はてなキーワード: アマチュアとは
音声合成DTM製品「VOCALOID2 CVシリーズ」の第二弾である「鏡音リン・鏡音レン」を用いて作られた一連の楽曲作品。詳しくは検索。
小説とか漫画とか劇化もされてるようだけどそっちはノータッチなので除外。なんか詳細設定とか山のようにあるらしいけどあくまで元動画とその歌詞に情報源を絞る。
前者はある国で暴政を敷いた愛らしい王女が革命によって倒されるまでのことを歌った歌、後者はその王女に仕えた召使いの視点から同じ一連の出来事を歌ったもの。
YouTubeとかに死ぬほど転がっているのでこの文章を読む人にはできれば聞いといてほしい。ネタバレを含むので。『悪ノ娘』から先に。
英語版ならEnnという人? が歌ってるやつの歌詞が好きだな。情報量が多くて。
身も蓋もない言い方だけど「売れてる」から。
ニコ文化が中高生とかOTAKU中心に大人気とは知ってましたが劇って。コミカライズくらいまではわからんくもないが劇。
ファンとはいえそこまでのめり込むほどか。何がそんなに優れてるっつーかウケてるのだろう、という話です。
「優れてるからウケてるんじゃねーよ」というお話はあるでしょうがまあそこはおく。ぶっちゃけ「優れてない」点はいっぱい挙げられるし。
たとえば物語終盤の交代劇とかバレねーわけねーからね常識的に考えて、とか。
・仮にも国のトップなんだから、立てるならもっとマシな影武者を立てるのが普通というもので、脱がした瞬間バレるようなのに気がつかないとか革命が総崩れしかねない。
いや史上の狂乱というのは往々にしてそういう熱狂が高じてもはや狂気〜みたいな面があんだろうことは否定しないけど、そんなの後世には物好きな歴史家とかにケツの毛までひんむかれるレベルまで分析されるのが当然なんだからさ。恥ずかしい性癖が伝わっちゃってる為政者が今どんだけいると思ってんの。読んでないけど正直小説版にはクビ落としてから替え玉と判った革命軍の偉いさんとか偽史として押し通してきた『召使』側の話を証明しちゃったアマチュア研究家とかが裏で始末されるドロドロとかがきっとあった! と信じている。三次創作。
・本物も見物に戻ってくんなよ。そこでバレたらすべてがガチで水の泡よ。危険すぎるだろ。
…とか、突っ込みどころはとってもたくさんあるわけなんですね。文化ルーツもしっちゃかめっちゃかだとかそもそも歌詞がちょっと拙いとかね。
にも関わらず、絶賛者とかいっぱいいる作品でもあるわけで。合唱とか英語版とかあって再生回数すごいし。
何がそんなに人を酔わせるのかしら。それがロマンスというものなのか。
いやねーだろ。これロマンスじゃないじゃん。中世の騎士物語とかほんのちょっぴり読んだことあるけどコレジャナイ感すごいじゃん。
三大悲劇って言われてるけど悲劇ですらねーだろと言いたい。少なくともwikipedia曰くの古典主義的・新古典主義的「悲劇」では絶対ない。
それでは「これ」は何なのか?
まあアレじゃん。ジェンダー界隈でいう性役割意識がどうこうとかあと男の娘ブームとかなんかそんな。
あとこれ国家の皮をかぶった家庭悲劇なんですよね。一種のセカイ系というか。
このお話は王家に生まれた男女の双子のうち女が王家に残されて(おそらくは凄い抑圧とか受けて)暴君になって、男はどっか養子とか?出されて召使いとして戻ってきたつーことになっていますが、男をイエに残して女はよそに嫁がせるつーのがどっちかというと鉄板ですよねこういうの。
「なんでそんなことになっちゃったの」というのはきっと小説版とかが政治の派閥抗争がどうのとかに絡めて辻褄つけてると思うのでおいといて、「よくこれでウケたな」ってーのをですね。
この作品は基本的にすごいストレスを(受けたくないに決まってるけど)受けなくてはならない人間が見るとツボに来るようにできてるんスね。
よく何かこう、最近の若者は〜的な文脈で、男が女っぽくなっただの女が強いだのと言われますよね。いや印象だけど。自分の観測範囲内の話だけど。観測範囲内でもいい加減下火っていうか言い古されて説得力がアレな言説だけど。
少なくともこの作中ではまさに男がやるようなことを女がやっているわけで、そこんとこのギャップがウケてるっていうのはあると思うの。
鏡音リンってキャラクタ的には妹系ってんですか? 笑顔がかわいくてドジで〜みたいな感じだと思うんだけど、それが女故子ども故の残酷さみたいなのを全力発揮してるあたりのギャップもあると思う。
そう、彼女は良い為政者ではない。聖母聖女は齢14で「お金が足りなくなったなら〜、愚民共から搾り取れ〜♪」なんて言わない。普通の女でも言わない。
彼女はむしろ聖女みたいな女に恋人取られたら相手の国ごと潰して復讐する程度にはやりたい放題の女のコ☆です。
しかもそのレベルの人格破綻者まで「最初は無垢だった、ホントは彼女は悪くない」的な補足が入るわけです。これもウケたツボだろう。
イエのあれこれとか人間関係でむっちゃ我慢とか強いられてるけど正直破裂したい、けど破裂したらあとが面倒だけど破裂したいけどあああああとか思ってる人間にはとてもツボ。
破裂したい人間がなぜ破裂しないかって、破裂すると崩壊するナニカがあるわけで、この王女の話は破裂してナニカを崩壊させてしまったってことなので「ああ、あんな風にならないためにも我慢がんばらなきゃなー」とか、「私がしてきた我慢は正しかった!我慢しなきゃああなってた!ざまあwww」とかいろいろと解釈できて美味しい。
それだけなら単なる破滅劇なんだけれども、これを悲劇にするのが王女と対になる召使いの存在ですね。『悪ノ召使い』は『娘』よりもあとに発表された作品ですが、何千回単位だった再生回数を100万くらいまで押し上げたらしいっす。
「顔の良く似た」召使いは(内緒になってんのか知らんが)召使いってことになってるが王女と双子です。これをまず物凄く突っ込みたい。王家の血縁が人に使われる側に回ることのあり得なさとか。でもまあそれはいい。
召使いは破裂しそうな王女のそばであれこれ世話を焼くわけです。王女の命令なら惚れた相手も暗殺してくる。それくらい自分を殺している。
ある意味王家という枷つけられてる王女と完全に同類なわけですが、召使いはそれほど人格破綻してないというか暴君的な方向に爆発しそうではない。
彼には「王女のため」という大義があるからです。彼が背負っても良かったモノを彼女に背負わしたら歪んでしまった、王女がこんななってるのは彼にも責任がある。
だからその責任を果たすためなら、ほんのちょっぴりの「自分」も捨てられる。盲目的に尽くせる。
完全に「家庭なるもの」の中で板挟みになるガキそのものですね。あとほんのりとした近親愛。これがツボをつく。
オチはもうその最たるものですね。自分を殺して殺して殺して…の召使いは本当に自分を殺してしまう。王女はその代わりに助かる。
要は例えば機能不全気味家庭のお子様らには神話のように美しい物語だということですおわり。
鏡音リン・レンなるソフトは作中やファン間でも双子ってことになってますが公式的には「鏡に映るもうひとりの自分」的な感じではっきり双子ではないらしい。
というのもなんかこう、意味深ですね。
怖ェなーと思うのがこの作品が世界規模ですごい再生回数稼いでるという事実。
機能不全家庭の子どもにばかりウケてるわけじゃねーとは思うが、でも例えば上で述べたような「この身代わりはあり得ねーだろ常考」みたいな意見はたぶん野暮としてブーイング浴びるだろうし、きっと小説版あたりで「そうするしかなかったんだよ…」みたいなことが切々と説かれていたりして要するに反論として封殺されることが明らかなわけです。
実際には例えば召使いの行動として「二人で一緒に逃げる、最後まで王女のそばにいて守り通す」みたいなのがあっても良かったはずだし一昔前なんてそれで逃げ切れなくて死んじゃってーみたいなのが悲劇のテンプレ化してたような時代があった気がするんですが、そうならない。
何というか、すごい絶望的で、しかもその絶望が絶望のまま肯定されて同類間で共有されてる感がする。
そういう方法で絶望が連鎖して伝播しているような感じがするのです。
漫画家のとり・みき氏の言葉(の引用の引用)だけど、こういうのがある。
人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。
かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。
個人的にこれは結構ガチだと思っているんだけど、一点だけズレてる部分がある。
ここで書かれてる涙腺回路の起動スイッチである「感動」っていうのが、自分個人に限っていえば何か崇高なものに触れて心を動かされたとかではなくて単純に傷つけられたときのことを指すようになってんのね。
つまりこの文章に則って言うと、自分はある一定の場面とか言葉だのを見聞きしてしまうと自動的に繰り返し繰り返し傷つくようになってしまっている。
恐ろしいことなんだけれどこの「回路」が結構強固で、俺はこいつを潰しておかないと日常生活が送れないっていうレベルでいろいろと不便。具体的にいうとAED講習で実際の救命現場の録音(子どもが突然心停止して倒れたそばで手当てする人とか救急車呼ぶ人とかその子の名前を狂ったみたいな大声で必死で呼び続ける母親の声)聞いたときとか、アレ本当は命が助かる感動的な場面のはず(「とりあえずはもう大丈夫です」まで録音されてたはず)なんだからすごくイイ話だと理屈では思うしわかってるんだけど生々しいやりとりそのものがあまりにもショッキングでしばらく「親子」みたいなキーワードで突然ぼろぼろ泣くようになって本当に困った。もうすぐ一年になる例の津波関連も未だにいろいろな場面でダメージ。直に被災したわけでもないのに。
閑話休題。
だから例えば映画とか小説なんかで「泣ける」みたいのを売りにしてるのは基本見ない。
そういう作品は大体が回路起動ツボを外していて(かつ、他の例えば大爆笑回路の起動とかには結びつかないので)白けるが故に、そしてごく少数の作品は客観化が十分でツボ自体から適切に距離を取れるが故に、涙腺回路起動までに結びつくことは滅多にないんだが、それでも見ない。
何が楽しくてそんな自傷行為をせねばならんねん。
でも例えばナイフは指を切るだろうとかわかるけど、この作品で泣くようになるだろうとか普通は読んだり聞いたりするまではわかんないわけじゃん。
で、『悪ノ』シリーズも回路の起動スイッチになってしまったので、困ったなー。と思っている。前述の録音ほどの威力はないしもうだいぶ整理して削いだんだけども未だに人前ではこの曲聞けねえ。
あの召使いの台詞で泣かねー奴は人じゃねーみたいなコメントが動画についていたりして、それを「気持ちはわかる」と思ってしまう。
気持ちはわかるけど、実際問題召使い馬鹿だし王女も馬鹿でみんな馬鹿すぎて救いようがないと思う。「崇高なものが犠牲になる」みたいな楽しみ方は視点が狭すぎて阿呆だと思う。
いろんな人が感動してファンになって翻訳とかされてるのはわかるけど、作品としては全然優れてないと思うのです。
他の作品と比較してどうとかではなく、あの物語自体にもっと洗練の余地があるということ。
そして洗練されるとたぶんあれは悲劇オチ(と取ってつけたようなハッピーエンド後日談)じゃなくてちゃんと喜劇にもなれたはずだなー、悲劇にしてももっとレベルの高い悲劇になれたはずだなーと思うということです。
「物語の洗練」を。
機能不全家庭の傷なめ的なものでなくて、もっとちゃんと救いとか絶望とかが欲しい。
具体的にいうとこのネタで小説でも書いてそれで旅行のためのおこずかいとか稼いでみたいんだけども、まあおこずかいにならなくてもいいから二度と回路起動スイッチにこのネタで手を触れられる奴がいなくなるように自分でパテを塗っておきたい、そのために小説を練ってみたい、ということでした。
すでにやってる人いるけどねそれ。舞城とかね。でも最近なんか舞城も振るわないっていうか、「その先が欲しいんだけど!」みたいなあたりで止まっちゃってる感するからね。ジョジョノベライズ期待してます。
http://unkar.org/r/livemarket2/1260360002
投資苑441p
広範にわたるテストの結果によると、自己資金の2%までの損なら長期的なトレーダーのサバイバルを脅かさないことがわかっています。
たとえば、もしあなたの自己資金が2万ドルの場合、1トレード当たり400ドル以上のリスクを取ってはいけないことになります。
もし10万ドルの自己資金であれば、これが1トレード当たり2000ドルになりますが、
もし自己資金がわずか1万ドルしかなければ、あなたが取ってもよいリスクは1トレード当たり200ドルになります。
大抵のアマチュアはこの話を聞くと頭を振って拒絶の反応を示すものです。
つまり多くの人には少数の自己資金しかなく、この2%ルールは彼らの一攫千金の夢に水を差すことになるからです。
しかし、一方、大半の成功しているプロたちにとって、2%の上限はむしろ高すぎると感じられることでしょう。
(中略)
http://anond.hatelabo.jp/20120118104228
「失業ほど根源的な反抗は無い。あの人たちにはそこのところがわからないんですよ」
「で、あんたはいつ辞表を叩きつけるんだ?」と問い返さないでいるのが困難。
「まあ、20代半ばのアマチュアロックバンド座付き作詞家の半失業者に向かって、一部上場企業の正社員が「反抗しろよ」とか言ってたわけですからね。」
気持ちはわかる。でもさ、そうやって若者、とくに非正規を扇動するのはどうかと思うんだ。
だってさ、じゃあ非正規がどうしろっていうんかな?
んなわけない。
失業率が上がろうと、正社員のポストは渡すような試みをすると思うか?
新卒の内定率をちょっと上げるようにちょっとくらい対策をとるだろうけどさ。
世の中を多少でも変えた非正規なんて、加藤智大くらいのもんだ。
それだって、石を投げ込んだ程度だ。
あのね、非正規が正社員になりたかったら、正社員に、労働組合に媚びないとダメだろ?現実問題としてさ。
なにが正社員には言われたくないだ、マスコミには言われたくないだ。
小田嶋隆のツイートを読んで「そうだそうだ」と声に出しちゃうやつは、一生非正規、40になっても50になっても60になっても年収300万。
「尾崎豊にカブれていたのは同時代でも十分にイタい人たちで、とてもじゃないけど朝日新聞に入社するタイプじゃなかった」ということを
覚醒剤のオーバードーズで死んだ歌手を持ち上げて、若者に怒りと反抗を促す社説って、ただただグロテスクだよ。
同じ事言ってるのが貧乏ロケンローラーなら半分ぐらいは耳を傾けてさしあげるけど、新聞屋さんには言われたくないっス。
あの文章にアジテートされて、若い連中が本当に怒り出したのだとすると、真っ先に火あぶりにされるのは社説子さんだと思うのだが。
若者に対して「怒れ」と言う人たちは、自分が怒りの対象になることをまったく意識していないわけだよね。
「オレたちが学生だった時は権力が見えていた」「君たちには闘う相手が見えていない」って、20代半ばの頃、四谷の飲み屋で言われたことがある。
温厚なオレもさすがに靴の中で足の指を縮めた。
その時のことを今朝の社説を見て思い出した。
まあ、20代半ばのアマチュアロックバンド座付き作詞家の半失業者に向かって、
一部上場企業の正社員が「反抗しろよ」とか言ってたわけですからね。
ただ、武勇伝要素横溢だったり、自分語りの垂れ流しだったりするのはダメ。今日の社説はモロにそれだった。
「で、あんたはいつ辞表を叩きつけるんだ?」と問い返さないでいるのが困難。
失業ほど根源的な反抗は無い。あの人たちにはそこのところがわからないんですよ
何よりひどいのは最後の「ともあれ、おめでとう」の一文だと思う。「ともあれ」はひどい。範囲を限定した祝福は一種の呪い。
ともあれおめでとうとか言われたから、とりあえず黙れって言っといた。ともあれ〆切が迫っている。ともあれやる気がしない。
ヤングジェネレーションに向けたオールドメディアからのフェアウェルだったというふうに解釈すればオレのこの気持ちの悪さもクリアされるわけだな。
(※婉曲な表現を実現するため、カタカナを多用しています。ご了承ください。)
ところで、「天声人語書き写しノート」という商品が発売されています。 http://t.co/HxPT5LFT
店頭で見た時、心底から驚愕しました。写経ですか? 自己肥大もここまで来るともう笑うしかありませんよ。
《朝日新聞の1面に毎日掲載されている「天声人語」を、知らない漢字や言葉を辞書で調べながら書き写し、文章の構成力やリズムを身につけませんか? 毎日続けると、世の中のいろいろな出来事がわかります。》だそうです。うわあぁぁぁ(絶叫)
《朝日新聞の1面コラム「天声人語」。100年以上も続く名物コラムには、文章を書くために必要なエッセンスが凝縮されています。1カ月ほど書き写していると、自然と文章力が見についてきます。受験や就活の対策、また大人の学び直しに「天声人語」を書き写して見ませんか?》だそうです。う(嘔吐)
だいたい「天声人語」っていうタイトルからして、上から目線どころか「天からモノ言ってる感じ」で、もう全然ついていけません。
《大人の学び直しに「天声人語」を書き写して見ませんか?》 って、ものすごいコピーだな。
書いたコピーライターもすごいけど、会議通したヤツ全員が超絶的にすごい。
星の王子様の「やあやあ、またワシに感心しているやつがやってきたぞ」の王様に匹敵すると思うな。個人的には。
「天声人語書き写しノート」、なくならないうちにひとつゲットしておこう。きっと5年後には伝説の商品になっているはず。
①新入社員全員に「天声人語書き写しノート」を配布
②3ヶ月後に提出を命じる
③忠実に書き写した社員はその場でクビ
④「うちもさぁ、コピー機みたいな社員置いとく余裕ないわけだよ。じゃあな」みたいな。
逆に言えば、「社説」を「社の意見」として、毎朝掲げることができるのは、北朝鮮ライクな一枚岩の言論機関だけではなかろうかと…。
個人的に若死にした人間を持ち上げる論調が嫌いなもので。他人に語れるような夢は偽物。
オッサンにならない特権を行使するために早死にを選ぶクリエーターに対しては、全力をあげた忘却で対応することにしている。
努力の介在しない忘却は低能の結果に過ぎない。
盗んだバイクで新聞を配達したこともないあんたに何がわかるんだ? と、オザキが生きてたらきっとそう言っただろうな。
なんにもわかっちゃいないくせにというよりもなんにもわかっちゃいないからこそなおのこと。
尾崎社説程度のものに過剰反応しているのは、オレがなにか苛立ちをぶつける対象を探しているからで、
その原因は…たぶん盗んだバイクで走り出した先にある。
何か機嫌の良くなる話題を考えよう。そうだ澤穂希。バイクを盗まないで走りだす中盤の宝石。ありがとう澤穂希選手。
基金訓練、今は求職者支援制度に名前が変わったみたいですけど、そこの講師をやめたというか、会社ごとやめて転職しました。
何の講師をやっていたかというと、今をときめく(?)Androidの講師です。
転職先にも少しなれてきて、今までのことを振り返って書き留めてみたのですが、せっかくなので発表することにしました。もともと僕だけが読むメモのつもりで書いたので、読みやすい文書ではないですがご容赦のほど。
Androidの講師になるまでは、Javaのサーバーサイドのエンジニアをやっていました。
お客様のところに常駐し、システムの一部ではあるけど、自社メンバーだけで上流行程から担当し、僕はそのチームリーダーでした。
プロパーの方でも仕事がないような状況で、それでも僕らのチームは半年ほどは細々とメンテなどの作業をやっていたのですが、最終的には契約終了になってしまいました。
自社に戻って、何をするのだろうと思っていたら、Androidの講師をやれ、といわれました。
Androidは、暇だった時期に少し動かしてみて、簡単なアプリなら組めるようになっていたのですが、人に教えるほどの技術はありません。しかも準備期間は1週間ほどしかありませんでした。
ビデオ教材と教科書が用意されていて、それに従っていれば最低限の講義はできるのと、最初のうちは純粋なJavaの講義だったので、前半をやっている間に講師はAndroidの勉強をしよう、という、何とも乱暴な計画を立てたのでした。
ほぼ定員いっぱい近い受講者の方が集まったのですが、スキルが全くバラバラです。
JavaやC#,C,C++の経験者がいるかと思えば、人差し指だけでキーボードを打っている方もいます。
講義の最初のうちはコマンドプロンプトを使うのですが、教材には説明がなく、最近の人は知らないだろうと思って説明書を作っていたのですが、まさかコピーペーストのやり方から説明することになるとは思っていませんでした。
それでもやる気のある方はまだましで、どうみても給付金目当てとしか思えない、やる気のない方が何人もいます。
こちらも準備不足の中、生まれて初めて「先生」と呼ばれる仕事を始めることになりました。
基金訓練を始める前は「きちんと技術を教えられるかな」ということばかり気にしていたのですが、講義の運営の方が問題続出でした。
いかにもやる気のない方々は講義中もトイレだ電話だといって抜けてしまう、講義中に当てても「わかりません」しかいわない、かといって質問もしない。当然課題も期限までに出さないので0点しか付けようがません。
そういう方でも、こちらから無理にやめさせたりすることはできないので、何とか講義だけはでてもらっていました。
けど、それがよくなかったようです。
まじめに受講されている方々から「金をもらって受講しているのにあの態度は何だ」「入校条件(キーボード入力)すら満たしていないのではないか」「講義のペースが遅すぎて時間が余る」などの苦情があがり、まじめな方から「就職が決まった」などの理由で辞めていってしまいました。
後に残った、やる気のない方々と、講義を続けていくしかありませんでした。
1度目の皆さんが修了し、2回目の講義を行うに当たって、前回の反省点を改善すべく、いろんな手を打ちました。
最後の手は、会社に怒られるのではないかと正直不安でした。実際辞めていく方が増えたのですが、こういう方は「家業が忙しくなったので手伝う」「体調が悪くなったので療養する」といったもっともらしい(?)理由で辞めていったので会社から怒られるようなことはありませんでした。
むしろ受講生の方の中から、積極的に他の方にアドバイスする方が増えたため、スキルの低い方からも「質問をしにいける人が(講師以外にも)大勢いたのでよかった」といってもらえるようになりました。
今回は、終了後の受講生の方どおしの打ち上げ会に呼んでいただきました。おおむね好評だったのだろうと思います。
未経験だけど、求職者支援制度を利用してプログラマになりたい方向けに、こういう人がプログラマに向いている、こうした方がいい、という条件を挙げてみます。
プログラムの勉強ははっきり言って辛いです。やりたいことが明確になっていないと、なかなか続かないです。
僕は「写経」と呼んでいるのですが、サンプルプログラムを実際に打ち込んでみて、エラーがあれば自分で修正する
という「訓練」をやらないと基礎が身に付かないです。そもそもキーを打つのが苦手、という人はきっぱりあきらめましょう。エラーの原因を自分でぐぐって調べられないような人も、この業界には向いていないです。
いき当たりばったりではなく、最初に手順・段取りを考えてから作業を始める方が向いています。
講義でも、課題作成に何日もかかる課題があるので、何も考えずに適当にやっていると期限までに終わりません。
「きりん、うさぎ、あひる、かば、4つの動物で仲間外れは?」みたいな問題が苦手な人は、向いていないと思います。
単に「読める」ではなく、課題を理解し、既知の技術で解けるものと未知のものに分けたり、繰り返し処理や、複数の似たような処理を一つにまとめるといった作業ができるかどうかです。
さっきの抽象的な考えもそうですが、今までそういうことを意識してやっていない、という方が多いと思います。そういう人は、しんどい思いをすると思います。
「AとBという方法がありますが、ここではAについて説明します」と講師がいったら、Bは自分で調べましょう。習ったプログラムを少し変えてみてどうなるか試してみましょう。それがうまくいかなかったとしても、経験というプラスが残ります。
講師の言うことが理解できたと思ったら、自分で応用問題を考えて、プログラムを書いてみましょう。もしそれが期待した結果にならなければ、どこかで理解が間違っている可能性が高いです。
先ほどの「試してみる」もそうですが、BLOGで実施すると、それをみた方からコメントやアドバイスをもらえることもあります。
いきなり何十行もプログラムを書いて動かなかったとしても初心者はまず動かせるようになりません。少し書いて、動かして動作を確認し、また動かして、を繰り返す方が結局早く完成します。
ちゃんと動く「プログラムの断片」を増やすことは、後で同じようなプログラムを書くときに、「断片」をそのままコピーして使えるようになると言うことです。
一度プログラムを書き始めたら、まずやることはプログラムを完成させて動かしてみることです。プログラムを書いている途中で、同じような処理があるからforで書きたいとか、メソッド化したいとか、思うかもしれませんが、プログラムの初心者はまず動くプログラムを書いて、それができてからきれいに書き直しをした方がいいです。
すぐに解けない課題は、書いて残しておきましょう。書いて整理することで、解けることがあります。今は解けなくても、後で見返して解けることがあります。
特に図に書く、という作業は意識的にやった方がいいです。講師に質問するときも、口で説明するより、図に書いた方がずっと通じやすいことがあります。
自分ができたことで他の人が詰まっていれば、アドバイスしてあげましょう。助けてあげると言うだけでなく、他人に説明すると言う作業は、自分自身の理解をより深める作業でもあります。
もちろん自力で最後まで解くことが重要な課題もありますが、そういうときは講師がそれとなく言ってくれるはずです。
とりあえずアプリを書いたら、同じ講義を受けている人や講師に見せて感想をもらいましょう。
アイコンを書くのが苦手なら、イラストが上手そうな人を見つけて、書いてもらったり、書き方を教わったりしましょう。
訓練を受けているのは同じような環境の方ばかりなので、相手だって同じことを考えているはずです。
紙のノートに講義内容を書いたり、テキストの余白にメモしている人がいますが、それは講義の内容を聞いて即理解できる人が、聞いたことを忘れないためのやり方です。
わからない人は、わかるようになるまで、何回でもノートを書き直した方がいいです。わかったことを継ぎ足して、表現を見直して、時には冗長な表現を削って、自分だけのオリジナルのテキストを作るつもりで書きましょう。当然書くのは紙のノートではなくパソコンをつかいます。
プログラミング以外の世界でもプロや、プロ顔負けの技術を持つセミプロ、ハイアマチュアといった方は自分の作品を世に出すときに恥ずかしがったりしません。不安はあっても、それを上回る意欲を持って、どんどんアプリを書いて、マーケットに載せましょう。
ひょっとすると業界の習慣よりあなたの意見の方が正しいこともあるかもしれませんが、未経験の人が言っても周囲はたぶん聞いてくれません。「私はずっとこのやり方でやってきたしこれからもやる」という意見はひとまずおいておいて、まずは周囲に認めてもらうようにしましょう。
余りに差がありすぎて自信をなくすと逆効果ですが、技術を身につけたければ自分より優れた人から学ぶのが一番です。コミュニティーや勉強会にも積極的に参加しましょう。
結局どうなったのか?という一番知りたいだろう疑問に先に答えておくと、特にどうもなってない。
破滅ラウンジ会場において、四日市の財布を窃盗して中身を偽札に摩り替えた人物がDJパターサンであるという情報は半年近く前から流れていた。事件当日、四日市は渋谷署に財布の紛失として届け出たが、財布が偽札になって戻ってきた際に紛失届けを取り下げ、警察も事態を大きく捉えず、悪質なイタズラとして処理してしまう。
真相を把握している破滅ラウンジ関係者は少なくないと思われるが、身内を庇いあうためか情報を隠匿していること、事件から1年半経ち既に被害者である四日市であっても捜査機関に持ち込むことが難しいだろうことから「偽札偽造」についてこれ以上の進展はないと思われる。
「偽札販売」については明確な画像の証拠もあり、会場の責任者であるカオスラウンジや破滅クルーに法的な責任が及ぶのではないかと思われたが、偽札に値札を付けて「発売」したものの「販売」の実態がないためこれも進展を望むことは難しいと思われる。
会場の展示物は村上隆に売却されており、展示物の中に偽札が含まれていればこれを「偽札販売」とみなすことができるかもしれない。しかし9/20に四日市がカオスラウンジ騒動を追いかけるq_4500に匿名で情報を寄せたところによれば、破滅ラウンジの展示物の売却は村上隆とモメたまま流れているという噂があるらしい。
騒動の発端となったキメこなを据えた作品は東浩紀が購入し、現在もオフィスに飾っている。
10/15の東浩紀のニコ生にて若干カオスラウンジについて言及があり、その中でオフィスの中に飾る分においては著作権の問題がないことを弁護士に確認したとしている。
騒動になった以降、水掛けや踏み絵、photoshopの機能を利用しただけの悪事に近い作品は作らなくなったが、梅ラボはコラージュによる作風を改めておらず、9/3に新作を発表していた。
事前許可を取るといった方針の転換もせず、著作権者に向けた窓口を作り、権利者以外との対話を閉ざしたことで、騒動を追いかける人たちに油を注いだ。
著作権者の連絡窓口が生まれたことが唯一の進展だが、権利者が動いたという話は今のところない。権利者が通報した結果、作品を取り下げるのか、作品から権利者の作品を取り除くのか、著作権料を支払うのか、権利者と対話し作風を改めるのか、などといったことも分かっていない。
だいたい同じ人の仕業。
カオスラウンジの悪名があまりにオタクカルチャーの間で敵として認識されすぎたため、暴言も荒らしも正義とみなされるちょっと危険な状態にある気がする。
原文: Schumpeter blog: Angst for the educated(http://www.economist.com/node/21528226)
裕福な国の何百万人もの卒業生が、泣く泣く両親に別れをつげて、大学での新生活を始めようとしている。学生の一部は純粋な学問への愛ゆえに大学に向かうのだろう。しかし、ほとんどの学生は、大学で3年か4年過ごせば、そのために多額のローンを組むことになったとしても、実入りのいい安定した職に付ける見込みが強くなるのだと信じて大学に進んでいるのだ。
大人たちは常に「教育こそがグローバル化した社会で成功をつかむための最良の道だ」と子供たちに言い聞かせてきた。そしてこのお馴染みの話は次のように続く。ブルーカラーの仕事はやがてオフショアされるか機械化されてしまうし、中退したら金に困る一生を送ることになる、世を勝ち抜くのは学士号を手にしたエリートだ、と。これは証拠によって支持されている見解でもある。ジョージタウン大学の教育・労働力センターが最近発表した研究によれば「中等教育以上の学位を取得すれば、ほぼ必ず十分なリターンが得られる」という。学歴と収入には強い相関関係があるのだ。専門学位をもつアメリカ人の生涯賃金は360万ドルだが、高卒の場合はせいぜい130万ドルでしかない。さらに、学位を持てるものと持たざるものの差はますます広がりつつある。2002年の研究では、大卒は高卒の1.75倍の生涯賃金を得ているという結果が得られたのだが、今日ではこのプレミアはさらに大きくなっている。
しかし、過去というガイドは未来において役に立つだろうか? むしろ、私たちは仕事と教育の関係が変化する時代の境目に立っているのではないだろうか? 実際のところ、古いパターンが変わりつつあり、今は不況によって引き起こされている西欧社会の大卒需要低迷という事象も構造的なものに転化しつつあるのだと考えるべき根拠は十分にある。数十年にわたって多くのブルーカラー労働者を揺さぶり続けた創造的破壊の強風は、今や教育エリートにも牙を向こうとしているのだ。
大卒者の供給は急速に増大しつつある。高等教育統計によれば、1990年から2007年の間に、大学に進学する学生の数は、北アメリカでは22%、ヨーロッパでは74%、ラテンアメリカでは144%、アジアでは203%に増大したという。2007年には世界中で1億5000万人もの人が大学に通い、そのうち7000万人はアジアの大学に在学している。経済的新興国、中でもとりわけ中国は欧米のエリートに対向しうるだけの大学の育成にリソースを注いでいる。この新興国では、タタ・コンサルタンシー・サービスやインフォシスのような専門サービスを業とする会社も生まれつつあり、これらの会社は新卒生を世界クラスのコンピュータープログラマやコンサルに育て上げている。詰まるところ、富かな国の最優秀層は、より少ない賃金で沢山働いてくれる貧しい国の最優秀層と競合しつつあるのだ。
同時に、教育を受けた労働者の需要のあり方もテクノロジーによって変わりつつある。この状況は19世紀に農業労働者が直面し、20世紀に工場労働者が直面したそれと非常に似ている。コンピューターは反復的な知的作業のみ成し得るというわけではない。コンピューターは、アマチュアにプロのごとく仕事をこなせるようにする力を与えるのだ。どうして生身の会計士を雇って納税申告をしてもらう必要があるだろう? そんなものは、Turbotaxを使えばわずかな費用でやれるのだ。今後、論調と言語的曖昧さを処理できる機能が備わるようになれば、コンピューターがこなせる仕事の種類は今の何倍にもなるだろう。
Paul Krugmanを含む経済学者の一部は、ポスト工業化社会の特徴は絶え間なく続く知的労働者需要の増大ではなく、巨大な「空洞化」にあるのだと論じている。この「空洞化」は、中級職が賢い機械によって取って代わられ、上級職の増加が鈍化することによって起こるのだという。MITのDavid Autorによれば、このコンピューター時代におけるオートメーション化の主たる効果は、ブルーカラー職の消失というより、ルーチン化できるあらゆる職の消滅にあるという。プリンストン大のAlan Blinderは、低賃金の仕事よりも、大卒が伝統的にこなしてきた仕事の方が比較的「オフショアしやすい」と論じている。配管工やトラック運転手はアウトソースすることができないが、プログラマの仕事ならインドに頼むことができるからだ。
大学教育は、未だに医療・法・学問といった巨大なギルドの入会資格になっていて、このギルドは安定した高賃金な職を生み出している。これらのギルドは前世紀において非常に強力な参入障壁として機能してきた。この障壁は時には正当な目的に出たものだったが(誰も床屋に手術されたいとは思わないしね)、他方で自分たちの利益を目的としたものでもあった。しかし、ギルドは次第に没落しつつある。新聞はブログとの戦いに負けつつあるし、大学はテニュア付きの教授をテニュアの無い職に置き換えつつある。法律事務所は「discovery」(訴訟に関係のある資料を探し出す仕事)のようなルーチンの仕事を、Blackstone Discoveryに代表される電子検索の専門集団に外注しはじめている。医者ですら安泰ではない。患者たちはオンラインでアドバイスを受けた上で、ウョルマートの新しい医薬品センターを利用して治療を求めるようになりつつあるからだ。
MITのThomas Maloneは、このようなオートメーション化・グローバリゼーション・自由化といった流れは、もっと大きな変化 - すなわち「知的労働の分業化」という流れの一局面かもしれないと論じている。アダム・スミスの工場マネージャがピンの生産を18の手続きの分割したように、企業はますます知的労働を細切れにしつつあるのだ。例えば、TopCoderはITプロジェクトを小さな塊に分けたあと、その細切れをフリーランスのコーダーに分配するという方式を採用している。
このような変化は間違いなく知的労働者の生産性を高めるだろう。消費者はサービスに対して高い対価を要求する専門家ギルドを避けて通れるようになるし、多くの知的労働者は退屈な仕事を外注することで自分の最も得意な仕事に集中できるようになるのだ。しかし他方で、この知的労働の再編の流れは、次の世代の大卒者の人生を、はるかに不確定で安住できないものにするのだ。
それはどちらかというと、「dA や pixiv に絵を投稿するひとはいくらでもいる」というのに似ている。
絵は描くだけなら敷居がひくい。
けども、アマチュアでも膨大な人気を集めたり、ましてやプロとして食う人は一部だ。
だからといって、食えないような絵は描いてはいけないわけではないし、そこはプログラミングも同じ。
「絵の描き方」というのを教わったところで上手い絵がかけるわけではないところも、プログラミングも同じ。
>韓流に
>多方面の日本人が
>ウンザリしてたようだ。
9万件も同意が入ってるようだけど、アホかと思った。
言外には「だからフジは叩かれて当然」という言葉があるんだろうけど、
何かを好きな人よりそれを嫌いな人・無関心な人のほうが多くなるのはあたりまえです。
テレビ局が韓流ばかりやってるのは色々事情があるかもしれないが、彼らが営利企業であることを考えれば主要な理由は「視聴率が稼げるから」だと分かるだろう。
つまり、韓流を嫌いな人がどれだけいたとしても、他の番組をやるより「視聴率が上がる」程度に好きな人が多いから流しているというだけなのだ。
もしフジで韓流を見たくないなら韓流以外の番組をもっと見ればいい。でも、最近はテレビ離れとか言ってテレビを見ない若者が増えているそうだ。
テレビを見ないくせにテレビで韓流流れているのは気に食わないのか?幼児のわがまま並ですね。
でもこんな表層のことははっきり言ってどうでもいい。
この散歩デモ参加者やネット上で韓流叩きしてる奴らの問題は、それが嫌韓に基づくものであるくせに誤魔化してるところだ。
高岡の趣旨や彼がネット右翼にどこまで共感してたのかは分からないが、少なくとも発言だけ見れば、言っているのは「韓国の番組を日本でたくさん流すのはおかしい。日本の番組もっと流せ」ってことだけ。
韓流ドラマがつまらんとか朝鮮人は日本から出て行けとか韓国は嫌いとか、そんなこと言ってないしそういう風に捉えられることを(真実は分からないが)望んではいなかったはず。
でも、ネット上のアホ共は高岡を「利用」して自分たちのレイシズム(韓国人は何やってもダメ、日本人はすばらしいという考え方)が正しいと証明されたような気になっている。
そこが許せない。
人には誰だって好き嫌いがある。
この世には子供に萌えたり老人に萌えたり死体に萌えたりする人がいるし、中国が好きな人やアメリカが好きな人やそして韓国が好きな人がいる。
韓流ドラマが嫌いな人もいる。だけど、自分の嫌いなものを見たくないからとデモを起こすバカがどこにいる?
そんなものに500人以上(らしい)集まったということが、どれほどアホなことか、考えなかったんだろうか。中学生とかもいたらしいが、頭の足りない(狭いものの見方しか出来ない)人間が多そうだなという印象は確かにある。
だからこそ先の話になる。好き嫌いだけでデモは起こせないし人は集まらない。
フジを批判するということでようやく集まったという感じだが、それにしたって結局は「俺は韓流が嫌いだ。韓流流すなバカ野郎」ということになって、好き嫌いの次元に落ちてしまう。
韓国人、韓国、そして韓国の文化に対する侮蔑の気持ち、「あんなくだらないもの」という見下す感情があるからこそ、個人の好き嫌いにも関わらずデモが起きてしまったということの真相だ。
そんな事情を知ってか知らないか、多分知ってる人間もいるんだろうが、J-castによれば著名人の中にも何人か「フジ批判」に同調する人間がいるそうだ。
バカとしか言いようが無い。自分たちの発言の影響力をまるで分かっていない。いや、分かっていてやってるからこそ許されざるバカなのだ。
今までネット上の嫌韓勢力はどちらかというとアマチュア的、細々とした大学サークル的に活動してきた。テレビでは全く報道されないし、当然著名人もスルー。
なのにここにきて、表向きは「韓流ばかり流すフジテレビへの違和感」という形でこの嫌韓勢力に加担する人間が現れた。
確かに違和感を訴えるだけなら嫌韓勢力について何も知らなくても可能だろう。だが、それで彼らの無知が許されるわけではない。発言の影響力が一般人のそれとは比べ物にならないと自覚していれば、不用意な発言は控えるはずだ。
思いついたことをざっと。
みかん理事が通報したアカウントは停止されていない。何らかの理由で生まれたデマ。(まとめにある削除された片方のアカウントの存在自体が間違い)
みかん理事については触れないが、アカウント停止が恣意的に行われた、というのがデマであるなら、公式にそんな事実はなかったと言えばいいだけ。
その恣意性は問題視されて然るべきだが、「俺が描いた絵をpixiv運営は残さなければならない」というお客様幻想もまた問題視されるべきではないのだろうか?
幻想?
あのな、データ保存を目的としたサービスで、データ消去の基準が曖昧でいつ消されるかわからない、なんてのが通るわけないだろ。
常識的に考えて。
権利者削除だとか、規約に違反とか削除理由は明示されるべきだし、その具体的内容も通知されるべき。
カオスラウンジが活動すること自体は罪ではなく、カオスラウンジがその活動の中で著作権者の心証を無視したコラージュ作品を展開したことが罪なのではないだろうか。
pixivを立脚地とするカオスラウンジのメンバーが、pixiv社長とプライベートな付き合いを持ち、人脈のきっかけとなったり、交流を交わすことまで責めるべきだとは思わない。
だれもそんなことは責めてない。
実際、カオスラウンジが本当に自分で描いた作品をpixivが「強力に」後押しして商業展開したとしても、ここまでは炎上しないと思うよ。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクのLAコンサート、外国人感想その4。今回は初音ミクという存在についてかなり真正面から書いたものを紹介する。筆者はコンサートだけでなくアニメ・エキスポで行われたいくつかのパネルにも参加したようで、日本から行った関係者の発言も引用しながら初音ミクとそれを取り巻く現象に関する考察を述べている。これを読めば「初音ミクとは何か」について一通りもっともらしい話ができる程度の情報が盛り込まれた、なかなかいいまとめだ。
urlは以下の通り。
ヴァーチャル・ディーヴァ(仮想の歌姫)になるということは、正確にはどういう意味を持つのだろうか? 初音ミクの人気について真に理解できるようになる前に、彼女が正確には何者なのかを確認するのがおそらくは最適だ。しかしながらこのテーマは思いのほか扱いが難しい。最も簡明な言い方をすれば、彼女は明らかにセガとヤマハによって発展してきた音楽制作ソフトのために藤田咲の声を録音しデジタル化した商品のパッケージ用にデザインされたキャラクターだ。だが同時に、彼女が本当の意味では存在していないという主題もそこにある。我々がミクの歌について話している時、我々は厳密に言えば生きていないものに対して隠喩を使っている。思うに初音ミクとは我々が理解しているより遥かに複雑なものなのだ。
アニメ・エキスポ2011は間違いなくミクの全てを取り上げていた。ミクノポリスは、それがノキア・シアターで行われ、かつ売り切れた唯一のものであった点だけを見ても、明らかに週末最大のイベントだった。他のゲスト――クリプトン・メディアの伊藤博之と佐々木渉、ダンスロイド、及び小林オニキス――はミク登場のおまけとして呼び寄せられた。アニメ・エキスポがコンベンション全体のテーマに「ファンの年」を選んだのは、ただのお遊びではない。結局のところボーカロイドは、ヤマハの剣持秀紀マネジャーがコンベンション3日目のパネルMirai no Neiroで言及したように、ファン、製作者、及び消費者の間にある障壁を切り裂いている。
ミクがいくらか人間っぽい性質を備えているのは明らかだが、同時に彼女の存在はメカニカル(機械的)かつヴァーチャル(仮想的)でもある。歌姫という用語は、技術的な能力をほのめかしているのみならず、高い人気という意味も示唆している。だがミクの人気はピンポイントで捉えるのは難しい。小林オニキスがアニメ・エキスポ2011の2日目にミク・カンファレンスのパネルで発言した内容によれば、彼女の成功は3つの要素に拠っているという。ミク自身、制作過程での自由さ、そして世界規模のインターネットだ。私がオニキスの判断に異論を唱えないのは確かだが、彼の指摘した3つの点をさらに分析すれば初音ミクの存在について興味深い事実が判明すると思う。
トヨタの初音ミク・カローラCMを巡る謎がついに明かされた時、トヨタが特にアニメ・エキスポを念頭に置いて若い客に対する濃密な市場調査を行ったことが判明した。トヨタはアニメ・エキスポ2011に2台のitasha(アニメやゲームのキャラを描いた車)、スタッフチーム一そろい、車の前でミクのコスプレをする可愛い女性、そして小さなカローラの絵の上で可愛らしく微笑む子供のようなミクを描いた何千枚ものポスターを持ち込んだ。ミクはただソフトに特色を出すため作られたキャラに過ぎないという事実にもかかわらず、彼女は自動車企業の公式看板娘となるのに充分なほど人気があった。アメリカにおける市場性の存在にはかなりの疑問があったものの、この宣伝活動はミクにとって大きな一歩だった。
初音ミクの生まれは、実際にはどこの馬の骨とも分からないものだ。彼女は、自身が市場に出ることとなった新しいVocaloid2シリーズの、箱に描かれたイラストとしてその生を始めた。つまるところ、それが彼女の全てだ。だが、日本中の製作者たちが楽しく、突飛で、面白い歌を書き、彼女を描いたり動かしたりすることで彼女に性格を付け加え始めたため、彼女はすぐ自らの命を手に入れた。最終的に彼女のイメージにはネギが伴うようになった。
これがなぜ重要なのか? ミクが東方シリーズに出てくるキャラとどれほど似ているかについては、おそらく指摘する必要もあるまい。ゲームに出てくるキャラの多くが極めて限られた背景情報しか持たず、それゆえにキャラの性格をさらに発展させるため製作者とは無関係にファンダム自体が自由に想像をめぐらせる余地があるという事実に、東方厨の一部は対応してきた。同じようにミクの仕様に存在する欠落は、歌やビデオという形式をまとった小さな物語の発生を許し、それが巡り巡って単なるキャラを超えた命の有り様をを彼女にもたらした。彼女は利用者が作り出す製品の力に具象化された肖像であり、概念だ。
そのインターフェイスは、比較的直感的に使える。音楽用語を使う代わりにこのソフトは、メロディーを生み出すためピアノの音程と一致したいくつかの棒の上に長い音符を置く。ピッチとテンポは製作者の目的に合うように変更でき、ビブラートと発音も自由に変えられる。完全な楽曲を作るため、ドラム、ピアノ、ギターなど追加の伴奏も付け加えられる。
ヤマハの音声技術開発チームを率いた剣持秀紀によれば、初音ミクは作曲家と歌手にとって伝統的に必要なものを補完する革命的なソフトの顔を務めたからこそ、ヴァーチャル・ディーヴァなのだという。ミクは、かつてデジタル楽器がやったのと同じように音楽世界のあり方を変えたソフトだと、彼は主張する。それが楽譜制作だけでなく、自然言語における発話パターンの複雑さまでまねしようと試みていることを踏まえるなら、おそらくそれ以上のものと言える。
剣持はプレゼンの際に彼の議論の核心を効果的に実証してみせた。まず彼は、人間の耳とって自然な音をボーカロイドに生み出させるのが、どれほど困難かを説明した。次に英語のボーカロイドソフトSweet Annを使い、極めて短時間でハッピー・バースデーのメロディーを生み出してみせた。そしてボーカロイドは単純に人間の声をコピーしようとしているものではなく、その特別な性質故にある意味で音楽の未来を示しているのだと強調した。極めて広範囲なジャンルにふさわしいものにするため、ライブラリを変更することができる。人間の耳が言葉を理解できないほど速いレートで音を生み出すのも可能だ。どんな歌手より長く引き伸ばして歌うこともできる。最も有名な初音ミク曲の一つ、初音ミクの消失を見るだけでいい。ボーカロイド史の比較的初期段階からソフトが持つこれらの側面を製作者が上手く利用していたのは明らかだ。つまりボーカロイドは、その人間に似たヴォーカルと同じくらい、その機械的側面も売り物になっていたのである。
プロの音楽家とアマチュアの双方に販売されることで、ボーカロイドは間違いなく伝統的に音楽に存在した境界線を壊し、比較的音楽知識の乏しい者たちが数千から数百万ものビューを稼ぐ歌を作り出すのを可能にした。アーティストだけでなく、ネットに詳しい個人がよく知っている視聴者に合わせた歌を作ることもできるようになった。
ニコニコ動画が日本におけるボーカロイド活動の主要拠点であることは否定できない。この動画シェアサイトには、他の種の動画ランキングに加えて人気のあるボーカロイド曲のランキングもある。つまりミクの成功は、彼女自身と製作者あるいはソフトの能力だけではなく、日本のユーザーが新たに作られた歌に関する集計された情報を見つけるのが容易である点にも依存している。
ミクの人気は彼女の声だけにとどまらない。ボーカロイド・コミュニティーから抱き合わせでニコニコ上に出てきた他のコミュニティー、例えば「Utattemita」(歌ってみた)、あるいは「Odottemita」(踊ってみた)などは、それらの人気故に今やニコニコのメーンページにある案内バーにそれ自体のカテゴリーを載せるまでに至っている。国境を越えたアニメ及びゲーム・コミュニティーへのウイルスのようなミクの拡散は、製作者及びファンの双方で似ている情報拡散能力に頼っている。
最初の質問に戻ろう:ヴァーチャル・ディーヴァとはつまり何か?
ミクの「仮想性」は要するにオニキスの言う1番目と3番目の要素に起因する。彼女は世界中の数百数千という人々の想像力に根っこを持ち、一方で彼女の側は人間としてのどのような制約も持たない、骨格だけのキャラだ。同時に、インターネットにおけるファンに基礎を置いて成長するボーカロイド・コミュニティーには、それを統制する法的な枠も基盤も僅かしかないという事実故に、彼女は著作権問題からも比較的影響を受けない。実際、利用者が生み出しファンが作り出す素材に対して日本企業が示す寛大さは、英語を使うユーチューブ・コミュニティーが慣れ親しんでいるものに比べれば衝撃的なほどに大甘だ。技術的にも、誰もが歌わせることのできるミクの束縛のない能力は、有名になるためどんな歌姫にも必要とされる人気と広い支持とを提供する。
理論的にはミクのスターダムへの道は、彼女が完全に作り上げられたキャラではなく、その中身が欠落しているという点にある。オタクの行動様式とポストモダンにおける消費パターンに関する東浩紀の著作から引くなら、ソフトの利用者が作り出した歌と動画に描かれた個人的で小さな物語を生み出すためのデータベースとしてボーカロイドと初音ミクが使われている。同時に人間の声を合成することで達成された技術的偉業が、音楽産業内における伝統的役割に新たな裂け目をもたらした。あらゆる種類の消費者、製作者、ファン、音楽家、個人的技術者が、あたかも300年前にルソーが思い描いた政府のように有機的なコミュニティーへと参加している。
初音ミクとは2つの面を持つ現象だと私は主張する。ミク自身は、情報的に遍在する世界の中にいる個人たちの行動様式に根ざしており、世界的コミュニティー総体の想像力によって生み出されている。一方、ソフトは技術的革新による製品で、それは技術がミクの成長にどれほどの役目を果たしているかを過小評価するのが間違いであろうと言えるほど、過去にあった境界を超越してのけた。
ミクノポリスの会場で照明が落とされ、初音ミクが最初にステージに姿を現した時、聴衆の中で数千のファンが上げた叫びを誤解することは不可能だ。堅実で具現的な光学的幻想を生み出すスクリーンに投影され、ミクはボーカロイド商品の箱を彩る二次元画像という起源から、サイエンスフィクションのポップスターへと素早く進化する。来るべき年月におけるボーカロイド発展への将来性を踏まえるなら、Mirai no Neiroパネルこそまさに新たな造語にふさわしい:「未来の音色」
The Nihon ReviewとAnime Instrumentalityはアニメ・エキスポにおけるミク関連のリポートを協力して提供する。コンサートそのものに対する詳細な報告は、Anime Instrumentalityに掲載されているzzeroparticleのエントリーをご覧いただきたい。
使用画像はPixivにある。この画像がコミケット80で使われたことについて、Moccyにお祝いを申し上げる。
http://www.pixiv.net/member.php?id=191242
この週末にアイデアを論じるという楽しみを分かち合った数十人、同僚のライターであるShinmaruとEternal、同じくAlex Leavittと、そして日本へ戻ったミクノポリス/未来の音色のスタッフに、心からの感謝を。
http://dph.ninja-x.jp/index.html
ミクについてよく知らない人へ、ネット上には利用できる多数の英語資料がある。おそらく外国のコミュニティーを本当に制限している唯一の問題はニコニコ動画への簡単なアクセスができない点であろうが、十二分な興味を持っていくらか賢い検索をユーチューブで行えば、ニコに投稿されたほとんど全てを見つけだせる。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
前回は初音ミクのLAコンサート、Mikunopolisに関する外国人の感想「Promise Of Rebirth」を翻訳してみたんだが、読み返してみると随分と難解で堅苦しい。逐語訳だとどうにも冴えないようだ。こりゃいっそ正確さは犠牲にして、分かり易さを最優先にもっとフリーダムに翻訳してみてもいいかもしれん。参考文献は水戸黄門の主題歌、つまり七五調で。
+++++以下翻訳+++++
するのは遥か 未来だと 思ったことも ありました
ミンメイだけが きっとこの 場面飾るに ふさわしい
そんな土曜の 夜の夢 思い返して 考えた
分かっているね お客さん DVDを チェック済み
青緑した 髪の毛が 繰り出す歌に 大興奮
ディラッド板に 弱点も あるけどそれも ご愛嬌
振り返る過去 幼い日 親に連れられ 見に行った
音に合わせた 光の線 まばゆく輝き 描き出す
それは発展 そしてまた 深い分裂 もたらした
好きなヤツらは 言われたよ 「お前ら音楽 分かってない」
人工的な 音なんぞ 芸術の名に 値せず
確かにそういう 面もある でも無視しては いけないよ
そして続いた 分裂は 未来に影響 及ぼした
音とつながり 融合し 未来の夢を 見せていた
それを知るため アイドルを きっちり考え 煮詰めよう
ショーは続くよ 華やかに 魅せる衣装の 早変り
再生求め 長き時 待ち望んでた この世代
ついに始まる 約束の 憧れ実る 新たな夜
イヴよシャロンよ レイ・トーエイ 君らの歌が もうそこに……
+++++翻訳終了+++++
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
初音ミクのLAコンサートに関して、Promise Of Rebirthと題したそこそこ長い感想を外国人が書き込んでいた。正直、随分と難解な表現が多く、翻訳も怪しげになってしまった。書き手のHN(wintermuted)を見るに、本来なら黒丸尚風に訳すべきなんだろうが、とても私には無理。とりあえず訳してみたのを置いておく。無断翻訳なので匿名で。誤訳はあると思う。
なお原文のurlは以下の通り。
http://animediet.net/commentary/mikunopolis-at-ax-2011-promise-of-rebirth
+++++以下無断翻訳+++++
メガゾーン23に出てきた謎めいたヴァーチャルアイドルの原型たる時祭イヴがSFにおける一種の狂信的比喩として想像をかき立てる場面に現れてから四半世紀強ののち、昨夜のアニメ・エキスポにおける比類なきイベントMikunopolisがちょっとした進化的な跳躍を成し遂げた。西洋におけるこの概念の最も著名な派生例がアル・パチーノの穏健な映画[シモーヌ]、及びウィリアム・ギブスンのほとんど遺伝的に接続された精神[小説『あいどる』]を通じた形をしていることを踏まえるなら、数千人のファン(及び間違いなく好奇心旺盛な連中)がオタク世界のデジタル彼女アンドその友人たちと伴にロサンゼルスのノキア・シアターをほとんど埋め尽くすなんてのは、まだまだ先のことだと考えらていたに違いない。不可解にも外部に広がった走査線から、ケミカルライトやネギその他に鮮やかに彩られた通路に至るまで、それはリン・ミンメイだけを認める歓迎の場であった。今なお振り払っている最中である土曜夜のイベント後の残響は、かなり深い思考を私にもたらした。
いつもカリスマチックなダニー・チューによる紹介と、それに伴うダンスロイドの形をしたリズム点火係は、その先に待っているものの興味深い味見役を果たした。この前座は、おそらく秋葉系(Akiba-kei)の空気に慣れていない聴衆にとって、何が次に来るかを示す重要なリトマス試験紙だ。このショーを準備する時間がほとんどなかったことが見て取れる点が、これが日本直輸入の製品であり、一見客に対するちょっとした警告にもなっていた。私自身が見いだした特に重要な点についてはすぐに述べる。
既に日本で有名になっていたコンサートの形式をカンニング済みだった客の大半は、青緑色の髪が次々と繰り出す人気のある曲と、目がくらむようなライブ伴奏(39s Giving DayのDVDで演じたオリジナル奏者の大半、及びこの有名なディスクには含まれていない弦楽器奏者の面々)の混合物を味わった。その間ずっと聴衆は大いなる称賛のためリズミカルにケミカルライトを振り、その動きが最後まで全公演を通じて見られたのは心強かった(こうした行為、及びその概念に対する彼らの長く続いた反応は、米国の聴衆にとっては奇妙に思われるものであることを、私はこの場で認めなければならない)。ボックス席に座り、ステージから1階席、クレーンカメラ、そして複数のカメラで撮ったHDスクリーンのハイライト映像まで含んだ全景を見る。多くのミクのファンかつアーティストが作った聴衆が親しんでいるヒット曲、World is Mineやポッピッポー、サウンド[ママ]、ロミオとシンデレラ、その他多く(どこかでミラクルペイントを彼女に演じて欲しかった)は、オープンソースな現象がほんの3年でどれほど広がったかを示している。そして特に歓迎された巡音ルカ、鏡音リン&レンの登場は、観客の熱狂をさらに高めた。センターステージに置かれたほとんど透過性のスクリーンに跳ね返るホログラフィックな投影機は、時にミクが踊りながら少し両端に近づくたびにその限界を示したが、同時にこの海外遠征の短い命に対する理解を伴ってある種の魅力ももたらしていた。
こうした話を正しい文脈の中に置くため、ちょっとした歴史を思い出そう――小さな子供だった私は、おそらくは地元の祭に毎年来ていたレーザーライトを使ったショーを見に行ったおかげでそれを一つの起源として啓示を受け、1980年代初頭に芽吹いてきた新たなテクノロジーに興味を抱いた。そのショーとは、要するに空気で膨らませたドームの中で音楽に合わせて行われたレーザーペインティングで、客は入場料を払い、床に置かれたたくさんのクッションの一つに腰を据えて15分から20分間、まばゆい光の列と、ミッシング・パーソンズやトーマス・ドルビーなどのアーティストの曲に合わせたアニメーションを楽しんだ。今となっては原始的なものに思える――ミュージックPVはいうまでもなく、コンピューターが生み出すアートとアニメーションにつながる想像まで至るには長い道のりがあった。また、こうした地味な傾向が存在しなければ、84年のマクロス映画における楽しいコンサートシーンもある種心を揺さぶるほどのパンチ力は持たなかったと敢えて言うこともできる。私が思うにそれは時代の刻印であるが、同時にライブエンターテインメントがどのように変化していくか数十年にわたる発展を知らせるものでもあり、おそらくは音楽芸術の愛好者がいずれはあるところで分裂に至ることまでも示唆していた。
なぜならこの時代に育った者にとって、アナログからデジタルへ向かう音楽の傾向が何か恐るべきものとみなされ、音楽業界で排斥されたことが一般的な心象として残されているからだ。子供の頃にクラフトワーク、デペッシュ・モード、ジョルジオ・モロダー、YMOやソフト・セルなどのファンだった者にとっては、誰かがシンセサイザーの人工性を嘲り、音楽の自然さを殺すと聞かされるのは珍しくもないことだった。そしてこの議論の中に何粒かの真実が含まれているとしても、それは一方で、当時は多数のコンピューターと故障の懸念とショーを乗り切るためだけに間違いのない注意深さを必要としたこれらのかさばったキーボードから音を創り出す人間の努力と創意工夫を、台無しにしていた。最終的にこの否定的な議論は多くの未来の音楽及び演奏形式に付きまとい、興味深い結末をもたらした。それはまたミクのライブ伴奏をこれほど楽しく必要な要素にもした(ギターの黒田晃年、ベースの田中晋吾、ドラムの折田新、キーボードの安部潤――言及すべき弦楽器部門を除く。いずれもとても素晴らしい)。スタジオミュージシャンは、あらかじめ簡単に録音することもできる演奏に大いに心をこめることになる。新たな道具を愛するアマチュア音楽家と、伝統的なものとの融合実験によって、このショーはさまざまな要素を混ぜたある種の喜んで受け入れられるシチューとなり、ときにいくつか二級品の歌があったにもかかわらず、既存の姿ではなく可能性を約束するものとして機能していた。――以上がショー全体で私が本質的に感じたことだ。
誰も見失わなかったよう望むのなら、この最終目標へと向かうDNAを手に入れることが私にとってベストなのだろう。なぜLAのショーはこれほど意義深いのか、そしてVOCALOID、ミク及びこのようなショーが持つ主要な意味あいとは何か。
さてこれは真に落とし穴的な回答である。なぜならアイドル歌手という概念及びヴァーチャルアイドルに伴う必然的結末まで考えを煮詰めるからだ。我らが今いるのは現実に近づいたキャラクターアニメーションの時代というだけにとどまらず、オープンソース化した大衆文化の可能性がある時代でもあり、我々はオタクの領域を超えて全く新しい何物かになるまで成長しうるアイデアをおそらく目撃している。YAMAHAが今年のNAMMショー[米国で開かれる楽器展示会]で多用途VOCALOIDを紹介したのを見ても、現状はメディアを通じた古い分配モデルが不可避の断末魔を上げるところに達したと敢えて見なせるように思える。スペイン製のソフトから取りだした一つのアイデアを、音楽作成のための輝かしい新たなモデルへと広げ、そして数が多すぎ、時に厄介な日本のアイドル歌手業界を考えた場合に多数の集団に働きかける天才の発案に過ぎないマーケティングにまで、拡大する。終わりなき競争、怪しげな才能、さらに怪しげなマネジメント、生死にかかわる健康上の危険、類似性、そして夢想を維持してほしいというファンからの圧力に満ちた困難な人生――そう、こうしたマーケティング方式とファンに駆り立てられた神話が混じり合って音楽のスーパースターたちにかくあるべしとする任務を押しつけるのは、それこそVOCALOIDにとって理想的シナリオだ――しばしば置き換え可能で、派生的、はかなく、言うまでもなく消耗品であるミューズたちが、変化もましてアイデアも嫌う文化産業のために存在している。
考えてもみてほしい。マイルズ・ダイソンの言葉を言いかえるなら、これこそ決して疲れることなく、興奮状態にもならず、二日酔いで仕事に出てくることもないアイドルだ。彼女はショーを続けなければならないことを知っており、一瞬のうちにコスチュームを変えられる。何よりファンが歌を作り、バンドが彼女の横で演奏しているという2つの理由で、その歌は偉大である。過剰な荷物と期待を持つことなく、アイドルが実行すべきだと期待されるあらゆることをする能力を自ら持つミクの存在そのものが、ある種の輝かしいアンチテーゼなのだ。彼女は文字通り、何でも人々の望み通りになれる。汗一つかくことなく。
そしてこれほど目立つ歓迎を伴う西洋への紹介は、日本人にとってだけではなく夢を共有できる分野を長く求めていた世代にとっても何か極めて特別なことの始まりであり、過保護にされることなくさらなる発展が期待できる約束されたスタートだ。そしてこの夜の感動的な聴衆たちから判断する限り、長きにわたる憧れはついにその実を結んだようだ。
イヴ、シャロン、レイ……君たちの歌がますます現実に近づいてきた……
+++++無断翻訳終了+++++
言うまでもないがシャロンはマクロスプラスのシャロン・アップル、レイはギブスンの小説に出てくるヴァーチャルアイドル、投影麗(Rei Toei)である。
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
ニコ動の「○○してみた」について考えてみる
記事でも触れられているが、今の「してみた」クラスタは、もはや多くが「してみた」ではない。
してみた、というのは一種のテストであり、そのテストは多義的である(してみることそれ自体のテスト、己の技術が評価されるかというテスト、etc)
つまり、これ自体が開拓の色を併せもち、開拓され、整備された今の環境ではそのテスト自体は殆どが後者の意味合いを持つし、ほぼ形骸したといえよう。
だからと言って、じゃあ「してみた」という名前を変える必要があるか?というと、その必要はない。今のままでいい。
むしろ気にかけるべきはそこで持ち出される「アマチュアリズム」という言葉だ。
フラット化するフラット化する、とさんざん叫ばれた電脳世界において、ニコ動が与えたのはむしろ格差の促進である。
再生数、コメント数、マイリスト数などあらゆるものが数値化され、ランキングでそれは大きな意味を持ち、ランキング動画にも影響を与えている。
ただし、そこにプロとアマの壁は存在せず、ニコ動で評価されるものとされないものという枠組みに改まった。
というのも、多くとは言わないがそれなりの仕事をしている人が参加していることは疑いなく、ならばそういう人が評価されているかといえば、そうでもない。
ユーザーに受けるかどうかが評価の差であり、技術の巧拙は幾分無視される。
そのような環境で持ち出される「アマチュアリズム」という言葉にどれほどの意味があろうか?それこそ、記事冒頭に出てきた「してみた」という言葉に対する「下手だけど勘弁して」な思考と同じ位相にある。
これは要するに「賞賛>批判」という格差を是認するものだ。一方で表現者を標榜していながらアマチュアリズムを盾にし、その口で批判は従者等と言うのだからおそろしい。
趣旨は、yutakiokaは別に悪い人間じゃないよ、ただただ、人より優れていることを求め、ずいぶんと頭がいいけれど、その頭がいいことを力に変えることが出来ず、特別な人間になれないことを悩むという、どこまでもありふれた普通の子供だよって流れです。
掘り下げが足りない人が出す結論は大体「相手の自意識過剰」になるという俺の持論がまた立証されてしまった。
ひとつ言っておくと、自分の頭でちゃんと論理を手放さずに考えて続けられる人は、そう簡単には循環論法には陥らない。
なる場合でも、大きな円を描く。その円の大きさがその人の思考力であると思う。
逆に自意識過剰、などという根拠がない仮定を使って空白を埋めることで循環論法を作り出す人間は思考能力が全くないのと同じ。
童貞disねたは煽りなんだけど、それに脊髄反射して感情的に反応しちゃってる人を見ると、ああだから童貞なのかと極めて納得がいく。
別にその人の事を言ってるわけじゃないのに反応してるというのはかなり自意識過剰だと思う。
うん、前から思っていたけれど彼には思考の発展性が全くない。
「なぜ童貞は自意識過剰なのか」という問いに対して「自意識過剰な人間は嫌われるから誰にも相手にされないから」。
では「なぜ自意識過剰な人は嫌われるのか」「なぜ自意識過剰ではいけないのか」「自意識過剰とはなにか」という問いがない。
逆のことがすべてカチッとはまっちゃってて議論の余地がない。
「自意識過剰はいけないこと」「自意識過剰は女に相手にされない」「誰かに相手にされているから自分は自意識過剰ではない」。
何から何までお約束で出来上がってしまっていて、そのお約束を超えるともう会話ができない。思考もできない。
もちろん頑張ってたくさんのお約束を頭に詰め込んだ努力は評価したいのだが、それに思考が固定されるならまだ無知な方がいい。
よく知らないけどこの人、「なぜ」という問いが1段階で終わっちゃう人なのだと思う。
その問いに対する答えも、自分で考えたというよりは、他人が出した答えを拾ってくるやり方なのだな。
そして、教科書に答えがのってないものについてなにか自分なりに考えようとすると極めてチープな「自意識過剰」とかそういう意味を成さない言葉に落ち着いてしまう。
この人、なにか「自分の手でつかんだ」という実感のあるモノってあるのだろうか。
「だからあなたも生き抜いてという言葉」の方があなたの「死ね屑」よりも暴力的と言うことですか?
思い込みですね。
最後に余談。この人がtwitterというメディアを選択している理由について推測する。
twitterで人間について語るとか無理とは言わないが、それでもイロイロ制約がかかっておすすめできないと思う。
無理やり語ろうとするとテストの答案しか作れなくなる。 例えば彼の「答案」を見てみるとこんな感じ。
自己否定ナルシズムの極地は自殺。ドストエフスキーは「悪霊」で、キリーロフの自殺という形でそれを示している、あの自殺理論で語られている「神」はもちろん「存在」の隠喩。存在の不安という問いに対して、実存的に思考したキルケゴールとドストエフスキーが異なる解を与えているのが興味深い。
とか
存在の耐えられない「軽さ」から逃れるために国家と自らの存在を同一化して存在意義を個人ではなくて国家の権威や伝統に求めるというのは、存在の「重さ」を得るための一つの方法ではある。ただそれが「自由からの逃走」である、というアイロニカルな視点がほしい。
しかも教科書のまえがき部分であって、帯の部分でありWikipediaでも読める部分。
そこから先が大事であり、さらにそこから自分の意見をもつことが大事。なのに、これが結論。笑える。
でもこれは本人の資質の問題ではない。こうなってしまうのは、140字制限だと、引用だけで記述が限界であり、引用ですら140字となるとかなり制限がかかってしまう。
しかし、本人はずっとそのtwitter「でこそ」こういう話を続けていきたいように見える。
となると、この人は「なぜ自分はtwitterを選択しているか」「自分は何に依存しているか」について自覚があるのだろうか。
私は別に自分が論理的な人間だとは思っていないし、論理的でなければいけないという縛りを自分にも他人にも課すつもりはないので
露骨に話をすっ飛ばして結論だけ書く。相手の主観を勝手に推測もしまくる。いちいち検証するだけの価値のある人物ではないわけだしね。
私には、この人がtwitterに求めているのは「教科書の知識の共有」「教科書的お約束の確認」であって、それ以上でも以下でもないと見える。
最初から思考する気などない。むしろ本業である思考の場で戦うことがどん詰まりであるからこそ、
下々の場に降りて行って、自己を確認せずにはおれない、テクノクラートのなりそこねというのが彼のイメージである。
そして、この人物に共感する人間が多いということは、それだけ「報われない文系エリートが多い」ということをも意味する。
せっかく勉強して、知識も蓄えて、いい大学にいった、留学もした。でもそれは社会的には何一つ報われることがない。
普通なら下々の人間など気にせず一心不乱に上を目指しているであろうはずのエリート候補生が、在学途中から下を向いて過ごしている。
この人は童貞ではないかもしれない。客観的に見たらエリートかもしれない、でも、主観では負け組である。実存を失っている。
しかし、この人は教科書にしたがって生きているのに、教科書にはどこにも「負け犬として実存を保つ方法」が載ってない。
だから彼は自分の実存を得るために、こういうちゃちなゲームを始め、いつまでも続けなければいけない。
彼はよくある普通の一学生である。特別ではない。本当に平凡な小市民にすぎない。
本来は普通に大学に行って、普通に彼女ができて、普通にセックスして、普通に就職して、普通に家庭を持って、普通に老いて、普通に死ぬ。
その程度がお似合いの少人物である。そして、その事実こそが、彼にとって絶対に認められないことなのだ。
彼は普段のツイートから見るに、多分日本の教授には優越感か同程度の知的レベルにあるという自覚を持っている。
それでも大した思い上がりなのだが、その思い上がりを持ってすらなお満たされないのだ。そのくらい彼は自己の尊厳に飢えている。
彼は、自己イメージを損なうよりは、ドヤ顔のアイコンをさらし、他人を挑発することで「嫌われ」「叩かれ」ることで自分は特別な存在だと思っていたいのだ。
こういう奇特な行いも、まったくもってオリジナルではなく、アイデンティティクライシスに陥った人間を救う手段としてのSMは
自らを鞭打つ修道女の例からアラビアのロレンスの虚言までいくらでも例がある。
彼はもはや、自らが見下している無知な人間に嘲られ、叩かれることでしか、もはや自分の本当の居場所を確信できない。
何があったか知らないが、そのくらいかつての彼の自己プライドは高く、そして、それに見合った実体をついぞ得ることがなかった。
日本では誰よりも賢く、知識もある特別な人間だったのに、向こうに行ったら普通の人であることに変身させられてしまった。
しかし今更それを認めることは出来ない。追い詰められた彼が取った手段が今の有様、ということです。苦悩だねー。青春だねー。毎日吐いてるかー?
でもね、こういうのって今やふつうなんだよ。昔なら特別な人間のイメージだったかもしれないけど今じゃこういう行動をとることそのものが平凡の証だよ。
最初見た時から、ああーこういう奴よくいるわー2年前にみたわーって思ってた。 かわいそうだなーって思ってた。かまってらんねーと思ってた。
でも、いい加減うざい。 さすがに自分がかまってちゃんである自覚がないのはtwitterへの依存が強すぎるだと思ったので、指摘しておく。
これは彼が実際にどうであるかは全く関係がない。むしろ事実と違うほうが効果的だと思ってる。私の目的は彼を理解することじゃなく、彼が他の人にやってることをそのまんま彼自身に返すことだからね。もちろん私は自覚してやってるよ。それこそわざとらしいくらいにねちねちと、いやらしく、冗長なくらい、お涙たっぷりのベタベタなストーリーとして彼を「理解」してあげる。そしてこの気持ち悪さを是非体感してもらいたい。彼と彼の取り巻きがやってることがどれほど他人にとって気持ち悪いか、ってのを自覚してもらえればいい。
彼がやってるのは、他人を対象化するという遊びなんだよね。正常な人間であれば小学生低学年くらいで卒業する遊び。
自分が特別でありたいと信じるあまりに、他人を過剰に普通とか普通以下に押し込めようとする幼稚な差別行為。
2それに反論も許さず
これが対象化される側からしたらどれほど不愉快かは、年がら年中オタとかはてな村とか言われてる人間にはよくわかるよね。
個であることを圧殺され、ただ一括りの集団としてしか認識されないのだから。
もっとも、これを2ちゃんでいうならともかく、twitterでリプライをつけて言っちゃうあたり、むしろ彼の対人認知能力の低さが忍ばれるけどね。
要するに彼は、テレビのワイドショーを全部自分の脳内でやってしまってる。
テレビで毎日のように繰り広げられているコメンテーターの批評の劣化版をやってる。
検事と裁判官と手抜きした弁護士のセットをすべて自分でやるという脳内裁判ごっこ。
それをひとり寂しくやっている。いや、今では同じような寂しい人間が寄り集まってプチテレビ局、プチワイドショーになってるか。
みんな、力の感覚が欲しいんだね。よっぽど現実で報われてないと感じてるんだろう。
でも、力の感覚をどうやって得るかって時に、まだ社会人になって仕事もしたことがないガキなので、そのモデルをテレビくらいしか持ってない。
部活(特に体育会系)とかで皆と一緒に頑張って何かを成し遂げたことがあるなら話は別だが、
どう考えてもこの人、万年部屋に閉じこもって本読んでた口だろう。要するにそっちの方法で自己実現ができない。
多分彼らはテレビのコンテンツの内容は見下してるだろう。それでいてテレビのワイドショーで好き勝手語ってる奴らに憧れずには居られないわけ。
彼のイメージでは、彼自身はテレビの司会者であり出演者、賛同者が共演者で、オタクとか童貞はスクリーンの向こうのトピックに過ぎないのだよね。
テレビの司会者が、スクリーンの向こうのトピックから話しかけられることはないはずなのよ。
だから、相手には反論も許さない。彼自身について評価することも許さない。他人に自分を解釈する自由を与えたくない。自分はそうするけど相手には許さない。もし許してしまうと、自分がそうしたであると同じように、自分が好き勝手に解釈され、じぶんがコレだと思っていたアイデンティティが溶けてしまうから。だから、話を聞けない。聞いてしまったら彼の幻想が壊れてしまうから。そういう状態なわけですよ。
彼は自分には他人を裁く特権があると、信じてなくてはいけない。しかしその反撃に常に怯えている。
これが、ネタとして薄められ、表に出すことが出来ない真性の厨二病、真性のディスコミュニケーションというやつです。
そんな彼でも、就職とかして、自分が特別でないことを理解し、自分を集団の中で活かす道を見つけられればこういう幼稚なテレビのマネッコはすぐ卒業できる。
でも、今自分がやってることの恥ずかしさに気づけなかったら、何時まで経ってもアマチュアのテレビワイドショーごっこを続けることになるかもしれない。
なまじ頭がいいし、同士が多いものだから、それで結構充足感得られちゃうのが危険なんだよね。
他人に妥協するって事に耐えられなくなっちゃうかもしれない。個人的にはそのほうがおいし・・・いやいや、なんとか抜けだして欲しいものです。
今の時代はアマチュア技術者でもソフトウェア販売の機会が豊富にある。たとえば、androidマーケットだったりdocomoマーケットだったりapp storeだったり、最近ではchrome web storeなんてのもある。技術ではなく(エロ)コンテンツを売るならDLSiteというのもある。
仕事でPC弄ってプログラムも書けているのなら、これらのうちのどれかに資するだけのポテンシャルはあるだろ。
あとは発想と夜なべする体力さえあれば、「ヒーロー」への道はそう遠くないぞ。
各論ねぇ。
あの文面で、「影響力の定義」に関して根っこの部分を話したかったとか、どんだけ。
「接したときに生じる問題」が「軽くやり過ごせる」ものかどうかも論じないのに、やり過ごせってか。
これってものすごく狭い問題、「子供⇔大人」「内輪⇔公」などの異文化衝突を前提としているだけに見えるんだが?
影響範囲と、そこから想定される被害を、ケースバイケースで判断するしかないんだ。
「なにが」問題で、「それは指摘すべきものかどうか」、個々人が決めるしかない。
DHMO問題の場合、被害の想定はそれほどおかしくなかったが、影響範囲の想定に失敗しただけ。
そのため、かえって被害を拡大させちまった。(東京の水は危険発言など)
そうした齟齬が発生すれば、客観的におかしいと感じた人が、今回のように勝手に反論してくれる。