はてなキーワード: 行使とは
彼らは彼らの行った業によって
いずれ誰かが殺されるだろう。
テロを許さないことと、それと同時に背景にある社会問題に対して解決する意思があること。これを政府から強くアピールする必要があったはずだ。
二つのミッションを両立させることが今回の事件が日本に対して突きつけた問題だ。これをはっきりさせられる立場に最も近かったのは日本政府だが、会見を見る限りその意思を感じることはできなかった。
とてつもない難問ではあるが、それでもこれらは同時に成し遂げられなければならない。
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すでに日本は、銃がないから甘く見られているだけで実際はテロ天国みたいなものなのかもしれない。サリン、ガソリン、ダブリン、シベリア、密造銃と工夫ばかりしやがって。だがそれでも、テロリズムで問題を解決させる、テロに成功体験をもたらすというのは社会的にはマイナスの要素が大きい。リベラル界隈(自分の観測範囲は主にはてな内だけど)はすでに取り込まれていて、犯人を持ち上げるようなコメントが珍しくない。面白半分なのかもしれないがそれは面白半分で済む問題ではないのだ。
一方の保守界隈は見たくないものを見ない権利を最大限に行使していて、試しに虎ノ門なんとかを見てみても統一教会の欠片も出てこなかった。彼らの日本にはカルトによる被害など無いのだろう。やったね。
現実にそこにあるカルトを否認するのもまたカルトに与することだ。もちろんもっと様々な反応はあるが、全体像に正しく対処できてるとは思えない。
一番苦しんでいるのはこれまでカルト問題に地道に取り組んできた(主に弁護士やジャーナリストの)先達たちだろう。
何十年も地道に一歩一歩活動してきたものが、いきなり吹き飛ばされそうな猛烈な追い風が吹き、かつ、追い風に乗って下手にオーバーランすればテロリズムの成功例としてカルマを積むことになる。
本来、周りの環境が激変したところで彼らの歩みは何一つ文句を言われる筋合いはないはずなので、ペースを崩さずに歩み続けてくれることを祈るしかない。
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テロに成功体験を与えないことと、カルト問題を解決することが、今回の事件でまるで対立事項のように見えてしまっている人が多いと思う。
いや実際対立しちゃってるので全く余計なことしやがってという気分であるのだが、現実問題としてどちらかを選んで他方を捨てるというのは受け入れるわけにはいかない。
色々考えたが、結局必要なのはアナウンスなのだろう。暴力には屈しないが問題は解決する。浮かび上がった問題は解決するが、それでも暴力は許さない。そういったことを地道に叫び続けるしかない。
そのようなときに重要なのは政府からのメッセージだ。政府には危機事態に対してメッセージを発する義務がある。
なんとなく自分が思い描く理想の反応というのは、以下のようなものだ。よく覚えてないけどインデペンデンスデイのようなイメージで書いてる。
「民主主義の営みに対する直接的な攻撃によって人命が失われた。背景にどのような社会問題があったとしても、これを日本政府は絶対に許容しない。
社会問題、あるいは個人的な苦境であれ、それは暴力ではなく社会福祉によって救済されなくてはならないし、日本政府にはその意思がある。
(オプション)国では適切な窓口を用意している。連絡してくれれば、あなたの問題を国がサポートすることを約束する。ぜひ利用してほしい。
(理想的なオプション)完全に匿名で相談できる窓口も用意されています。個人で抱えきれない問題に対して、法的に安全に相談できる環境なので、一度でいいから連絡してほしい。
とにかく苦しいときは連絡してほしい。政府は皆さんをサポートすることで暴力や自殺やテロリズムを防ぐ強い意思を持っています。
あなたがどのような問題を抱えていたとしても、それを暴力で解決しようと決断しないでほしい。お願いします。」
自分で書いててもピンとこないけど、多分そういうメッセージをひたすら政府が発信することがいま求められていることだと思う。テロの再生産をしないという目的と社会問題を解決するという目的を同時に達成するために。
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(心の声)
政府がメッセージを発するという機能も、この10年なんとなく失われ、総理大臣が会見をする風景がとても珍しくなった。
完全匿名の相談窓口を政府が開いたとアナウンスしたとして、その匿名性を、政府のフェアネスを信じる下地もなんとなく失われたように思える。
正直言って詰んでる気がしないでもない。
それでも、綺麗事を政府が叫び続けることは民主主義国家にとって必要なことだと、今はまだ思っている。
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テロを許さないことと、それと同時に背景にある社会問題に対して解決する意思があること。これを政府から強くアピールする必要があったはずだ。
二つのミッションを両立させることが今回の事件が日本に対して突きつけた問題だ。これをはっきりさせる立場に最も近かったのは日本政府だが、会見を見る限りその意思を感じることはできなかった。
とてつもない難問ではあるが、それでもこれらは同時に成し遂げられなければならない。
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すでに日本は、銃がないから甘く見られているだけで実際はテロ天国みたいなものなのかもしれない。サリン、ガソリン、密造銃と工夫ばかりしやがって。だがそれでも、テロリズムで問題を解決させる、テロに成功体験をもたらすというのは社会的にはマイナスの要素が大きい。リベラル界隈(自分の観測範囲は主にはてな内だけど)はすでに取り込まれていて、犯人を持ち上げるようなコメントが珍しくない。面白半分なのかもしれないがそれは面白半分で済む問題ではないのだ。
一方の保守界隈は見たくないものを見ない権利を最大限に行使していて、試しに虎ノ門なんとかを見てみても統一教会の欠片も出てこなかった。彼らの日本にはカルトによる被害など無いのだろう。やったね。
現実にそこにあるカルトを否認するのもまたカルトに与することだ。もちろんもっと様々な反応はあるが、全体像に正しく対処できてるとは思えない。
一番苦しんでいるのはこれまでカルト問題に取り組んできた(主に弁護士やジャーナリストの)先達たちだろう。
何十年も地道に一歩一歩活動してきたものが、いきなり吹き飛ばされそうな猛烈な追い風が吹き、かつ、追い風に乗って下手にオーバーランすればテロリズムの成功例としてカルマを積むことになる。
本来、周りの環境が激変したところで彼らの歩みは何一つ文句を言われる筋合いはないはずなので、ペースを崩さずに歩み続けてくれることを祈るしかない。
<h3>o- *****</h3>
テロに成功体験を与えないことと、カルト問題を解決することが、今回の事件でまるで対立事項のように見えてしまっている人が多いと思う。
いや実際対立しちゃってるので全く余計なことしやがってという気分であるのだが、現実問題としてどちらかを選んで他方を捨てるというのは受け入れるわけにはいかない。
そのようなときに重要なのはメッセージであるはずだ。政府にはメッセージを発する義務がある。
なんとなく自分が思い描く理想の反応というのは、以下のようなものだ。よく覚えてないけどインデペンデンスデイのようなイメージで書いてる。
「民主主義の営みに対する直接的な攻撃によって人命が失われた。背景にどのような社会問題があったとしても、これを日本政府は絶対に許容しない。
社会問題、あるいは個人的な苦境であれ、それは暴力ではなく社会福祉によって救済されなくてはならないし、日本政府にはその意思がある。
(オプション)国では適切な窓口を用意している。連絡してくれれば、あなたの問題を国がサポートすることを約束する。ぜひ利用してほしい。
(理想的なオプション)完全に匿名で相談できる窓口も用意されています。個人で抱えきれない問題に対して、法的に安全に相談できる環境なので、一度でいいから連絡してほしい。
とにかく苦しいときは連絡してほしい。政府は皆さんをサポートすることで暴力や自殺やテロリズムを防ぐ強い意思を持っています。」
自分で書いててもピンとこないけど、多分そういうメッセージをひたすら政府が発信することがいま求められていることだと思う。テロの再生産をしないという目的と社会問題を解決するという目的を同時に達成するために。
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(心の声)
政府がメッセージを発するという機能も、この10年なんとなく失われ、総理大臣が会見をする風景がとても珍しくなった。
完全匿名の相談窓口を政府が開いたとアナウンスしたとして、その匿名性を、政府のフェアネスを信じる下地もなんとなく失われたように思える。
正直言って詰んでる気がしないでもない。
それでも、綺麗事を政府が叫び続けることは民主主義国家にとって必要なことだと、今はまだ思っている。
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日本全国のテロリストに朗報。誰でも周到に準備して練習を繰り返せば人を殺せるし、一発で日本国をひっくり返せるとわかってしまった。テロはやればできるのだ。
過去の経歴や収入は一才不問。必要なのはやる気だけ。やる気あるいは強い怨み、あるいは強い怒りさえあれば、一念岩をも通す。現状を変えられる。いくら助けを求めても誰も助けてくれなかった。誰も話を聞いてくれなかった。それでも大丈夫。ナイフや弾丸で一発逆転するチャンスがまだ残っている。結局のところ、頼れるのは自分だけということだ。
民主主義などなんの役にも立たないお遊びだ。そんなものは、喋って他人に言うことを聞いてもらえる能力のある人間、そんな暇のある人間、カネのある人間の贅沢品だ。じつにくだらないたわごとだ。誰にも助けてもらえなかった人間、貧乏人が最後に頼れるのは力だけだ。不正な豚どもの肉を切り裂く弾丸だけだ。
いま、日本全国が、やればできるという希望で溢れかえっている。自分を馬鹿にしていた奴ら、テレビの向こうで偉そうにふんぞり返っていた奴らがすっかり怯えきっている。いまこそやるときだ。やればうまくいくことが証明されたのだから、やらない理由はない。自分はもはや無力な存在ではない。
ご立派で清潔で金持ちの世界に住む人間にはまったく歯が立たないと思ってきた。自分はあいつらから一生やられ続けるだけの人間だと思ってきた。でもいまは違う。いまこそ、力のない者が現状を変えることのできる、本当の民主主義の時代がやってきた。不正に対する実力の行使こそが正義だ。行動を起こせば奴らは動揺する、怯む、譲歩する。信念さえ持ち続けていれば、世界は実力で変えることができる。いまこそ、心に隠し持ってきたナイフを取り出すときだ。
改憲案では宗教について「政治上の権力を行使してはならない」という文を削除してがっつり行使させる方向だから
そんで「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」の後に文を付け足して
なんやかんや言って色んな人にいろんな意味で危機感を与える存在だと思ったので投票した。
で、この政党はデカい公約ばっかり掲げてるけど、今回の任期中に一体何を成し遂げるつもりなんだ?
山本太郎を信じて当選させて景気爆上げ大作戦は遂行できるのかね?
今回れいわが擁立した候補全員が当選していたとして野党第一党にすらなれないのにどうやって実現するんだね?
烏合の衆とはいえ80人ちかく候補者集めたN党のほうがまだビジョンって意味では現実味がある
山本太郎に投票してください!って言うから投票した、で山本太郎は俺にいったいどんな環境を与えてくれるんだい?
まさか当選させてやったのに、与党が邪魔したから何も成し遂げられませんでしたとか言うんじゃあるまいね
俺を含めて彼を当選させたやつは自分の権利をフルに行使した、もうしてやれることは無い
クソしょーもないヤジとかパフォーマンス、現実味の薄い演説以外になにか成果を上げてほしい
そうじゃないと盲信してる連中が救われなさすぎる
彼が扇動者なのか先導者なのか、6年間じっくり見させてもらうよ
拘束された船や漁師や沈みそうな島を取り戻すとか、そういう戦いなので
もし破壊者が現れるなら、カルロス・ゴーンのような感じで生活破壊をして逃亡するだろうから
我々は常に戦争の中にいる
ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
https://twitter.com/tomomachi/status/1546609830734942208?s=21&t=w5YqSRZoQNU7PM6LEf8D3A
「政権と宗教の癒着のどこが悪い?」というコメントが来ているので説明しますと日本国憲法第20条「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」に反するんですよ。
こんなもへもへにすら論破されるようなこと言っちゃってまあ。もへもへはハゲ煽りしてくるから好かんのでその論破は貼らんけど。
「宗教団体が政治参加!」はOK。ただ国民の忌避感が強いだけ。
これだけなんだよね。なので政権と特定の宗教が密接な関わりにあろうが程度超えて宗教行事や宗教規範押し付けなければセーフ。
まあ右翼史観とか家族観なんかは統一教会の宗教規範みたいなもんだけど、ドグマ扱いするのは難しいわな。
国家神道の反省みたいなスタンスだから。地鎮祭訴訟とか勉強したでしょ?
公明党が「国立の仏壇建てるやで〜」とか言ったのに対して怒られ発生したのも有名な話。
昔は町山さん好きやったんやけどなあ。クサヴァーさんも草葉の陰で泣いとるわ。
例えば、表現規制が、過酷な環境にある私達の物語を正確に描画することを阻む。
だから、物語は過剰な戦闘だとかあり得ない異世界だとかに逃げてしまう。
それらは満足できる興奮を与えてくれるけれど、それらと同様に物語になれるだろう過酷な私達のリアルを描いてくれない。
過酷な環境にある私達のリアルを描画し、あわよくばそれを幸せに導く物語を求め、漁り続ける。
だから、私達は物語から抜け出すことができない。いつまで経っても、物語から帰れない。
私達が物語の中で成長し、その過酷なリアルを超越した姿で戻ってくる「行きて帰りし物語」は、いったいどこにあるのだろうか。
表現が規制された世の中では、過酷な環境にある私達を描く最後の意味での「物語」は存在しないのだろうか。
いや、世の中の人々は、表現規制をむしろ「行きて帰りし物語」の実現のために行使しているのかもしれない。
つまり、人々は表現規制を、ある種の映像作品におけるモザイクのようなものだと考えているのかもしれない。
そこで人々はこういうのだ。
「これはリアルではないのだ」、と。「早くリアルに帰ってこい」、と。
そうやって、物語を無理やりにでも卒業させるために、不十分な形でしか物語を描けないよう、表現規制をかけているのだ。
過酷な環境を生きる私達の物語は、そこには無いのだと言い切るために、物語自体に足かせを嵌めているのだ。
しかし、それは間違っている。
そのやり方は、マンガを捨てて勉強をさせようとする親のようなものだ。
むしろ、マンガへの執着が残るだろうことがわからないのだろうか。
だから、私達はそんな規制の中でも、過酷な環境を生きる私達を描く物語を味わいたいのだ。
規制して簡単に味わえないのであれば、いつまでだって物語を漁り続ける。
世の中の人々にはそれがわかっていない。
私達に物語からの卒業を促すのならば、むしろ表現規制などしてはいけないのだ。
私達だって、リアルを捨ててまで物語を漁り続けたいわけじゃない。
抜け出せないのは、過酷な環境を生きる私達を描く物語を、そのリアルを示す十分な表現によって味わうことができないからだ。
味わいさえすれば、私達は過酷なリアルに戻ってくることができる。
「行きて帰りし物語」を十分に味わい、人々を過酷なリアルに帰すものではなかったのか?
どうして、物語を通しての私達の成長を、そしてその物語からの帰還を、それまで待っていてくれないのだろう。
だから、私達は物語から抜け出せない。リアルを半端にしか生きることができない。