろう。



かにオリンピック運営政府に怒りがあるからと言って大会の楽しさを拒絶するのは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い典型である。愚かで頑なな考え方だ。

だが、袈裟を好きになると憎んでいた坊主も許してしまうのもまた、人間心理だ。

それ踏まえれば、ミクロ的には愚かで頑な考えこそが、マクロ的にはベターだということになる。

理想的に実行できるなら最高の選択肢だが、中途半端しか実行できない現実では最悪の選択肢になる、という逆転が起きるのだ。

そして、理屈ではかなり愚かな選択だが、現実では一番マシな行動になる。



ちょっと図解してみよう。

まず、最大目的を、五輪運営問題点ちゃん改善するために今後も批判意識を持ち続けること、と設定する。(批判したくてたまらないわけではなく、問題曖昧に流されるのがよくないため)

五輪を楽しむか否か、運営批判するか大目に見るか、2×2で四つの立場がある。

A:五輪を楽しむが、運営批判する。

B:五輪を楽しみ、運営大目に見る。

C:五輪を楽しまず、運営批判する。

D:五輪は楽しまないが、運営大目に見る。

このうち「D:五輪は楽しまないが、運営大目に見る。」は立場議論に関わってこないので、除外する。

残り3つを評価しよう。

A:五輪を楽しむが、運営批判する。→目的達成、楽しさもあり

B:五輪を楽しみ、運営大目に見る。→目的失敗

C:五輪を楽しまず、運営批判する。→目的達成、楽しさはなし

Aが一番望ましい。Bが最悪。Cはギリ及第点

大会を楽しむことと、運営批判することは別の問題だし両立するから大会自体は楽しもう」という意見は、Aの最高の選択肢を取ろう、というもっともらしい主張だ。

だが、実際の私たちはそこまで理性的物事を分割できず、大会を楽しんでいれば次第に批判意識が薄れてしまう。

最高のAルートを目指そうとすれば最悪のBルートになってしまうのが現実、というわけだ。

からこそ、一見愚かではあっても、Cルートを選ぶために大会観戦の楽しさを拒絶する方がまだマシなのだ

これはかなりシンプルにした話なので、他の考え方もできるとは思う。

だが、大会を楽しみながらも圧力のある批判意識を持ち続けるのはまず無理だ、というのはわかった上で考えてくれ。



この文章では、愚かな頑なさを保つことのほうが結果的にはマシになることもある、という話をした。

だが一般論としては、頑固な態度は、妥協しないし譲らないという考え方になり、議論交渉のことに繋がる。

くれぐれも、節度をもった頑なさを発揮していただきたい。

楽しさと問題批判を分割するのが人間に無理なように、自分の頑なさをコントロールするのも無理だろということについては……まあ……なんかうまいことやろう。

  • じゃあ両立するという頑なさを持ちますね

  • スポーツ盾にしてるのが運営な以上Aはあり得ん 「作品に罪はない」と捲し立てる大麻容認派みたい

  • もうオリンピックは諦めてモリカケ桜に戻ればいいってことよ

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