授産施設に居た時となりの部屋のクルマ椅子から離れられない若い障害者が社会への恨みをひたすら呟いていた
「お前らは何時でも一方的に俺を殺せるんだろう?」「こっちは反撃できないんだから」
ネットでは、発達障害や自閉症スペクトラムのような病気のある人を差別するな、
また時には個人の性格としてコミュニケーションが苦手だったり、言動がキモいだけの人を差別するな、という意見は多く見られる。
一方で、何らかの事件や、ツイッターや増田での与太話に対する反応では、
こいつは救いようのない無能、こいつは救いようのない悪人といったカテゴライズも見られる。
個人の性格の問題とされるようなコミュニケーションが苦手といった話も、診断されてないだけで実は病気なのでは、という気もするし、
発達障害者の自分語りに対する、自分もまさにこれだわみたいな共感がたくさんついているのを見るにつけ、その大半は本当に病気というほどなのか?と疑問にも思う。
一方で、救いようがない=周囲が無理して受け入れてもどうしようもないと見做されるような与太話の登場人物も、実は病気であったりするのでは?とも思うし、
逆に個性とされているコミュニケーションが苦手とか、言動がキモいと言ったことは、
他の人から見たらそれらの悪癖を治そうとしない救えない人とみなされている可能性もあるのでは?と思う。
そもそも病気という言葉の定義すら実際は曖昧だから、実は日常においてトラブルを起こしてしまう人はすべて病気としてしまってもいいのかもしれないけど。
普通に体力衰えて性欲も落ちたけど
女は30代になると性欲が増すってのは男の願望であって
実際は女も大多数が10代が一番強いと思うわ
年食って色々どうでも良くなってその抑圧がなくなる、ってパターンはあるかもしれないけど
いわゆる対人の不安障害や発達障害についてこう言った俗説が根強い。親もそう思って先送りにしがち。
なぜなら殺した方も殺された方も双方とも社会には必要ない人間だからだ。
まず、殺人鬼が社会から抹殺されるべきなのは当然である。処刑されるか、偽りの更生プログラムで一生陽の当たらない人生を送るべきだ。
また他者に殺人を起こさせるほどの怒りを煽った人間も社会にとって害悪だ。
この世の中、好き勝手に他者を傷つけてはいけない。しかしそれが合法であれば裁こうにも裁けない。それを悪用しているのが彼ら怒りの扇動者だ。
彼らの合法的傷害は蓄積し世の中を腐らせてゆく。むしろ殺人鬼より邪悪な存在である場合もあるのだ。
若いうちは、こいつの子供を妊娠してもいいと思えるような男としかセックスしたくないって思ってたんだけど
37歳くらいからは、この際相手は誰でもいいからとにかくセックスしたい!という気持ちになってきた。
相手が不細工だろうが低学歴だろうがそいつの子供を妊娠する事がないなら後腐れなくセックスできるから
よく、女は○○歳(数字は色々)から性欲が強くなるって言われるけれど
妊娠可能性があるなら相手の男は吟味しないといけないけれど、そうじゃないなら割と何でもいいや。
しかし、生物は子供を作るためにセックスする筈なのに、妊娠し辛い状態になってから性欲が沸いてくるっていうのも妙な話だな。
そうは言っても男の需要はあくまで妊娠できるメスにあるんだろうし、美人でもない中年女性なんて相手にする男はいないだろうから
誰でもいいって思ってても結局誰ともできないんだけどね。
すまん、君の主張がよくわからんなってきた
Youtubeで見れるような店員さんとの熱い討論を楽しみたい人は日本の家電量販店で買えばいいですよ
『LGBTが気持ち悪い人』の感覚―「理解」と「罪」の認識のズレ
http://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2018/04/08/130112
この記事には、
>花畑の例えで言うなら、現実に起こっていたことは、「他人の花畑を荒らしていて、ずっとお咎めなしだったのが、ある時から『それはダメだ』と言われた」みたいなものだ。そこ「うち実家の花畑」じゃなかったんですよ、と。
こうあり、ブコメに目を通すと
「なぜ簡単に謝って済まさずに屁理屈こねて反撃しようとするのか」といった論旨のブコメがトップにあるんだけど、
理由に納得できないのに謝れって方が無理ないすかね。
上の記事の花畑の例え、初見はうまい事言うなーと思ったんだけど、現実は実家と他人の花畑に明確な境界線はなくて、それどころか、「境界線がはっきり見えてる人もいるんだけど、みんな見えてる境界線が違う」って事が問題なんですわ、多分。
「謝れ!」と言われてもこれでは謝れないよねぇ?
はてな民は記事にあった「他人には他人の現実が見えてる」には賛同するけれど、「差別をしてしまう人にも、その人なりの現実が見えてる」事は分からなかったり見ぬふりしたりする傾向があるのかもよ。
よし、みんなで気をつけよー!
お前死んだ人と会話してんの?
若い頃って自分にないものを求めていろいろと悩んだり苦労したりするけれど、30代後半のおっさんになって、「無いものは無いんだからしょうがないよ。無いものは付け足せば良いんだよ。ほら、可愛い四つ葉のクローバー完成♪私はこっちの方が好き!」って感じで、自分になくても、得意な人と組めばいいという発想になってきた。得意なことをある程度追求して、それからそれを苦手な分野に応用したり、得意な人と組む時の武器に使ったりすればいいんじゃない?大多数の人の前で話せても、増田が文才を失えば、あんた、ただの人だよ。
この記事は過去二つの記事を前提としていることを、最初にお断りしておく。
https://anond.hatelabo.jp/20170315161240
https://anond.hatelabo.jp/20180403003916
うつの揺り戻しの勢いで後日談を投稿した後、自分で読み返して「これ書いた人相当病んでるな」と他人事のように引いてしまった。
可哀想な元派遣社員が身も心もすり潰されて不幸のドン底にいる、という筋書きの方が読み物としては面白いのだろうが、実際はそうでもないので、もう一つの後日談を綴っておく。「同情や心配して損した!」と思って頂ければ幸いである。
仕事を辞め、諸々の手続きを終えて少し経った頃、タンポポを堀りに行った。
子供の頃使っていた植物図鑑を見つけたのだ。野草を使った遊びが色々書かれており、ほとんどは試したことがあるのだが、大きな刃物を使うもの、食べるものは母が許してくれなかった。
で、そこに書かれていた「タンポポの根のコーヒー」を大人の力で作ってみようと思い立ち、近所の土手でタンポポを探した。長い根を掘り出して、洗って晒して刻んで炒って煮出す、二日がかりの大仕事である。
手間暇かけてようやく出来上がった飲み物は、格別に美味しいわけではないが、喫茶店で「そういうブレンドです」と言われれば納得するような、中途半端な味がした。いっそまずい方が、ネタ的に美味しかった。
この話を友人にしたところ、「そんなにお金に困ってるの?」と心配された。好奇心ゆえとの主張も空しく、彼女からは誕生日プレゼントとしてコーヒーチケットを頂戴した。
同じ野草を食す行為でも、「山菜狩りに行きました」「自分で摘んできて七草粥を炊きました」はSNSのイイネを集めたというのに。美しい言葉には、現実を捻じ曲げる力がある。
粥に使ったお米は、親戚の田植えを手伝ったお礼として貰ったものだ。
手伝いと言っても、PC仕事にしか携わったことのない私の貢献度は、その辺で虫取り網を振っていた子供たちと大差なかったと思われる。だがお婆ちゃんは「遠いところを来てくれただけで嬉しい」と、後日お米を送ってくれた。
親戚の家の最寄り駅までは、着替えと文庫本を鞄に詰めて、特急料金の掛からない電車を乗り継いで行った。
大学生の頃、そうした小旅行を何度かした。本を読みながら電車に揺られ、行ける所まで行って、適当な店で夜を明かす。知らない街を少し見て回って、また本を読みながら帰ってくる。あれは結構楽しかった。
貧乏旅行は年を取ると辛いというのが一般的見解だろうが、今の私は完全インドアだった学生時代よりも体力がある。
働き始めてすぐの頃、背中が痛むようになった。病院で「体の前面の筋力不足で背面にばかり負担がかかっている」と指摘され、ジム通いとジョギングを始めた。
以前は多くて週二回だった運動が、最近は三回に増えている。体組成計の表示はもちろん、筋肉が補修材を欲するらしく、味覚まで変わってしまった。豆腐や卵がすごく美味しい。こういう時は肉を食べたがるのが普通じゃないか、とは思うのだが、安上りなので助かっている。
先日、桜吹雪の中を走るのは気持ちいいに違いないと思って川沿いのコースを選んだら、花びらと同じくらい大量のトビケラが舞っていて閉口した。文字通り、という納得と、しょうもねぇ、というツッコミが交錯して、一人でフフッと笑ってしまった。
この調子なら仕事も出来そうな気がして、求職活動に挑戦する度に泣いたりゲロ吐いたりするものの、生活自体は概ね楽しい。
あなたの「頑張れば必ず良くなる」は、視野狭窄と思考停止だ。「雇用主はそんなに悪い人じゃない」も同様である。そう考えているのは既に危険な兆候なので、転職先を探すか、休職も視野に入れた方がいい。
嫌だと思ったら、それは表明しておくこと。この人は多少薄暗くても嫌がらない、周囲がうるさくても集中出来る、汚れた場所なら掃除をする。そうした自他からの評価の積み重ねは、あなたの労働環境を改善するどころか、より暗く、うるさく、汚い場所へ連れて行く。
安心して逃げていい。収入はないし夢見は悪いし、揺り戻しで病んだ文章を垂れ流す夜もあるが、一年後も生きている。
逃げるタイミングの判断を誤ったのは自分のくせに悲劇の主人公気取ってバカじゃねーの?とか、そういう自責、全然要らない。ズタボロのメンタルに自分でトドメを刺すのはやめろ。自己憐憫も陶酔も、心の麻酔としてはすごく効くから、痛みが引くまでは好きに使え。中毒や廃人化の危険を伴うのは体の麻酔と同じだから、そこだけは気を付けような。
まだどうにかなりそうなら、上記を参考にして欲しい。
自殺を考えるほど追い詰められている場合、別に死んでもいいと思う。「生きてて良かった」は文字通りの生存バイアスに過ぎない。
ただ、私は「この世から消えたい」という感情のピークに文章を書く作業で手が塞がっていたため、なんとなく死に損なった。結果、なんとなく生きている。
そういう風に、死ぬことは確定だが今は保留にしておく、という選択肢もあることは覚えておいて欲しい。私は近々好きな作家の新刊が出るし、友人の誕生日も祝いたいので、少なくともその間は保留だ。たぶん自ら死ぬより先に、事故か病気か寿命で死ぬ。
当時の私は、「死にたくない」と「消えたい」の間でグラグラしていた。今でもよくする。生き延びて良かったのか怪しいとも思っている。
それでもやり直しの利く方を選び続けて来られたのは、あなたのお陰だ。厚くお礼を申し上げたい。
一週間前の自分へ。
いいから早く寝ろ。もう少し暖かくなったらザリガニ釣りに行くんだろうが。
野草食ったりザリガニ釣ったり、心の病とは別の意味で可哀想で心配されるかも知れないが、私自身は割と楽しい。さすがに用水路で釣ったザリガニを食べる勇気はない。