はてなキーワード: オザケンとは
体験型なのと、光を意識したキラキラ系のテクスチャが多くて、これならどこかのゲーム製作会社に依頼しても資金があればアミューズメント施設を作れそうな気がする。
韓国も中国も日本もタイも、その他の国も、東アジアは、なんというか、審美眼が弱いというか、本物じゃないものを本物のように持ち上げたりしてて、痛々しい。TED×Tokyoみたいな感じ。新しい本物は作れなかったけど、みんなまだ見たことないものを作って、自分たちで自分たちを褒めておしまい。
俺はこれらの問題は結局、JKとチャラ男が悪いんじゃないかと思っている。「理系キモw」とか「うわダッサw」とか刹那的な生き方しかしてないから芯の通った文化が育たないんだよ。
もっと、やくしまるえつことかにも興味もってよ。アルスエレクトロニカも受賞してるし。クソッ、なんで学校で美術や国語の授業は重要視されないんだ。敗戦で染み付いた負け癖がそうさせてんのか?
Twitterで、オザケンと渡辺満里奈が閉店間際にやってくるから面倒だった、という元レジ打ちの人のツイートを見たことがある。
閉店間際にスーパーに行くことは迷惑なのかもしれないが、バイト終わりで駆け込むのでどうしてもその時間にしか行けない。
普段は人で賑わっている空間に誰もいない、という光景を見ている時の興奮は、真夜中の羽田空港に行った時の興奮に似ている。
まあ、人がいないということは、品揃えも悪いということだ。肉と野菜は揃っているが、魚はどの店も壊滅的。
刺し身でイケる魚は微妙に高いサーモンと、何だこのサイズは!ってくらい微妙なサイズで微妙に高いマグロくらいしか残っていない。
サンローランの10万のモヘアニットとか、マルニのボーダーニットとかで大騒ぎしてるけど、もし私物だとしたら、10万も出さないと納得できる服見つけられないオザケンの服のセンスがヤバイ。
まぁスタイリストだと思うんだけど。それにしてもセンス悪い。サンローランとかマルニって30代までが着るブランドじゃない?
それぞれのメゾンの方針はオザケンのフィロソフィーとも合ってないだろうし。
本当にいいモヘアニットが欲しいなら、少し服が好きなら半額とかで探せる。つまり、あの値段でもいいのはサンローランだからってこと。ブランドを着てるんだね。
今期のをドンズバ、メインで私物で着てたとしたらマジでダサい。スタイリストだったらセンスが古い…。
彼の服のセンスって、わかりやすくセンスのない金持ちのソレだよなぁっていつも思ってる
オザケンリアルタイムの頃からこの人クネクネしてて変だなとしか思えなくて、今もやっぱりなんかずれた人だなとか歌ってやっぱり練習してないとヘタになるんだなとしか思えなくて、でも周りはオザケンだからいいって世の中で、辛いです。
実力だけで殴り合う世界にはよなれー。
起きている時、現実を目にするだけでも疲れるのに、寝ていても夢で疲れます。今日はこんな夢をみました。
非常にマッチョな男性が非常にマッチョな男性を抱きかかえています。
2人は愛し合っています。
1人がスーパーマン、もう1人も戦隊モノのキャラクターだったような気がします。
しかし2人の皮膚はくっついていてなかなか剥がれません。力ずくで剥がそうとします。
やっとのことで2人は離れ離れになるのですが、抱きかかえていた方は皮膚は剥がれ内臓や筋肉が見えつつ死んでいきました。
側からみている女性のわたしは、死んでいくほうの人間にたいしグロデスクすぎて見てられないと目をそらしてしまいました。
なんでも思った事を見抜ける特殊能力を持った人間から。捕まったら殺されると思っています。
家の中に逃げ込んで追ってをシャットアウトしようとしましたが、ドアの鍵が壊れて閉めきれません。
追ってがドアをこじ開けてくるのを自力で押さえ込みます。わたしは外界に対して誰かこの追ってを追い払ってくれと大声で助けを呼びます。誰もこないので、美輪明宏を大声で呼びつけようとしたらところ目覚めました。
いつになったら、疲れない時間は訪れるんだろうな。
星野源もはまった「球体の奏でる音楽」がアルバムとしては一番いい
オザケンのえぐみであるフニャフニャしたとっつぁん坊や成分薄めで、落ち着いて聴ける
筒美京平作曲で真っ当にポップス歌ってる「強い気持ち強い愛」もいい曲
余談だが小林さんちのメイドラゴンっつうアニメのOP曲がこれのオマージュになってた
そう、それが叶いそうだからみんな騒いでる。
「Eclectic」の頃は、同窓会で旧友が「昔の俺っちどうかしてたわーw」的なことを言い出す寂しさがあったと思うよ。
あの「ブギーバック」をわざわざ歌詞を書き直したりダウナーなアレンジに直したりして再録して、
極めつけに「刹那」というタイトルでベスト盤出しちゃうんだから。
もうチャーリーブラウンばりの渋い顔で、
いくら呼んでも帰っては来ないんだ。
と言わんばかりのニヒリズムよ。
そりゃ911後の、冷や水かけられたようなアメリカのムード肌で感じてるわけだから
閉塞感満開になっちゃったかもしれないけどさ。
でも結局みんなが小沢健二に求めてたのは「とにかく明るいオザケン」なんだよね。
家柄とか学歴とかちょっと至らない歌唱力とか色々魅力はあるんだけど
第一に求められたのはその明るさだったんだろう。
しかし大衆に求められたそのポジティブさが本人の資質によるものでなかったために
彼は海の向こうへ逃げてしまったのだろう。
僕は「Eclectic」が暗い作風だったから不評だったというようなことをいうつもりじゃなかった。
「Eclectic」の前後に「LIFE」期との決別を示唆するような言動が多々見られたことが
幾分かファンにとってショックだったのでは?ということがいいたかった。
この頃の小沢健二を見てもう決別を通り越してあの時期を忌み嫌っているのではとすら思う人もいたのでは?
それは「Eclectic」リリース時が半ば休止状態だったことも関係するだろう。
「天使たちのシーン」や「ある光」もノスタルジーや切迫感に溢れたものだったが
「LIFE」とグラデーションのように継ぎ目なく繋がっているような連続性があった。
(無論「LIFE」の曲から「ある光」の間には「大人になれば」「Buddy」「指さえも」といった作品が連なっている。)
「Eclectic」からライブツアー「ひふみよ」までの期間はそれらのキャリアからは断裂しているように見える。
どうしても「ある光」から「Eclectic」を線で繋いだイメージを持つことは難しいし、
「Eclectic」以後はある程度一貫した思想を強く打ち出した活動を続けてきたので、
「流動体について」発表までは「Eclectic」以前・以後で分けて考える人も多かったと思うんだよ。
「『Eclectic』はその本意をうやむやにしたままフェードアウトしていった小沢健二が
それまでのポップスシンガーとしての活動に区切りをつけるために一時的にカムバックした作品。」
リリース当時はそんな風にみなされても仕方なかったように思うんだよね。
あとカローラの歌やってた(でもどんな歌かは知らない)ってことも
もう小沢健二の才能は枯れ果てて、「あの人は今」「一発屋」商法で食ってるだけなんだよ。
周りの人間とファンはそれを認めたくなくて毎回「帰ってきた!」って騒いでるだけに過ぎない。
だってあれだけ仲良かったスチャダラパーもスカパラも全然反応してないじゃん。
コーネリアスはイジメインタビューとかでプライベートは好きじゃないけどさ、
アーティストとしてみるとMETAFIVEとか坂本龍一といっしょになんかやってたり、
デザインあでも色んな人と一緒にやってたりして、着実にステージを上げながら活動している。
やっぱ継続は力だよなーって思うわ。
オザケンはオリーブ少女とへなちょこ文学少年の成れの果てが信仰するアイドルから抜け出せてない。
見ていて痛々しい。