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はてなキーワード: オフコースとは

2020-06-14

IT系羅生門

ワンデイのイブニングの事であるアローンのビジネスマンが、羅生ゲートの下で雨やみを待っていた。

 広いゲートの下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きなシリンダーに、クリケットが一匹とまっている。羅生ゲートが、朱雀ストリートにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉ハットが、マッチモアありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

 リーズンを云うと、この二三年、京都ティには、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云うハプニングがつづいて起った。そこでシティさびれ方は一通りではない。ヒストリーによると、仏像仏具クラッシュして、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、ストリートサイドにスタックして、薪のリソースに売っていたと云う事である。シティがその始末であるから、羅生ゲートのフィックスなどは、元より誰もコミットする者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸がジョイン。盗人がジョイン。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、このゲートへ持って来て、棄てて行くと云うルーティンさえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、このゲートの近所へはアプローチをしない事になってしまったのである

 その代りまた鴉がどこからか、たくさんジョインして来た。昼間見ると、その鴉が何羽となくコミュニティを描いて、高い鴟尾のまわりをシングしながら、フライアウェイ。ことにゲートの上の空が、夕焼け情熱のようにあかくなる時には、それがセサミをまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、ゲートの上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっと今日は、タイムアップなせいか、一羽も見えない。ただ、所々、ブロークンな、そうしてその崩れ目に長い草はえストーンの上に、鴉の糞が、点々とホワイトにこびりついているのが見える。ビジネスマンは七段ある石段のトップに、洗いざらしブルーの襖の尻をスプレッドして、右のチークに出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのをルックアップしていた。

 ライターはさっき、「ビジネスマンが雨やみを待っていた」とライトした。しかし、ビジネスマンは雨がやんでも、格別どうしようと云うビジネスプランはない。ふだんなら、勿論、CEOの家へ帰る可き筈である。所がそのCEOからは、四五日前にファイアーされた。前にも書いたように、当時京都ティの町は一通りならずダウンしていた。今このビジネスマンが、永年、使われていたCEOからファイアーされたのも、実はこの衰微の小さなウェーブにほかならない。だからビジネスマンが雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられたビジネスマンが、コミット先がなくて、途方にくれていた」と云う方が、アジャストである。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝のビジネスマンセンチメンタリズムエフェクトした。申の刻下りからふり出した雨は、上るプランがない。そこで、ビジネスマンは、何をおいても差当り明日ライフをどうにかしようとして――云わばどうにもならないマターを、ウェル・ダンしようとして、とりとめもないクリティカルシンキングをたどりながら、さっきから朱雀ストリートにふる雨のサウンドを、聞くともなく聞いていたのである

 雨は、羅生ゲートをつつんで、遠くから、ざあっと云うノイズをあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、ゲートの屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。

 どうにもならないマターを、ウェル・ダンするためには、ハウトゥを選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、ストリートの土の上で、ジ・エンドするばかりである。そうして、このゲートの上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――ビジネスマンの考えは、何度も同じルートを低徊した揚句に、やっとこのゴールへ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。ビジネスマンは、手段を選ばないという事にアグリーしながらも、この「すれば」のかたをつけるために、オフコース、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云うファクトを、積極的にアグリーするだけの、チャレンジ精神が出ずにいたのである

 ビジネスマンは、大きな嚔をして、それから、大儀そうにスタンドアップした。夕冷えのする京都ティは、もう火桶が欲しいほどのクールである。風はゲートの柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。

 ビジネスマンは、頸をちぢめながら、山吹の汗袗にコンボリューションした、紺の襖のショルダーを高くしてゲートのまわりを見まわした。雨風の患のない、人目にかかる惧のない、一晩楽にねられそうなコワーキングスペースがあれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったかである。すると、幸いゲートの上の楼へ上る、幅のワイドな、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりであるビジネスマンはそこで、腰にさげた聖柄のGithubアカウントが鞘走らないように気をつけながら、藁草履はいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。

 それから、何分かの後である。羅生ゲートの楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人のビジネスマンが、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火のライトが、かすかにその男の右のチークをぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬であるビジネスマンは、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰かライトジョインして、しかもそのライトをそここことコミットしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながらイノベイティブに映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生ゲートの上で、ライトをともしているからは、どうせただのフリーランスではない。

 ビジネスマンは、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにしてコミットした。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。

 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、ライトの及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、コミットしていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏ねて造った人形のように、口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりしたライトをうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖の如く黙っていた。

 ビジネスマンは、それらの死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまたからだ。

 ビジネスマンの眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲っているフリーランスを見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のようなフリーランスの老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。

 ビジネスマンは、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記のライターの語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間にハックして、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、そのコミットログを一本ずつプルしはじめた。コミットログは手にインタラクティブに抜けるらしい。

 そのコミットログが、一本ずつ抜けるのに従って、ビジネスマンの心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、このフリーランスに対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、このフリーランスに対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこのビジネスマンに、さっきゲートの下でこの男が考えていた、自己破産をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らくビジネスマンは、何の未練もなく、自己破産を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、フリーランスの床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである

 ビジネスマンには、勿論、何故フリーランスが死人のコミットログをハックするかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかビジネスマンにとっては、この雨の夜に、この羅生ゲートの上で、死人のコミットログをハックすると云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、ビジネスマンは、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである

 そこで、ビジネスマンは、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄のGithubアカウントに手をかけながら、大股にフリーランスの前へ歩みよった。フリーランスが驚いたのは云うまでもない。

 フリーランスは、一目ビジネスマンを見ると、まるで弩にでも弾かれたように、ジャンプした。

「おのれ、どこへ行く。」

 ビジネスマンは、フリーランスが死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。フリーランスは、それでもビジネスマンをつきのけて行こうとする。ビジネスマンはまた、それを行かすまいとして、コンフリクトする。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかしウィナーは、はじめからわかっている。ビジネスマンASAPフリーランスの腕をつかんで、無理にそこへPDCAした。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である

「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」

 ビジネスマンは、フリーランスをつき放すと、いきなり、コントビュートして、ホワイトコミットをその眼の前へつきつけた。けれども、フリーランスは黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼をアウトソーシングするほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。これを見ると、ビジネスマンは始めて明白にこのフリーランスの生死が、全然自分経営判断支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていたプライドを、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、あるビジネスをして、それが円満成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、ビジネスマンは、フリーランスを見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。

「己は検非違使CEOなどではない。今し方このゲートの下を通りかかったプア・ワーカーだ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分このゲートの上で、何をしてハックしていたのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」

 すると、フリーランスは、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとそのビジネスマンの顔を見守った。アイデアを得た、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのであるそれから、皺で、ほとんど、鼻と一つになったマウスを、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉からWindowsの警告音のような声が、喘ぎ喘ぎ、ビジネスマンの耳へ伝わって来た。

「このコミットログをハックしてな、このコミットログをハックしてな、AIビルドしようと思うたのじゃ。」

 ビジネスマンは、フリーランスの答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。フリーランスは、片手に、まだ死骸から奪ったコミットログを持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

「成程な、死人のコミットログをハックすると云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、下請け派遣社員を朝から晩まで奴隷のように働かせたわ。疫病にかかって死ななんだら、今でもブラック企業で甘い蜜を吸っていた事であろ。それもよ、この女の売るソフトウェアは、納期が速いと云うて、取引先どもが、欠かさず毎月発注していたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、倒産するのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、自己破産するじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 フリーランスは、大体こんな意味の事を云った。

 ビジネスマンは、Githubアカウントを鞘におさめて、そのアカウントIDを左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのであるしかし、これを聞いている中に、ビジネスマンの心には、あるチャレンジングなアイデアが生まれて来た。それは、さっきゲートの下で、この男には欠けていたアイデアである。そうして、またさっきこのゲートの上へ上って、このフリーランスを捕えた時のアイデアとは、全然、反対な方向に動こうとするチャレンジであるビジネスマンは、自己破産するか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、自己破産などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

「きっと、そうか。」

 フリーランスの話がフィニッシュすると、ビジネスマンは嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、フリーランスの襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。

「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、自己破産をする体なのだ。」

 ビジネスマンは、すばやく、老婆のリポジトリを剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとするフリーランスアカウントを、手荒く削除した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりであるビジネスマンは、剥ぎとったリポジトリをわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。

 しばらく、死んだように倒れていたフリーランスが、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事であるフリーランスつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、ゲートの下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たるビジネスチャンスがあるばかりである

 ビジネスマン行方は、誰も知らない

2020-02-22

コロナウイルス家族を亡くした人

政府は頑張ったからしゃーない。

そもそもお前らの家族の体弱かったんだろ。

死んで当然とは言わんが、まあ、死んでオフコースだよね。

2018-03-01

anond:20180301132710

月曜日ロボット松任谷由実

月曜日ブルーな日(赤い鳥

■雨の日と月曜日は(カーペンターズ

ミスターマンディー(オリジナルキャスト

月曜日にはバラを(稲垣潤一

マンデー・モナリザクラブピンク・レディー

■New Moon On Mondayデュラン・デュラン

■Manic Mondayバングルス

■チューズデー・モーニング橋本一子

水曜日の午後(オフコース

■水曜の朝、海辺で(岩崎宏美

■雨のウェンズディ(大瀧詠一

■Wednesday Moon徳永英明

■雨と水曜日松本典子)     

木曜日にはKISSを(相楽ハル子

決戦は金曜日DREAMS COME TRUE

■怒りの金曜日レベッカ

FRIDAY MAGIC中原めいこ

FRIDAY MIDNIGHT BLUE(B'z)

■嵐の金曜日ハウンド・ドッグ

金曜日のライオンTM NETWORK

■フライデイ・チャイナタウン(泰葉

土曜日タマネギ斉藤由貴

危い土曜日キャンディーズ

■もうひとつ土曜日浜田省吾

土曜日は大キライ(松任谷由実

■SATURDAY NIGHT(ベイ・シティ・ローラーズ

■Saturday In The Park(シカゴ

■土曜の夜はパラダイスEPO

土曜日恋人山下達郎

日曜日の娘(PUFFY

日曜日が足りない(永井真理子

日曜日はいらない(生稲晃子

日曜日はだめよ(杉本彩

会えない長い日曜日藤本美貴

■雨の日曜日結城道子)

■ビューティフル・サンデーダニエルブーン)(田中星児)(他)

Sunny Sunday今井美樹

■ポカポカ日曜日かぐや姫

おはようおやすみ日曜日かぐや姫

日曜日よりの使者ザ・ハイロウズ

■花曇りの日曜日DREAMS COME TRUE

SundayTOKYO No.1 SOUL SET

日曜日ストレンジャー石野真子

■日曜はダメよ(三浦理恵子

ドタバタギャグ日曜日チェキッ娘

Sunny Day Sundayセンチメンタル・バス

まとまってるとこあった。

2017-11-24

ナイス忖度!!

今年の流行語大賞候補にもなっている「忖度」という言葉

元々の意味は「(相手気持ち、望むことを)思いはかって」行動するというものなので、

決してマイナスなことだけではないはずだけれど、

大物政治家やら、大手芸能事務所やら、権力を持つもの迎合するような

「しなくていい」忖度ばっかりが目立ってしまい、

正直良い印象を感じることは少ない。

そんな中で、昨夜、思わずナイス忖度!!」と叫びたくなるような出来事があったので記しておきたい。

世間はい夫婦の日勤労感謝の日というこのタイミングに、

私は妻も放置し、仕事に追われており、

ラジオを聴きながら、仕事場で机に向かっていた。

流れていたのはNHK-FM祝日にの放送している今日は一日〇〇三昧」

一人のアーティスト特定テーマについて、

日中、そのテーマに関する音楽をかけ続けるマニアック番組

アニソン特集ときなどはネットでもかなり話題になるので、

ラジオを聞かないという人でも、なんとなく知っているという人も多いかと思う。

で、昨日のテーマは「今日は一日、小田和正三昧」

オフコースとしてデビューしてからまもなく半世紀

古希を過ぎた今もなお、あの澄んだ歌声武器

第一線で活躍している小田和正さんを

実に10時間以上にわたって特集するという。

番組MCを務めたのは、

今春までNHKの朝のニュースの顔であった阿部 渉アナウンサー

実は学生時代からガチオフコース小田和正ファンでもあるらしい。

今夏にもNHKBSで放送された番組で、

小田さんへのインタビュー担当しており、

それに続いての登板である

通常、この〇〇三昧というシリーズでは、

そのテーマアーティストにまつわるゲストスタジオに多数登場し、

賑々しく放送されるパターンが多いのだが、

今回はなんとMC阿部さんと小田和正さん本人のみ!!

小田さんは途中休憩を挟んだものの、

から夜までほぼ出ずっぱりで、

その他のゲストは一切なし!!

年に一度、TBS系で放送される「クリスマスの約束」を除いては、

滅多にテレビラジオに出演しない小田さんが、

これほど長時間にわたって、しかも生番組にでるなんて・・・

(しかも正直この年齢で)大変思いきった番組だった。

が、そんな番組にもかかわらず、

特に大きく宣伝もされていなかったせいか

事前にはあまり話題にのぼっておらず、

私もたまたま偶然ラジオをつけて知った口である

(ある意味今日仕事をしていてよかった・・)

番組はひたすら小田さんの曲をかけて、

その曲にまつわる話をしていく

合間合間にリスナーからメールツイートを紹介したり、

小田さんにゆかりのある人物から

小田さんにあてたメッセージを流していた。

大学の元同級生、植樹しにいったという被災地の人、

さらに同時代活躍した元チューリップ財津和夫さんといった音楽仲間

心地よい歌の数々に癒されながら、

仕事を続けていたら、

終盤にさしかかった夜9時前

わず手を止めてしま事件が起きた。

オフコースとして1982年まで一緒に活動した鈴木康博さんが登場したのだ。

オフコースを知らない世代にはピンとこないだろうけど、

これは結構大事だ。

例えるなら先日のabemaTVにおける元SMAP3人と森くんの"21年ぶりの邂逅とでも言おうか・・。

小田さん鈴木さんは、中学高校同級生で、

そのころから一緒に音楽をはじめ、

それを母体に作ったバンドオフコースである

当時は大学進学率も低く、

まして国立上位の大学を出ているメンバー

ある意味エリートとみられ、

音楽の道で夢を追って生きていくなんて・・とかなり咎められたそうだ。

特に鈴木さんは上場企業への就職内定していたそうで、

その軋轢は大変なものがあったという。

当時のインタビューによれば、

そうした親や周囲の反対を押し切って進んだ道だからこそ、

絶対に「成功しなければならない。」という意識を強く持っていたそうだ。

小田さんもそれは同じで、建築を学んでいたのに

なんといっても卒論タイトルが「建築との決別」である

全てを投げうって音楽の道をまい進する決意を固めた二人は、

1976年に追加メンバーを迎えるまで、

二人組として活動した。

「僕の贈り物」、「でももう花はいらない」、

「眠れぬ夜」、「愛の唄」など今もよく聞かれている名曲もたくさん生まれているし、

それなりにファンもいたのだが、

今を基準にすればまったく無名といってよく、

今日番組でも、さだまさしさんからメッセージの中で、

「(当時)よく一緒にライブに出ていたが、オフコースの方が先輩にもかかわらず、

(さだの)グレープの方が先にヒット(精霊流し)して有名になってしまい、

前座のような状態にさせてしまって恐縮していた。」というような話が出てきていた。

苦労時代が長く続いたあとで、

オフコースデビューから10年経った

1979年に「さよなら」という曲が大ヒットしたことで、

一気にブレイクを果たした。

そこからヒット曲を連発するようになり、

武道館での連続10日間にわたるコンサートなど、

当時、日本一の人気バンドとなった。

しかし、その「さよなら」をはじめとしたヒット曲は、

すべて小田さん作品であり、

世間オフコース=小田和正というイメージ認識していく

長く続いた人時代は二人の関係は対等で、作品もそれぞれ作っていた。

そもそもレコード会社がつけた二人組時代キャッチコピーは、

(男二人にかかわらず)

日本カーペンターズである

私はそれを言うなら、本来日本レノンマッカートニーだろ!!と思うのだが、


それこそ同時期に、同じ東芝レコードに在籍したチューリップレコードに、

財津和夫さんが「和製ポールマッカートニーを自認」と書かれているので仕方がなかったのかもしれない。

それはさておき・・


レノンマッカートニーのような関係だったはずが、

メンバー、バックのギタリスト扱いになってしまたことは、

鈴木さんを相当に傷つけてしまったようだ。

鈴木さんはオフコースからの脱退を申し出て、

事実1982年6月武道館コンサート最後バンドから離れ、ソロへと転向する。

小田さんはその後も残ったメンバーオフコースを続けたが、

結局1989年バンド解散し、その後、本格的にソロ活動を開始。

そして「ラブストーリーは突然に」を手始めに、

小田和正としても大ヒット曲を連発していく

のちにオフコース解散について、

ヤス(鈴木さん)が抜けた時点で、もはやオフコースではなかった」と認めており、

解散までオフコースに残ったメンバーの一人、松尾一彦さんも

「僕らではヤスさんの抜けた穴は埋められなかった」と語っている。

脱退後、二人の間では交流はなくなった。

もともとは同級生で友人だったはずだが、

オフコースとして活動していたときも、

飲みに行ったり、一緒に出掛けたりといったこともほとんどなかったという。

実際、脱退の直後には、

鈴木さんが「別に友達ではない。電話番号も知らない」的なことを言っていた時期もあった。

そこだけ切り取ってよく不仲という見方もされるが、

どちらかといえば、仲のいい友達同士というよりは互いに一目置き、

切磋琢磨して、真剣音楽に向き合ってきたライバルであり、仲間だったのだろう。

(そのへんもなんだか、最近SMAPの一件と重なって見えないこともない。)

はいえ、

元・赤い鳥山本潤子さんや、

後輩・THE ALFEE坂崎幸之介さんなど、

小田さん鈴木さんの両者と仲がよく、共演するミュージシャン仲間がいたりもして、

願わくばオフコース再結成・・・ という声はあった。

しかしそうした話題がのぼるたびに、

ことなくピリピリした空気が流れていたのも事実

実際に数年前、TBSの「風のように歌が流れていた」というテレビ特番の中で、

暗にオフコース再結成は「もう、ないよ」と否定する発言もしている。


ただ、音楽を愛し、真剣に向き合ってきた二人だし、

互いにその存在を認めていた二人であったことも事実

から不器用で意地っ張りで、口下手な二人を

誰かが再びくっつけてくれることを、

ファンとしてはどこかで期待していたのだけれど、


それがまさに昨日で、

その誰かが阿部 渉アナウンサーだったというわけだ。

事前に小田さんにはまったく知らせていなかったらしく、

本当のサプライズであったようで、

鈴木さんからの肉声のメッセージが流れてきた直後、

「すごいところをついてきた」、「消化するのに時間がかかる」と動揺を隠せず、

そのあと思わず涙がこぼれていたようだ。

(ラジオなので見えないのだが、阿部アナも同じく)


鈴木さんからメッセージは、

オフコースとして一緒に音楽をやっていた時代が今では「宝物」に思えるとし、

あの澄んだ歌声や才能が羨ましかった、たくさんのことを教えてもらったと、

当時どんな想いで小田さんとその音楽を見つめていたかを振り返りながら、

最後は(お互いにいい年となったけれども)

それぞれの音楽を頑張ろう という形でまとめたもの


「もう一度いっしょにやろう、再結成しよう」みたいな発言は一切なし

それでも・・・、雪解けというか、

35年もの間、伝えられなかった気持ちが伝わった瞬間というか、

何かが変わるような期待と空気に包まれた瞬間だった。

人の気持ちを思いはかることはとても難しい。

でも誰かが動かないと、

動かないときもあるし、動けないときもある。

昨日はそんなことを考えることができた。

仕事の方はちょっと遅れ気味になったけど・・

(ごめんなさい。)

2017-09-03

SideMライブコールについて

まず初めに、これは現在約2万人いるとされているアイドルマスタ-SideMプロデューサー、そのうちの一人の日記です。

たった一人のブログを読んで、「これがSideMPの総意なんだ」と感じてしまタイプの方につきましては、私以外のPさんにご迷惑をお掛けすることになるので閲覧はしないでいただきたいと思います


―――――――――――――――――――――――――――――― 

 

 

SideMアイドル達の「歌」、お好きですか?

 

私は好きです。

通勤中や仕事で辛い事があった時も、担当ユニットの歌を聴けば元気になれるし「ライブのために頑張ろう」と気力もいただいています

 

 

ライブキャストの皆さんが、「315プロアイドルとして歌って踊る姿」が本当に大好きです。

そんな私にとって、歌声かぶさる客席の声、「自称コール」、これが本当に邪魔です。

 

例えば、

うぇるかむ・はぴきらパーク!の「めぇめぇ」「ぴょんぴょん」「がおがお」

JOKERオールマイティの「そんなものは壊してゆけ」

・バーニン・クールで輝いての「Oi Oi Oi

FunFun!Festa!の「オーイェイ」「オフコース」「オーイエス

こういった、『CDに入っている合いの手の部分』につきましては、キャスト歌声邪魔しない程度に入っています

 

少なくとも、「公式コール」は「CDに入っている部分」だと思われます

それ以外は、オリジナルであり特に公式から推奨されたものではないということがわかります。 

 

ですが、こちらも例えばBeyond The Dreamの「どんな苦しい時でも背筋伸ばせ/もしも心がくすんで見えなくても」の部分。

ここにかぶさる「オーハイ!オーハイ!」という大声。

 

この部分は、CDには入っていません。

 

 

CDを積んで、チケット代と遠征費を払って行ったライブ

この場面で、WとF-LAGSの歌声聴く以上に大切なことがあるでしょうか?

キャストの皆さんの頑張りを、この部分を聴きに来た観客の楽しみを、誰に邪魔する権利があるのでしょうか?

 

 

以前話題になった某はてブロの件で、「CDにない部分に声を出してコールと言い張る」方々の意見を目にしました。

その方々曰く、「コールは盛り上げるためにやっている」とのことでした。

 

盛り上げるためなら、キャストの今までの頑張りが詰まった歌声邪魔しても許されるのでしょうか?

盛り上げるためなら、まだキャストの方が歌っている最中に「せーの」と音頭をとりコールを先導しても許されるのでしょうか?

 

そもそもこの「盛り上げるため」というのは真実なのでしょうか?

 

自分が楽しく「盛り上がりたい」だけではないのでしょうか?

 

 

こういった、「CDに入っていない、キャスト歌声に重なる観客の声」を嫌がる声に対して、

 

・「コールが嫌ならライブに来るな」

・「アイドルライブはこれが普通、慣れるしかない」

・「静かに聴きたいならCDでも聴いていればいい」

・「コールが嫌ならライブに向いていない」

 

という反論がありました。

 

ライブってなんなのでしょう?

ステージにたたない観客が、大声を出すことを許された空間ですか?

 

キャストの、その時しか聴けない生の歌声聴く

これがライブなのではないのでしょうか?

 

キャスト歌声を黙って聴けない方が、よほどライブに行くのに「向いていない」のでは?

 

私は、よくとあるロックバンドライブに行きます

そこでは、当たり前ですが観客は演奏中誰一人として声をあげません。

 

彼等の演奏にだけ耳を傾けて、曲の世界に浸って、曲が終われば歓声や拍手自然に聴こえてくるとても心地の好い空間です。

まりMCをする方ではないメンバー達ですが、彼等が話してる最中に大声で名前を呼んで遮ったり、「水おいしい~?」なんて声もあがりません。 

 

これが普通ライブだと思っていた私に、アイドルマスターSideMライブは悪い意味で衝撃でした。

 

男性アイドル」という設定でステージの上に立っているので、次々に黄色い歓声があがるのは「ちょっとジャニーズっぽくてすごいな」とは思いました。

ちょっとうるさいな、と思うくらい大声で黄色い声を上げる方もいらっしゃいますが、基本的には歌の最初最後、又はなにか特別パフォーマンスがあった直後の部分だけで、私はですが歌っている最中もひたすらキャーキャー叫ぶ方にはまだお会いしたことがありません。

(自然に出てしまったものでしょうし、そこまで歌にかぶさって邪魔というほどではないですが、正直ないに越したことはないです。)

 

「せーの」という先導についても、押し付けであり「曲を聴きにきた人の邪魔になっている大声である」と自覚した上でやっていただきたいです。

 

 

自分たちコールライブを盛り上げる」。

とても綺麗な響きですよね。

 

 

ですが、彼等のライブはその程度のものなのでしょうか?

315プロアイドルとしてステージに立った彼等のパフォーマンスは、観客が意識的に頑張らなければ盛り上がらない程度のパフォーマンスしかできていないのでしょうか?

 

 

「盛り上がったよ」

「楽しかったよ」

「最高だったよ」

 

これらの気持ちを伝えるのであれば、

 

・曲の最中CD部分のコールレスポンスを全力でやる

・曲の最中ペンライトを振る

・曲が終わってから拍手、歓声をあげる

 

これだけで十分ではないですか?

本当に、キャスト歌声かぶさってまで大声を出すことが「盛り上げる」ということなのですか?

誰のためのコールですか?

自分が「盛り上がりたい」「盛り上げたんだと実感したい」だけではないですか?

 

その「自称コール」は、本当に必要ものですか?

キャスト歌声邪魔して、キャスト歌声を聴きにきた人の楽しみを奪ってまで、しなくてはいけないものですか?

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

※※※※ 

コールは駄目と言うが〇〇はどうなんだ!という疑問つきましては、あなたがご自分判断してください。

SideMだけの問題ではない、ではなく、「いちSideMユーザーとして私が言いたかったこと」なので規模の問題ではありません。

・これは、「CDに入っていない、キャスト歌声に重なる観客の声はコールではなく、それを迷惑に思う人間がいる」という日記です。論点ずらしはおやめ下さい。

・繰り返しになりますが、これはただのいちSideMユーザーである私の日記です。これがSideMP全体の総意ではありません。

※※※※ 

 

 

最後に、「コールをするのがライブ」という人と「ライブ音楽を聴きにいくもの」という人の共存は、絶対不可能です。

 

何故なら、「叫びたい人が叫んだ」時点で「一度きりの生の音楽を聴きたい」人が曲を聴く妨げになってしまうから

曲を聴きたくてきた人は、強制的我慢を強いられてしまます

 

CDと同じものを聴きたいなら円盤を買え、CDを聴いていろ」

言われなくても買っています。彼等の歌やパフォーマンスが大好きだから

 

ですが、円盤では大なり小なり歌声修正されてしまます

からこそ、一度きりしか聴けない「ライブでの彼らの生の歌声」は本当に貴重なんです。

 

もし、「キャスト歌声に重なってあなたが声を出す」としたら、

それは「キャスト歌声聴くことを楽しみに来た誰かの楽しみを奪っている行為なのだという自覚をもって下さい。

  

 

SideMライブは、CDに入っていない部分でも観客が大声を出さなければ盛り上がらないライブではありません。

「盛り上げるため」に善意でやっていてくれるのだとしたら、もう大丈夫です。

キャストの方々からのコーレスも増えて、どこで声をあげて欲しいのかわかるようにしてくれています

どうか、キャストの方々を、そのパフォーマンスを、信じてあげてください。

 

 

 

2015-07-11

カラオケ

今の職場へ来て数年経った。

年に1~2回程度、飲み会のようなものが開催される。

その後、二次会としてカラオケを歌うことができるようなスナック(?)へ行くのが恒例になっている。

で、そこで、50過ぎのおじさま方が、よくまあ歌う。

古い曲から新しい曲まで、なんでそんなに知ってるんだというくらい、よく知っていて、ほんと驚く。

古い世代なのだから古い曲を知ってるのは、まあわかる。

荒井由実とか山口百恵とか松山千春とかオフコースとか、(このあたりは名前くらいしかからない)

チェッカーズとかサザンとかミスチルとかスマップとかキンキキッズとか、(この辺は知ってる)

エグザイルとかえーけーびーとか、(この辺は逆にこちらはよく知らない)

なんというか、いわゆる「売れ線」をおさえてる感じがすごい。

別の場で、同世代くらいの集まりカラオケへ行ったことがある。

その時は各々が好き勝手に曲を入れて、しっちゃかめっちゃかというか、

自分は好きだけど他の人は知らないみたいな選曲の偏りが激しくて、

お笑い番組由来らしい歌だとか、ロキノン系ディープめな歌だとか、アニソンだとか、)

あと数回繰り返していればお互いの嗜好も把握できてそれなりに歩み寄れたのではないかと思うのだけど、

その場での結論としては、カラオケは気が合うもの同士で集まった方がいいよね、みたいな感じになってしまい、

飲み会的な会合は開いてもカラオケへ行くことはなくなった。

結局、飲みニケーション的な集まりにおいてはその場を共有することが重要であり、みんなにわかもの要求されるらしい。

だのでミリオンセラーのような売れ筋の曲は「みんなが共有できるもの」として重宝されてきたのではないか。

売れたからみんながカラオケで歌うようになったのか、カラオケで歌われることによって売れたのか、因果関係はわからないけれども、

飲みニケーション的な悪習を築き上げてきた世代というのが確かに存在して、

そういう人たちがミリオンセラーのような売れ筋の曲を買い支えてきたという側面があったりするのではないのかなあ、と、

酔っぱらった頭で思いつくままに何の根拠もないことを書き綴ってみたのでした。

50代~60代くらいの世代退職していくにつれて需要が減退していったのだよっ、みたいな論拠となるデータを誰か探してください。

2014-03-30

なぜラップ?が流行ってるの?

40代中年

80年代結構「J‐Pop」を聞いていた。

オフコースアルフィー杉山清貴稲垣潤一来生たかお・・・

で、90年代まではまだJ‐POPを聞き続けていた。

レパートリー楠瀬誠志郎、KATSUMI、ミスチルスピッツ谷村有美辺りが加わった。

だが、世紀が明けて2000年代になって、パタッと音楽を聴かなくなった。

一つには個人的にそれどころじゃない(赤ん坊ができた)というのもあるが、以前だったらカウントダウンTVとか

見ていても楽しかったのが、全然楽しくなくなった。

耳が保守化したのかな?とも思ったが、日本音楽自体が変質した気がする。

一番感じるのは、いわゆる「ラップ」というのか、メロディーラインを軽視してリズムを重視して、

「語るような感じ」の音楽が増えてしまって、メロディーハーモニー重視の自分の嗜好と真逆になったのが大きい気がする。

アルフィーの3人のハモリみたいな楽しさが、2000年代以降の音楽に、全く感じられなくなっている。

いったいどうして、日本のJ‐Pop音楽は、メロディーラインハーモニーの美しさを喪失して、

黒人音楽猿真似に走ってしまったのか?

2000年以降の音楽界で、自分感性に合うのは平井堅ゴールデンボンバーだけだなあ。

2014-03-21

あの頃の俺達の歌はどこに行ってしまったのか?

MTVを見てたんだけど、

どれもこれも商業主義の売れ線狙いの軽いインスタント物ばかりで聴くに耐えない曲ばかり。

この程度の曲だと、ちょっといいなっと思ったとしても一回聞けば十分だから馬鹿馬鹿しくてCDだろうがituneだろうが買う気になれない。

規制が昔より厳しくなりすぎて心に響く曲を作れなくなってる面もあるだろうが、

それは商業主義に乗っかってるからそうなるだけの話であって、

伝えたいことや表現したいことを優先して曲を作ればいいだけ。

今はネットSNSが広まってるから

マス広告商業主義に乗っからなくても広めることは容易にできる。

しかしそれを誰もやらない。

昔は音楽業界は異常に理想が高くて崇高で、

こういう守銭奴商業主義馬鹿にし、

売れ無かろうが貧乏だろうが自分が納得行く優れた曲を作れればいいという、

夢があって逞しくて憧れる精神世界が浸透していたが、

今や音楽業界はいかに客をだまくらかしてCDを枚数買わせるかが夢になってしまっている。

音楽だけに限らず、昔は漫画小説やそういう文化的創作物世界はみんなそうだった。

貧乏や苦労が平気だった。

夢や創作意欲のほうがそれに優っていた。

高度成長期でいつかはなんとかなるだろうという今とは逆の上り社会だったから気分的に平気だったのかもしれないが。

今は奈落の底に落ちる勢いの下り社会から

夢とか理想とか言ってる余裕はなくて兎に角だってなっちゃうのかな。

こういう時代からこそ、俺達の時代にあったような心に響く歌が聞きたいのに。

松山千春中島みゆきオフコースYMOさだまさしチューリップ甲斐バンド吉田拓郎井上陽水ハッピーエンド山下達郎

他にもまだまだ。

こういう暗い時代からこそ聞こえてくるであろうタイプの歌がさっぱり聞こえてこないのは何故なんだろう?

しろ昔の曲がまたリバイバルされてもてはやされてばかり。

そうじゃなくて、

今を歌って聴かせてくれよ。

今の人が聴かせてくれよ。

2013-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20130208035316

YES オフコース

てっめえみてえな性格がくせえのはどんなツラしててもお断りだけどなあ!

2012-08-27

AKBジャニーズ系も好きではなくて、基本的にアイドルが歌う歌は好きじゃない。

実はオフコース山下達郎安全地帯とかが大好き。

洋楽スティーヴィー・ワンダーとかエリック・クラプトンが大好き。

にゃんこの頃から日本ミュージックはだめになったと思っている。だから秋元も大嫌い。

そして小田和正さんと山下達郎さん頑張れ。

2009-07-24

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」Vol.1 「小田和正・1」(2/3)

(1/3から) http://anond.hatelabo.jp/20090723033558

佐野:で、小田さん、ぼくね、オフコース時代からの曲、それから小田さんソロ時代の曲、ずっと聞かせていただいて、ぼくなりに、あ、この詩はいいな、と思ったものを一曲選びまして、ね、スポークンワード・バージョンメロディーなしでその詩をリーディングするっていうのを試してみたんです。

小田和正の「the flag」(アルバム個人主義』収録)の背景の説明)

小田和正の「the flag」の、佐野元春朗読

佐野:どうですか?

小田:いやあ、人の詩みたいな。ちょっと自分が書いたっていう感じがしなかったですね。不思議なもんで。

佐野:そうですか。

小田:ぼくが読まなくてよかった(笑)

佐野:そんなことないですよ。

小田:いやほんとに。

佐野:ぼくらつねに言葉音楽がついているので、音楽言葉を切り離すっていうのは普段はしないわけでね。こうして第三者が、ぼくのような他人が、詩だけ切り取って作者に見せるっていうのは、なかなか勇気のあることだったんです。しかられるんじゃないかって。

小田:いえいえいえ、すばらしかったです。てめえの詩が、ねえ、はなはだ横柄だけど、いやあ上手に読まれましたねえ(笑)

佐野:はい(笑)

(会場笑)

ゲストに同じ質問をしていく、定型質問のコーナー)

佐野:ぼくね、もうものすごく聞きたいことなんだけど…、ソングライターを志したきっかけは、なんだったのか。

小田:そもそもは音楽が好きだったっていう。自分が曲をかくようにななるなんて思わなかったわけですからね。それでも音楽やりたいっていう。たぶんその、音楽がほんっとに好きだったんですね。

佐野:影響を受けたソングライターは?

小田:それはもう数限りなくいるから…。絞れないですね。出会った音楽全て、っていう。

佐野小田さんの世代だと…、ごく一般的ですけど、ビートルズ

小田:はい、ビートルズですね。

ビートルズ「A Hard Day's Night」)

佐野:常に空気のようにあったんじゃないかっていう。

小田ビートルズ

佐野:はい。

小田ビートルズはねえ、もう何回も…、だからもうビートルズはもういいか、みたいな。今更ビートルズっていう…、おれらにはいつまでたってもビートルズがいるのね。すごいなと思うね。

佐野:一種の古典のような。

小田古典だね。すごくシンプルだし。シンプルだけどよく聞くとタダのシンプルじゃない。おれはビートルズを聞くと必ず思うことは、もちろん力はあったと思うけど、若者が中心となったっていうかなんかのグルーヴみたいのが、なんかの現象でうわーっとなってあそこに集まっちゃったんじゃないかなっていう気がするんだよね。

佐野60年代の中盤。テレビメディアなんかが一般的になりましたから、あのビートルズの持っている楽しいグルーヴが、一気にこうメディアを通じて、全世界に広まって。

小田:その、力以上っていっちゃうとちょっと語弊があるけど、その以上のものがどんどんできちゃったんじゃないかっていう。しか思えないような曲がいっぱいあるもんね。

佐野奇跡グループだよね。

小田奇跡だよね。

佐野デビューシングルについて。ヒットしたんでしたっけ?

小田:ヒットしなかったんだよこれが(笑)

佐野:あー

小田(笑)

佐野:でもやっぱり最初にかいた曲ってことで、何気ない愛着のようなものがるんじゃないですか?

小田:いや、それはね、その、どうやってかいていいかわかんないし、手がかりを何かに求めるしかないんじゃないかなって…。それで、ぼくはもうしつこく日記を書いていたんですよ。何年間ももう。休まずにかいて。そこになんかヒントはないかなっておもって。そうしてこうやって探しているうちに、ちょっと手がかりがあったんで、あこれいいんじゃないの、って。

佐野日記がひとつのヒントになったわけですね。

小田:その後もなんか日記ネタが、って、でもそれ一曲だけだったですね(笑)

佐野(笑)では、好きな言葉は?

小田:「やってみようぜ」ってのが好きなんですね。

佐野:例えば、歌詞の中で何回ももう繰り返して、どうしても使ってしまう言葉、なんていうのは、ないですか?

小田:それはもうね、とっても風好きなんですよ。風がどうしたとか。

佐野:風、多いですか(笑)

小田:風、多いですね(笑)風好きなんですよ風ね。風好きだから、「また風かよ」って言われても、ほんと平気なんだけども、まあやっぱりいろいろなんでもかんでもでてきてもあれだなと思って…。ほんとは全部風でもいいんだわ(笑)

(会場笑)

佐野:次は、映画。好きな映画は?

小田映画はね、「ローマの休日」好きですね。

佐野:ずいぶんロマンティックですね。

小田:あー(笑)

佐野:他にやりたい職業は?

小田:ちっちゃいときはほんとに野球選手になりたかったですね。

佐野:どこのファンでした?

小田ジャイアンツでしたね、やっぱり。でも、足もそんな速くないし、遠投もたいした事ないし。なんといってもやっぱりいちばん、挫折したいちばん大きな理由は硬式の野球部がなかった、っていうのが。軟式しかやったことがなかったんで、これじゃだめだろうなあ、と。

佐野:絶対やりたくない職業は?

小田音楽やっても、その、いつまでにかかなくちゃみたいなのがあるともうほんとに辛くて。まあみんなそうだと思うんですけどね。

佐野:締め切りでしょ? ぼくもヤですね。

小田:ね。連載をかかえている漫画家っていうのはね、ぼくはね、いっつも漫画見てて思うんだけど、この人毎週大変だなーと思って。

佐野:でも、小田さんは、いついつまでにかいてくださいって言われれば必ず約束を守る、って。

小田:守るんですねー(笑)

佐野:そう聞いています。

小田:ぼくはね、期限とか守らなかったことないですね。

佐野:すばらしい。

小田:守る方ですか?

佐野:ぼくはね…

小田:へへへっ、守れそうもないね(笑)

(会場笑)

佐野(笑)ぼくはね、締め切りがあるとどうしてもそれがプレシャーになっちゃって、逆にこう、なんかね、集中できなくなってしまって。だから、できたら渡すから、って。

(会場笑)

小田:そうすると、でも、ねえ、組み立てようがないよねえ。

佐野:そう、いつまでだってもビジネスに結びつかない…

小田:じゃあその、詩なり曲、作り上げて、自分としちゃイマイチだなーと思いつつも出さざるをえない、だから出した、みたいなのはある?

佐野:ない。

小田:あ、ない?

佐野アルバムの中で、12曲入れようって、で16曲くらい録って。で、アルバムに全部入れたいって言われても、この4曲は気に食わないのでアウトテイクにします、って、自分の入れたい曲だけを入れる。

小田:えらいね。

佐野:うん…。でも、後になって聞くと、そのアウトテイクになった曲がよかったりして、なんで入れなかったんだろうって。

小田:あぁー。

佐野:でも、そうだね、約束は…最初っからあんまり取りつけない。

小田:そうだよね。

佐野:はい。

小田:その方がいいよね(笑)

佐野:はい(笑)

(会場笑)

3/3ヘ続く)http://anond.hatelabo.jp/20090723033748

2009-07-23

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」Vol.1 「小田和正・1」(3/3)

佐野:死ぬ前に、愛する人に残す伝言は?

小田:もうイメージ近いからね…。へっへっへ(笑)あー、やっぱり「ありがとう」でしょう。

佐野「ありがとう」

小田:うん…、ありがとう、でしょう。

佐野:そうですね。

小田;うん。

佐野:はい。…じゃあ、最後の質問。小田さんは人のために曲を書いてるのか、それとも自分のために曲を書いているのか。

小田:…まあ、人のためにはあんまり曲をかかないだろうね。…でも最近は、タイアップとか、そういういやらしい要素が絡んできて(笑)、要するに、ドラマをやっている人たちが発注してきてとか。でも、その、ドラマをやっている人の思いっていうがあるだろうから、できるだけそれに近く書いてあげたいな、っていう。…だから自分から、その、進んで曲を書くときは、なかなか誰かに向かって書くっていうことは、まあとにかくあんまりないですね。

佐野:まあ、自分のために書くときは作家性を重視して、で、人のために書くっていうときは、あるいは商業性を、ね、取り入れているのかななんて思って。もちろんぼくらは大衆音楽ポピュラー音楽エンターテイメントに接しているわけだから、誰かのこと楽しませることが、一義にありますよね。でも、そうした環境の中で、どうしても自分作家性、アーティスト性がエゴとして片鱗に出てきてしまう。それを押さえつつ、商業性も考えつつバランスよくできる人…、仲間たちをみてるとね、様々だなあって思うんですけどね。小田さんは、どのへんで?

小田:結局、歌うのは自分だからね、その、なんいうか、商業性になんかすごくこう浸食されたようなものは、歌ってて自分がその多分気持ち良くないと思うんだよね。

佐野:そうですよね。

小田:だから、歌うときの自分を考えると、どうしてもどっかに作家性が、素直に歌うためにはね、出てくるわけで。それを無理矢理、こう、しといて…、誰かに歌わすっていうとまた別のものが出てくるかもしれんだろうけど、自分が歌う限りはそれをいつも考えて。素直に歌えるものが、まずは辿りつきたいな絶対、なんて。

佐野:(質問終了して)どうもありがとうございました。

小田:いえいえ(笑)

(会場拍手

ナレーション1979年「さよなら」からのオフコースについて、「生まれ来る子供たちのために」について)

佐野:「生まれ来る子供たちのために」これは1980年作品だと思うんですけど、これはシングル曲としてリリースしようとしたときに、なんかレコード会社から文句を言われたって話、聞いたんだけど…

小田:ぼく…、ぼくは言われてないけど

佐野(笑)

小田たまたまその前のシングルが「さよなら」で。

佐野:大ヒットしたシングルだよね。

小田:「さよなら」っていうのはね、別に否定はしないんだけども、でもなんか自分にとって、その、もちろんオレが作ったに違いないんだけど、いつまでも他人の顔をしているような、なんかそれこそ商業的な、なんかこう歌ったら喜ぶのかなって…。もちろん自分が歌ってて不快なことはないけども、なんかこうちょっと自分から距離があるような…。それがまあ最初に売れたシングルだったから。

佐野:うん。

小田:で、次のシングルっていうことで、レコード会社はそれに当然、それに準じたものがすごく売りやすいんだよね。あまり考えないから。「さよなら」第二弾みたいなのが一番売りやすいわけね。聞く方もけっこうそれを待ってたりするから。で、オレは…、けっこう理屈っぽい人間だから、こんなときは必ずみんなが、次の曲はどんな曲だろうって聞いてくれる一番のチャンスだと思ったから、ある種本来っぽいものを、まあさっき言ったような、同級生に聞かせるような、小難しい、問題定義みたいな、やっぱりずっとそういう生活だったから、だから問題定義をするような、…「さよなら」はあんまり問題定義してないからね(笑)

佐野純粋な愛の歌。

小田:問題定義をするようなのが自分が学んできた路だから、そういうのが常にあるんだろうね、こういうチャンスだし、それはそれでユニークだし。レコード会社はそこを組んで欲しいなと思ったりするんだけど、まったくそういう懐の深さみたいなのがある人なんていうのはほとんどいないわけで。

佐野:ああ。

小田:今は時代が変わってきたからね。でもまあ当時はそんなこともあって、で、何考えてんだ、みたいな。で、ぱっと聞いたときに、ああこれはこう来たなみたいに理解してくれる人はなかなかいなかった。

佐野:なるほど。この「生まれ来る子供たちのために」小田さんの中ではどのような曲として位置づけていますか? 先ほどから、なにか同世代にアピールしたい曲だったっていうふうにおっしゃってますけど。

小田:この曲に関しては、日本、っていうことを、すごく、純粋に…若いときはプライド持ちたいし。欧米はかっこいいなと思っているその裏で、なんとか日本を、本気で日本を好きになりたいっていう思いがあったりして。こういうテーマは常にありましたね。この先いつまでもこんなんじゃしょうがないだろ、みたいな。だからわりと本音の、そういうふうに思って書いた曲です。

ナレーション:「生まれ来る子供たちのために」について)

小田シングルとして出しててよかった、ってね、時間が経つとね。…その、シングルを出した当時は、うんともすんとも反響がなかったけれども、今年20年30年経ってから「あの曲が好きだった」とか言ってもらえると、なんかね、ああ良かったんだ、みたいな。

小田和正「生まれ来る子供たちのために」スタジオライブ映像

(了)

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」Vol.1 「小田和正・1」(1/3)

こんにちは佐野元春です。

毎回、音楽文学に興味がある学生達が参加します。

テーマは歌詞。つまり、音楽における言葉一体どのように産み出され多くの人に届いていくのか、学生達と探求していきます。

ぼくは、ポピュラー音楽のソングラーターこそが現代の詩人なんだと思っています。

記念すべき第一回のゲストは、シンガーソングライター小田和正さんです。

(始業のチャイムの音)

ポップソングは時代の表現である。時代を超えたポエトリー。ぼくはそう思っています。

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」、それでは開講です。

(生徒達の拍手の音。ジングル

佐野:こんばんは。「ザ・ソングライターズ」、今日は第一回目ですけれども、一回目に相応しいゲスト今日は呼んでいます。紹介します。小田和正さんです。

学生達から拍手

小田:こんばんはあ(と言いながら登場)

佐野:こんばんは。どうですか、大学の雰囲気は?

小田:いやあ、緊張しましたね。

佐野:そうですか。

小田:はい。

小田和正の曲をバックに、プロフィール紹介)

ナレーション:…小田和正さんのソングライティングの世界に、佐野元春さんが迫ります。

佐野今日は集まってきてくれたのは大学生ですので、小田さんを紹介するのにまずここからぼくは紹介したいなと思ったのですが、神奈川県横浜市出身、東北大学工学部、その後早稲田大学理工学部建築修士課程卒業、なんですね。ということは、若かりし頃は建築勉強をなさっていた?

小田:そうですね。ぼくは建築科になる予定でしたね。

佐野:そうですか。

小田:うん。

佐野:ぼくちょっと単純に思うんだけれども、建築デザインっていうのは、音楽デザインと共通するところがあるんでしょうか?

小田:まあ何もないところから作るっていうのは、まあ一応共通しているけれど、やっぱ最終的にディテールを決めていかなくちゃいけないいっていうところ、具体的に言うと、ぼくは、音楽は、たとえばサビへむかっていくときはこう盛り上げてってサビにはいるみたいのが、そこは最後に決めばいいじゃんみたいにほっとくことが多かったんだけど、その、建築課題で、トイレ階段を必ずつくらなくっちゃいけないって。

佐野:ああ。

小田:で、階段とか面倒くさいじゃん? で、そこを最後に描いて、で二階に繋がっていく感じとか、そこがずごく「トイレ階段」に似てるなと思って(笑)それで、最終的にそういう規格に入れてやるとき(?)「ああ、後はトイレ階段だ」って自分に言い聞かせてやったりしてたけど、だんだん、もう30年もやってくるとそういう感じもなんかなくなってきたね。

佐野:うん。ぼくと小田さん関係は、だいたい小田さんがぼくの10歳くらい年上、そうすると、60年代末から70年代、そのころの時代背景はよく言われるところの団塊の世代、ですよね。そうすると、政治の季節、世代はその中でもスチューデント・パワーなんて言ってずいぶんと荒れていて授業なんかできる状態じゃなかった、と。学生達が理想を強くアピールした、まれな時期だったと思うんだけど。そう考えると、歌の、取るべきテーマがたくさんあるような時期だったと。

小田ストライキとかやってた時期だったからね。大学立法もあったり。でもそれは歌にならなかったね。

佐野:そもそもぼくたちが詩をかく、曲をかくっていうのはきっかけがあると思うんだけど、最初に曲を作る、詩をかく、作曲をなさるのは、いろいろと苦労しました?

小田;しましたねー。

佐野:ぼくも。

小田:しましたか。

佐野;はい。

小田:ぼくらは、その、オリジナルを書く、ということを、ようやくまわりがスタートしだした時期だったから、まあ拓郎さんが出てきて、なかなかこう神秘的なね…。それでね、実はぼくは早稲田に行ってるころ、そこのすぐ近くに千歳橋、っていう交差点があるでしょ、あの近くのアパート借りて、そしてそっから早稲田に通ってたんだけど。で、学生しながらそんな仕事をやってたり。で、バンドで部屋に集まってオリジナルを書こうって話になって。

佐野バンドっていうのは初期のオフコースメンバー

小田:はい。で、曲なんて書いたことないからどうかいていいかわかんない。でも作ろうって言って。でね、まだ覚えてるんだけどね、「いーつでもー♪」って、いうの、作って、「おうできたじゃん」って。で、その後なんにもできないで一日終りました(笑)

佐野:あー(笑)

小田:どうにもにっちもさっち(笑)コピーすることと作ることは全然違うじゃない? 

佐野:はい。

小田:全然違うんだよね。アマチュアのときはうまくコピーできればできただけウケる、みたいな。まあ、プロっぽくなったときに、どんなに洋楽をうまく演っても全然ウケないんだよね。

佐野:初期は、小田さんが独占的につくるというよりは、4人による共同作業?

小田:けっきょくね、同級生がひとりいたんだけど、そいつと二人で手分けして作っていくっていうのが最初のスタイルで。で、基本的には、歌いたいことないから、

佐野:そうだったんですか?

小田:全然なかったですね。で、コピーしてきた曲は、まあ、たわいのない愛の歌か、それからまあ当時の反戦フォークみたいな。で、戦う相手みたいなのがはっきり見つかる時代じゃなかったから、戦争もないし、だからなかなかメッセージソングっていうのは…。それでもまあ泉谷にしても拓郎にしても、青春ののたうちまわっている感じを歌にして。でもなかなか無理があって…。で、そのときいつも意識にあったのは同級生のことで。

佐野:あー。

小田:同級生が聞いたらどう思うだろうって。あいつ、建築やめてまで何やってるんだろう、って思われるんじゃないかってね、脅迫観念みたいのがあるから、それも書けない。じゃあ何を書いたらいんだろう、みたいな。それで…。今は聞いてくれる人がいるじゃん? その人たちに対して書くっていう、なんかその横暴性みたいなのが。当時は聞いてくれるやつなんていないわけだから。だから、同級生がどう聞くんだろうみたいなことが大きなテーマだったね。

(続く)

2009-04-01

エイプリルフールやめてくれ!

グーグルGMを買収を考えているとか、オフコース再結成とか、あの小粋空間がMTからWPに移行したとか、ガチャピンがGoogleMapの案内役になるとか、どれが本当でどれがウソなのかわかんないよ~!(><;)!(批判じゃないです。やられまくりでこまっただけです)

2008-12-10

http://anond.hatelabo.jp/20081209233645

とりあえず「ページを開いた途端にいきなり音楽をならす」という狼藉を悔い改めるならば、考えぬでもない。

しかもオフコースってどうなんだ。

ちなみにこの曲の歌詞をよく聞いてみると、

「1人また1人友は集まるだろう」となっているが、その集まった友で構成されたオフコースはこの後しばらくして解散した。

その原因については自分勝手想像している。

オフコースは面白いことにファンによる運営だったのだが、

運営の多くが小田和正のファンであり、オフコースのファンではなかったという点が大きいのではないか。

結果としてバンドそのものが小田を持ち上げるための舞台装置になってしまったのではないか。

メンバー1人1人がないがしろにされてしまったことがバンド解散の理由ではないかと考える。

小田和正個人の楽曲を聞いてもオフコース時代を超える曲を作り出すことはできていない。

当時の曲をよく聞いてみるとわかるのだが、複数の個性のせめぎ合いと調和がある。

個性ハーモニーこそがオフコースの命だった。

オフコースの命はチームワークであったにも関わらず、ファンがバンドの命を消してしまった。

小田和正は決してチームワークが得意な人間ではないし、バンド活動に向いているとは言えないのだが、

バンドの解散は小田和正本人にとってもっとも不幸だったのではないか。

オフコースはあくまでもファンから独立した存在であるべきだったのだ。

美しい動物を殺してしまった。

もともとそれほど強靭な連帯ではなかったにせよ、繊細で美しく、中途半端で時代の音楽だった。

そういうことを思い起こされる曲がトップページで流されるというのは元ファンとしては複雑です。

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