2022-07-09

表現規制は「行きて帰りし物語」を促すか?

例えば、表現規制が、過酷環境にある私達の物語を正確に描画することを阻む。

から物語は過剰な戦闘だとかあり得ない異世界だとかに逃げてしまう。

それらは満足できる興奮を与えてくれるけれど、それらと同様に物語になれるだろう過酷な私達のリアルを描いてくれない。

から、私達は物語を次から次へと漁り続ける。

過酷環境にある私達のリアルを描画し、あわよくばそれを幸せに導く物語を求め、漁り続ける。

から、私達は物語から抜け出すことができない。いつまで経っても、物語から帰れない。

私達が物語の中で成長し、その過酷リアルを超越した姿で戻ってくる「行きて帰りし物語」は、いったいどこにあるのだろうか。

表現規制された世の中では、過酷環境にある私達を描く最後意味での「物語」は存在しないのだろうか。

いや、世の中の人々は、表現規制をむしろ行きて帰りし物語」の実現のために行使しているのかもしれない。

まり、人々は表現規制を、ある種の映像作品におけるモザイクのようなものだと考えているのかもしれない。

表現規制によって、物語描写曖昧ものになる。

私達は、これはリアル表現でないと感じる。

そこで人々はこういうのだ。

「これはリアルではないのだ」、と。「早くリアルに帰ってこい」、と。

そうやって、物語を無理やりにでも卒業させるために、不十分な形でしか物語を描けないよう、表現規制をかけているのだ。

過酷環境を生きる私達の物語は、そこには無いのだと言い切るために、物語自体に足かせを嵌めているのだ。

しかし、それは間違っている。

そのやり方は、マンガを捨てて勉強をさせようとする親のようなものだ。

そんなやり方で、子供勉強をすると思っているのか。

しろマンガへの執着が残るだろうことがわからないのだろうか。

から、私達はそんな規制の中でも、過酷環境を生きる私達を描く物語を味わいたいのだ。

規制して簡単に味わえないのであれば、いつまでだって物語を漁り続ける。

そう、リアルを捨ててだって漁り続ける。

まり物語から卒業には逆効果なのだ

世の中の人々にはそれがわかっていない。

私達に物語から卒業を促すのならば、むしろ表現規制などしてはいけないのだ。

私達だってリアルを捨ててまで物語を漁り続けたいわけじゃない。

抜け出せないのは、過酷環境を生きる私達を描く物語を、そのリアルを示す十分な表現によって味わうことができないからだ。

味わいさえすれば、私達は過酷リアルに戻ってくることができる。

そもそも物語とは元来、そういうものではなかったのか?

行きて帰りし物語」を十分に味わい、人々を過酷リアルに帰すものではなかったのか?

どうして、物語を通しての私達の成長を、そしてその物語からの帰還を、それまで待っていてくれないのだろう。

から、私達は物語から抜け出せない。リアルを半端にしか生きることができない。

(終わりまで書いて思ったが、以下で使う「表現規制」という言葉は、もしかすると適切ではないのかもしれない。

物語の十分な表現を阻もうとする何かのことを、今回は「表現規制」と呼ぶことをご了解いただきたい。)

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