はてなキーワード: ラベリングとは
いわゆる”リベラル”的な人が、公然と屈辱して良い対象として、(一昔前まで)オタクだのおっさんだのネトウヨだのとラベリングして、無限に罵倒してよい物として扱っているからウンザリさせられる。やつらの魂こそが少しも自由じゃないんだよ。同調圧力とPTA的な保守思想の塊。
おいィ? どうして流行らないのかと言うと、例えば新しく作られたアニメが古株イラストレーターとの折衝で揉めてグダグダなスタートを切った辺りで既に炎上してたりしたこととか、むべなるかな、その後のアニメの展開もイマイチブギーポップの魅力を伝えているとは考えられない展開が続いて、あんまりインパクトを与えずに実質的なアニメ二期が終了してしまったこととかに問題があった気がする。とは言え十話を筆頭に面白い回もなくはなかったんだけどね……アニメ陣営の努力は認めるんだけど。
でもとりあえず第一作の『ブギーポップは笑わない』から第十作の『ジンクスショップへようこそ!』までは個人的に安心しておすすめできる作品である。是非皆さんも読んでほしいんだけど、個人的に特にオススメなのは第二作の『vsイマジネーター』と第五作の『夜明けのブギーポップ』。第六作の『ペパーミントの魔術師』それから第七作『エンブリオ侵食・炎生』辺りかな。繰り返すように第十作まではどれも満遍なくオススメできるクオリティではあるんだけれど、個人的にはこの辺りがオススメです。あと旧作アニメは個人的に好きなんだけどマジで人を選ぶので一旦忘れて下さい。
基本的にブギーポップシリーズにおいて重要になってくるのは、「人の痛み」です。
とは言え、現代においてはその主張は弱いのかなあ。
増田において、「痛み」が主題になっている記事って結構多いんだけれど、しかしそれは基本的に相手とのコミュニケーションを前提とした提示じゃなくて、「オラァ! 俺の痛みオラァ!」「何の! 私の痛みオープン!」みたいなある種のバトルの媒介として「痛み」が用いられている気がするんだよなあ。例えば、その痛みを媒介に他の痛みと繋がったり、あるいはお互いに痛みを癒やし合ったりといった、本来の「痛みの提示」の役割からはズレた役割において、増田の「痛みの提示」が行われているようでならないんだよなあ。
いや勿論ある程度本来の意味で痛みの提示が行われている部分もあるんだけれど、結局その痛みの提示は、大局としてのバトルの構造に包摂されちゃうんだよね。痛みがラベリングされて、そして戦いの場へと引きずりだされてしまう。例えば、「フェミニズムと反フェミニズム」みたいな対立構図に包摂されちゃう感じで、結局個人的だったはずの痛みが戦いのための尖兵として利用されてしまう。なんかラノベの世界設定みたいですね。そんなこんなで、人は本来癒やしを目的として痛みを語るべきところで、むしろその傷を、痛みを与えそして自らを傷つける為に用いてしまっているんですね。というかブギーの話はどこにいったのか俺。
というわけで、こんな時代だからこそブギーポップが効力を発揮するんじゃないかと思う。ブギーポップ。ブギーポップで主張される「痛み」は、人と人との距離を縮めるための「痛み」なんですね。人と人とがお互いを理解するために「痛み」が提示され、そして、他人の痛みを直視した途端に自分の痛みの存在に気付いたりとかする。とかくブギーにおける「痛みの提示」のプロセスは「痛み」の治療に集中しています。痛みって本来そういう風に使うのであって、特に現代においてソフィスティケートされた痛みを、我々は効率よく使っていかなければならない。少なくとも、その痛みは事態を悪化させるためではなく、改善するために、痛み自体を癒やすために、使われなくてはならない。
そう、現代はブギーポップの(必要な)時代と言ってもいいんじゃないかと。
いやしかしアニメ二期が思いのほかインパクトを残せなかったことが辛いなあ。面白いアニメを作る作業って凄い難しくて、何せアニメは一人で作ってるわけじゃなくて無数の動画マン・動画ウーマンと原画と絵コンテ切る人と監督とかの緊密な連携が必要なんだけど、それを高レベルで実現した作品と殆どないよね。カウボーイ・ビバップとかエヴァンゲリオンは面白かったなあ。個人的にはブギーポップとかと同じような意味合いで輪るピングドラムが好きです。それはそれとして、あああああもうちょっとブギーポップは流行っていてもおかしくないんだよなああああ、現代の潮流にも大枠で一致してるのにいいいい。なんで?
とっとこハム太郎な生活・環境でも辛い・苦労だって言ってるんだから
『生きているだけで辛い』以外の何者でもないのでは?
それがとっとこハム太郎だからなのか HSP だからなのか 社会不安障害(SAD)だからなのか、
その他特定のラベリングはされないがストレス感受性とレジリエンスの問題なのか
生得的な問題はないが「傷つきました😡 傷つきました🥺」で得をした、あるいは問題回避出来たことから、
その行動が強化され、解決を覚えず、今日まで至っているのかはネットじゃわからない
前者であれば言っても仕方ないことでは?
乙武やパラ選手、カナー自閉症などの人達は生得的な困難だけど「生きてるだけで辛い」とかじゃないぞ。
アインシュタインやエジソンやビルゲイツの類の成功者たちも「生きてるだけで辛い」とか言ってないし、ALSでもそんな奴は多くない。
「辛い」っていうラベリングは文化から後天的に学習した心理的なもの。
だからメンヘラよりも酷い境遇の、死ぬレベルの虐待児童・やまゆりレベルの障害者でも「辛い」と訴えることがない。
これを言うと我々の先天的な乙武レベルの脳障害を理解してない!!とボコボコにされるが
自身の面倒をみろと政府に要求するようなメンヘラは、後天的な問題だ。
トイレトレーニングしてもらえなかった子どもは俺のオムツを変えろ!と泣き喚くしかないのだ。
同レベルの能力・精神年齢の人達でも実家の太さ時代の良さで成功安定しているのだから、俺にも下駄を履かせろ俺をジャンプさせろっていう主張は一理ある。
別に立憲民主党なんか支持していないのだが、共同通信が打った雑な記事のせいであらぬ誤解が広まっているので解説する。
まずこの演説は全容がYouTubeに上がっている。千葉8区の新人・本庄さとしさんの応援演説で、「デジタルは後ろ向き」発言は9分40秒くらいから。
https://www.youtube.com/watch?v=l_fKjRkd9Cs
演説全体の大意は「新自由主義からの脱却」である。枝野さんは現在の社会を〈新自由主義的な社会〉だと捉えていて「競争を促進し、負けた人間は自己責任だと切り捨てる」社会から「支え合い、政府が国民をサポートする」ものに変えたいと言っている。
そのビジョンの具体策として、枝野さんは短期・中期・長期の〈3つの経済政策〉を掲げる。デジタル云々の話が出てくるのはそのうちの「長期」の部分だ。
〈短期〉は、「コロナで景気が壊滅しているので、減税をした上でお金を配れ」というものだ。〈中期〉は「ベーシックサービスの拡張」で、医療・介護・保育所・障害福祉などの勤務条件を改善し、従事者を増やし、国民の老後への不安を軽減することで景気を刺激し、少子化の改善を期待するということを言っている。
〈長期的な経済対策〉は「新たな産業を勃興し、世界をリードするビジネスをして外貨を稼いで豊かになろう」という提案で、具体的には「自然エネルギー産業を勃興させよう」というものだ。「21世紀は温暖化問題などもあり、世界中が自然エネルギーにシフトしていく。日本には太陽光・風力・水力・波力・地熱などの発電技術において世界から抜きん出たものがあるので、これを推進して、自然エネルギー社会へのシフトをリードしよう」というのが枝野さんの主張である。その話がなぜデジタル化に関係があるのかというと、菅政権が〈長期的な経済対策〉を示していないからだと枝野さんは言う。「日本のデジタル状況は世界から取り残されており、そこに注力しても世界に追いつくだけで、日本の未来を輝かせることはできない」「政権が最重要課題としてそれに取り組むのはおかしい、長期的な経済対策のビジョンを出せ」というのが枝野さんの批判の内容なのだ。それを「後ろ向き」という言葉で表現している。
まとめると
というのが表題の発言の真意となる。デジタル化自体は枝野さんも賛成をしているが、優先順位や打ち出しかたがおかしいだろうという話なのだ。
記事の内容を読んでも上記のようなことは伝わらないし、扇動的なリード文がミスリード傾向を加速している。ブコメでも以下のような発言がホッテントリに入っている。
b:id:cu6gane 野党お得意の与党逆張りもここまで来ると呆れる…デジタルの対比で自然エネルギーを持ち出すとか「お前は何を言ってるんだ?」状態やん?よしんば自然エネルギー活用するにしたって今の時代デジタル必須だろ
b:id:ahomakotomahomakotom はい、立憲民主党はデジタル化反対なんですね。話にならないね。
b:id:zataku 「デジタルやITとか言うやつ=なんとなく悪、人間味が無い」と思ってる層のお年寄りを取り込みたいんだろうけど…。相手を無知だと思って馬鹿にしているのでは。
記事だけ読んでいれば、このような理解になるのは当たり前である。ブコメでこれなので、Twitterやヤフコメの惨状は推して知るべしであろう。
現在はコンテンツの消費速度がどんどん上がっている時代だ。みんな忙しいので、15分の可処分時間を使って野党党首の演説を聞く人などという人はおらず、見出しと本文を流し読みして「何いってんだこのバカ」とラベリングをして終わり、となる。
だからこそ、要約を担当するメディアの能力が問われる。そこで発言の肝要を捉えられていない記事を配信したり、PV稼ぎのつもりなのかそこにさらにヘンテコなリードをつけて配信をしてしまうと、誤読が進むどころか社会の分断をどんどんと深めていきかねない。その分断を上手く操れるものこそが為政者になるというような傾向すら、最近は現れてきていると思う。
相手が何を言っているのか正確に理解をして、対話的に批判をすること。分断社会を乗り越えていくにはひとりでも多くの人がそれをやっていくしかないと思うのだが、メディアが率先して無理解と嘲笑を煽って分断を深めてどうするのだ。くだんの記事を書いた記者、リードをつけた編集者はプロ失格である。あなたがたの仕事は、はっきりと社会を悪くしている。自分たちには能力がないのだ、社会人として仕事に向き合うスタンスに問題があるのだということを自覚して、猛省してもらいたい。
最初の主張と思いが別、って時点でラベリングではないことは明白なんですが。
これに気づけないという事実をもっておバカと呼ばれても仕方がないですね。
君はもういいよ?
それまさにラベリングじゃん
いつまでラベリングやってんの?
それこそまさにラベリングなんじゃないの?