はてなキーワード: 白紙委任とは
選挙の時期になると「選挙に行かないなんて信じられない!」的な発言をよく見る(上記事への反応もそう)。でも、そこまで言われなきゃならない理由がよくわからん。
行きたいやつは行って行きたくないやつは行かなきゃいいだろ、としか思えん。
Twitterとかはてブで色んな意見をみたけど、次の4点が気になって賛成できない。
→ある1人の投票によって投票によって結果が変わる、投票率が変わるというのはまずありえない。何十年も選挙結果見てきたけど、当選と落選の差が1票だったことなんて記憶にない。世代別の投票率なんて1人が投票しても0.1%も変わらない。投票することで、周りの人の投票先を変えることもできないし。
だから「投票によって政治に影響を与えられるのだから、行くべき」というのは賛成できない。
→投票しないということは当選者に白紙委任状を渡すようなものだ、という理屈もよくわからない。意思表示や行為をすることで人の行動が変わるのであれば、何も意思表示しない=相手に委ねていることになるかもしれない。白紙委任状は渡すことで相手の行動を変えているわけだし。
でも、①で見たように1人の投票では選挙の結果を変えることができないのだから、投票しない=何でもOK・白紙委任状を渡す、という理屈はおかしいと思う。
→苦難の歴史を経て勝ち取って来た投票する権利を無駄にするな、という意見もよく見る。でもなんで投票する権利だけ、行使しないことがこんなに非難されるの?と不思議に思う。他の権利よりもやたらに非難される気がする。
例えば、労働組合を組織する権利・ストをやる権利・デモをやる権利・選挙に立候補する権利。どれも投票する権利と同じように勝ち取ってきた権利だ。でも、これらの権利は行使しなくてもあんまり非難されない。労働組合を作らないなんて先人たちの努力を無駄にしている、なんて聞いたことがない。なんで投票だけこんなに言われるの?
→政治に影響を与えるのは、何も投票だけじゃない。どこかの党員になるとか署名活動するとか献金するとかデモするとか議員のTwitterに返信するとか色々ある。にも関わらず、その手の活動(投票以外の政治活動)はやらないことをさほど非難されないのに、投票は行かないだけで強く非難される。なんで?
”x100jp 世代の投票率を上げれば、政治家にプレッシャーがかかって高齢者以外の意見も無視できなくなるから、議席が動かなくたって投票する意味はあるでしょ?”
→①のとおり、自分ひとりが投票しても投票率は上がらないので、自分が投票する意味はないと思う。
"mobanama と言ってる限り何も変わらないから、行くことにした。 ”
→行くのは個人の自由なので何も止めないけど、行かないことを非難する根拠はよくわからない。
"reachout 選挙に行かないで浮動票が減少すると連合や創価学会といった組織票の比重が増し、そちらに有益な政策が実行されていくわけです。逆になんで選挙行かないの?”
→①のとおり、1人の投票では浮動票/組織票の比重を変えることはできないので、自分が投票する意味はないと思う。
"yetch 組織票使ってるヤツらは浮動票がウザいから一票の意味が無さそうにアピールしてる。”
"triggerhappysundaymorningtriggerhappysundaymorning そうやって権利放棄すんのは勝手だけどだったら結果に文句言うなよ?”
→②のとおり、権利放棄した=全部委ねた、わけではないので、文句言う権利はあると思う。
"toichiro 消費税増税がなんでこんなに年月がかかったと思う?増税すると選挙に負けてストッパーになるからだよ。政権交代の緊張がなくなると、すぐ5%上がった。消費税ってもう年10万円単位だよ。行かないと増税が待ってるよ。”
→①のとおり、自分ひとりでは選挙結果を変えられないので、自分が投票する意味はないと思う。
"sds-page Go to キャンペーンも「うちの会社に良くしてくれる先生に投票しよう」とかいう旅行業界の民による投票の結果だろうな”
→旅行業界なんていう大規模で投票拘束してるなら、なおさら自分ひとりが投票しても結果は変わらなくない?あと、そういう業界は投票よりも献金で影響力を発揮していると思うから、投票じゃなくて対抗して献金したほうが効果的なんじゃない?
"kenjou 意志や意見を表明しないと、政治的には存在していないものだとして扱われるから。それに1〜2年に一度くらい、投票所に足を運ぶのってたいした労力でもないでしょ。近所で投票できる仕組みになってるんだし。”
→意思や意見を表明しないといけないなら、投票じゃなくて政党や議員へ直接意見を述べたり署名活動したりするほうが、より具体的に表明できると思う。でも、なんでそっちをやらないことはさほど非難されず、投票が重要視されるのだろうか。
”REV まあ、だから十万人単位の浮動票は軽視され、百人単位でも団結した創…じゃなくて「層」は重視されるわけだ。”
→そうかもしれない。「層」だとしても、行きたいやつが行けばいいのではないか。
"segment12 選挙いってたら投票した議員や党に対してちゃんとしなきゃ票いれないようにするっていう圧力をかけれるけど選挙いかなきゃ無視されるでしょうに”
→①のとおり、1人が票入れても結果は変わらないので、自分が投票しなければならない、という根拠にはならないと思う。
"d-namid-nami 投票しないと嫌いな奴に投票したことと同じ意味になるから”
→「意味」というのが「投票結果」ということなら、①のとおり投票してもしなくても変わらないと思う。
”sharaku3eyes SEも看護師も薬剤師も法律を盾にどれだけいいように経営者から奴隷扱いされてるか知らないのか…?”
→そういう状況を変えるために投票すべきってことなら、①のとおり賛成できない。法律を変える手段は投票だけじゃないからね。それこそ陳情とか労働組合とか色々あるでしょう。
”cordante1980 歴史と世界を学ぶといいと思うよ。自分の努力で改善できる事と、社会全体で改善しなくてはどうにもならない事があるんだよ。一票には価値はないけど「みんなの票」には価値があるんだよ”
→「みんなの票」に価値があるのは同意だけど、とある1人が投票したかどうか強く非難されるのが納得いかない。「みんなの票」を増やすために多くの人に投票を呼びかけるのは自由だけど、投票しないことを非難するのはおかしくないか?
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
「立憲主義」とは”政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方。”(wikipedia)とある。
では、今回の新型インフルエンザ等対策特措法は立憲主義に即しているだろうか?
答えは、否である。
『報告さえすれば、宣言も延長もし放題。宣言や期間や措置の根拠を正すための市民イベントも開催禁止できる。外出自粛要請も、保育園や老人ホームの使用禁止も指示できる。
これが、国会承認までは不要で国会報告で足りる「抑制的な私権制限」なんですか?私はそう思わない。』
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1236832421967888384)
『しかもこの特措法の発動要件は「新型インフルエンザ等の感染が拡大していると疑うに足りる正当な理由」という極めて解釈の余地が広いものです。
パンデミック抑止のため初動の柔軟性を重視してこの要件を維持するなら、入り口が広い分だけ民主的統制や期間制限が強く要請されるはず。』
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1236832502951510016)
また、山尾氏は私案の骨子として、
① 緊急事態措置を行う期間(現行法は2年)と延長の上限(同1年)を6か月する。
を出している。
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235845649779707906)
つまりは、政府の行動を監視し、チェックできる機能を強化する方向性だ。
これは、立憲主義的と言える。
山尾氏は問題点をこう指摘する。
『「危機管理法制は法律で十分。憲法の緊急事態条項は不要」野党の多くはそう主張してきた。
その法律が国会統制や説明責任ゆるゆるだったら、説得力なくすでしょう。
昨日枝野代表は、安倍総理に対し国会質疑の確保などを求めたけれど、言質をとるだけじゃ足りないから「法」がある。』
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235449170598617089)
『ましてや強力な私権の制限を伴う法案。事実上の歯止めでは全く不十分。
民主党政権の法律だって言われたら、だからこそ足りなかった部分が分かると返せばよい。すぐさま具体的な改善策を提示すればよい。そんなに複雑な作業じゃない。
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235449306477285378)
また、3月11日には「総理が民放に放送内容変更・差し替え可能。」という政府側の答弁が出てきた(3月13日に撤回)。もはや異常である。
解釈次第でテレビ局の放送内容を指示できてしまうようなものを、出来ないよう明記して防ぐべきではないか?政府の解釈がわずか二日でまるっきり変わってしまうような状況。であればこそ、法律内で明文化することが大事であり、それが出来ていない法律は許さない、というのが立憲主義的ではないだろうか。
必要なのは、権力側が”やろうと思えばできてしまう”ものを、明確に禁止出来るようにすることなのだと思う。そのことを山尾しおりさんはずっと訴え続けてきた。枝野代表のツイッターにも間違いがあると指摘し続けてきた。
また、異常だと思うのは、異論を言うのを認めない空気だ。ある野党支持者は山尾氏の行動が「野党がバラバラな印象を与える」などと言っていた。ならば、野党議員は党執行部のゆうことを聞くロボットほうが良いのだろうか?おかしいことを自分の政党がやっているのに、何も言わないことが正しいというのだろうか。問題点の指摘、さらには改正案の私案まで出し、発言を続けてきた人に対して、口を塞ごうとするのは、同調圧力でしかない。
今回の場合、山尾氏の主張自体に反対する意見は少ない。であれば、どうしてこれほどにまで拙速に審議と成立を目指す必要があるのか?政府与党の出した法案に対して、審議を通じて、良くない点を指摘し、改善し、出来る限りの努力を行うことが野党議員の責任ではないだろうか。安倍首相も「今すぐ緊急事態を出す状況ではない」と発言している。審議を伸ばす時間はあったはずだ。
成立した改正法には、付帯決議がつけられたが、付帯決議があったとしても、それは努力義務以上の何の意味も持たない。立憲主義に鑑みれば、明文化して権力を縛るものを法案そのものに書き込むべきではないだろうか。それが出来ないのなら、反対の意思を示すべきだ。
将来、時の政権が解釈を変更し「テレビ局に指示できる」としたらどうするのか。その時「当時の野党は法案に賛成したじゃないか」と言われれば、何も反論できない。法案に反対をすることは、”おかしなことがある”という意思を示すことになる。賛成をすることは、その意思を示すことを放棄している。立憲主義に反する法案に反対せず、事実上の白紙委任に等しい賛成を行うことは、立憲主義を捨てたに等しい。
そんな野党は、”立憲野党”とは言えないし、政府与党の出す法案に白紙委任をする野党は、存在価値のない、それこそ「いても仕方がない」存在でしかない。
山尾氏を批判する、立憲支持者たちにとっては、立憲主義などどうでもいいのだろうか。立憲主義は、”立憲野党”にとって絶対に譲ってはならないものだし、”一度妥協したら死んだも同然”ではないだろうか。
どうやって投票する人を決めればいいかわからない人向けの雑な例です。
こういうのでいいんだよこういうのでって話。
今の社会を作ったのは与党です。基本的に。だから与党には入れない。シンプル!
本能を信じろ。フィールユアインスティンクトビリーブフォース。
フィール
貴方の生活を考えてくれない人に貴方の生活を預けない権利を行使できるかも知れないのが投票権です
自分とどこかで繋がりのある人に入れることで自分に繋がりのある場所に利益が我田引水かもですので
サブリミナル効果を狙って選挙カーを乗り回してるような奴らを疑う自由がある
実現する気があるかどうかはおいといてこっちを票田として考える気があるだけまだマシというのは一理
選挙権を行使しろ。投票しないのは白紙委任と同じだ。そしてその行為は強者を甘やかすだけだ。それは誰も幸せにしない
以上だ。
もうね、「命じられた」とか言ってる時点で差別やめる気もないよね。
「救済じゃない」と言われても自力救済だろうが他力救済だろうが救済には違いない。
は?自力救済?
被差別者にこれ以上足掻かせるのを「救済」?
やっぱり、差別の継続を望んでるだけじゃん。自分は何もしたくないってな。、
「「キモい」に類する感情に基づく不当な扱い全て」のような曖昧な言い方は白紙委任と同義であり同意を得られるわけがない。非現実的。
曖昧でもなんでもなく、それが全て。
お前は差別を続けるため、何も考えないようにしてるだけ。
同意を得る?何言ってんだ?
代表として振る舞った覚えなどないが。
いいえ、質問ですが。
答えず逃げ回ってるあたり、もうそれ自体が答えだけど。「差別やめたくありません、KKOは俺らの感情のサンドバッグでいてください」って答え。
「罪の意識」とはなにを言っている?
逆に聞くがいままでの人生の中で「贖罪しろ」と命じられて行動を変えたことがあるのか?
一方的な理屈で罪の意識を押し付けて相手が動くわけがない。非現実的。
「救済じゃない」と言われても自力救済だろうが他力救済だろうが救済には違いない。
「他力救済以外は救済ではない」という自分定義で語られても困る。
「「キモい」に類する感情に基づく不当な扱い全て」のような曖昧な言い方は白紙委任と同義であり同意を得られるわけがない。非現実的。
過激思想と感じているかはともかく感情抹消論はKKOの中でもユニークな意見なのだからKKOの代表みたく振舞うのは詐欺的。
立憲民主党本部はやる気あんのか?綺麗な希望の党を目指しているとしか思えない。
主張はまあ、悪くないけどハイソ過ぎる。
不評な風間直樹を押し付けるためにあえて悪い球をぶつけているんじゃないかと思うほど
追記:
立憲民主 打越さく良氏擁立へ 参院選新潟選挙区(UX新潟テレビ21) - Yahoo!ニュース https://t.co/OP9e4qFKu8 @YahooNewsTopics@ 新潟選挙区ではもや打越さんしかいません。野党統一候補で塚田「忖度」議員に対峙しましょう。— 有田芳生 (@aritayoshifu) 2019年4月12日
今、4者協議なるものを開こうとしているが、これはかつてあった連合による非自民・非共産での共闘路線の名残。
自由と共産は最近負け続けだからこれ自体を廃止しろと言っている。
つまり「直接面識のない候補だけど多分いい人だよ。だから白紙委任して」というのが山梨の市来同様立憲本部の意向。パリテはその隠れ蓑。
そんな虫の良いことを言ったら独自候補の擁立もされかねない。舐めたことを抜かすな。地元をないがしろにするやつが脱原発を語るな。