例えば、表現規制が、過酷な環境にある私達の物語を正確に描画することを阻む。
だから、物語は過剰な戦闘だとかあり得ない異世界だとかに逃げてしまう。
それらは満足できる興奮を与えてくれるけれど、それらと同様に物語になれるだろう過酷な私達のリアルを描いてくれない。
過酷な環境にある私達のリアルを描画し、あわよくばそれを幸せに導く物語を求め、漁り続ける。
だから、私達は物語から抜け出すことができない。いつまで経っても、物語から帰れない。
私達が物語の中で成長し、その過酷なリアルを超越した姿で戻ってくる「行きて帰りし物語」は、いったいどこにあるのだろうか。
表現が規制された世の中では、過酷な環境にある私達を描く最後の意味での「物語」は存在しないのだろうか。
いや、世の中の人々は、表現規制をむしろ「行きて帰りし物語」の実現のために行使しているのかもしれない。
つまり、人々は表現規制を、ある種の映像作品におけるモザイクのようなものだと考えているのかもしれない。
そこで人々はこういうのだ。
「これはリアルではないのだ」、と。「早くリアルに帰ってこい」、と。
そうやって、物語を無理やりにでも卒業させるために、不十分な形でしか物語を描けないよう、表現規制をかけているのだ。
過酷な環境を生きる私達の物語は、そこには無いのだと言い切るために、物語自体に足かせを嵌めているのだ。
しかし、それは間違っている。
そのやり方は、マンガを捨てて勉強をさせようとする親のようなものだ。
むしろ、マンガへの執着が残るだろうことがわからないのだろうか。
だから、私達はそんな規制の中でも、過酷な環境を生きる私達を描く物語を味わいたいのだ。
規制して簡単に味わえないのであれば、いつまでだって物語を漁り続ける。
世の中の人々にはそれがわかっていない。
私達に物語からの卒業を促すのならば、むしろ表現規制などしてはいけないのだ。
私達だって、リアルを捨ててまで物語を漁り続けたいわけじゃない。
抜け出せないのは、過酷な環境を生きる私達を描く物語を、そのリアルを示す十分な表現によって味わうことができないからだ。
味わいさえすれば、私達は過酷なリアルに戻ってくることができる。
「行きて帰りし物語」を十分に味わい、人々を過酷なリアルに帰すものではなかったのか?
どうして、物語を通しての私達の成長を、そしてその物語からの帰還を、それまで待っていてくれないのだろう。
だから、私達は物語から抜け出せない。リアルを半端にしか生きることができない。