2024-01-07

リアクションを求め、自分定義することからの脱却。その先の豪農

SNSYouTubeTikTokブログ。今や発信してリアクションを得られる可能性があるプラットフォームに触れていない人の方が少ないと思う。

アカウントもあるが、公開範囲限定しているだけで多くの人は少なくとも親しい友人やネットで繋がりのある人などが見られる環境を作っていると思う。

僕はまるで他者からリアクションを求めていない、と言うような素振りをすることがある。まじ滑稽。

リアクション求めないことは美徳でもなんでもないし、社会に生きる以上何かしらの発信にはリアクションが伴うし、誤解されては生きづらい。

リアクションから逃げることは「私は社会性がないです。」と言っているようなものじゃないか?言いすぎ?

とはいえリアクションを求めるがあまり本心を隠したり言いたいことを歪めたりするのは不健全であると思う。

服を買う時、「これ少し自分っぽくないな」と思い手に取ることをやめたことはないか自分みたいな人間がこんなお店に入るのは違うな・・・入店を躊躇ったことはないか

リアクション求めないというスタンスに常に立って世捨て人のようなスタイルを保つことは非常に力のいることだし、この社会で生きる以上不用意にそんな振る舞いをすべきではないと思う。

しかし、たまには「うおぁぁぁぁ〜〜!!!!俺だ俺だ俺が全てだ!!!!」というムーブをすることも必要なんじゃないか

我々はあくまでも個人個人であることを忘れて集団のうちの一人であるという意識を強めすぎてしまうと、誰かが、もしくは自分勝手に決めた自分が固着してしまって人生セレンディピティが生まれないように思う。

自分では普段しなさそうだな、という選択をたまにすると人生がまるで豊かになったような気がしたことはないか。1人で旅行に行ってみる、

作ったものがない食べ物を作ってみる、なんかこれとこれでプリンみたいなもの作れるんじゃね?(レシピは知らない)とかなんでもいい。

自分の中に遊牧民を住まわせろ。そんじょそこらノマドワーカーなんてものとはわけが違う。それはあくま集団から少しだけ距離を置いて「特別なあたし」を楽しんでいるにすぎない。

ほんの一瞬でもいい、自分精神的なパーソナルスペースバカ広くして敢えて社会から隔絶したような心持ちで、自分評価軸のみで物事選択することをしてみる。

評価軸なんてない?やりたいことなんてない?小難しく考える必要はない。

例えばあなたの目の前に米が2合、野菜、肉、魚などなど様々な食材があるとしよう。普段なら米は2〜3食分に分けて、食材もいくつかのレシピを作るために小分けに調理するだろう。もちろんそれがあなたのやりたいことで、スタイルなのであれば好きなようにして構わない。そうでないのなら?

私は一介のサラリーマンで、特段見どころのあるような人間ではない。だが、眼前にそれらが広げられたら、今の私は豪農モード。全ての食材を余すことな調理し、一食で食らう。

普段なら絶対にできないだろう。妻もいる、もちろん食費や向こう数日分の食材をまた買いに行かなければいけないという問題豪農モード終了後にぶち当たるだろう。しかし、今の自分はその問題に直面しているだろうか?断じて否だ。

豪農がそんな生活をしていたか定かではないが、自分イメージからかけ離れた存在になるということが重要で、それこそが日々社会で暮らす我々の数少ない寄る辺になると信じている。

今日は妻がいない。冷蔵庫には納豆がある。妻は納豆が大嫌いで家で食べることは普段絶対にない。なんなら結婚して以来初めて買った。

帰ったら大量の米と納豆、昨日こさえた温泉卵パーティと行こうじゃないの。

そんなことをして何になるんだ?そんな問いは豪農モードの私にはナンセンスだ。普段自分がしないことをすること、無意義なことを行うことこそが肝要。

どうせ同じサイクルを繰り返して年老いていくだけなのなら、外界から観測接触不可能な異質な自分見出し、作り上げ、楽しむのもまた一興なのではないだろうか。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん