2018-10-18

ひとの悪意が怖かった

いじめ+無視+虐待+モラハラなどに取り巻かれて育ったからか、それとも単純に気が小さ過ぎるのかわからないけれど、どうにもひとの悪意に弱かった。自分なかに悪意が生まれないわけではないけれど、そういうものを誰かに向けられるような強い気力が、どうしてもわたしには生まれなかった。

いつもは増田でもほっこりしそうな物とかおもしろそうなタイトルのものばっかり読んでいる。そういう自己管理を心がけているけれど、普段は読まないようなエントリをうっかりタップして読んでしまい、その先のトラバまで見て動悸が止まらなくなった。

怖いくせに先へ進んでしまうあれ、いったい何だろう。自分の心に強く影響するとわかっているのに止められないし、嫌なはずなのに途中で切り上げると気になってしまって、絶対に見てしまう。やめておけばいいのにやめられた試しがない。強迫観念に似ている気がする。自分精神状態が悪い時に多い。

いつもは仲良く話しているだけで楽しい友人が、わたしも知っている人のひどい悪口を言う。体の芯からこまかく震えるし、だんだん心臓のあたりが重くなって、吐き気と胸焼けの間みたいな気持ち悪さが食道から胃にかけてみっちり詰まる感覚がする。ただ大変だったことの愚痴を聞くときには感じないような苦しみが全身に襲ってくる。

わたしにとっては謂れのない、他人への悪意なのに、ぞっとするほど怖い。何でだろうとずっと思っていた。どこかで自分に言われている気分になるからじゃないか最近気付いた。誰かの陰口を聞いて、陰で自分も同じように言われているような気持ちになる。被害妄想も甚だしいのに。共感性羞恥のたぐいかもしれない。ドラマやドッキリの番組などで、明らかに失敗する事がわかるシーンや、理不尽で恥ずかしい目に遭わされてしまうシーンなどが怖くて見られない。半分作りものだとわかっているのに。たぶん、失敗をわざと目立つように取り上げられて、たくさんのひとから笑われてきたことがトラウマなせいだろうな。

そういう悪意に触れるのが怖すぎて、いつのまにか社会生活がまともに送れなくなった。触れた時に体へあらわれる拒否反応もすごい。

ひとを信じるのが下手くそで、誰にもこういう負の気持ちを託せない。なんらかの精神疾患をずっと疑っている。友達からもそれ未満からも、「誰にも言わないよね」と心の重いものを託される聞き役でばかりいる。ひとの気持ちごみばこになっているのかもしれない。自分からは出せないくせに、ひとのものは拒めない。変な話だなあ。ずっとそう思っていた。

なのにきょう、匿名をいいことに、とうとうこんな重苦しい気持ちを並べ立てた。

少し罪悪感があるけれど、文字にして整理してみれば、今までよりずっとすっきりした。

わたしはいま、顔も、名前も、人格も知らない、不特定多数の誰かに見える形で、このシステム自分気持ちを預けている。

今までわたしに色んなものを託したあの子たちは、こういう感覚を求めて、誰かに話して、心のスペースを空けていたんだとわかった気持ちになる。

自分なかに悪感情を留め続けるのが苦しいひとは絶対いて、それを解消する術をわたしが上手く見つけられなかった事がより強い恐怖としてあらわれたんじゃないかと推測できた。たぶん原因の一端でしかないけれど。わたしの心は、ずっと竦んでいたのかもしれない。

ばかだなと自分で思うけれど、たぶんこれからもこういう風に、ひとの悪意を恐れながら生きていく。蓄積されて出てきたアレルギーみたいなものから、今までどおり、自分気持ちリスク管理をするしかない。それこそ、かわいい動物記事や、やさしいニュースを選んで見るように。

これからも出来る限り、自分から出てくる悪意や害意が誰かに触れたりしないように、やさしい無関心を保って生きたい。それがどんなにさみしくても、同じ傷と苦しみを増やすより、ずっとましだと思うから

  • そりゃあ生き物にとっては、恐怖=外的、は目を離してはいけないものだろう。 そこに狼がいるのに注意をそらして餌ばっか見てる兎が、生きていけるか? 無理だよ。だから生存本能...

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