はてなキーワード: ルッキズムとは
社会参画に至る通過儀礼としての自傷、特に思春期女性について、ボカロ歌詞、ラビットホールやら、人間なんか大嫌いやら、からふと想起する。
私が自分の容姿を卑下しトラウマトラウマと風聴するのは、ルッキズムとジェンダーバイアスに対するシニシズムである、と自己分析していたが、どちらかというとニヒリズム的かもしれないと最近思う。女性と男性の非対称性に嫌気が差し、弱みを見せる女性がモテて弱音を吐く男性がモテない古い世界を転換させたいという価値観への承認欲求、他者への不信感・不満が、この態度の根源ではありつつも、さして世は変わらないと感じながらも年老いても自傷的に耽るのは、自らの社会性への価値の毀損を厭わない虚無的な諦念所以である、と最近思った。
今の自分、ツイ垢沈黙たる自傷的な行動に対する幼稚さ、メカニズム、普遍的な欲求について類推し思索に耽る。自己価値の曖昧さや不安による試し行動は思春期的であり、これに私は虚無主義的に該当しないところである。寂しいからかまって、という凡な気持ちはもちろんあるが、最もはイベントに対する愛である。公式が今までありがとうも何もなく次のイベントの告知しかせず、蔑ろに感じた憤り、過去への執着だ。そこに対して付加的なイベントたる自傷を作ることで、イベントそのものへの関心と尊さをアピールしたい、というところか。ウェルテル効果が近しいか。そう考えると、面白みもないね。
ありがとうスプラトゥーン1。初めてのネトゲ。初めての交流、初めての彼女。ブラック企業退職から、全国の顔も見知らぬ友人を巡礼する旅。出会った人たちには様々な背景があり、半グレに手切れ金渡したことも。そんな人たちと甲子園に出て、思い出を作った。
最後に潜った。ナワバリには誰もきてくれなかった。ガチマでは有名プレーヤーとよくよくマッチした。うまく立ち回れずもやもやした。だんだん酔ってしまい、リタイア。昔はフェス丸一日プレイしたのにね。
……なんだこれ。婆やの死に目よりも涙出てきた。別れたくない。
別れたくない。
女性が昔から化粧をすることを求められ、垢抜けることを散々求められてきた。
むしろ女の中のルッキズムの同調圧力のがヤバいのは中学生の芋叩きから明らかですよね。
ああいうのを本人のいないとこで延々とやってるのが女じゃん。
電車などでパッとしない、非モテっぽい男を観察すると、顔のパーツ自体は悪くない男が多いのである。実際、垢抜けたらイケメンなんだろうな、という男は結構いる。
変な半袖のパーカーだとかのウイグル自治区で作られたヨレヨレの服を着たり、QBハウスで「前髪は眉毛にかからないくらい、サイドは耳にかからないくらいで、適当に梳いてください」などと定型的なチーチーカットを注文したりして、自ら「チー牛ファッション」に望んでなっているのだろう。
こういうとルッキズムだとかなんだとか言われるが、女性は昔から化粧をすることを求められ、垢抜けることを散々求められてきた。
ただ単純な問題だ。男性も、まともな服を買ったり、美容室に行ったり、スキンケアをしたり、ひげ脱毛をしたりと、美容にお金をかければよい。
女性にだけ清潔感を求めるのは明らかに不平等だろう。お前たちも美容に金をかけろ。それが男女平等だ。恋愛市場が自由市場になったのだから仕方ないだろう。
彼らがモテず、自分を弱者男性と規定し、被害者意識を募らせるのは明らかに自己責任である。
そもそも、そのような「外見」に対する努力を欠いているにも関わらず被害者意識を募らせ、フェミを叩いたところで、チー牛を救う者は現れないのだ。
顔に絶望する前に、それ以外の部分をまず磨けるだけ磨いてみろ。
マリみてでアニメ好きになった。同時期に始まったプリキュアは一度も見たことがなかったが、プリキュアおじさんなる存在は耳にしていたし、
当時はプリキュアおじさんを「自分の道を貫き通すかっこいい存在」とさえ思っていた気もする。
それから20年。娘が3歳になり、なんとなくプリキュア(スカイプリキュア)を見せたところ「かわいい!」と大喜び。
「これ……もしかして自分がプリキュアおじさんになるかも……」と世にも奇妙な物語や笑うセールスマンみたいな展開になると思いきや、全くハマらなかった。
子供向けによく作られたアニメだなと感心はした。変身バンク。OPとEDのキャッチャー(OPは難しいが)さや、EDで各キャラがダンスを促す演出など、娘は大喜びだった。
キャラクターの造詣も男性好みの萌えではなく、りぼんよりのビジュアルで、スラっとしたモデルの様な体形も現代的だなと感じた。ルッキズムを助長するような気もしたが(これはきっと親になったことや、年齢のせい)。
大人でも一定数好きになる人はいても、スカイプリキュアを本気でかわいいと思っている大人は割とガチのロリコンなのでは?と思うのは考え過ぎだろうか。
最終回を見終わった後、娘は「もっと「プリキュアみたい!」とせがんできた。アニメ好きではないがレトロ好きな妻が「一番最初から見てみたら」と提案してきた。レトロはアニメにも適用されるのかーと、娘とふたりはプリキュア第1話を見た結果。
お父ちゃんは心が躍った。キモオタだった頃の気持ちが少し蘇ったと同時に納得した部分もある。
これは何の裏付けもない個人的な意見だが、ふたりはプリキュアはスカイプリキュアと比べると女児向けというよりもろアニメオタク向けの作りだった。
EDにはフッフーと合いの手が入っているし、時代もあるがキャラクターの造詣ももろ90年台アニメな雰囲気であり、演出も含めおじさん受けしそうな内容。
思うにこの時はまだ女児向けアクションのノウハウが確立されておらず、制作側もある程度オタクの層が見ることを想定していたのではないだろうか。
スカイプリキュアがプリキュア第1弾として今始まっていたら、恐らくプリキュアおじさんは誕生していなかった様な気がする。
ふたりはプリキュアを見るに、プリキュアおじさんの誕生は必然的だったんだなと感じるが、3歳の娘の親になった今、もしプリキュアのイベントに行って同年代のおじさん達が盛り上がっていたら、
気持ち悪くはないが怖いと思うだろうなーと、ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!を聴きながらここに記す。
発達障害者が、自称健常者らに勝手にレッテルを貼られてそれによって「救済」されたことにされたり、その独自に育んできたコミュニケーションを「矯正」されたりしてきたことに対して怒りを感じている。
だが、発達障害者に行われてきたことは、自称健常者・日本国民の下層の人々にも降りかかるだろうということも常々言ってきた。
過去これまでの氷河期叩きもそうだし、子ども部屋おじさんおばさんもそうだし、「ケーキの切れない~」もそうだ。何か曖昧な社会不安が起きるたびに、この社会は生贄を生み出してきた。
間違ってはいけないのは、「明確な原因→解決しよう」ではなく「曖昧な不安→あいつらがキモイ!あいつらが原因」ということだ。
俺は発達障害者やアスペルガーと指さされた人々に対して、「キモくて何が悪い。怒れ」と度々言い続けてきた。
https://anond.hatelabo.jp/20230318052208
「加齢の現実を理解していない」とか「おじさんおばさんは自分の年齢の責任を理解して」とか、そんなことばに従う必要はない。
ネット上では薄っぺらいルッキズムやエイジズムの批判が行われ、そして同じ口でおっさんやおばさんという言葉が悪口として使われる。
俺は堂々とエイジズムを批判する。55歳のおっさんが22歳のように振舞って何が悪いんだ?47歳のおばさんが16歳のように振舞って何が悪いんだ?
だが、それを具体的にどう擁護すればいいだろうか。発達障害者のそれと同様に身近にやっていくしかない。
俺も、飲み会で、まるで大学生みたいにはしゃぐおっさん(物書き)と、それに対する周囲の視線を見た事がある。そして俺はおっさんが孤立しない様に、同様にはしゃいだ。気持ちが良かった。
そもそも「成長」だとか「(曖昧な・出自や年齢にしか紐づけられない)責任」という概念自体を徹底的に疑え。少なくとも障害者の運動はそれをやってきた。
もしかしたら「キモい」おっさん・おばさんと、発達障害者の権利はいつかぶつかるかもしれないが、そんなことは関係ない。それはその時だ。
(黒人奴隷を解放するときに「いつか黒人が白人と衝突するかもしれない」なんて考えるバカは大勢いただろうが、解放は進んだだろ)
キモイキモイと意識し続けて、それで最後に誰が生き残るんだ?キモイキモイと言い続けてきた結果が今の閉塞感だろ?じゃあどうすればいい?
キモくて何が悪い。みんなキモいんだよ。上の記事の繰り返しになるけど、キモくていいんだよ。むしろ、「自分のコミュニケーションや生活はキモくありません」と思い込んでる方がキモいんだって言ったれよ。俺もお前もキモいんだって。
空気読んで人をいじめる本末転倒な社会を構成してる空気読みのお前らも病気だって。
そう言い切って、はじめて、エイジズムやルッキズムはぶち壊せる。
みんなも、「年齢にふさわしくない、キモいおっさん、おばさん」を見た時、自由を感じろ。これでいいんだって。それが過去と将来のお前を救う。それを広げていく。頑張ろうぜ。